中国はやっぱり問題があるというTV番組を見た。「消えた弁護士たちー中国“法治”社会の現実」というルポ番組である。中国の人権派弁護士が突然逮捕されてそのまま何の理由も告げられず拘禁されたまま、はや何年も立っていて面会も許されないという。取り残された妻は社会に訴える行動を起こすが、国家保安局のために圧力をかけられている、というルポルタージュである。NHKもたまには良い番組を作っていると感心した次第だが、しかし一年間でようやく1本だから払っているNHK料金の元を取ったとは残念ながらとても言えない。まあこの話は本筋ではないのでちょっと脇に置いておくとして、本題は中国の「闇」についてである。
私はもともと中国の繁栄を願っている「心情的中国派」であるが、このところの動きをみていると「ちょっとグラついて」いるというのが実感だ。ついこないだまで毛沢東の文化大革命で世界最貧国のみならず国の財産である輝かしい歴史文化を全否定する暴挙に苦しんでいた国であるが、いまや世界第二位の経済大国となってようやく念願の「人並みに物欲というか人生を謳歌するレベル」までになった。超大国の復活である、めでたしめでたし。
任期満了を延長してTOPに居座り続ける「習近平の独裁が加速している」ことを懸念する人も多いようだが、14億人もの人間を全員平等に満足させるというわけには行かないだろうと思う。民主議会政治システムを採用している日本などの国では「問題があっても議論に終始していて、中々対策が実施出来ない」というジレンマに陥っている中で、共産党一党独裁の中国では「即断即決」で事が運ぶので解決が早い。中には政治を隠れ蓑にして金儲けに走る人も出てきているようだが、それもこれも「全体を良くする」ためには少しぐらい出てもしょうがない、とも言える。社会に取り残された周辺の民族や、生活に困窮して不平不満をつのらせる人、また漢民族のために出世の道が閉ざされて鬱屈している少数民族の人などは、一般的には「基本的人権」と言われる権利などがないがしろにされていて「問題は山積み」であるらしいのだが。
だが一度にすべてを解決しようとするのは、ちょっと習近平でも無謀なんじゃないだろうか。問題は基本的人権を侵害しているのが「一党独裁」というシステムか、または「運用している担当役人」か、あるいはその「両方」であるか、なのである。インドは民主政治システムを取っているが未だに地方の村落では古い因習が跋扈しており、「日本では起こり得ないおぞましい事件」が頻発しては、世界を驚かしている。他所のの男をじっと見ていたというだけで村の長老の命令で殺された若い女性の「基本的人権」を、インド国民は何と思っているのだろうか、それとも恋愛の自由はないのというのであろうか。
独裁国家の明らかな弊害は、自分たちの組織を「対立する国民の監視の目」から守るためには法を捻じ曲げてもいいという「自己正当化の意識」が国家中枢部の人々の中に蔓延し、もはや国民を幸せにするという本来の使命を忘れて「法の執行機関である警察権力を使って反対分子を排除」することに国家組織が変化してしまうことである。独裁国家は法を「如何ようにも使える」だけでなく、正当性すら必要ないのだ。余談だが、元SMAPの3人が歌っている曲がオリコンで初登場一位になったのに、業界内部での大勢力ジャニーズへの「忖度のせい」で、テレビ局ではおおっぴらに扱わないことになっているという。これも忖度と言うより「組織に守られて何とか生活の糧を得ている人間の保身」が表に現れた「一党独裁」の弊害と言えよう(レベルがだいぶ小さい小さい)。
安倍首相の森友・加計学園問題に「忖度した」財務省の役人や、野田総務相のスキャンダルに関わる金融庁の不可解な行動等、何事によらず不都合なことを国民の目から隠して、都合の良いことだけを見せようという「うわべ」の政治的判断を「国民の支持率が下がらないから認められた」という勝手な理屈で結果として「自民独裁への道を作っている」のだとしたら、根本的には日本も「中国や北朝鮮と変らない」のではないだろうか。結局は考え方の違う人と会話して、なんとか相互に納得する答えを見つけようとする努力をやめ、議論する代わりに「対立を武力=暴力で解決しよう」というのが独裁政治の悪弊だとすれば、これはシステムの問題とは言えないのである。独裁政治を利用して「自分に都合の良い国家」を作り上げようという「個人(独裁者)」がいけないのだ。
国を治めるシステムには独裁政治のように「物事を一人の支配者の意思に任せる」方式がある一方で、民主政治のように支配者を置かずに国民が代議員を選出してその議論によって国の運営を行う方式とがある。だが中国は「人民民主主義独裁」を謳っているからややこしい!。日本は代議員が国民の意見を良く聞いて「国会で是々非々審議することによって」皆の合意の下に法律が作られ、その法律が国民の基本的人権や生命・財産を守っている、そういう仕組みである。これを「法治国家」という。だが利害対立する世の中で正しい解決とはなんだろうか。個人の権利と社会の利益が相反した時には「裁判」で争うことになるが、これが常に大岡裁判のように「明晰痛快な判決」が出来るかと言うと、いろいろと疑問なのだ。
習近平は中国のよって立つ理念を法治主義に求めて、官僚や自治体の腐敗撲滅に力を入れているという。だが問題は国家の取るべき政治システムがどうこうということではない。資本主義でも社会主義でも民主主義でも独裁主義でも、要は為政者が「国民全体の幸せを願っているかどうか」に成否がかかっているのである。もちろん幸せとは何かという問題があることは事実であるが、一応国民の大多数が良いと思える施策を続けていけば、それは立派な国家システムになりうる。だが「幸せ」を議論すれば、百人百様の意見が出て来て喧々諤々収まりのつかない喧嘩になるであろう。肝心なことは、その国民多数の幸せを願う心が「第二次世界大戦を引き起こした原因」でもあるということなのだ。
周り中の人から「何とかしてぇ〜」と悲鳴が聞こえてくる「ゴミ屋敷問題」だが、住んでる所有者は「財産」だと断固主張して譲らず、市は私有財産なので手も足も出ないという。こないだも「噂の東京マガジン」で違法ブロック塀に困惑する民衆の悩みを特集していた。高さ3mの塀が公道に沿って100mも続いている場所があって、大阪大地震の例をテレビで見ている住民から「何とかならないのか!」と突き上げを食らっている市の担当者が言うには、「所有者にはお願いしてるんですけどねぇ」と頼りない。さっさと撤去するか改修して危険を取り除くのが当たり前じゃないかと思われるだろうが、当の所有者(お寺さんだそう)は「なんか有ったら対処する」と全く「直す気がない」らしいのだ。人々の悩みを救うのが宗教家だと私は思うのだが、実際はそうじゃないらしい。これなんかは基本的人権の「履き違え」だと言わざるを得ないのではないだろうか。
例えばアメリカで銃規制が進まない根本的な理由は、「国家権力と対決する民衆の権利を保証」した憲法の修正条項を否定することが出来ないからだとも言われているが、法律の趣旨と実際の運用はとても一筋縄ではいかないのである。要は法律に書いてあることを「どのように解釈するか」にかかっている。政府が常に正しいとは限らないとするならば、それに対して抵抗することは「正義」になるからその権利は守らなければならないとも言える。では正義とは何なのか?結局は人々に間に絶対的な価値観の一致がなければ、「誰にとっての正義か」という相対論に陥ってしまう。この相対論を突破するのが「独裁」というシステムなのだ。
前ブータン国王は政治形態について「今のままで幸せ」だという国民に対し、「もし悪い君主が現れたらどうするのか」と言って誰もが望んでいないにも関わらず民主化を推し進めたという。ルワンダ大統領ポール・カガメは、首都キガリの治安を東京都と「同じ低レベル」に抑えたし、女性国会議員の人数を30%以上にする法律を作って「日本を超える民主化」を実現した。独裁であっても「必ずしも悪いばかりではない」のである。北朝鮮の金正恩がアメリカ兵の遺骨引き渡しを行ったとニュースで見た。核開発施設も取り壊して、トランプとの約束を粛々と実行しているように見える。約束を守らない信用感ゼロの無茶苦茶な男というイメージが日本のマスコミによって流布されているが、元々の祖父の代からの悲願を「ずっと計画していた」と考えれば、自国の未来について彼自身はブレてはいないのである。独裁政治の一つの特長は、支配者が願っていることは「誰が何と言っても実行する」ことだろう。自分の王朝存続を第一に考えていて国民のことを思ってのことではないにしても、実に行動力があり「分かりやすい」ではないか。
中国の弁護士がなぜ拘束されたかについては、国家の体制を批判し「転覆を図った」という理由のようである(逮捕理由は今持って明かされてはいない)。残された夫人は面会すら許されていないというから、何という理不尽な権力乱用であろうか。中国国民の人権は守られる対象ではないのか、とテレビは訴えているかのようである。もっともだ。この番組を見て「やっぱり中国は恐ろしい」と誰もが思ったに違いない。いろいろ噂に聞いている中国の人権蹂躙の例を見ていると、今回の弁護士の例も「あり得る」と変に納得してしまう。特に国家保安局の連中が妻を脅している映像を見ていると、ほとんどというか「完全にヤクザ」の恐喝そのものである。国家の転覆を図ることが良いのか悪いのは簡単には結論を出すことが出来ない問題であるが、選挙による合法な意見の集約によって国家システムが変化してゆくことは、民主主義の最大の利点でもあると再認識させられた次第だ。
結局統治システムの優劣と言うよりも「支配者になる人間の質」が国民にとって幸せな国かそうでない国かを分けるポイントになるのだと思う。だが一見国民のために動いているように見えて上辺の「受けの良い施策」に走ったり、国民に一時的には喜ばれるが「本当に必要な対策」を講じることを怠ったり、または民衆に受けが悪いというだけで根本的な解決策を実行せず後回ししたり回避したりする「人気取り政治」を行っていれば、国は疲弊し消耗してしまう(まるで消費税先送りの安倍政権と同じである)。今や世界はポピュリズムが席巻し、プーチンや習近平に代表される「独裁政権ブーム」一色である。トランプも世界とアメリカとの関係を見直して「世界の警察」であることを止め、自由主義社会のリーダー役を「アメリカ・ファースト」という選挙公約を実現するために「撤退する」つもりである。世界はグローバル企業の利益至上主義を援助する政権から、「自国民に責任を持つ政権」へとシフトし始めているのだ。
今回の弁護士について言えば、同じように逮捕されていたが「政府転覆をしません」と自己批判して許された人が画面に出てきて、中国政府もやみくもに反対分子を弾圧しているわけではないようである。逮捕監禁された弁護士も、政府の逆鱗に触れる「国家理念への異議」さえ止めれば即刻解放される、とその人は言っていた。人それぞれの考え方はあるだろうが、共産党一党独裁の中でも市民個人の人権を守ることは少しではあるが「出来る」のである。だから彼も「今は我慢して」政府のシステムを過渡期のものとして一旦認め、その中で「自由と平等」を何とか達成していくことが重要ではないだろうか。一方的に中国政府を悪の権化と捉えるのは「偏った見方」という感じを受けたのだ。独裁が全面的に悪いわけではなく、運用に問題があるのである。もし中国が日本のような選挙で選ばれる代議員制を取っていたら(銭の亡者がわんさかという国である)、しっちゃかめっちゃかになって収拾つかない事態に陥ることであろう、もしかすると内乱が起きるかも知れない。そう考えれば、習近平が政府批判を極端に恐れるのも理解できないわけではなさそうである。
日本は中国の政治や経済について「先進国」として高いところから批判する癖があるが、いまや両国の立場は逆転しているというのが現状だ。にも関わらず「未だに批判的なコメント」を出し続けるマスコミや専門家の存在はもう時代遅れである。中国には中国の解決すべき問題があり、どんな問題でも同じだが、解決するのは大変なのだ。特に14億人もの人々が暮らしている大国であれば、1億2千万の日本からは想像も出来ない種類の苦労もあるのである。日本は単一民族だからピンとこないが中国は「多民族国家」であり、常に政権奪取の危険に晒されている国である。共産党独裁が民主政治に変換したからと言って、民衆がすべからく平和な暮らしを謳歌できるような素晴らしい国になるという「保障は全然無い」。それよりも今の体制の中で「民度」をあげ、中国人が世界の模範として尊敬されるようにするのが順番から言って先決だ。習近平はそう心を決めたのではないだろうか、あくまで私の想像である。
今日yahooニュースを読んでいたら内部告発者を守るはずの法がザルだとの記事が目に入った。一つは金沢大学医学部の薬理学研究室主任・小川和宏さん、2つ目は和歌山県美浜町の老人介護施設理学療法士の男性だ。詳しい内容はyahooに譲るが、双方とも経営者側の不法行為を「これ以上野放しにしておくと患者に被害が及ぶ」という危機感から内部告発に踏み切ったものである。ところが訴えを聞くはずの行政に「罰則規定が無い」ことから、告発した本人が逆に「報復で仕事を干される」事件になってしまった。現在テレビニュースで騒いでいるボクシング協会のパワハラ問題も、「根っこの体質」は法を犯してでも組織防衛する日本人特有の「家父長制独裁体質」である。つまり一人のドンが全てを決める(ゴッドファーザーだ)。
このような事件の根深さを見るにつけ、これが中国で起きていたらあっという間に解決しているのに、と悔しい思いがこみ上げてくる(その逆もある)。これらの例では「資本主義社会の生ぬるい個人保護の壁」に守られて、告発された側は「証拠不十分」で無罪、告発者は権力者一味の報復に追い詰められて「食を失う寸前」まで丸裸にされていた。裁判するにしても「体制に波風立てないように配慮」した対応を取ることが多く、結局は権力温存のごく軽いおざなりの指導がされて終わりである。その後はお決まりの報復がものすごい勢いでやってくる。まるでヤクザ映画そのものなのだ。話を読んでいると、つくづく日本人であることが嫌になる。こういう時に中国式一党独裁政治の「トップダウン的豪腕による一刀両断」が心底羨ましい。
いよいよ存在感を増してきた習近平の中国。絶大な権力を握った彼の前に「輝かしい未来」は開けているのだろうか?
私はもともと中国の繁栄を願っている「心情的中国派」であるが、このところの動きをみていると「ちょっとグラついて」いるというのが実感だ。ついこないだまで毛沢東の文化大革命で世界最貧国のみならず国の財産である輝かしい歴史文化を全否定する暴挙に苦しんでいた国であるが、いまや世界第二位の経済大国となってようやく念願の「人並みに物欲というか人生を謳歌するレベル」までになった。超大国の復活である、めでたしめでたし。
任期満了を延長してTOPに居座り続ける「習近平の独裁が加速している」ことを懸念する人も多いようだが、14億人もの人間を全員平等に満足させるというわけには行かないだろうと思う。民主議会政治システムを採用している日本などの国では「問題があっても議論に終始していて、中々対策が実施出来ない」というジレンマに陥っている中で、共産党一党独裁の中国では「即断即決」で事が運ぶので解決が早い。中には政治を隠れ蓑にして金儲けに走る人も出てきているようだが、それもこれも「全体を良くする」ためには少しぐらい出てもしょうがない、とも言える。社会に取り残された周辺の民族や、生活に困窮して不平不満をつのらせる人、また漢民族のために出世の道が閉ざされて鬱屈している少数民族の人などは、一般的には「基本的人権」と言われる権利などがないがしろにされていて「問題は山積み」であるらしいのだが。
だが一度にすべてを解決しようとするのは、ちょっと習近平でも無謀なんじゃないだろうか。問題は基本的人権を侵害しているのが「一党独裁」というシステムか、または「運用している担当役人」か、あるいはその「両方」であるか、なのである。インドは民主政治システムを取っているが未だに地方の村落では古い因習が跋扈しており、「日本では起こり得ないおぞましい事件」が頻発しては、世界を驚かしている。他所のの男をじっと見ていたというだけで村の長老の命令で殺された若い女性の「基本的人権」を、インド国民は何と思っているのだろうか、それとも恋愛の自由はないのというのであろうか。
独裁国家の明らかな弊害は、自分たちの組織を「対立する国民の監視の目」から守るためには法を捻じ曲げてもいいという「自己正当化の意識」が国家中枢部の人々の中に蔓延し、もはや国民を幸せにするという本来の使命を忘れて「法の執行機関である警察権力を使って反対分子を排除」することに国家組織が変化してしまうことである。独裁国家は法を「如何ようにも使える」だけでなく、正当性すら必要ないのだ。余談だが、元SMAPの3人が歌っている曲がオリコンで初登場一位になったのに、業界内部での大勢力ジャニーズへの「忖度のせい」で、テレビ局ではおおっぴらに扱わないことになっているという。これも忖度と言うより「組織に守られて何とか生活の糧を得ている人間の保身」が表に現れた「一党独裁」の弊害と言えよう(レベルがだいぶ小さい小さい)。
安倍首相の森友・加計学園問題に「忖度した」財務省の役人や、野田総務相のスキャンダルに関わる金融庁の不可解な行動等、何事によらず不都合なことを国民の目から隠して、都合の良いことだけを見せようという「うわべ」の政治的判断を「国民の支持率が下がらないから認められた」という勝手な理屈で結果として「自民独裁への道を作っている」のだとしたら、根本的には日本も「中国や北朝鮮と変らない」のではないだろうか。結局は考え方の違う人と会話して、なんとか相互に納得する答えを見つけようとする努力をやめ、議論する代わりに「対立を武力=暴力で解決しよう」というのが独裁政治の悪弊だとすれば、これはシステムの問題とは言えないのである。独裁政治を利用して「自分に都合の良い国家」を作り上げようという「個人(独裁者)」がいけないのだ。
国を治めるシステムには独裁政治のように「物事を一人の支配者の意思に任せる」方式がある一方で、民主政治のように支配者を置かずに国民が代議員を選出してその議論によって国の運営を行う方式とがある。だが中国は「人民民主主義独裁」を謳っているからややこしい!。日本は代議員が国民の意見を良く聞いて「国会で是々非々審議することによって」皆の合意の下に法律が作られ、その法律が国民の基本的人権や生命・財産を守っている、そういう仕組みである。これを「法治国家」という。だが利害対立する世の中で正しい解決とはなんだろうか。個人の権利と社会の利益が相反した時には「裁判」で争うことになるが、これが常に大岡裁判のように「明晰痛快な判決」が出来るかと言うと、いろいろと疑問なのだ。
習近平は中国のよって立つ理念を法治主義に求めて、官僚や自治体の腐敗撲滅に力を入れているという。だが問題は国家の取るべき政治システムがどうこうということではない。資本主義でも社会主義でも民主主義でも独裁主義でも、要は為政者が「国民全体の幸せを願っているかどうか」に成否がかかっているのである。もちろん幸せとは何かという問題があることは事実であるが、一応国民の大多数が良いと思える施策を続けていけば、それは立派な国家システムになりうる。だが「幸せ」を議論すれば、百人百様の意見が出て来て喧々諤々収まりのつかない喧嘩になるであろう。肝心なことは、その国民多数の幸せを願う心が「第二次世界大戦を引き起こした原因」でもあるということなのだ。
周り中の人から「何とかしてぇ〜」と悲鳴が聞こえてくる「ゴミ屋敷問題」だが、住んでる所有者は「財産」だと断固主張して譲らず、市は私有財産なので手も足も出ないという。こないだも「噂の東京マガジン」で違法ブロック塀に困惑する民衆の悩みを特集していた。高さ3mの塀が公道に沿って100mも続いている場所があって、大阪大地震の例をテレビで見ている住民から「何とかならないのか!」と突き上げを食らっている市の担当者が言うには、「所有者にはお願いしてるんですけどねぇ」と頼りない。さっさと撤去するか改修して危険を取り除くのが当たり前じゃないかと思われるだろうが、当の所有者(お寺さんだそう)は「なんか有ったら対処する」と全く「直す気がない」らしいのだ。人々の悩みを救うのが宗教家だと私は思うのだが、実際はそうじゃないらしい。これなんかは基本的人権の「履き違え」だと言わざるを得ないのではないだろうか。
例えばアメリカで銃規制が進まない根本的な理由は、「国家権力と対決する民衆の権利を保証」した憲法の修正条項を否定することが出来ないからだとも言われているが、法律の趣旨と実際の運用はとても一筋縄ではいかないのである。要は法律に書いてあることを「どのように解釈するか」にかかっている。政府が常に正しいとは限らないとするならば、それに対して抵抗することは「正義」になるからその権利は守らなければならないとも言える。では正義とは何なのか?結局は人々に間に絶対的な価値観の一致がなければ、「誰にとっての正義か」という相対論に陥ってしまう。この相対論を突破するのが「独裁」というシステムなのだ。
前ブータン国王は政治形態について「今のままで幸せ」だという国民に対し、「もし悪い君主が現れたらどうするのか」と言って誰もが望んでいないにも関わらず民主化を推し進めたという。ルワンダ大統領ポール・カガメは、首都キガリの治安を東京都と「同じ低レベル」に抑えたし、女性国会議員の人数を30%以上にする法律を作って「日本を超える民主化」を実現した。独裁であっても「必ずしも悪いばかりではない」のである。北朝鮮の金正恩がアメリカ兵の遺骨引き渡しを行ったとニュースで見た。核開発施設も取り壊して、トランプとの約束を粛々と実行しているように見える。約束を守らない信用感ゼロの無茶苦茶な男というイメージが日本のマスコミによって流布されているが、元々の祖父の代からの悲願を「ずっと計画していた」と考えれば、自国の未来について彼自身はブレてはいないのである。独裁政治の一つの特長は、支配者が願っていることは「誰が何と言っても実行する」ことだろう。自分の王朝存続を第一に考えていて国民のことを思ってのことではないにしても、実に行動力があり「分かりやすい」ではないか。
中国の弁護士がなぜ拘束されたかについては、国家の体制を批判し「転覆を図った」という理由のようである(逮捕理由は今持って明かされてはいない)。残された夫人は面会すら許されていないというから、何という理不尽な権力乱用であろうか。中国国民の人権は守られる対象ではないのか、とテレビは訴えているかのようである。もっともだ。この番組を見て「やっぱり中国は恐ろしい」と誰もが思ったに違いない。いろいろ噂に聞いている中国の人権蹂躙の例を見ていると、今回の弁護士の例も「あり得る」と変に納得してしまう。特に国家保安局の連中が妻を脅している映像を見ていると、ほとんどというか「完全にヤクザ」の恐喝そのものである。国家の転覆を図ることが良いのか悪いのは簡単には結論を出すことが出来ない問題であるが、選挙による合法な意見の集約によって国家システムが変化してゆくことは、民主主義の最大の利点でもあると再認識させられた次第だ。
結局統治システムの優劣と言うよりも「支配者になる人間の質」が国民にとって幸せな国かそうでない国かを分けるポイントになるのだと思う。だが一見国民のために動いているように見えて上辺の「受けの良い施策」に走ったり、国民に一時的には喜ばれるが「本当に必要な対策」を講じることを怠ったり、または民衆に受けが悪いというだけで根本的な解決策を実行せず後回ししたり回避したりする「人気取り政治」を行っていれば、国は疲弊し消耗してしまう(まるで消費税先送りの安倍政権と同じである)。今や世界はポピュリズムが席巻し、プーチンや習近平に代表される「独裁政権ブーム」一色である。トランプも世界とアメリカとの関係を見直して「世界の警察」であることを止め、自由主義社会のリーダー役を「アメリカ・ファースト」という選挙公約を実現するために「撤退する」つもりである。世界はグローバル企業の利益至上主義を援助する政権から、「自国民に責任を持つ政権」へとシフトし始めているのだ。
今回の弁護士について言えば、同じように逮捕されていたが「政府転覆をしません」と自己批判して許された人が画面に出てきて、中国政府もやみくもに反対分子を弾圧しているわけではないようである。逮捕監禁された弁護士も、政府の逆鱗に触れる「国家理念への異議」さえ止めれば即刻解放される、とその人は言っていた。人それぞれの考え方はあるだろうが、共産党一党独裁の中でも市民個人の人権を守ることは少しではあるが「出来る」のである。だから彼も「今は我慢して」政府のシステムを過渡期のものとして一旦認め、その中で「自由と平等」を何とか達成していくことが重要ではないだろうか。一方的に中国政府を悪の権化と捉えるのは「偏った見方」という感じを受けたのだ。独裁が全面的に悪いわけではなく、運用に問題があるのである。もし中国が日本のような選挙で選ばれる代議員制を取っていたら(銭の亡者がわんさかという国である)、しっちゃかめっちゃかになって収拾つかない事態に陥ることであろう、もしかすると内乱が起きるかも知れない。そう考えれば、習近平が政府批判を極端に恐れるのも理解できないわけではなさそうである。
日本は中国の政治や経済について「先進国」として高いところから批判する癖があるが、いまや両国の立場は逆転しているというのが現状だ。にも関わらず「未だに批判的なコメント」を出し続けるマスコミや専門家の存在はもう時代遅れである。中国には中国の解決すべき問題があり、どんな問題でも同じだが、解決するのは大変なのだ。特に14億人もの人々が暮らしている大国であれば、1億2千万の日本からは想像も出来ない種類の苦労もあるのである。日本は単一民族だからピンとこないが中国は「多民族国家」であり、常に政権奪取の危険に晒されている国である。共産党独裁が民主政治に変換したからと言って、民衆がすべからく平和な暮らしを謳歌できるような素晴らしい国になるという「保障は全然無い」。それよりも今の体制の中で「民度」をあげ、中国人が世界の模範として尊敬されるようにするのが順番から言って先決だ。習近平はそう心を決めたのではないだろうか、あくまで私の想像である。
今日yahooニュースを読んでいたら内部告発者を守るはずの法がザルだとの記事が目に入った。一つは金沢大学医学部の薬理学研究室主任・小川和宏さん、2つ目は和歌山県美浜町の老人介護施設理学療法士の男性だ。詳しい内容はyahooに譲るが、双方とも経営者側の不法行為を「これ以上野放しにしておくと患者に被害が及ぶ」という危機感から内部告発に踏み切ったものである。ところが訴えを聞くはずの行政に「罰則規定が無い」ことから、告発した本人が逆に「報復で仕事を干される」事件になってしまった。現在テレビニュースで騒いでいるボクシング協会のパワハラ問題も、「根っこの体質」は法を犯してでも組織防衛する日本人特有の「家父長制独裁体質」である。つまり一人のドンが全てを決める(ゴッドファーザーだ)。
このような事件の根深さを見るにつけ、これが中国で起きていたらあっという間に解決しているのに、と悔しい思いがこみ上げてくる(その逆もある)。これらの例では「資本主義社会の生ぬるい個人保護の壁」に守られて、告発された側は「証拠不十分」で無罪、告発者は権力者一味の報復に追い詰められて「食を失う寸前」まで丸裸にされていた。裁判するにしても「体制に波風立てないように配慮」した対応を取ることが多く、結局は権力温存のごく軽いおざなりの指導がされて終わりである。その後はお決まりの報復がものすごい勢いでやってくる。まるでヤクザ映画そのものなのだ。話を読んでいると、つくづく日本人であることが嫌になる。こういう時に中国式一党独裁政治の「トップダウン的豪腕による一刀両断」が心底羨ましい。
いよいよ存在感を増してきた習近平の中国。絶大な権力を握った彼の前に「輝かしい未来」は開けているのだろうか?
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