明日香の細い道を尋ねて

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古代史喫茶店(32)最新の学説「邪馬台国の最終定理ー宮崎照雄著」を読む(その2)

2023-09-16 19:28:00 | 歴史・旅行

この本では取りあえず「邪馬台国を取り巻く政治的な状況」を解説するのは脇に置いといて、比定地が「現実の方角と違っている」点を取り上げている。その解明の切り口が「魏使目線」というワードだ。魏使は「上陸する前」に壱岐にいる倭国の官人から色々と情報を聞き出している筈だと考えたのである。末盧国や伊都国・奴国・不弥国などの方位と距離のおおよそは、この倭国官人から聞いて記録した物としている。これは実際に魏使が末盧国に上陸して順々に各国を訪問し、それで実測値を書いたのでは「無い」と言う。これは今までにない新しい視点だ。要するに壱岐島から見える国々を大体の感覚で言っているのを丸呑みした文章だと言うのである。

つまり、魏志倭人伝の道里を現在の地図にあてはめて考察することは全く無意味だ、と言っている。本では図で示しているが、要するに伊都国は「壱岐島から見て」東南にあり、末盧国からおおよそ陸行5百里くらいの場所にあると言うのだ。さらに、奴国は同じく壱岐島から東南にあって、伊都国から百里ほど、という書き方である。確かにこれなら現実の比定地と合致する。これで方向が「東南」で正しいとなったわけだ。

さらに宮崎氏は当時の人の視力が優れていて、船の上から水底の鮑を見ることが出来たので「好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之」と見たままそのままに書いたのだという。国々の民衆の風習については伝聞で事足りるので、実際に見聞きしたというのは余り信用できないが、まあ良いだろう。当時、各地に送られる使者は相手の国を100%信頼しているわけではなく、公孫氏が連携している呉からの使者を裏切って殺害し、その首を魏に持って行って「魏に寝返った」事実があるので、この時の魏使も用心して「簡単には上陸しなかった」のだと考えた。それも有り得る話ではある。

細かい部分では私の理解しているのと違っているが、一番の違いは「魏使は末盧国ではなく伊都国に上陸した」としている点である。宮崎氏の説明通りなら末盧国も伊都国も奴国もすべて港湾都市であり、伊都国が半島と行き来する拠点であることを考えると「伊都国に上陸」というのは一理ある。大体「草ボーボー」の人跡未踏の末盧国なんかに遠く中国から遥々やってきて上陸する、なんてことを信じる方がおかしい。私は中国から答礼遣使団がやってくるなら、必ず伊都国に一旦駐留する筈だという考えには賛成だ。だが今までは伊都国は内陸の都市だと思っていたので、最初の上陸地点が「末盧国という未開の土地」だというのがどうにも解せなかったのである。壱岐島から真っ直ぐ「伊都国=糸島」に上陸したと考えれば問題はなくなる。

だが魏使が壱岐から遠く倭国の都市(国々)を眺めていたとすると、末盧国や伊都国や奴国などの位置を表す場合、二国間の実質的な距離ではなく「方角で表現する」のが普通ではないだろうか。地図で見た唐津と糸島に即して言えば「唐津は南南東」であり、「糸島は東南、博多は東南東」と表記されてしかるべきである。しかし魏志倭人伝はすべて「東南」と書いている点が疑問として残る。なお、宮崎氏は不弥国を遠賀川流域の河口あたりにあると考えていて、地図で見ると壱岐の「東」に位置するようだ。まあこういった解釈をするあたりは宮崎氏の言うところの、魏志倭人伝は観光用でなくむしろ「戦略用資料」である、という意見に合致した読み方である。

そもそも私の理解では、本来の伊都国の役割は「倭国全体の監察」の筈ではなかったか。倭国の範囲が魏志倭人伝の言う通り広範囲にわたっているのであれば、中国や半島との交易に特化した「海辺の港」と場所を狭く考えるのではなく、倭国「全体の中央」に位置するとしても何らおかしくない。よって伊都国は内陸にあると考えた方が「しっくりくる」んじゃないだろうか。宮崎氏の説とは異なるが、私は魏志倭人伝に書いてあることを素直に解釈して、魏使は「壱岐から末盧に上陸した」と考えている。その方が素直な解釈だ。

そこで上陸地点だが、北九州の地形を見ると松浦市・唐津市・糸島市が壱岐から大体「同じくらいの距離」にある。博多も勿論有力な上陸地点の候補であるが、こちらに上陸した場合(末盧国が博多沿岸とした場合)、伊都国は広大な平野の中を通った「500里先」にあり、当然「平野部には人口が密集して多くの国があった」と考えるのが普通だろう。だが伊都国の記述には「周囲に国があった」とは書いてないのだ。さらに伊都国から東南に進むと100里で奴国に到着するはずだが「その先は山が迫っている狭隘な場所」を通過することになってしまう。別に山の合間の狭い場所を通過するのは変ではないが、地形に従えば次の奴国に向かうには「南に方向を変え」て鳥栖市方面に行くのが当時も今も順路である。方角が違うのだ。仮に末盧国から東南500里の伊都国を春日市または大宰府とし、奴国を鳥栖市」とすれば、不弥国や邪馬台国は久留米市周辺になり、現実に「吉野ケ里」などがあってドンピシャなのだが「これじゃ西南方向になり」そもそも方角が違うのだ。

ここまで本を読んだ限りでは、素直に魏志倭人伝を読めば上陸地点は「唐津一択」である(私の考え)。それに方角は記述の通り「東南に山に挟まれた道」があって、上手い具合に500里ほど行った所で多久・小郡という集落に到着する。ここは正に大集落佐賀に「海から直結した」ルートなのである。いままで比定地に挙げられている糸島・博多といった集落とは勿論方向も違うし、何よりその間には「峻険な背振山脈」が行く手を阻んでいて、答礼遣使団が徒歩でこれを越えて行くなど「とぉっても無理無理」なのだ。何故海辺の糸島や博多に行くのに「わざわざ」遠い唐津に上陸して背振山脈の難所を徒歩で行かなきゃならないのか、説明がつかない。それより直接博多に言った方が簡単だし安全である。だが博多では方角が記述と合わないのだ。

だから唐津一択である。宮崎氏の言う通り「魏使は一旦伊都国=倭国の表玄関」に留まってしばし休息した、というのは「唐津ー佐賀ルート」であれば十分納得できる。では伊都国から海沿いに奴国・不弥国へと徒歩で行くのはどうだろうか?。私の思うに女王国に行くための魏使であるから「寄り道してる余裕」は無いと思う。もし倭国の内情を調べるのが魏使の目的というならば、多分大勢いたであろう倭人に聞けば簡単に情報は得られたんじゃないか。それに魏使は「真っ直ぐ女王国」へ向かっているように見える。色々倭国を構成する国々を羅列しているがすべて伝聞だ。

魏使の目的が「女王に拝謁し下賜品を渡す」ことだとすれば、魏志倭人伝の記述内容は簡潔にして妥当な書き方だと私は思うのだがどうさろう。それに魏からすれば卑弥呼は「親魏倭王」の金印を与えている程の重要なパートナーだから、どういった人物なのか「そっちの方が気になる」のではないか?

どうも私は宮崎氏のこの辺の説明が「不十分」のような気がするのである。まあ邪馬台国へのルート解明は「もう少し先」まで読んでから答えを出そう。この疑問は取っておいて、次回のブログでは宮崎氏の言う「順次読みの謎」を解き明かしたい。時期は来週くらい、ってことにしておく。



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