空観方程式

「色」での重ね合わせによる相互作用で共感・共鳴が生じ、「空」としてのエネルギーで新たなる生命力の姿が実体化される。

「三毒」と「かるみ」について

2014年01月09日 | 記事のコメント
深刻なことを、さらりと言っておさめてしまう。
それを「かるみ」という。日本人独特の固有名詞だ。
芭蕉がその晩年に「かるみ」というものを称えて、
それもまた日本独特の固有名詞である「わび」「さび」
「しおり」などのはるか上位に置いた。生きるための理念
精神構造であった。
それをさらりと言うからこそ、その恐ろしさが伝わる。
利休の点前がしかり。

精神的に空の状態であればこそ本質が見えてくる(色)。
まっさらで純粋であればこそ運命を受け容れられる。
従って「もっともっと」が有ればこそ、「身を捨てる」
という関係性により、深刻なほど「かるみ」なのだ。
それによりまた新たな世界が見えてくる。
逆に深刻なことを深刻に伝えようとすると、かえって胡散臭く
なるものだ。


「利休にたずねよ」山本謙一著より 三毒の焔(ほのお)

人の世には、三毒の焔が燃えさかっている。
好むと好まざるとにかかわらず、しがらみと軋轢に巻き込まれる。

三毒とは仏法が説く害毒で、「むさぼり、いかり、おろかさ」である。
世の中のわざわいや有為転変、人の浮き沈みは、ほとんどこの三つの
毒で説明がつく。人が道を誤るのは、たいていこの三毒が原因だ。
しがらみと軋轢は、毒のせいだ。人のせいではなく、毒がしたことだ。
と思えば腹は立たない。
しかし古渓宋陳は禅僧としての義を貫き、
秀吉の母に対する祈祷ができず、大徳寺から追放された。


信長や秀吉の執着と、利休の執着では、いったいなにが違うのか。
土地やカネと、美しさであれ、それをむさぼる執着が、毒である
ことに変わりはない。
利休の茶には、たおやかな品格と気高さがある。それを嫌味に
見せない謙譲がある。
しかし尋常ならざる凄まじい執着がなければ、あれだけの点前は
できない。
欲は欲。むさぼりはむさぼり。どんなに上品でも、毒が毒である
ことに変わりはない。
利休はいつも飄然と茶を点てているが、その内側では、地獄の窯が
煮えたぎるほど貪婪な、美へのむさぼり、美への執着がある。
それでいて、その貪婪さを毛の先ほども見せるのを嫌い、気配さえ
感じさせない。
宋陳には、利休の毒の焔が、信長や秀吉よりはるかに恐ろしいものに
思えた。


大宰府追放への旅の途中に、利休をたずねた。
「誰しも毒をもっておりましょう。毒あればこそ、生きる力も湧いて
くるのではありますまいか」
「肝要なのは、毒をいかに志にまで高めるかではありますまいか」
「高きをめざして貪り、凡庸であることに怒り、愚かなまでに励めば
いかがでございましょう」
なるほど、それは三毒の焔をいちだん高い次元に昇華させる。
と宋陳は利休から諭された。




参考:
芭蕉の言う「軽み」とは「いのち」の自在に嬉戯する姿。
美学もその系譜である。
従い芭蕉の心象は平穏・繁栄ではなく、戦乱・無常のだと
いわれる。
芭蕉が尊敬する宗祇、西行も、明日をも知れぬ戦乱の世を
生き抜いていくなかで己の表現を磨いてきた。
芭蕉の漂白の思い、捨身無常の思いも、それに連なるのだろう。
http://www.intweb.co.jp/basyou_haikai/jbasyou_haikai01.htm





あとがき
山本謙一氏の訃報に接しお悔やみ申し上げます。2014年2月
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