明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

読書の勧め(8)平家物語を読む、時々徒然草・・・その ②

2021-12-20 19:22:36 | 今日の話題

1、先達(センダツ)

清盛が船に乗って熊野に詣でた時、大きな鱸(スズキ)が海の中より船に飛び込んできた。このとき先達が「昔、周の武王の舟に来し白魚は、踊り入ったるなれ。いかさまにも、これは権現の御利生と覚え候。参るべし。」と申したという。この先達とは、修験者が山に入って修行する時、その先導をする者だという。読みは「せんだつ」とある。時の人・清盛の熊野詣だけに、特別に先導者が付いていたようだ。この先達というのが身分がどうなのかは分からないが、清盛に気後れもせずに指示しているところが面白い。あるいは市井の人とは別格の地位なのかも。最後の「参るべし」というのは、「召し上がりなさい」との意味だそうだ。その時清盛、自ら調理して随行する家の子郎党にも食べさせたという。清盛もこの時はまだ、精悍な武将然として君臨していたようである。・・・平家物語3=鱸の事より

2、華族(カゾク)

この名称は明治の元大名家で便宜上華族と呼ばれた人達と異なり、正真正銘の公卿で大臣大将を兼ねていて、臣下の最高位・太政大臣となれる「家柄」のことを言うらしい。つまり摂家に次ぐ「名門」を言った。これと比較すれば「明治のいわゆる華族」などは、如何にも取って付けたような「形ばかりの呼び名」で、実態が伴わない単なる分類である。明治の場合とは違って、平安時代は権力も実力もまさに雲の上の存在であり、「名実共に天下を動かしている」輝かしい呼び名であった。つまり文字通り「華々しい人々」って言うこと。そう思うと、言葉にも重みが出てくると言うものである。・・・平家物語巻一、禿童より

3、六波羅殿の禿(カムロ)

清盛が仁安三年に病気をして、存命の為に出家し法名を「浄海」と名乗った。出家の後も一族の栄耀栄華は尽きる事を知らずどんどん栄えて、平家にあらずんば人にあらず、と言われる程になったのは周知の事実である。ちなみにこれを言ったのは、清盛の小舅「平大納言時忠」だそう。まあ、ちょっとした自慢かも。この時清盛は、自身に反対する者を「禿」といわれる一種の密偵を使って、次々に検挙したと言う。十四五六の童を300人余り雇い入れ、京都市中をスパイさながら見張らせていたというから恐ろしい。ちょっとでも禿が小耳に挟めば、即ご注進・逮捕勾引だから、巷では清盛のことを悪く言う人がいなくなった程だそうだ。実にコストパフォーマンスの良い効果的面な方法で、清盛らしい「頭の良い陰湿なやり方」である。ちょっと現代中国の「周近平」を思わせるねぇ(何か怖い!)。なお、六波羅は清盛の屋敷があったところ。三十三間堂が程近いので、ついでにちょっと寄り道するのも良いかも。・・・平家物語巻一、禿童より

4、増賀聖(サイガノヒジリ)

平安時代の天台宗の高僧。名利を嫌って大和国の多武峰に隠遁し、1003年に入寂した。87歳の大往生だそうである。生前は色々と「奇行」が多かったらしい。比叡山で慈恵大師良源に師事して天台教学に精通。道心を貫いたその姿は遁世者・極楽往生者の理想像として語り伝えられた。今昔物語や宇治拾遺物語などに多くのエピソードが残る。その逸話はどれも驚くべきものだが、どうやら自身を「物狂い」と称して、ワザと奇行・蛮行を繰り返し、それで名利を遠ざけたと言う。有りそうな話であるが、それにしてもやり過ぎか。私的には奇行が多くて、しかも遁世者としての評判が高いと言うのは何とも「矛盾して」いて、イマイチ納得が行かないのだがどうなのかな。それより誠心誠意仏道に精進して、それで衆生を導く方がよっぽど尊敬されると思うけど、まあ人それぞれかも。・・・徒然草、第一段より

5、白拍子

鳥羽院の頃に「水干・立烏帽子・白鞘巻」で踊っていて男舞と言っていた人々。中頃より烏帽子・刀を退けられて「水干ばかりにて」踊ったので、白拍子と呼ばれるようになった(初めて知った!)。妓王・妓女はその走り。清盛に愛されて「妓王御前」の評判はブームを呼び、同業者の中で「妓」を名前につけるものが続出したという。三年ほどして加賀国の「佛」が現れ、巷で大評判をとる。後は皆さんご存じの通り、妓王・妓女は追い出され、代わりに佛御前が清盛の寵愛を受けた。その後色々とあって妓王・妓女・母親・佛、四人とも出家して仏道に励み、念願の往生を遂げたというのがこの物語の主題。そう言えば義経の愛妾「静御前」も、吾妻鏡によれば頼朝に翻弄されて、長生きは出来なかったようだ。静御前は当時は京に名だたる白拍子だったようで、言うなれば「銀座のクラブの売れっ子ホステス」と言うイメージでほぼ間違いはあるまい。義経に見初められたのが運命逆転の始まり。何れにしても、頼朝というのはどうにも好きになれない「権力亡者」である。その後に鎌倉幕府が3代で倒れたのも無理はない、と私は思っている。一方清盛はと言えば話なども多少は誇張されており、平家物語のテーマとして「栄枯盛衰」を描いているのだろうが、それにしても「欲望丸出しの最低な奴」という印象は変わらないかも。この祇王祇女の話に限っては、まさに清盛の評価は「ダダ下がり」と言わねばなるまい。やっぱり「木曾義仲」の出てくるまでは「ヒーロー登場」は待たなければいけないのだろうか(私は義経より、木曾義仲の方が相当好きである!)。なお平家物語は清盛一族の壮大な没落破滅を描く物語だが、この祇王祇女の部分は母親を含めた4人の「往生物語」としてストーリーが切り離され、これ単独で長く語り継がれたようだ。ちなみに私はその昔、まだ昨晩の雪が降り積もったままの人気のない嵯峨野を、嵐山の野々宮神社から山陰本線の無人の踏切を渡って、常寂光寺や二尊院の辺りを散歩したことがある。勿論、祇王寺などは散歩するには遠すぎて行けなかったのだが、今思えば少し無理してでも行っておけば良かったなと後悔したものだ。当時はまだ観光客も少なくて、雪を被った木々の中にひっそりと建っているお堂の静かな佇まいは、心にしんみりと伝わってくるものがあっただろうと残念である。ま、今じゃ観光客がワンサカ集まっていて、往時の風情は望むべくもないけどね。・・・平家物語巻一、祇王より


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