空観方程式

「色」と「空」の一体化によって可視化され、相互作用で共感・共鳴が生じ、新たなる思いや生命力が実体化される。

空想上の現実からの離脱について

2023年09月15日 | 記事のコメント
200万年前から1万年前まで、
多数の人種族が進化の枝分かれとして発生した。
言語及び火や道具を使う能力はほぼ同等であった。
特にネアンテルタール人は
知能や筋力が発達していて、
サピエンス人より狩りが上手であった。
しかし、群れは100~150人以上になると
分裂自壊してしまうのだったが、
7~3万年前にホモ・サピエンスだけが、
脳神経細胞における突然変異によって、
認知革命(コミュニケーション能力)を獲得した。
その結果、義理・人情のように
眼に見えない観念・概念を
赤の他人達が互いに了解し信じることで、
分裂することなく
大集団として活性化することができた。
いわば権威主義的集団組織能力により、
ホモ・サピエンスは他の全ての人類種族を
駆逐してしまった。




うわさ話や虚構を信じる能力は
大集団を作る事ができる一方、
陰謀論に惑わされるということでもある。
例えば守護神としての権威が
「この戦いによって死んだとしても、
地上よりもっと素晴らしい場所に
生まれ変わることができるぞ!」と言えば
それを信じて死ぬまで闘うことができる。
ネアンテルタール人はこのような
守護神やあの世を信じる能力がなかったので
戦いには敗れてしまった。
要は種族の誇り、絆、
家族のために命を落とす様な事ができなかった。



従い、ホモ・サピエンス人は
権威主義的な集団であれば、
(自由も制限されるものの)
迷いや苦悩からも解放される。
要は誰もがその秩序の存在を信じることで、
集団の組織的安全も強化される。
一方で認知革命は眼に見えない想像アイデアで
新たな技術の思考錯誤も可能になった。
それは一人の天才に依存するのではなく、
複数の想像の重ね合わせ(試行錯誤)によって
「こうすればいいのでは?」といった
新たなものが次々と現れてくるからだ。
即ち試行錯誤を繰り返すことにより、
新たな道具を実現してきたことによる。
改良やアイデアといった自分以外に対する
(天才一人による思考より)
興味からくる多様性である。
多様性により技術革新が生まれ、
進化が促せるからだ。



虚構と呼ばれる想像上の現実によって、
想像上のアイデアによる思考錯誤と
新たな改良・技術のみならず、
眼に見えない概念や観念についての
コミュニケーションも可能となった。



虚構からの離脱
(想像上の秩序における試行錯誤)

眼に見えない概念や観念についても、
石器改良のように
コミュニケーション能力によって
対立の双方を保持したままで、
時と場合によっては眼で見た現実とも
比べてみることも可能になった。
変化の中での継続には多様性が必要である。
多数の観念、あるいは多数の価値観との
思考錯誤によって折り合うこともできる。

権威主義組織や信仰だけでなく
道徳のように
こうした方が良いのでは?と
選択する自由を残すことだ。
要は
お互いが認め合い尊重する方の能力だ。





そもそもユバル・ハラル著
「サピエンス全史」によれば、
宗教、国家、紙幣などは
想像上の秩序と呼ばれ、
その虚構によって
赤の他人が協調して行動できる様になった。

共通の了解として、
例えば同じ神を信じているならば
互いに信頼関係が生まれる。 ただ
弱い立場の人間は権威主義に熱狂してしまう。
本当は人間に生きる目的はなくても、
苦からの解放のために
あえて想像上の目的を創り出す。
しかし苦の量は減ることはなかった、
というのが歴史の現実である。

本来人生とは迷いと選択の連続であって、
「迷い続ける自己」の姿が本当の姿だ。
選択の自由を維持する民主主義は
選択のシステムであって陰謀論にも対抗できる。
さらには、
虚構と呼ばれる大多数での共有了解一辺倒では、
地動説のような大いなる誤解やら、
恐竜が絶滅した様に、人間が決められない
偶然による変化に対して脆弱である。そもそも
生物では突然変異という変化は常に行われている。
こうした外部環境の変化に対応するためにも、
安定を維持するための試行錯誤のような
「動的平衡状態」が必要である。


天才物理学者のアインシュタインは
「スピノザの神なら信じる」と答えたそうである。
スピノザは人格神を否定しており、
人の善悪を判定し、悪を罰するような人格神、
神の意志での信仰とは分別すべきだという。
虚構と呼ばれる想像上の現実の世界においても、
万物に魂が宿る観念や、
自然の驚異に触れたときに
畏敬の念を抱くことは許容されるものの、
区別するとは人格神に対し否定もしくは
選択の余地を残すという事であって、
権威や信仰ではなく道徳領域とすることだ。





仏教における魂の存在
古来の神道においては、
神は自然のあらゆるものに宿る
という観念を受け継ぐ。
その大いなる力により我らをお守りいただき、
願いを叶えていただく。
同様にして
仏教においては、死ねば肉体は滅するが、
霊魂は残り阿頼耶識として宿る。
お盆の迎え火や送り火などは
こうした霊の存在に依るものである。
そうした観念により我が国でも
親子や地域での
コミュニケーションがはかれている。
問題は霊の存在を縁起の観念として
「業の世界」にまで拡張させ、輪廻の思想と
因果の法則によって、
この世の善と悪を分別するという点である。

そもそも仏教の本質は輪廻、
因果応報からの解脱でもある。
執着しない、こだわらない、ありのままで分別しない、
のように。
業(カルマ)の観念から離れることが
仏教の本質であることに留意すべきである。
業の世界には
いつまでも深くこだわらないことが必要だ。
神仏にすがり、おびえて過ごすだけでなく、
個人によって選択できることが望ましい。
インドでは牛を崇拝し、タイではナマズを放流して
幸運を呼び込むのだそうである。
アニミズム信仰のように、
業の世界においても信仰の領域に於いては
一方向に偏向しがちとなる。
たとえ解脱が困難であったとしても
状況によって選択できるよう、
道徳のレベルにしておくことだ。



親鸞の歎異抄によれば
「因果応報によって不幸に苦しんでいる人を
救済するのが弥陀の本願である」とある。
(第十三条)
いわば他力救済であって、
自力解脱ではない救済法である。
また、石器改良のような試行錯誤のように
こうした方がいいのではといった、
どちらを選択すべきかのような道徳でもない。

全ての結果には必ず「因」と「縁」がある。
同時に
「因」とは自分の意志による自由からなされている。
業は果報を生じる因となる。
善も悪も「業縁」によるものだが、
その縁により不幸にして苦しんでいる人を救う。
善人が幸せに、悪人が苦難に見舞われるだけであれば
皆善行の実践を選ぶだけだ。
しかし、現実には逆の場面に多々遭遇する。
仏教では偶然による運命観を否定する。

悪をしないのは私が立派なのではなくて、
そうした「業縁」に会わないためだ。
もし「業縁」に会ってしまえば、
どんな恐ろしいこともしでかすであろう。
これは、いかなる因果関係にも依らず無関係に、
差別することなく平等に救われるという
断言の信仰である。
その弥陀の本願と出会うことで救済される。







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