歴史上の当事者でない我々が、南京大虐殺の抗議活動を見ても、ただ、戸惑うだけである。市民の数より多い犠牲者はありえない訳であるが、プロパガンダの正体を知ってしまうと、本当はどうだったんだという疑念に駆られる。そんな想いに答えるように現れた一冊。
再現 南京戦
東中野修道著
草思社
「大虐殺」の虚構性を立証した決定的研究
中国の戦法は、「堅壁清野」であった。これは、堅固な城壁を作って守り、野には一物もないよう城壁の周囲を焼き払って清めてさえおけば、敵は飢え果てて降参するから、戦わずして勝利はころがりこんでくる、という戦法であった。
八月十三日に上海戦が始まると市民は南京を脱出し始める。 あとに残ったのは路銀がないために逃げるに逃げられない人たちであった。
十一月二十二日に、南京の欧米人が国際委員会を設立した。それと同時に南京残留市民のために軍事力の存在しない非武装中立地帯としての避難地帯を設けることとし、その青写真を発表した。
日本軍は安全地帯を認めなかった。南京は堅固な城壁でできていた。城塞都市であった。
日本軍は十二月八日、「南京全体が要塞 中立地帯不可能」と発表し、安全地帯は承認しないが尊重すると付言するにとどめた。
国際委員会のラーベ委員長は、日本軍に宛てた最初の第一号文書の中で、「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣り方に感謝します」と謝意を表明している。
軍事都市の中に中立地帯をつくるというのは、おかしな話だが、ここまでのところ虐殺が起きたと思われるような雰囲気は見当たらない。ここまで、72/358ページ。まだ先は長く、古い文章が入って、ちょっと読みにくい。
118/358、時間のない人のために、チョッとだけ状況解説。 南京側は、無用な犠牲を出さないようにというのが、おおかたの主張だった。 ところが、唐生智将軍が南京死守を主張。南京防衛軍司令官になるのですが、 これが、とんでもないやつ。陥落を前に、戦闘終了を宣言しないまま逃亡する。 それを知った兵も城を脱出するのですが、城の中も外も、投降する者あり、決死の反撃をする者あり、大混乱。双方に大量の犠牲だ出た。 日本軍にまぎれ、日本軍のポーターとなって進軍する者もあったというから、のどかな光景あったんですね。詳しくは本で。
虐殺の報道の元になった死体の山は何だったのか、更に読み進む。
南京陥落後、中国軍は大量の武器を持ったまま安全地帯に逃げ込み隠れた。将校の中には欧米人に匿われた者もいという。市民虐殺などの記録は、彼らが掃討を嫌って流した噂、ということらしい。 掃討のために行った平民分離が終了した時点で、市民登録の結果、城内の市民は20万人から25万人に増えたという。言われている規模の虐殺があれば減って然るべし。
1936年(昭和11年)12月、西安事件が起きる。それが蒋介石の国民党と毛沢東の共産党を連携させ抗日民族統一戦線を樹立させる。中国軍を指導していたのはドイツ軍事顧問団。
満州鉄道の日米共同経営を断ったことが太平洋戦争の遠因と言われるが、どっち取っても日本の権益を守るのは困難だったのであろう。南京戦までの30年、日本が何をしてきたのか、ちょっと気になる。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/191110.htm 共同経営を断ったことが、米の中国進出を遅れさせた。とすれば、中国の独立が保たれたのは、帝国日本の侵略のお陰ということになる。北京よ、違うかい。
満州に第三国が資本投下するのを阻止するために結んだ清国との条約のために米国に恨まれることになったんえ。少しは日本の立場も考えておくんなまし。ったく。機会があったら小村さんに聞いてみよっか。
再現 南京戦
東中野修道著
草思社
「大虐殺」の虚構性を立証した決定的研究
中国の戦法は、「堅壁清野」であった。これは、堅固な城壁を作って守り、野には一物もないよう城壁の周囲を焼き払って清めてさえおけば、敵は飢え果てて降参するから、戦わずして勝利はころがりこんでくる、という戦法であった。
八月十三日に上海戦が始まると市民は南京を脱出し始める。 あとに残ったのは路銀がないために逃げるに逃げられない人たちであった。
十一月二十二日に、南京の欧米人が国際委員会を設立した。それと同時に南京残留市民のために軍事力の存在しない非武装中立地帯としての避難地帯を設けることとし、その青写真を発表した。
日本軍は安全地帯を認めなかった。南京は堅固な城壁でできていた。城塞都市であった。
日本軍は十二月八日、「南京全体が要塞 中立地帯不可能」と発表し、安全地帯は承認しないが尊重すると付言するにとどめた。
国際委員会のラーベ委員長は、日本軍に宛てた最初の第一号文書の中で、「貴軍の砲兵隊が安全地帯を砲撃しなかった見事な遣り方に感謝します」と謝意を表明している。
軍事都市の中に中立地帯をつくるというのは、おかしな話だが、ここまでのところ虐殺が起きたと思われるような雰囲気は見当たらない。ここまで、72/358ページ。まだ先は長く、古い文章が入って、ちょっと読みにくい。
118/358、時間のない人のために、チョッとだけ状況解説。 南京側は、無用な犠牲を出さないようにというのが、おおかたの主張だった。 ところが、唐生智将軍が南京死守を主張。南京防衛軍司令官になるのですが、 これが、とんでもないやつ。陥落を前に、戦闘終了を宣言しないまま逃亡する。 それを知った兵も城を脱出するのですが、城の中も外も、投降する者あり、決死の反撃をする者あり、大混乱。双方に大量の犠牲だ出た。 日本軍にまぎれ、日本軍のポーターとなって進軍する者もあったというから、のどかな光景あったんですね。詳しくは本で。
虐殺の報道の元になった死体の山は何だったのか、更に読み進む。
南京陥落後、中国軍は大量の武器を持ったまま安全地帯に逃げ込み隠れた。将校の中には欧米人に匿われた者もいという。市民虐殺などの記録は、彼らが掃討を嫌って流した噂、ということらしい。 掃討のために行った平民分離が終了した時点で、市民登録の結果、城内の市民は20万人から25万人に増えたという。言われている規模の虐殺があれば減って然るべし。
1936年(昭和11年)12月、西安事件が起きる。それが蒋介石の国民党と毛沢東の共産党を連携させ抗日民族統一戦線を樹立させる。中国軍を指導していたのはドイツ軍事顧問団。
満州鉄道の日米共同経営を断ったことが太平洋戦争の遠因と言われるが、どっち取っても日本の権益を守るのは困難だったのであろう。南京戦までの30年、日本が何をしてきたのか、ちょっと気になる。
http://www.asahi-net.or.jp/~vb7y-td/191110.htm 共同経営を断ったことが、米の中国進出を遅れさせた。とすれば、中国の独立が保たれたのは、帝国日本の侵略のお陰ということになる。北京よ、違うかい。
満州に第三国が資本投下するのを阻止するために結んだ清国との条約のために米国に恨まれることになったんえ。少しは日本の立場も考えておくんなまし。ったく。機会があったら小村さんに聞いてみよっか。