アイリス あいりす 

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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~強欲と執着

2019-09-17 22:04:09 | 魂の法則

  https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~強欲と執着

 P147~P160

(P147~P160)

強欲-執着

 強欲とは物財の蓄積を過度に熱望することだ。 欲張りな人は、物的には与えられるものを沢山持っているにも関わら ず、自分の物だと思っている物を他者と分かち合うことを拒否する。魂 の感情認識が進んでも共有ができない場合には、物的な強欲は、霊的な 強欲へと変化する。 霊的な強欲とは執着であり、不当に自分の所有物だと考えている人た ち、たとえば子どもやパートナーなどの愛情を分かち合うのが難しい。 執着に苦しむ者は、少数の人しか愛さず、その人たちにも同じことを 強要する。 多くの人が、誤って「愛している」のだと思い込み、相手を強く愛す るがために苦しいと言うが、実際には愛着による執着から苦しんでいる のだ。 魂が進歩して初めて、愛と執着との区別がつくようなる。

*愛と執着との違いを説明いただけますか。

 人が愛す場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。 自分がその人と一緒にいられなくても、愛する人が自由で幸せでいられ るように尽くすのだ。 執着を患う場合は、愛す人のためになることよりも、自我を満たすこ とを考える。そのため、愛している筈の人の自由意志を侵害する傾向に あり、その意に反して自分の近くに置こうとしたり、自分のやりたい事 を強要したりして、相手と「自分の競争相手」と見なす他の人との関係 を最大限妨害しようとする。

 本当に愛す者は、愛する人を所有しようとはせず、愛する人が他の人 たちを愛しても不快に思わない。執着は底をつくかもしれないが、本当 の愛・真実の愛は決してなくならない。より沢山の人を愛せるようにな っていったとしても、その他への愛が減る訳ではない。しかし執着は、 そうだと思い込ませるのだ。他の人たちに与えられる愛は、自分から奪 われると思わせるのだ。 執着がある者は、感情を要求し強制し強要するのだ。自分がすること の見返りをいつも求める。要求し受け取ることばかりを考え、与える時 には利益と引き換えで、最初に自分が頼んだことをしてくれるのが条件 だ。執着すると、自分の自由意志すら侵害し、したくないことをするよ うに自己を強要する。

 真実の愛を感じる者は、無条件に与え、感情を束縛しない。強制も強 要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。

*違いが明らかになる例があればいいのですが。

 いいだろう。鳥を愛していると公言する二人が出会ったとしよう。 一人は、冷房の効いた部屋の美しい金のかごの中で鳥を飼っている。 高品質のえさをやり、瓶詰めの湧き水を与え、定期的に獣医に連れて行 く。もう一人は、単に食べ物を公園に持って行くだけで、鳥が止まれば なでてやり、怪我をして飛べない時は世話してやる。 最初の人は、「僕はなんて鳥たちを愛しているんだろう。野生であれ ば得られない快適さを享受できるように、鳥たちには多額を費やしてい る! でも直ぐに死んでしまうんだ! いつも病気で、薬や獣医に金を使 っても早死にしてしまう。それが酷く辛い! どうしたらいいだろう?」 と言う。

 二人目は、「僕が世話する鳥たちは、僕のものではない。かごに閉じ 込めてはいないし、自然の中で生きている。鳥が僕と一緒にいてくれる のは、かごの格子から出れないためではなく、そうしたいからなので、 僕は幸せだ。自由に飛び回り、望むがままに生きているのを見られるの で、嬉しい。友よ、君の鳥は自由でないから、悲しみで死んでしまうの だ。好きに羽ばたけるようにかごを開ければ、自由になれて幸せになる ので、生き続けるよ」と言う。 最初の者は「かごを開ければ逃げ出して、二度と会えなくなるじゃな いか!」と答える。 二人目は、「逃げたとしたら、それは意に反して捕らえられていたか らで、隷属した生活から離れたいのだよ。僕の鳥たちは、好きな時に行 ったり来たりできると知ってるから、逃げたりしないよ。その反対に、 僕が公園に着くのを見ると、直ぐに寄って来て取り囲んでくれて、僕の 上に止まるよ」と応じる。

 一人目は「それが僕の望みだ。鳥たちに好かれたいんだ」と言う。 二人目は、「強要してでは、絶対に君の望みは叶えられないだろう。 君は、彼らが最も切望することの埋め合わせのために、快適さばかりを 与えたのだ。鳥は自由に飛びたいのだ。鳥を本当に愛しているのなら、 自由に生かしてあげなさい」と返答する。

*愛しているのは誰で、執着しているのは誰ですか。

 鳥をかごに入れておきたい人に執着があり、鳥を自由にさせておきた い人が愛しているのだ。

*執着によって他の人の自由意志をどのように侵害してしまうのか、例 を示していただけますか。

 子どもが大きくなって、恋人ができたからとか、家から離れたところ で勉強や仕事をしたいからなどの様々な理由で独立したがる際に、自分 のそばに引き留めようとする母親には執着心がある。執着のある母親は、 子どもといたいという欲求を押し通そうとし、独立して自分の人生を歩 みたいという希望を尊重しようとしない。そして、それが叶わないと感 情的に傷つけられた気がして、「子どもは私を愛していない」などの発 言に至り、子どもをそばに置こうとする余り、彼らに罪悪感を抱かせる ように仕向ける。 「この職業に就きなさい、あの専門を学びなさい」と子どもに要求し て、そうしなければ相続権を奪う父親には執着がある。 恋人に着ていい服といけない服や、何時に家から出入りすべきだとか、 つき合って良い人と悪い人を指図する人には執着がある。 この偽りの愛が執着であり、それは執着の対象を閉じ込めておく監獄 や刑務所のようで、執着に負けた者を牢屋番に変えてしまう。鳥をかご に閉じ込めていた人のように、執着で苦しむ者は、生きることも生かす こともできないのだ。

*執着によって他者の自由意志を踏みにじるというのは理論的ですが、 自分自身の自由意志も侵害するかもしれない、ということには驚きまし た。執着がある時に、どのように自分の自由意志を侵してしまうのか、 例を出していただけますか。

 いいだろう。たとえば、前例の母親が、家族以外の人を支援すること など、自分の心が求めることに時間を割きたいと思っても、そうすると 子どもや夫の面倒が見られなくなると考えて、自制してしまう場合だ。 執着を乗り越えなければ、内面を充足させることをする際には罪悪感 を覚えるだろうし、その罪の意識によって、そうすることを自分に禁じ てしまうかもしれない。

*この例のような執着の顕れ方には驚かされます。家族に尽くす人は、 一般的に愛情に満ちた人だと思われていることが多いからです。

 それは、執着というものが君たちの文化に深く根づいており、頻繁に 愛と混同されているからだ。多くの人は、授かった教育のせいで執着が 大層深く、それを自分の個性の一部に同化させてしまっている。 女性には、自分の時間の100%を夫や子どもや仕事に捧げなければ罪 悪感を抱かせる。家族以外の人に時間を費やすと、味方である筈の家族 からでさえも口さがなく批判され、「自分の家族よりもあの人たちの方 が大事なの?」とか「一体何でそんな事に関わるんだ? おまえはここに 家族と一緒にいるべきだろ」、「人にどう思われるだろうか!」などの コメントで罪を意識させられる。 男性は、慣習的により大きな自由を謳歌してきたが、執着の感情から 免がれている訳ではなく、家族でも友達でも同郷(同文化)でもない人 に手を貸そうと時間を割くと、特にそれが何の経済的なメリットにもな らない場合には、他の人の執着によって非難される。

*でも、家族に専念していても、そこには愛があるのではないですか

 もちろんだ。一方を取ると他方をなくす訳でない。 すでに言ったがくりかえしておこう。真実の愛はなくなることがない のだ。愛す対象が段々と増えていっても、それで家族を愛さなくなる訳 ではないのだ。 だが愛の能力が大きいと、大勢の人との約束も多くなるので、自由時 間も多くの人と分かち合わねばならない。それが、執着に苦しむ者には、 前より少ししか愛してもらえていないと受け取られるのだが、実際には そうではない。

*人が変わろうと決意すると、家族はどうなるのですか。他者を支援す ることに時間を割くようになると、自分の家族に手がかけられなくなる のではありませんか。

 いいかい、自己変容したいと願い、内面の話ができる他の人たちと集 まりたいと思う者が出くわす最もきつい障害は、周囲の人たちに理解さ れることがなく、その人たちに、家族の義務を果たさないという罪悪感 を、弄ばれることだ。 良く観察すれば、誰かが週に一度二時間かけて、おまけにお金も使っ て、サッカーの観戦やディスコやバーに行っても、その人が家族をない がしろにしているという印象を持つ者はいないと分かるだろう。しかし、 同じ人が、自他に役立つように内面に関する話を二時間しに行く場合には、あらゆる難癖をつけられるので、家族を放任してしまったという罪 悪感を覚えてしまうのだ。 これは要するに、分かち合うのが困難だという執着のせいだ。執着は 愛ではないし、この障害を克服できなければ、君たちは停滞してしまう のだ。

*それでは、家族は霊的進歩の障害となり得るのですか。

 いや、障害となるのは、自己成長する気がなく他者にも成長させまい とする魂たちの理解のなさだ。彼らは、進化を願う者を、それが家族の ように血の繋がりがある者であっても、手中の全ての武器を駆使して押 し留めようと努める。 理解のある家族と暮らす者にとっては、家族が霊的な発展を遂げるた めの支えとなる。しかし、地上の人類はほとんど成長していないために、 霊的な覚醒に取り組もうとする者は少数である。しかも、同じ家族の中 に似通った魂がいて、霊的進歩に取り組むつもりであっても、同時に覚 醒できることは非常に稀だ。そのため、先陣を切るのが一番難しいのだ が、それができる人が、他の者のために道を切り開かないといけない。

 かのイエスでさえこれと同じ問題を克服し、執着による家族の理解の なさを乗り越えなければならなかった。イエスの家族は彼を理解できな かったので、霊的事柄に応じるために家の義務を投げ出している、と常 にイエスを非難した。気が狂っているとけなし、罪悪感を覚えるように 仕向け、ヨセフが亡くなって彼が大家族を養う責任を負う羽目になって からは、特にそれが高じた。だが、それは真実ではない。イエスは、母 親と兄弟姉妹が自立できるまで物質的支援をしたのだ。 しかし、彼の使命は、全人類の家族というもっと広範に及ぶものだっ た。イエスが体験した自分自身の家族の理解の欠如は、福音書の次の一 節に反映されている。 そしてイエスは言った、「預言者はどこででも尊敬されるが、自分の 郷里と家族の間では敬われない」

*でも、無条件に愛すためには、家族を放棄する必要があるのでしょう か。

 霊界が家族の放棄を要求するなど、どうして信じられるのかい? 家族 は、魂の最初の感情を刺激する手段として、まさに霊界で創られたのだよ。夫婦間の愛情や親子間の愛情は、魂が最初に出会う感情で、交配本能 や子に対する親の保護本能から発達したものだ。 唯一伝えたいのは、愛において前進するためには、心を開いて分かち 合い、家族の概念を広げて、全ての霊的存在がその一部であると考えね ばならないということだ。

 いいかね、人が愛す時にカテゴリーを設けるとしたら、真の兄弟愛の 実現は不可能だろう。自分の家族を一番先にして、同じ故郷・国・人 種・文化・宗教の者を優先し、それで残ったものがあれば他者にあげる、 となる。 何の見返りも期待しないで与える代わりに、常に何かと引き換えなの は、我欲がカモフラージュされたものなのだ。そのため、与える際には リストを作成し、最初に自分に沢山くれそうな人を載せ、次にそれ以下 の人を記載し、何もくれない人は欄外とするのだ。 このような利己的な態度は、どんなに会員だけの連帯を正当化しよう と頑張る人たちがいようと、「愛の法則」を侵害している。

 連帯する権 利から誰かを外してしまった瞬間に、連帯という言葉は意味を失うのだ。 このような集団的エゴがどこまでエスカレートできるのかという例は、 ナチズムに見ることができる。人種による見せかけの結託を謳い、他の 人種や信仰の権利と個人の自由意志を粛清したり排除して、それを捏造 したのだ。

*執着は、虚栄の段階にも尊大の段階にも見られると言われましたが、 これは克服するのがかなり難しい「エゴ的感情」のようですね。

 その通りだ。執着は虚栄の段階に始まり、尊大の段階の最後まで克服 されることがない。

*それなら、執着に関しては、虚栄から自尊を経て尊大へと霊的に進化 していっても、何の進歩もないのですか。

 もちろんあるとも。しかし、進歩は常に緩やかなのだ。 虚栄心の強い者の執着は、自尊心の強い者や尊大な者の執着と同じ強 さではないし、同じ要因で増長される訳ではない。虚栄心の強い者は感 情が余り発達していないので執着心はずっと強く、他者の自由意志への 配慮がなく、甘やかされたり構われたいという思いや進化への意志の弱 さなどでそれが増長される。

 自尊心の強い者と尊大な者では、執着心は徐々に愛に変化していって いるので(愛と執着の両方が混在している)それほど強くないが、愛さ れないという怖れや愛する者を失う怖れによって増長される。

*強欲と執着は、どう克服するのですか。

 強欲の反対は寛大なので、強欲に打ち克つためには、物的・霊的な寛 大さを発展させる必要がある。強欲と執着は、物的面・霊的面で、自分 が持っているものを他者と分け合うことで、乗り越えられるのだ。 貪欲-独占欲 貪欲とは、所有したいという過度の欲求が回を追うごとに募るもので (欲するものは物財でも他のいかなる性質のものでも良い)、それによ って他者が損害を被っても構わない。 貪欲な者は、自分の持ち物では決して満足できずに、いつも持ってい ないものや他者のものを欲しがり、それを手に入れるまで留まるところ を知らない。

 貪欲な者は、自分のものを評価しないので浪費癖のある魂 であり、いつも他者の持ち物を切望しているので羨み深い魂である。 魂が虚栄の初期段階から発展段階へと移行すると、物的な貪欲さは霊 的な貪欲さ、つまり独占欲へと変化していく。 人が意識してかしないでか、自己満足のために他者の注意を引こうと、 相手の自由意志を侵害したり強要してしまうことには頓着せずに、でき るだけ長く自分に構ってくれるように人の感情を操る場合は、独占欲だ。 独占欲に支配されている人は、自分の事しか考えないことが多いので、 他者を尊重することが非常に難しい。

 独占欲の強い者は、どんな手段を講じてでも注意を引こうとし、その ため、頻繁に犠牲者の振りをする。 独占欲は執着心との関係が深く、この二つの我欲の形態は、同時に同 じ程度の強さで顕れることが多い。つまり執着心に苦しむ者は、独占欲 も強い場合が多いのだ。 嫉妬は多くの場合、執着心と独占欲の混ざったものだ。貪欲-独占的 な人には羨望、つまり自分にはない欲しいものを所有する人たちへの反感、が目覚めがちである。欲望の対象となるのは、貪欲であれば物的所有物であり、独占欲では霊的所有物となる。

*それなら、愛して欲しいので構ってもらいたいと頼むのは、独占的に なるリスクがあるので、正しくはないのですか。

 その逆だよ。我々は皆愛される必要があるのだ。自分の必要性を認め て頼むのは、自己の感情表現の一部を成すので、良いことだ。

*それなら、愛して欲しいと頼むのと、独占的になることとの違いは何 ですか。

 強制せず、騙さず、操らず、誠実に頼む場合は、独占的ではない。 独占的なのは、強制し騙し操った時、要するに、他者の自由意志を侵 害した場合だ。しかも多くの場合が、愛を求めているのではなく、ちや ほやして欲しいだけなのだ。 愛とは自由に与えられなければならず、強制すればそれは愛ではなく、 義務となってしまう。そのため、家族や近親者なので自分を愛したり面 倒をみる義務がある筈だという思い込みだけで、特定の人たちに愛して くれと要求するのは間違っている。

*霊的に進化するにつれて、独占欲はどう変化しますか。

 執着と似通った方法でだ。 すでに話したことだが、独占欲は貪欲から派生して虚栄心の発展段階 で始まり、尊大の段階の最後まで完全には克服されることがない。 魂は、愛せる能力を獲得するにつれて、自分自身の感情で満たされ始 めて情緒的に他者に依存しなくなるので、感情面で寛大になると、独占 欲は徐々に力を失ってゆく。自尊と尊大の段階では、独占欲は次第に減 少してゆく。 攻撃欲(憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感) 攻撃欲の分野には、憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感など、 自他を問わず痛めつけ傷つけたいという衝動と関連した全ての「エゴ的 感情」が含まれる。

 攻撃欲は、一般的に外部からの刺激で目覚めるが、自分が攻撃された 場合や、自分の欲求や願望の障害になると思える状況が要因となる。攻 撃欲とは、劣悪化した生存本能である。 攻撃欲は我欲のどの段階にも見られるが、それが誘発される原因は、 各レベル毎で異なる。 虚栄心の強い者では、注意を引いたり注目の的になろうとしたのに失 敗した場合や、欲求を満たせなかったり、人の意志を曲げられなかった 場合などに表面化する。そして、自分の要求を他者に押しつけようと、 攻撃的になる。 


 自尊心の強い者や尊大な者に攻撃欲が顕れるのはより限定的だが、も っと過激なケースとなり得る。確信していることが正しいと認めてもら えなかったり、望み通りに物事が運ばず途方に暮れた時や、やりたい事 をしたり表現するのを抑制されてしまったり、感情が傷つけられたと感 じた時などに、攻撃性が起動する。
憤怒すると虚栄心の強い者よりも暴 力的になり得るのは、ストレスを蓄め込む傾向があって、自己コントロ ールを失うと突然爆発するからだ。

 虚栄心の強い者と自尊心の強い者の攻撃性の違いは、ライオンとサイ とに例えられる。ライオンは肉食で、他の動物を餌とし本質的に攻撃的 なので、攻撃欲も生来のものと言えよう。この攻撃欲が、虚栄心の強い 者の攻撃性なのだ。 だが草食動物であるサイは、食べるために狩をする必要がないので、 乱暴に振舞う習性はない。脅かされたり怪我した場合など、ごく特別な 場合にのみ攻撃的になる。これが、自尊心の強い者の攻撃性に似ている のだ。

 尊大な者の攻撃欲は、自尊心の強い者の攻撃欲に似ていて、単にその 度合いが違うだけである。尊大な者は滅多に感情を損うことがないので、 攻撃性が触発されることも稀だが、爆発した場合には、他の者たちより もずっと破壊的になり得る。 攻撃欲には、憎悪から恨み・憤りや無力感に至るまで色々な異形態が 見られ、それぞれに独自の特徴がある。 憎悪は、他者に向けられる非常に強烈で持続的な攻撃欲である。これ は、最も愛からかけ離れ、最も有害な、一番原始的で致命的な「エゴ的 感情」である。宇宙の生命存在への分離と拒絶感情の最たるものだ。

 憎悪は、愛の学習が遅れている最も未熟な存在に特有のものだ。憎む 人を「嫌悪する者」と呼ぶとするが、この人はいつも、自分の憎しみは 正当なものでコントロール可能だと信じているのだが、しまいにはより 多くの人を憎むようになってしまい、周囲の人に隔絶感をまき散らす。 憎悪に身を委ねてしまう者は、暴力的で不公平で狂信的で冷酷で、全 てのものを破壊してしまう。普通の人たちからは避けられてしまうので、 孤独を感じないように似た者を探そうとする。 「嫌悪する者」は、異種と見なした者への憎悪を正当化する、過激で 暴力的な活動に参加しがちである。しかし魂は益々孤独になり、この世の他の存在からも離れてしまうので、憎しみ自体が彼らを破壊してしま う。

 とどのつまり、それが彼らが望んだことだったのだ。 怒りや腹立ちは、持続しにくい攻撃性で、その程度が大きい(怒り) か小さい(腹立ち)かの違いである。 憤りと無力感は、強く長く持続する攻撃性が内側に向けられた状態で、 他者や自分が逆境に陥った際に起動する。無力感の場合は、物事の流れ を変えるのは不可能だと感じる欲求不満が、状況を悪化させる。

 怒りっぽいイライラした人は、些細な事が原因で攻撃的になり易く、 不機嫌であることが多く、自分自身と人生とに不満である。自分の不快 感の原因は外のもので内にはない、と自己を納得させるために外部のせ いにして、不快感の本当の原因を探ろうとせず、進歩を拒むので苦しむ。 恨みはこうして生まれる。 罪悪感というカテゴリーに入るのは、攻撃欲や無力感が自分自身に向 けられた場合である。 自分への攻撃性が蓄積されると、アストラル体レベルの均衡を崩し、 その状態が長く続くと肉体的な病気を引き起こす。

 たとえば、抑圧された憎しみは、肝臓や胆嚢の病を引き起こす。 無力感は、消化器系の調子を狂わす。 抑圧された憤りや恨みが蓄積すると、歯牙の問題(歯痛や虫歯)が起 こる。 攻撃性が自分に向けられた罪悪感は、自己免疫疾患を生じさせる。

*罪の意識、つまり罪悪感はどこで生まれるのですか。

 感情と思考に葛藤がある場合に、感じることと考えること、つまり魂 と頭脳との戦いの中で生じる「エゴ的感情」が原因だ。 思考の中には、それまでに授けられた全教育が影響していて、社会規 範や規制、利己的な考えなども含まれる。 人は、気持ちに反して考えに従って行動すると、罪の意識を感じるこ とがある。それは多くの場合、愛に反した我欲での行動を意味する。た とえば、思考が発端となる利己的な行動をとった時に、魂が良心によっ て霊的な視点からは誤りだと感知すると、罪悪感が生まれる。魂は頭を 咎め、感情が思考に異を唱えるのだ。この場合は、自分の間違いを認識 することができ、成長の指標ともなるので、このような罪の意識は肯定 的なものだ。しかし、その逆も起こり得る。

 人は、気持ちを感じてしまうことに罪悪感を覚え、思考の代わりに感 情に従うことを悪いと思う場合がある。この場合は、頭脳が魂を咎める のであり、思考が感情を検証する。とても強い偏見や制約があって、特 定の感情が悪く誤りだと思い込んだ場合だ。そして残念なことにそれが 原因で、人は善悪を混同し、人生を混乱させる感情は悪いものに違いな い、との結論に行き着くのだ。こういう罪悪感は、霊的進歩と感情の発 達を阻むので、大変否定的なものだ。

*二つ目のケースがよく分かるように例を挙げていただけますか。

 よかろう。人を好きになったとしよう。最初の衝動は、そういう気持 ちが芽生えた人に、意思表示をしようと近づくことだ。これが、気持ち のままに行動するということだ。 だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。 これは、それまでに授けられた偏見と禁制に満ちた教育の全てに条件づ けられてしまっており、そこから感情の表現を咎める一連の思考が生ま れる。 たとえば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合 (年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆 したり、拒否される怖れを増長させる(彼女は同じ気持ちではない、 NOと返答するだろう、滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまうだろ う、など)。 思考が感情を負かし、心で感じたことをするのを止めてしまうと、気 持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。 感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に 修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、考えたことで はなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。

*罪悪感はどのように克服できるのですか。

 利己的な行為を認識することで罪の意識が生まれる場合には、落ち込 んだりがっかりせずに、新たにそうならないように積極的に行動するこ とだ。たとえば、傷つけてしまった人に謝ることから始めるなど、自分 がしてしまった悪いことを可能な限り修復しようとするのだ。そうすれ ば、罪悪感は消えるだろう。 気持ちに反して、考えに従って行動したために罪悪感が生まれる場合 には、初めに、自分が感情に則った行動をしていないことを認識するこ と。次に感情に従う勇気を持ち、感じるままに生きることで、そうする ことを阻む抑圧的な思考回路を壊すことができる。

 このプロセスを開始し、気持ちに素直に生きて行動し始めてはいるも のの、まだ頭の制約が強く、その努力を放棄するように悩ませられてい る人には、非常な忍耐力が必要だ。自分の気持ちに大いに自信を持って、 それに従って行動する固い意志が必要となる。 苦しむとしたら、それは感じることのせいではなく、考えることのた めだと知るべきだ。それゆえ、感情ではなく、思考を修正すべきなのだ。 心で感じることが分からない人たちによって責められたなら、過去に 自分もそうであったように、その人たちがまだ利己的で偏見に満ちた考 えに捉われているのだと理解すべきだ。彼らには、忍耐と理解を持って 接する必要があるが、影響されてしまってはいけない。

*恨みとは何ですか。

 恨みとは時間が経って薄れたものの、憎悪が長期にわたり継続するも のだ。通常は、反対されたり被害にあったせいで、自分の不運を招いた 責任者だと判断した特定の人に向けられる。 攻撃欲が目覚めるきっかけとなる事件は、かなり以前に遡る場合もあ る。しかし恨み深い人はこの件をずっと記憶し、攻撃的な衝動を育み、 復讐すれば不快感を軽減できるだろうと思って、その機会を待つのだ。

*恨みはどこで生まれるのですか。

 気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかった事を実 行しなかった欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったため や、自分自身の欠点(怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰な ど)に負けてしまった後悔などから生まれる。 恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力し た人たちや、やりたかった事に反対した人たち、自分の困難な状況に責 任があると思う人たちに、誤って向けられる。

*どうやってそれに打ち克つのですか。

 外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感がどこから生じ るかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、人生の中 の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。 運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越 えて無条件に愛す能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合が あることを理解するように努めるのだ。

 *前にした質問をもう一度くりかえすことになりますが、憎悪・憤り・ 怒り・恨みなどの感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねませんが、溜め込んでしまえば自分自身を痛めつけることになります。で すから、こういう感情はどうしたらいいのですか。

 根本から断ち切ってしまうのだ。それらの感情が内部に目覚めないよ うに努めるのだ。攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識して、 それが目覚めたのだとしたら自分の中に存在している我欲が顕れたのだ と気づくのだ。 自分の取り柄が表価されないために我欲が目覚めるならば、まだ虚栄 心を克服できていないのだ。感謝されなかったり中傷されたために苦し むのであれば、自尊心や尊大を超える必要があるのだ。 攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなに酷い無礼や非難 をされても、忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人たちがいる一方で、 どんな些細な事にも制御不能なほど激怒してしまう人たちがいるのを見 れば明らかだ。

 最初の人たちは、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人たち だ。二番目の人たちは、そう努めようとし始めてもいない。 ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないから といって、欲求不満になってはならない。自分が全権限を有する、内面 の世界を変えるように努力するのだ。そうした時に、外でのことは、も う怒りの原因とはならなくなるのだ。

*攻撃欲はどう乗り越えるのですか。

先ず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとす るのだ。

*何を理解しないといけないのですか。

 自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。 自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を認 めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。 また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、在るが ままに自分を表現するように努めるのだ。 誰かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足 りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためなのだと理解す べきだ。かつては自分も同じように霊的に無知な状態で、今されたこと と同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己 的な行為が理解されることを期待するのなら、他者の利己的な行為に関 しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。

 我々が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現した のではなく、愛の学習と我欲の克服を促進させるためのもので、その多 くは生まれる前に自分自身で選んだものなのだと理解するのだ。そして 大半を占めるその他のものは、自分の頑固さ・不寛容・羨望や、他者の 欲求や意見を尊重・理解しなかったために、我々自身が招いてしまった ものなのだ。

*攻撃欲が触発されてしまった場合に、誰にも迷惑をかけずに、不快感 から解放されるにはどうしたらいいでしょうか。

 他者を傷つけずに不快感を解放する、いい発散方法がある。 それは、どう感じているかを言い表わすということで、自分にわき起 こった感情を認めて、そうなった理由を述べるのだ。聞き手は、傷つけ ないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、攻撃欲には簡単に屈し ない信頼できる人でなければならない。 不快感を表現するだけで、攻撃欲から生じた不快が和らいでかなり楽 になる気がするし、もっと冷静に理性的になれる。

 その後でさらに落ち着けば、けんかをした人との話し合いを試みて、 解決策を模索することが可能だ。しかし、それには時と方法を選ばねば ならず、怒りや激情で爆発しそうな時は、絶対に避けねばならない。そ うなってしまえば、自分が受けたのと同等かそれ以上の苦痛を相手に与 えて、大いに傷つけてしまうかもしれないからだ。

(P147~P160)

 

(作者あとがきをご覧ください)

https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 ♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。



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2019-09-17 13:11:32 | 宇宙

 

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