中川翔子の「マニア★まにある」、今回は半田健人「昭和鉄道歌謡」第2弾ということで、30分中身のギュッと詰まった番組であった。この番組はそもそも世にマニアと呼ばれる独自の世界に安住する変わり者を、「しょこタン」中川翔子がルポするオタッキーな番組で、毎回キャラの相当濃いゲストが縦横無尽にエッジの利いたワールドを語り尽くす面白さに惹かれて、ついつい見てしまう中ヒット番組である。
とにかくゲストの注目するポイントが恐ろしく狭くて深いので、まずはその愛着の尋常でないことと共に人生の楽しみ方というものを考えさせられる。歌は世に連れ世は歌に連れという言葉があるが、特に昭和の歌謡曲は「歌の中に世相やドラマがある」と言える。いわば人生のあるシーンを切り取って、聞くものに共感を呼び起こす名曲が目白押しだ。その中でも半田健人さんは「鉄道」という自身の趣味と絡めて一つのマニアの世界を作り上げる「まさに極小のマニアの世界」という番組の趣旨にピッタリのゲストである。
「国境の長いトンネルを抜ければそこは雪国であった」に始まるノーベル賞受賞作家川端康成の名作「雪国」は昭和ではないが、列車に乗って長い旅に出るということがドラマの始まりを予感させるという意味では、移動手段が鉄道しかなかった昭和の時代に生きた我々にとっては、鉄道は「遠い国、或いは別世界と故郷をつなぐ、唯一の架け橋」であったのだ。歌謡曲からぼんやりと聞きとる歌の世界を、より現実のドラマの詳細の部分を再構成する半田さんのマニアックな手法は、その知識と情熱で「事件の裏付け捜査」を見るような面白さがある。野口五郎の「私鉄沿線」が東急電鉄の旗の台駅だと看破するあたりは、思わず笑ってしまうほどリアルである。
彼曰く、昭和歌謡の醍醐味は歌の歌詞に合わせて妄想することにあるという。だがこれは何も昭和歌謡だけに限ったことではなく、歌全体あるいはもっと広げて芸術一般に言えることじゃないのかなと思う。人は皆、ひとつの景色ひとつの言葉の表す心象風景から無限の感情を呼び起こすことができる。それは人間の脳の持つ記憶が曖昧であること、つまり枝葉を取り除いた抽象的な事象ごとに記録する特性にあるのだと思う。例えばテレビは丸ごとテレビとして記憶されるのではなく、電化製品・四角いもの・固いもの・ガラスで覆われたもの・映像の非現実性、といった諸々のファクターごとにランダムに記録され、それぞれカテゴライズされて、「思い出す時に必要な部分を結合して、ひとつのイメージ」として視神経または言葉を操る器官に送られる。
物や人の名前を忘れるということは、対象の記憶と言葉の記憶が別々の場所にあって、無関係に記憶されていることと関係がある。本来名前というのは物の本質とは無関係な「人間が勝手に付けたタグ」である。トラという言葉が思い出せなくても、トラに関する情報は充分思い出す。これは言葉が、人間がコミュニケーション能力を身に付けた時から徐々に獲得した新しい技術である。人間の能力は、必要がなくなれば失われて行く。であれば、コミュニケーション力が薄まって行けば、自然と言葉またはそれによって表される物の名前も、徐々に失われていく。
認知症がどうやって起きるかは知らないが、物事への興味とそれを語りあう仲間を大切に生きて行くことが、この事実からも必要なことは明らかだ。マニアの世界から話がそれたが、人生を楽しむという点では見習うべき事がたくさんある、そう思えた番組である。しかしそれにしても「しょこタン」老けたなぁ。女性は30を超えると坂道を転げ落ちるように老けるというが、4Kなんかで写された日にゃたまんないよね。しょこタンはまだまだイケルから問題無いが、女優受難時代が来てるのは間違いない。
最近なつメロブームで昭和の女性歌手が張り切って歌う番組を見る機会が増えたように思うが、あまりにご高齢の方はご遠慮されるの穏当かと感じた次第。80を過ぎた老醜を化粧で誤魔化すのも限度がある。人それぞれ思い出の歌には、個人にしか知り得ないドラマがセットになっているのである。それを面白いからといって発掘し、電波に載せることで台無しにすることは「人の大切な記憶というもの貶めることでもあるのだ」ということを、番組ディレクターも知ってほしいなと思う。
その意味では、マニアの語る「昭和鉄道歌謡」は極上の一品だった。
、、、というわけで、テレビも一日に一つくらいは良い番組がある、という話でした。
とにかくゲストの注目するポイントが恐ろしく狭くて深いので、まずはその愛着の尋常でないことと共に人生の楽しみ方というものを考えさせられる。歌は世に連れ世は歌に連れという言葉があるが、特に昭和の歌謡曲は「歌の中に世相やドラマがある」と言える。いわば人生のあるシーンを切り取って、聞くものに共感を呼び起こす名曲が目白押しだ。その中でも半田健人さんは「鉄道」という自身の趣味と絡めて一つのマニアの世界を作り上げる「まさに極小のマニアの世界」という番組の趣旨にピッタリのゲストである。
「国境の長いトンネルを抜ければそこは雪国であった」に始まるノーベル賞受賞作家川端康成の名作「雪国」は昭和ではないが、列車に乗って長い旅に出るということがドラマの始まりを予感させるという意味では、移動手段が鉄道しかなかった昭和の時代に生きた我々にとっては、鉄道は「遠い国、或いは別世界と故郷をつなぐ、唯一の架け橋」であったのだ。歌謡曲からぼんやりと聞きとる歌の世界を、より現実のドラマの詳細の部分を再構成する半田さんのマニアックな手法は、その知識と情熱で「事件の裏付け捜査」を見るような面白さがある。野口五郎の「私鉄沿線」が東急電鉄の旗の台駅だと看破するあたりは、思わず笑ってしまうほどリアルである。
彼曰く、昭和歌謡の醍醐味は歌の歌詞に合わせて妄想することにあるという。だがこれは何も昭和歌謡だけに限ったことではなく、歌全体あるいはもっと広げて芸術一般に言えることじゃないのかなと思う。人は皆、ひとつの景色ひとつの言葉の表す心象風景から無限の感情を呼び起こすことができる。それは人間の脳の持つ記憶が曖昧であること、つまり枝葉を取り除いた抽象的な事象ごとに記録する特性にあるのだと思う。例えばテレビは丸ごとテレビとして記憶されるのではなく、電化製品・四角いもの・固いもの・ガラスで覆われたもの・映像の非現実性、といった諸々のファクターごとにランダムに記録され、それぞれカテゴライズされて、「思い出す時に必要な部分を結合して、ひとつのイメージ」として視神経または言葉を操る器官に送られる。
物や人の名前を忘れるということは、対象の記憶と言葉の記憶が別々の場所にあって、無関係に記憶されていることと関係がある。本来名前というのは物の本質とは無関係な「人間が勝手に付けたタグ」である。トラという言葉が思い出せなくても、トラに関する情報は充分思い出す。これは言葉が、人間がコミュニケーション能力を身に付けた時から徐々に獲得した新しい技術である。人間の能力は、必要がなくなれば失われて行く。であれば、コミュニケーション力が薄まって行けば、自然と言葉またはそれによって表される物の名前も、徐々に失われていく。
認知症がどうやって起きるかは知らないが、物事への興味とそれを語りあう仲間を大切に生きて行くことが、この事実からも必要なことは明らかだ。マニアの世界から話がそれたが、人生を楽しむという点では見習うべき事がたくさんある、そう思えた番組である。しかしそれにしても「しょこタン」老けたなぁ。女性は30を超えると坂道を転げ落ちるように老けるというが、4Kなんかで写された日にゃたまんないよね。しょこタンはまだまだイケルから問題無いが、女優受難時代が来てるのは間違いない。
最近なつメロブームで昭和の女性歌手が張り切って歌う番組を見る機会が増えたように思うが、あまりにご高齢の方はご遠慮されるの穏当かと感じた次第。80を過ぎた老醜を化粧で誤魔化すのも限度がある。人それぞれ思い出の歌には、個人にしか知り得ないドラマがセットになっているのである。それを面白いからといって発掘し、電波に載せることで台無しにすることは「人の大切な記憶というもの貶めることでもあるのだ」ということを、番組ディレクターも知ってほしいなと思う。
その意味では、マニアの語る「昭和鉄道歌謡」は極上の一品だった。
、、、というわけで、テレビも一日に一つくらいは良い番組がある、という話でした。
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