河内国喜志村覚え書き帖

大坂の東南、南河内は富田林市喜志村の歴史と文化の紹介です。
加えて、日々の思いをブログに移入しています。

歴史36 戦後/ 祭りじゃ俄じゃ③

2024年01月10日 | 歴史

※連載ものです。①から順にお読みください。
春やんが立ち上がり、大きな紙袋を持って我々の円陣に来て、紙袋の中身をドカっとぶっちゃけた。
畳の上に色とりどりのお菓子が広がった。
「さあ、好きな物を食べ。そや、辛いお菓子は残しといてや。後でオッチャンらの酒のアテにするさかい!」
消防団の屯所の清掃整備当番の帰りで、そのお下がりのお菓子だという。
春やんたちは、竹寿司の握りをアテに酒を飲んでいる。
我々も説教されずにすんだという安堵感で、お菓子をほおばった。
「ところで、最前におまえらが科学特捜隊やら宇宙警備隊やら言うてたけど、何のこっちゃ?」と春やんが訊いてきた。
「悪い怪獣から世界を守る地球防衛隊や!」
「わしがいた特設警備工兵隊みたいなもんやなあ」
「オッチャン、そら何やねん?」
「悪い奴から日本を守る本土防衛隊や!」
春やんは、そう言いながらゴクリと湯呑の酒を飲んで話し出した。

中国やらフィリピンやら戦争に二回召集された。
右目やら左足やらに敵の砲弾の破片を受けて、昭和17年の7月に日本に帰って来たんや。
そろそろ大都市の空襲が始まり出した時あった。
大阪市内に住んでたんで、天王寺の陸軍病院に入院してたんやが、具合が良くなると直(じき)に退院させられて、天王寺にある真田山陸軍墓地にまわされた。
大工やってたからお手のものやろというので、木の箱、骨箱を造らされた。
菓子箱みたいな箱に遺骨を納めるのやが、戦局が悪なると、石ころが一つ、サンゴの欠片が一つというのが増えてきて、あげくは、骨箱造りそのものの必要がなくなってしもうた。
納める遺骨すら帰って来えへんようになってしもたんや。

破片の入っている右目をシクシクさせながら、春やんがシゲちゃんの方を見て言った。
さっきのおまえのウルトラマンと一緒や。最初は強そうに見えるのやが、集中砲火を浴びたらあっというまや!
わしが召集された頃は景気よう勝ち進んでいたんやが、ミッドウェー(海戦)やガダルカナル島で負け、大要塞のサイパン島を奪われてからは本土決戦が叫ばれ出した。
わしも骨箱造ってる場合やなくなって、昭和18年の春に、本土の沿岸警備や軍事施設の復旧にあたる特設警備隊に編入された。
昭和19年になると大阪も空襲を受けるようになってたんや。
西成の聖天坂にいた嫁はんをわしの実家に疎開させて、わしは特設警備工兵隊として八尾空港に移された。
当時は大正飛行場と呼ばれていた陸軍の大飛行場や。
そこで掩体壕(えんたいごう)という、戦闘機が一機入るような格納庫を木や竹やコンクリートで造ってたんや。
しかし、陸軍の大きな基地やさかいに敵の格好のマトや! 警報のサイレンがしょっちゅう鳴りよる。
滑走路を横切って逃げようとしたら、わしの方に向かって急降下して来たグラマン(戦闘機)が、パンパンパンと機関銃を撃ちよった。
わしのすぐ横をバッバッバッと弾が走っていきよった。
おまえら、さっきは、わし等に怒られる思うて小そうになっとったけど、そんなんとは比べようがないほど怖ろしで!
誰を狙てるのかわからんような弾の中は仰山くぐってきたけど、明らかにわしを狙てるのを感じたら、ほんま、ションベン、ちびったわ。

『0戦はやと』や『紫電改の鷹』などの戦記漫画を読んでいたので、ある程度は理解できたが、自分のそぐそばを機関銃の弾が走っていくのを想像すると恐くなった。
町内の墓地の「陸軍上等兵〇〇」と書かれた、槍の先っぽのような大きな墓石が頭に浮かんだ。
春やんたちは、終戦の時は何をしていたとか、何処にいたという話をしていた。
そのうちに、三十代半ばくらいの皆がミッツォはんと呼んでいるオッチャンが言った。
「新しい地車(だんじり)を買うたんは、何時でしたかいな?」
※④につづく
※『備へよ空に : 空襲恐るべし』太洋社(国立国会図書館デジタルコレクション) 
※航空自衛隊ホームページより引用・改作・『少年キング』少年画報社

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