あれから色々と考えたが、議論とは?と大上段に構えては如何にも難しい。そこで会話の方法として、双方が意見を述べやすくお互いがなるほどそういう考え方もあったかと認め、改めて「じゃあ、一つ一つ細かく検証してみましょうか」というゲーム感覚で、議論という対決姿勢ではなく「新たな知を探求するチーム」として検討会モードに入る、というのがいいんじゃないかと考えた。まず主題となるフェルマー予想ならぬ「〇〇予想」を提示し、そのあらゆる可能性を探って一つ一つ合意しながら順次煮詰めていって最終的に答えに導き到達していく、という遠大な作業である。勿論、時間もかかるし勝ち負けもないが、ただ互いに納得する結論を得た時の「達成感」は半端ないものがあるんじゃないだろうか。こういう「知的ゲーム」を楽しめる関係を子供のうちから築いておくことは、将来生きていく上で「大きな財産」になる筈と私は信じている。是非とも小学校のカリキュラムに入れて、クラス皆して「ワイワイがやがや」討論しあう楽しさを教えて欲しいものだ。
前置きが長くなったが、では本題に入ろう。議論とは何か?
・・・・・・・・・
1、開始の宣言
① 議題「〇〇予想」を説明して、皆んなにこれを証明したいが賛成かな?と聞く
② 〇〇予想に齟齬があった場合はその箇所を修正して改めて提示(前回の越乃寒梅の例では「越乃寒梅は焼酎を作るべきでは無い」という提示に対し「醸造酒蔵は蒸溜酒を作るべきでは無い」と一般的な形に変換して提示し直す・・・ここで相当議論が行われる筈だ)
③ 面白く無いという意見が大半を占めたら、その予想は廃棄して証明は諦める
④ 面白そうとなったら「では〇〇予想の証明を始める」と宣言、拍手などのお決まりの儀式を行う
2、役割分担
A・B2名を標準とするが、必ず議長を1名置くこと。議長はサッカーなどのレフェリー役で議事進行をコントロールする。相手が意見を述べているのに口を挟んだり、相手の態度をなじったりしたらカードを出す権限を持つ。誰も議長を引き受けなければ、予想は廃棄して議論は無しだ。議長は絶対必須である。
3、先ず〇〇予想に賛成の意見から理由を述べる。一同納得なら証明は終了。予想は定理として記録する(後日に同様の話が出た時は、この定理を持ち出して即座に解決)
4、次に反対意見を述べて議論開始。越乃寒梅の例で言えば、何故いけないか?の説明に対して「経営的な見方や道義的な見方あるいは消費マーケット的な見方など」色々と議論が予測される。その一つ一つの問題点に対して「経営的にはマイナス」とか「道義的には問題なし」とか、一見遠回りなように思えるかも知れないが「細かく答え」を出して積み上げていく。これを「外堀を埋める」と言って、家康が大阪城を攻めた時のようにジワジワと一番問題となっている「核心」を炙り出すのである。
これで案外、〇〇予想を出した本人が気付いていなかった「本当の感情の素」が表に出てきたりして、結果「そうじゃなかった」と自分から予想を引き下げることも充分あり得る。
私のブログ「親しき仲にも礼儀あり」を読んでいない方にもう一度説明すると、越乃寒梅が焼酎を出したという事を聞いてSN氏は「日本酒の酒蔵が焼酎なんかに手を出して云々」と文句を言って相手が引き下がるのを期待したのだが、相手が「別に旨けりゃ良いじゃないの?何が悪いわけ?」とカウンターを食らったのでムキになった訳だ。本当の事を言えば、越乃寒梅というメーカーは新潟の伝統ある有名な酒蔵で、当時醸造アルコール添加の安くて質の悪い日本酒が殆どの業界に「純米酒の美味しさ」で驚きと衝撃を与え、新たな日本酒ブームを巻き起こした「日本酒再生の火付け役」だったのである。その「蔵への愛着」と、ある種尊敬の念が入り混じった淡い感情がSN氏にはあったに違いない。その越乃寒梅が、事もあろうに焼酎などという「日本酒に比べたら1段ランクが下」の安酒に手を出した、との事実を知って「裏切られた」と感じたのではないだろうか。越乃寒梅にはいつまでも日本酒一途に王道を追究して欲しい、とのユーザーの気持ちを代弁したのである。まあ、日本酒ファンには分からなくもない。
この問題は日本酒と焼酎あるいは醸造酒と蒸溜酒といった、同じアルコールではあってもそれぞれ独特の飲み方や味わい、また文化・風土・歴史の違いがあって、飲む人の人間性(大げさだけど)が出そうな話題ではある。しかし突き詰めれば、所詮は飲み物の違い・味覚や習慣といった生活環境の違いであって、要すれば「私は〇〇派だけど君は△△が好きなんだね」と納得するしかない話である。
まあ、越乃寒梅の経営陣には「それほど日本酒への思い入れ」が無かった、という事で決着がつきそうだ。
以上、議論のやり方を縷縷説明したが、これは私が考えた方法の一例で「他にも色んなやり方」があるとは思う。まだこういう議論の風土が日本には根付いてないので、これから「小学校の授業」で試行錯誤して作り上げていけばいいんじゃないだろうか。この議論の習慣は、何より「考えること」を育てる効用がある。
世の中の議論というと「上は国会から下は居酒屋の集まり」まで、口角泡を飛ばしての白熱の言い争いが日常的に行われているようである。しかし内容はどうかと言うと、殆どが子供の言い合いの域を出ない「非論理的な怒鳴り合い」に終わっている(国会がその良い例である)。これは日本人が本質的に「冷静な分析力が無い」せいなのか、あるいは感情的になって「自己防衛に躍起になる」体質なのか、何れにしても余り生産的じゃないのは確かである。
私は昔学生の頃に「プラトンの対話篇」を読んでその「証明に至る筋道」に感動し、何冊も熟読した経験がある(この議論の究極のお手本が彼の「対話篇」である。特に「国家」はお勧め)。
この議論をやって一番勉強になるのがレフェリー役の議長である。議事進行を公平かつ冷静に判断して一方に与せず、それぞれの話を論理的に分解して感情的な枝葉をカットしながら議論を本来の共同検証作業に導いていくというのは、実は相当な高度かつ広範な知識と揺るぎない指導力がなくては出来ない作業なのだ。これを子供のうちから経験するというのは、その人の人格形成に大きな影響を与えるんじゃないかと期待したい。子供なりに一生懸命正しい判断をしようと「どこまでも必死に考える習慣」が身に付いてくれれば、ようやく「和をもって尊しと成す」の言葉も生きてくると言うものである(日本人が一番忘れている言葉である)。
なお、余りにも大袈裟だという人向けに、簡易版を考えたのでご活用下さい。
1、まず会話の中で「〇〇のことだけど、どう思う?」と相手の意見を聞く
2、相手が答えたら一旦「なるほどねぇ」と受け入れた上で、「私の考えはこうだ」と自分の意見を詳しく説明する
3、そこで相手が納得したら終わり。分かってくれてありがとう、と感謝を述べるのを忘れないこと。
4、納得しなかったら「じゃあ検証してみようか?」と持ちかける
① やってみるとなったら議長を選んでスタート
② 今日はやめとこうという場合は後日ペンディングにして話題を変える
5、議論するのが嫌だから渋々納得したフリをする、というのもあるかも知れないが、その場合は意見を言った本人が自分から訂正しない限り「一生認めたまま」になるので注意すること。議論しないという選択肢はほぼ人間関係を壊すもとである。
注意点はお互いが合意出来る範囲に収めることに尽きる。言わずもがなだがカレーと天ぷらはどっちが旨いか?などという趣味嗜好の比べっこは問題としないこと(当然である)。しかしこの判断が難しい。
ルールは
① 一方が意見を言って終わってから質問すること。必ず交互に話すのが議論のやり方である。途中で割り込んだら議長がイエローカードで笛を吹く
② 必ず相手の言う事に耳を傾け、その内容を吟味すること。バカとか何言ってんのとかの人格否定語は使用禁止である。これも議長がコントロールする。
③ 一つ一つ答えを出していく。ここが国会に欠けている部分である。答えを出そうという気がないからのらりくらりと質問をはぐらかしたり別の関係ない答えを言ったりして議論にならない。これは議長が注意して「必ず正面から質問に答えさせるべき」なのだが、日本の議長が能無しだから無理だよね、第一「与党の味方」だから問題外だ。まあ国会の茶番劇は置いとくとして、問題点は細かく分けて一般化し分析して解決していくこと。問題を要素ごとに分解すれば、案外と答えが見えてくるものである。
④ 先を急いではいけない。とにかく「だからそう言ってんじゃないか!」などと感情的になって議論をぶち壊してはいけない。ひとつずつ網羅的にすべての反対意見を検証して根気よく消していくこと。それが最終的には結論の正しさの保証になる。
⑤ 結論は最後の最後。場合によってはペンディングもある。時間がないからといって答えを無理矢理に出そうとするのは禁止。それを追求する過程を楽しむぐらいの余裕をもつ気持ちが大事である。結論は黙っていても出るときは出ちゃうのだ。その時は盛大に歓びあって仲間と達成感を感じ合おう。
以上が私の議論の方法でした。この方法でSN氏とSY氏の溝が埋まるかは分からないが、是非とも仲直りして欲しいものである。(前回の「親しき中にも礼儀あり」も読んで下さい)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます