切り株

日々、思ったこと気がついたことを形にして残した日記です。

思うこと

2005年10月17日 | Weblog
我が家の次男は、高齢出産、いわゆる「マル高」で生まれた子供です。
産院で、一般に高齢出産の場合、「ダウン症」など染色体に異常がある子供が生まれる可能性が高いという説明があって、
「羊水の検査」を受けるように勧められました。

ここで当然、「異常がわかったらどうするの?」という疑問にぶつかりました。


妻の子宮は子供たちにとってあまり居心地がよくないらしく(?)、
長女、長男ともに予定日より3週間も早く「未熟児」で生まれました。
生まれてからは、とても「未熟児」で生まれたとは思えないほどすくすく育ちましたが、
その後授かった三番目の子の時は、切迫流産で1ヶ月ほど入院しましたが、
残念ながら亡くしてしまいました。
10センチほどの男の子でした。火葬にして灰も残らないまま、埋葬した辛い出来事でした。

しばらくは、お互いに子供の話は意識してしないようにしていましたが、
流産の6年後に授かったのがその次男で、そこで検査の話が病院からあったのでした。

「やっと授かった子供だから」と言うことで、結局検査は受けませんでした。
この子の時も切迫流産で入院し、6年前のことが頭をよぎりましたが、無事元気に生まれました。
やはり3週間ほど予定日より早く生まれましたが待望の子供にめぐり合えて、涙を流して感謝しました。

ところが、同じ時期に生まれた知人の子供が「ダウン症」だと言うことを聞かされたのは、
次男が生まれて1ヶ月もしない頃でした。
「なんといって慰めたらいいのか」、「どう声をかけたらいいのか」など悩んだ末、
知人宅を訪ねたところ、思いもかけない言葉が返ってきました。

「確かにこの子は病気だけれど、私たちの大事な子供よ。とってもかわいい子供なの。」
「病気は確かにかわいそうだし大変なことだけれど、それもこの子の一部だと思ってるのよ」。
まるで「この子左利きなのよ」と言っているように、笑顔で話す知人に私たちは恥ずかしく申し訳なく思いました。
残念ながらそのお子さんは亡くなってしまいましたが、その時の言葉は今でも印象に残っています。

私の周りにも、障害を持った人(大人も子供も)はたくさんいます。
お付き合いをしている人もいますが、本当に普通にお付き合いしています。
夜分に、目のご不自由なご夫婦の家にお邪魔した時、
真っ暗な家の中を走るように動き回るご夫婦の気配を感じてもまったく動けずにいる私に
「あっ、ごめんね。今電気つけるから」と言われたことを覚えています。

そのご夫婦も、「大抵のことは出来るし、手を借りなくても大丈夫。
でもどうしても出来ないことは、助けてもらわないとね」といっていました。

障害の有る無しにかかわらず、出来ないことに手を差し伸べる。
これは当たり前のことだと思います。
そんなことが当たり前になるのは、まだまだ先なのでしょうか。
コメント (3)
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