アイリス あいりす 

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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著 「はじめに」「序文」 

2019-09-25 23:06:18 | 魂の法則

♬「魂の法則」の本の最初の部分です。本文を先に投稿しましたから、著者はどのような人かしら?と思いますよね。ではどうぞ。

 


 https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著



はじめに

 本書は、全世界の人びとに贈る愛のメッセージだ。 メッセージがどのようにしてもたらされたのか、また誰から伝えられ たのかということは、重要ではない。問われるのはその内容だろう。 これをどう扱うかは、各人の自由だ。無視しても、批判しても、検証 しても、あるいは君自身の人生に適用してもらっても構わない。

 僕自身 は、色々な経緯の後に、人生に応用するということを選んだ。 したがって、対話相手であり本書の主人公であるイザヤが架空の人物 なのか実在するのか、彼との会話が本物なのか、それがどのような状況 下で起きたのか、などを判断するのは君に委ねたいと思う。

 いずれにせ よ、これが君の心に届くように、真心をこめて書いたことに偽りはない。 僕の役に立ったように、君にとっても有意義なものとなってくれるこ とを願う。 君が自分自身を知り、感情を目覚めさせてエゴを解き放つと共に、人 生の目的を知り、自分に起きたことや今後起こる出来事を理解するため に役立てて欲しい。

 希望を持ち続け、他の人びとへの理解を深め、いつかは皆を愛せるよ うに。また、自分が生きる世界を理解し、最も悲惨な状況からも最大の 恩恵を引き出し、愛において成長できるように。 つまり、君が本来の自分になれて、自由で、自覚しながら真実の愛・ 無条件の愛を体験でき、そしてそれによって、さらに幸せになってくれ ることを願う。

全ての愛をこめて。

 

序文

僕は、長い間いつも多くの疑問を抱えてきた。 それらは、存在の根源に関するものだった。いつも、自分の人生の目 的や、皆の存在理由を知りたがっていた。 「僕は何者か」「なぜ存在しているのか」「他者はなぜ存在するの か」「僕らはここで何をしているのか」「何か特別なことをするために やって来たのか」「人はなぜ生まれ、死ぬのだろうか」「僕らはどこか らやって来て、どこに向かうのか」「死後にも、何かがあるのだろう か」

 そして、それでおしまいではなかった。時には、世界中で目にするお びただしい不正に対する答えを求めた。 「人生は、なぜこれほど不公平なのか」「誰にも危害を加えたことの ない小さな子どもが、生まれた時から誰からも愛されずに飢餓・戦争・ 貧困・病気・搾取・虐待で残酷なまでに苦しむその一方で、健康に生ま れつき、幸せな環境で愛される子どもがいるのはどうしてか」「なぜ病 気になる人とならない人がいるのか」「長生きする人がいる一方で、生 まれた途端に死んでしまう人がいるのはなぜか」「苦悩と悪意は何のた めなのか」「善人と悪人、幸福な人と不幸な人がいるのはなぜか」「僕 はどうしてこの家族の下に生まれ、他の家ではなかったのか」「どうし て他の人ではなく、この僕に、こんな災難が降りかかるのか」「他の人 に起こる不幸が、自分に起こらないのはなぜか」「これらの違いは一体 何によるのだろうか」

 また、ある時は感情面でのものだった。 「なぜ僕は幸せでないのか」「なぜ幸せになりたいのか」「どうした ら幸せになれるのか」「僕を幸せにしてくれる愛の対象を見つけられる だろうか」「愛とは何で、感情とは何だろう」「この気持ちは何なの か」「愛す価値があるのか」「愛す方が苦しむのか、それとも愛さない 方だろうか」 おそらく君も、人生のある時点で、同じような質問をしたことがある だろうし、今でも時々そのように考えることがあるのではないだろうか。

 でも僕たちは、日常生活の一日一日に追われているので、意識してこ のような問題を提起する機会も、答えを見つけようと努力する時間も余 りない。僕たちには、色んな義務や気を逸らされる雑事が多過ぎるのだ。 そして、答えは簡単には見つからないし、探求すると自分が不安になる ので、疑問は心の片隅に押し込めておくのだ。そうすれば、苦しみが軽 減されるとでも思うのかもしれない。

 これらの疑問の一つ一つに答えはあるのだろうか? ありきたりな答え を求めているのではなく、本当のことが知りたいんだ。真実は存在する のか? 何が真実なのだろう。どこに真理を求めるべきか。そしてそれが 本物だと、どうして分かるのだろうか。

 僕は、常に懐疑的で疑い深い人間だったが、探求心も旺盛だった。い つも自分自身で物事を確かめるのが好きだった。だから、小さい頃から 教えられた宗教・哲学・科学の中に答えを見出そうと、ずっと長い間探 し求めてきたのだと自信を持って言える。 そしてどの分野にも、世の中の理解が深まる独自の宇宙観があったが、 自分の現実をありのままに説明するには、宗教にも科学にも限界がある ように思えた。

 いつも現実からかけ離れた、中途半端で矛盾し合う答え しか得られずに、僕の疑問が解消することはなかった。深く追求しよう とどんなに努力を重ねても、最後には破ることのできない壁 ―質問を続 ける気が損なわれてしまう最終回答― に突き当たった。 宗教から得られた最終回答は、「神の御心です。神のみが知るのです。 私たちには計り知れません」というものだった。

 つまり、人の生まれ出る環境にどうして優劣があるのかや、病気にな る人とならない人がいることや、寿命の長さの違いなどは、僕たちには 理解できないということだ。死後に起きることや、他でもなくこの家族 の下に生まれた訳や、なぜこんな世界なのかとか、神がこの世の不正を 許容する理由などは、僕たちには、到底理解できないということなのだ。

 そして科学から得られた最終回答は、大体次のものだった。「全ての 事象は物理的な説明が可能だが、哲学的な観点から言えば、ほとんどは 『偶然の産物』か『それが存在するかどうかは、科学的には証明できな い』ということになる」 つまり、君が存在するに足る理由はないし、生きるに値する特別な目 的もないということだ。もし概ね恵まれた環境の下に生まれたのだとし たら、それは偶然だ。生まれつき病気だったり健康なのも、どの家族に 生まれるかや寿命の長短なども、偶然だ。科学的には、生まれる以前の 生や死後の生の存在などは証明できない。科学的には、神が存在するこ とも証明できない、などなど。

 大抵の人は、このように教わったことを真に受けているので、誰かと 話をしても、宗教を信じている人であれば、概ね、「神の御心です。神 のみが知るのです。私たちには計り知れません」と答えるだろう。 一方、科学を信奉する科学者の立場を取る人たちは、宗教を信じるグ ループよりも知識があると信じ込んでいて、「それは偶然の賜物だ」ま たは「科学的には証明できない」と答えるだろう。

 僕にこんな風に答える第三のグループの人たちもいた。「さあ、知ら ないな。君の質問に対する答えが何かは分からない。でも、そういうこ とを自問するのにも、答えるのにも興味がないんだ」 そして、僕が彼らに「悪いけれど、その答えは役に立たないよ。僕の 質問に答えてくれていないのだから」と言うと、最初のグループの人な ら、「それは、信仰心がないからだよ。信仰心さえあれば、知る必要な んかないよ」と言う。 二番目のグループなら「君には必要な知識が欠けてるからね。科学は 答えをくれるさ。それが僕の言うところの『科学では証明できないって ことが、科学的に証明されている』ことなんだよ」と返答する。 第三グループは、「払わなければならないローンがあるし、食わせな いとならない家族がいるし、分割払いの車がある。週末には旅行に行く ことになっているし、もう充分忙しいんだから、こんなことでこれ以上 僕を煩わせないでくれよ」と言う。

 最初のグループには、僕自身の疑問に答えることを放棄することなど できないと答えよう。放棄できるとしたら、自分の意志に背くことにな るし、僕にはそうする気がないからだ。 第二グループには、知識の欠如によるものではないと答えたい。その ような知識は学んだ。僕は化学博士だし、物事の探求に限界を設ける必 要がある、という結論に達したことは一度もない。計測する道具がない からといって、踏み込めない分野があるとは思わない。僕には僕自身が いるし、自分が自分の計器となればいい。僕は、自分が知覚したことは、 精密な計器で測定できたも同様に見なしているで、他者もそれぞれが感 知器であることを認めよう。だから、僕自身の計器で感知できないこと があったら、他の人たちに、その人たちの感知器では何を捉えたのかを 聞いて、役に立つのか見てみようと思う。

 第三のグループには何も言わないでおこう。彼らは僕の話を聞きに来 ているのではないから。 こう言ってはいても、答えの探求において、役に立ったり注目するよ うな事柄に出会えなかった訳ではない。だけど、より多くのヒントに出 会えたのは、正規の道筋から外れたところでだった。

 中でも最も興味を惹かれたのは、他の人たちの体験だった。それは、 自分でも試せるものだった。誰かが以前に経験したのだとしたら、僕に も体験できるかもしれないからだ。 特に二つのことに興味を持った。アストラル体(幽体)での旅とナザ レのイエスの生涯だ。この名前には聞き覚えがあるだろう? 僕は、教会 が彼についてどう言っているかを問題にしているんじゃない。公式なも の非公式なもの、宗教上のものも世俗的なものも様々な起源の、随分沢 山の資料を研究してみたが、ほとんどのものが二つの点で共通していた。 それは、この人物が実際に存在したということと、話したり行ったりし たことが人類史上に多大な影響を与えた、ということだ。

 一体何が僕の注意を引いたのだろう。それは「汝の敵を愛せよ、誰で も愛せよ」という彼のメッセージだった。全ての宗教の神々が征服や戦 争を正当化するために利用され、人びとや民族がありとあらゆる口実で 絶えず戦い合っているような世の中(現状と同じく)で、それと全く反 対のメッセージを携えた人物が現れたことが、目立たない筈はないだろ う。そしてそれだけでなく、自分を手本として実践してみせたのだ。

 つ まり、過大な約束しておきながら、後では言ったことと反対のことをす るお馴染みの政治家のように、口先だけではなかったのだ。 けれど、イエスについては、死後に彼以外の人 ―中には彼と出会いも しなかった人たち― によって書かれたものが余りにも多すぎて、一体ど うしたら本当に起きたことが分かるのだろう? 彼が実際に言ったこと、 または言わなかったことは何だったのか? 僕にはそれが気になった。

 イエスのテーマは、後ほど本書で取り扱うので一旦置いて、今度はア ストラル旅行(幽体離脱)について話したいと思う。

 僕は、様々な著者の色々な本の中でその事象を知った。彼らは、身体 をリラックスさせるあるテクニックによって、自分の身体から離れるこ とが可能だとしていた。これが幽体(アストラル体)離脱である。信じ られないだろう?

 自分自身の身体から離れられるということに、興味を持っただけでは なかった。この人たちは、その状態で、物体の中を通過したり、考えた だけで一瞬にして好きな場所に移動するというような、驚くべきことを やれると断言していたのだ。しかも、それだけではなかった。その状態 では意識が拡大するため、人生の目的やこの世でするべきことがはっき りと理解できるというのだ。 僕は、この事に関心を持った。もしかしたら、疑問に対する答えを得 られるかもしれない。失うものは何もない。「最悪でも、何も起こらな いだけだ」、と考えた。

 そして、実際に取り組んでみることにした。 毎晩寝る前には、リラックス体操を行ってみた。一月ほどは何も起こ らなかった。つまり、身体から離れることには成功しなかった。だけど、 リラックスすることで何も感じられない訳ではなかった。これは、なか なか気に入った。通常感じられたのは足の裏の振動で、これは脚まで上 昇してきて目で見えるほどだった。

 ある日、この振動は脚よりも上に、胴体へ首へ、そして頭へと登って いって、とうとう身体の感覚がなくなった。激しいながらも心地よい振 動だけとなり、そして、それは起こった。突然スポッ! と、超スピード でトンネルの中に発射されるような感覚を味わった。それは本当に信じ 難い感覚で、言葉でどう表現していいのか分からない。目が回るような 速度で一瞬のうちに何億キロメートルも旅したようだったが、不快な目 眩も酔いも感じられなかった。そしてスピードが少しずつ減速していっ て、自分のいる場所を見てみることができた。

 それは、おとぎ話から抜き出したような信じられないところだった。 表現する言葉もないほど美しい自然に囲まれた湖があった。全てが、光 も色も香りも音も本当に何もかもが、うっとりするようだった。そして、 僕自身がその場に溶け込んだかのように、全てを活き活きと感じた。言 い表せないほどの平和が息づいていた。僕は体験していること全てに余りにも驚いていたので、何も考えられないでいた。と、その時、一人で いるのではないことに気づいた。

 水辺近くの石の上に座っている人がいた。自分でもどうやったのか分 からないが、近づきたいと思っただけで、直ぐにその人がいる所に行き つくことができた。どうやら、そこでは、したいと心の中で思ったり考 えたりするだけで実現できるようだった。彼は僕のことを待っていたよ うで、僕を見ても全く驚かなかった。年をとっていて、髪の毛も長いひ げも完全に白髪ではあったけれど、老人につきものの疲労や苦悩の跡は 見られなかった。白い祭服のようなものを着て、紐で腰を締めていた。 でも、それが一番目を引く点ではなかった。 僕が惹きつけられたのは、彼のまなざしだった。あのような素晴らし い瞳は、この世では絶対に見ることができないだろう。優しく、人を見 通すように透き通り、例えようがないほど落ち着いた平和な気分にして くれた。変に聞こえるかもしれないけれど、その見知らぬ老人がまなざ しで僕に愛を送ってくれているような気がして、自分が置かれたその居 心地のいい状況を、大して奇妙だとも思わなかった。

 ここからは、イザヤという名を語ったその素晴らしい老人との対話を、 この最初の出会いとその後の巡り会いを思い出して、再現してみたいと 思う。彼との対話は、僕の人生をより良いものへ、いや、はるかにいい ものへと根本から変えるほどのものだったので、それをできる限り忠実 に再現して、君たちと共有したいと思う。僕の解釈や印象に捉われるこ となく、彼の言葉を直接聞いて、君たち自身が自分なりの結論を引き出 してくれればと思う。 さあ、寛いで座ってもらおう。幕が上がるから。

目次

はじめに 4 項

序文 5 項

最初の出会い 11 項

神 23 項

「魂の 法則」 第一の法則: 「進化の法則」 28 項

霊的世界 29 項

進化の構図 39 項

人間の構成形態 47 項

人間の転生とそれが霊性進化に果たす役割 50 項

霊界との交信 56 項

転生のプロセス 67 項

他世界での生 74 項

第二の法則: 「自由意志の法則」 86 項

第三の法則: 「霊的裁きの法則」 93 項

第四の法則: 「愛の法則」 110 項

愛VS我欲 113 項

虚栄心・自尊心・尊大 118 項

「エゴ的感情」 146 項

人間関係と「愛の法則」 176 項

「愛の法則」から見た病気 187 項

イエスの地上での使命 202 項

別れ 238 項

作者のあとがき 244 項

https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語全文)

 

(作者あとがきをご覧ください)

https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。


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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~イエスの地上での使命 part 2

2019-09-25 22:28:03 | 魂の法則

 https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~イエスの地上での使命

part 2  P222~P237


 

(P222~P237)       イエスの地上での使命

*教会や司祭が地上での神の仲介者である、という信仰は正しくない、 とも言われましたね。

そうだ。

*何を根拠にそう言われるのですか。

 イエスと当時の司祭層との関係を正しく読み取るのなら、イエスには、 司祭という身分を創る意図も、カトリック教会が創ったような階層制度 を設ける意志も、絶対になかったという結論に至る。カトリックのヒエ ラルキーは、その時代のユダヤ教会をかなり忠実に模倣したものだ。 イエスは、一人ひとりが神と繋がっていると教え、司祭を介してのみ 神と交信できるという誤った考えを覆しに来たのだ。 実際、イエスは、公の説教のかなりの部分で、ユダヤ聖職者たちに応 酬している。イエスのやることの全てが彼らを逆なですることだったので、聖職者たちはイエスを手強い競争相手だと見なしたのだが、それは 誤りではなかった。

 イエスは、次のメッセージを形を変えて何度となく くりかえしたからだ。 「聞きなさい。彼らは神の仲介者などではない。なぜなら、適切な霊 的援助を差し伸べることよりも、君たちを犠牲にして経済力を失わない ことの方に一生懸命だ。馬鹿げた法律で君たちを混乱させてしまったが、 そんなものは必要ない。天の国に入るために唯一必要とされることは、 愛すことだ」 このメッセージが聖職者階層の目に留まり、人びとが覚醒してしまえ ば自分の仕事がなくなってしまうと考えて、イエスを殺してしまったの だ。

*カトリック教会は、なぜそれほどユダヤ教に似てしまったのでしょう。

 最初はそうではなかった。なぜなら、キリスト教徒は、初めはユダヤ 人、後にはローマ人から絶えず迫害され、常に危険に身がさらされてい たので、イエスの愛の教えの信奉者となるには、大変な覚悟が必要だっ たからだ。 しかし権力者たちは、私益に有害な思想の支持者を抹殺しようとした にも関わらず、信徒が増え続けるのを見て、「敵をやっつけられないの なら、取り込んでしまえ」という戦略に切り替えたのだ。

 全ローマ帝国をキリスト教に改宗すると布告したコンスタンティヌス 皇帝以後は、多くの者が信仰によってではなく、キリスト教徒にさせら れた。そして、大半が強いられたものであったために、全てを台なしに した。隣人愛は、そこでおしまいになったのだ。 それ以前の宗教の高位神官と信者たちは鞍替えをし、何の霊的改変も ないままキリスト教に移り、重要な職に就き始めるようになった。宗教 の元最高神官が、キリスト教の一信者で我慢するなどとは、君たちでも 思わないだろう。彼らは、権力の持ち分を維持したかったのだ。そこで、 神官の帽子を、教会の司教の帽子に変えたのだ。

 いや、実は帽子でさえ も変えはしなかった。法王と司教のかぶるミトラさえ、別の宗教に由来 しているのだ。ミトラと呼ばれるのは、ローマ人が崇めていた神々の一 つ、ミトラへの古代信仰の神官たちがかぶっていた物だからだ。 キリスト教にはそれ以前の宗教儀式が沢山取り入れられ、元来の隣人 愛のメッセージは、それに反する概念で侵されてしまった。カトリック 教会とは、このようにして生まれたのだ。神と金とに兼ね仕えることは できない、とイエスは言っただろうが、カトリック教会は、二千余年も 前のユダヤ教会のように、ほぼ最初からお金の方に加勢したのだ。 

 

*でしたら、法王の絶対的権威と地上における神の代表という...

 もちろん全て嘘だ。法王も普通の人間と同じように間違えることがあ る。法王と霊界との繋がりは、他の人のものと比べて何も特別なもので はない。 高次の霊性との繋がりは、無条件の愛を努力することによって段々と 強くなるもので、どれほど立派な肩書きを授けられようと、それで繋が りが深まる訳ではない。

*では、どこからそんな考えになったのですか。

 先に言った通り、教会の首長自身がそう言っている。通常それは、権 力や富への野望にそそのかされた行為を、誰にも見破られないように正 当化するための手段なのだ。 救済には彼らが不可欠だ、と人びとに確信させることができれば、教 区民を犠牲にして、誰にも咎められずに暮らせる筈だからだ。「神の任 命した者たち」に従わなければ「永遠の罰」だぞ、と言っていつでも脅 すことができた。それは「神の代理人」の命令に従わないのであれば、 という意味で、つまり、彼ら自身のことを指していたのだ。

*悪業を清算するには告白が欠かせず、司祭から免罪されればそれを解 消できる信念に関しては、どうですか。

 霊的に改善する第一歩が、罪悪の自覚であるのは明らかだが、後悔す るだけでは不十分だ。霊界では、「愛の法則」に反する行為は、犯した 罪業を償うことによってのみ、解消可能だからだ。 そしてそれは、我々自身でするしかない。乗り切るための支援を受け るのは構わないが、どれほど高次の者であろうと、誰にもこの仕事を代 わってもらうことができない。 司祭に免罪権を与えているのは、救済されるには教会の代理人が不可 欠なので、経済的に支えてあげなければならない、と人に思わせる戦略 の一部なのだ。 初めに言った通り、霊的な進化は、個人の努力によってのみ達成でき るものであり、高次の存在との「コネ」によるものではないのだ。

*それでは、十字架上で死ぬことで、イエスが人類の罪をあがなったと いう信念と、彼が後に復活したことについてはどうですか。

 これも正しくはない。イエスが霊性進化の道筋を教えにやって来て、 彼の隣人愛の手本に従った者が決定的な変化を遂げたため、宗教上では 「罪」とされた過ちを犯すことがなくその道を真っ直ぐに進んで行けた、というのは本当だ。だがそれで、前世での犯罪行為の償いに対処しなく て済むようになる訳ではない。イエスは誰の罪も払拭した訳ではなく、 各人にそれぞれの罪をどうやってあがなうかを教えたのだ。

 大学入試の途中で、何人かの生徒の先生がやって来て、「私の生徒は 答案用紙を提出しなくてよろしい。全員合格だ。試験官を知っていて合 格にしてもらえるから大丈夫だ」と言ったとしたら、とても不公平だろ う。頑張って勉強して自力で合格できる生徒を退けて、準備不足の生徒 が値しないのに受かってしまえば、それは、各生徒の努力が公平に評価 されていないのだ。良い先生がすべきこととは、生徒がきちんと試験準 備ができるように、尽力することであろう。

 イエスが試みたことはまさにそれで、各転生での霊的な試験に合格で きるように、我々にきちんと準備をさせたかったのだ。霊界には「コネ クション」は存在しないからだ。 我々には、犯した過ちを改める無数の機会が与えられる。だが、それ をすべきなのは我々自身で、イエスや聖母やその他の聖人にすがるべき ではないのだ。

*では、このことをキリスト教徒に納得させられますか。これは、カト リックの教えの主要な教義の一つですよ。

 次の新約聖書のマルコの福音書(10, 35-40)でも同じことを言ってい るよ。 さて、ゼベダイの子のヤコブとヨハネとがイエスのもとに来て言った、 「先生、わたしたちの頼み事を、かなえて下さるようお願いします」 イエスは彼らに「何をして欲しいと、願うのか」と言われた。 彼らは 答えた、「先生が栄光の王座に就くとき、一人をあなたの右に、一人を 左に座らせて下さい」 イエスは言われた、「あなたがたは自分が何を 求めているのか、わかっていない。あなたがたは、わたしが飲む杯を飲 み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」 彼らは「できます とも」と答えた。するとイエスは言われた、「あなたがたは、わたしが 飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けるであろう。しかし、わたし の右、左に座らせることは、わたしが決めることではなく、準備のでき ている者だけに許されるのである」

*でも、「あなたの罪は赦された」と言っていたのは、イエス自身では なかったですか。

  イエスが言いたかったことは、過去に「愛の法則」に反する行為をし ても、永遠に有罪になる訳ではなく、何をしたかを問わず誰でも改悛し、 いつでも好きな時に新しくやり始めるチャンスがあるということだ。

*でも、どうして病人を治した直後にそう言ったのですか。

 イエスが病人の治療をする時は、肉体の毒素のみならず、肉体レベル での病気の原因となるアストラル体の毒素も綺麗にしていたからだ。こ れらは、感情や思考に由来する精神的な毒や、当時は「罪」と呼ばれた、 今生や前世での「愛の法則」への違反行為による毒が蓄積したことが原 因だ。 イエスが手をかざして行った癒しを、日頃の手入れを怠って汚れてし まったじゅうたん(身体)を綺麗にする、掃除機だと考えてみてごらん。 徹底して掃除をしたとしても、人が「汚い」習慣を全く変えようとしな ければ、少し時間が経てば、じゅうたんはまた元のように汚くなってし まう。 実際、イエスに治してもらった後で、内面を改革するようにとの助言 も聞かず、霊的な悪癖を続けたために、再びメンタル体で精神的な毒素 が生じて、それがアストラル体と肉体に転移して、またもや病気になっ てしまった人もいる。

*それでは、病人を治癒して感謝された時に、なぜ「あなたの信仰があ なたを救ったのだ」と言ったのでしょうか。

 それはイエスが、レイキやプラーナ、その他どう呼ぼうと構わないが、 癒しのエネルギーが効果を発揮するには、送り手が上手なだけではなく、 良い受け手も必要なこと、つまり、チャクラを開いてエネルギーを受け る心づもりが要ることを知っていたからだ。 癒しが起こるためには、エネルギーを受ける人が送り手を信頼(信 仰)していなければならない。信頼していないと、チャクラは閉じたま まで、送り手にどんなに能力があろうと、エネルギーは流入しないし、 治療効果も出ないのだ。

*でも、病人が意識不明や重病で、治そうと努力しているのが分からな い場合などには、本人に対してではなく、その家族にそう言っていたよ うですが、これはどういうことでしょうか。

 イエスが、その愛と慈悲の力によって高度な治癒力を持つ高振動のエ ネルギーを伝達できたように、それを信じ必要な人を助けたいと願う者 は、元の波動を「反響させる者」となって、エネルギーを高める力があるからだ。その場合は、彼ら自身も、癒しのエネルギーを流すパイプと なるのだ。 それと同じように、否定的な思いや懐疑心があるために、治癒エネル ギーが周囲に上手く伝わることの邪魔をしてしまう人たちもいる。イエ スや彼の教えを信じなかった人の事例は沢山ある。そのような場合には、 イエスがいつものように病人に手をかざしても、癒しはほとんど見られ なかった。このような状況は、福音書自体にも記載されている。 

 そしてイエスは郷里に行き、会堂で人びとを教えられたところ、彼ら は驚いて言った、「この人は、こんな知恵と不思議な力を、どこで習っ てきたのか」 他の者は言った、「この人は大工のヨセフの子ではない か。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダで はないか。またその姉妹たちもみな、まだここで暮らしているではない か。ならば、なぜこんなに多くを知り、奇跡を起こせるのだろうか」 こうして人びとは、イエスの教えを認めようとしなかった。 しかし、 イエスは言われた、「預言者はどこででも尊敬されるが、自分の郷里と 家族の間では敬われない」 そしてイエスは、彼らの不信仰のゆえに、 そこでは多くの奇跡をなさらなかった。(マタイ 13, 54-58)

*ついでですので、復活についても話して下さい。

 いいだろう。これについては非常に混乱をきたしているので、なるべ く分かり易く説明しようと思う。イエスの復活について言われている多 くは、完全に間違っている。 復活という言葉を、肉体の死後にも魂が存続することだと理解するの なら、それは正しい。だが、死後も生き続けるという事態は、何も特別 なことではない。魂が生き残ったのは、何もイエスが最初ではないし、 もう充分話した筈だが、これは宇宙の法則であるので、いつもずっと起 きていたことだった。 しかし、魂が存続するには必ず身体が必要があり、しかも生存中と同 じ身体でなければならない、というような信仰は全て、正しくはないの だ。

*キリスト教会の分派の中には、生命は肉体がなければ成り立たないと 信じ、肉体の死後の魂の生を認めないものもありますが、それについて はどう思われますか。

 肉体の死後、魂が、置き残した身体に戻るまでずっと眠った状態にあ り続ける、ということは正しくない。これが、蘇りに関する信仰の誤り の一つだ。肉体の死が生じた時点から体が腐敗し始め、しまいには消滅するということは、明白ではないのだろうか? 物質界に戻る日がやって 来た時に、何世紀も前になくなった肉体に戻れるのだと、どうしてそう 信じることができるのだろうか? 亡くなった魂は転生によって肉体生に戻るのだ、と説明する方が、簡 単ではなかろうか? つまり、昨日まで地上に生きた魂は、明日には新し く生まれ出る子どもとなって帰って来る、ということだ。 したがって、自然な物質の分解過程で失われた肉体を魔法で再構成し て、死者が肉体生に戻る、というのは誤った信仰なのだ。 亡くなった者は絶えず物質界に戻っているのだが、自然の法則を侵す ことなく、新しい子どもとして誕生することで、そうしているのだ。 魂や霊が生き続けるために肉体が必要だ、というのも正しくない。魂 は、再び物質界に転生するまで、ずっと眠った状態でいるのではなく、 すでに話した通りに、物質から解放されて、霊界で各自の暮らしと進化 の工程を続けるのだ。 イエスが死後に復活した、という場合には、彼の肉体が再び生を得た のではなく、彼の魂が生き続けたことを意味しているのだ。

*でも信者であれば、「福音書には“イエスはラサロを蘇らせ”ラサロ はその体でしばらく生き永らえたと書いてある」、と言うことでしょう。 これは、「肉体の蘇生」を証明するものではありませんか。  

 イエスはラサロを蘇らせたのではなく、ラサロが実際にはまだ死んで いなかったのだ。本当のところは、イエスは彼の意識を蘇らせたのであ り、これは君たちにとっては何の不思議でもない。 今日では心肺蘇生の技術で、臨床的に死んだと見なされる人を、医師 が「蘇らせる」ことが可能だ。遺体安置所に何時間も放置された後で、 死んだと思われていた人が突然目を覚まして生き返った、という特異な ケースを耳にしたことがないのかい? それというのも、心肺停止が起こっても、一瞬で肉体から離れる訳で はないのだ。そうでなければ、心臓蘇生など不可能だろう。

 魂の離脱のプロセスは、物質への執着心や肉体自体の生命力によって、 ある程度の時間を要するものだが、銀の臍の緒が完全に切れるまでには、 最低二・三日はかかるものだ。イエスがエネルギーの力でラサロを蘇生 させたとしたら、それは単に、ラサロが肉体との分離プロセスをまだ完 了していなかったからで、現在の医師と同じように、彼を生き返らすこ とができたのである。

 

*でも、イエスの死後三日目に親族たちが墓に行くと、彼の体がなくな っていたではありませんか。

 君たちの場合はそうはならないが、イエスのケースは特別で、魂が肉 体との最後の絆を断ち切ると、非常に振動の強いアストラル体が分離し たために、肉体が瞬時のうちに分解し、それで遺体が墓の中で見つから なかったのだ。この解体の工程が、遺体を覆っていた布に、体跡を残す こととなった。だから、遺体が墓の中になかったからといって、イエス が生存中と同じ肉体で生き続けたということにはならない。

*でしたら、聖骸布とそこに見出された姿形は本物なのですか。

 そういうことだ。

*ではなぜ、炭素14法年代測定の結果が、その時代と一致しないのです か。

 その件に関して言えるのは、年代測定の手順において不確かなことを 確実視してしまっていて、それで年代が一致しない、ということだけだ。 でもこれでは、話が脱線してしまう。聖骸布が本当に、死後にイエスの 肉体を覆った布であったか否かというのは、彼の肉体が皆のように時間 をかけてゆっくり分解または腐敗したかどうかということのように、私 たちが話していることとは関係がないのだ。これらは、イエスを受胎し た時に聖母マリアが処女であったかどうかということのように、霊的な 教えとは無関係だ。 君たちは奇異に思える出来事は良く覚えているが、それらは霊的な観 点からは実のないもので、イエスが布教した真に重要なことに意識を向 けるのを忘れてしまったのだ。

*では、イエスはどのようにして使徒の前に現れたのですか。

 死後、本 当に彼らの前に出現したのだとしたらですが。 死後、一緒に暮らした使徒や他の人たちの前に現れた時には、生存中 に使用した肉体を伴ったのではなく、アストラル体で顕れたのだ。多く の死者が、亡くなった場所やお棺の中に動かない肉体を置いたまま、愛 する人の枕元にお別れをしに顕れるのと同じだ。 というのも、アストラル体は特別な状況下では「凝縮する」のであり、 肉体とほとんど同じ形に固まることも可能なのだ。しかも、イエスのよ うな能力を持つ魂を相手にした場合にはなお更なのだが、これは、君た ちが「超常現象」と呼び、多くの研究家に知られる現象だ

 

*「最後の時には死者が復活する」という類の予言は、何か意味がある のですか。

 すでに亡くなった人の魂は、転生によって絶えず物質界に戻って来て いるのだ。つまり、復活するために「最後の時」と呼ばれるような時代 を待ちはしないのだ。人類が物的な惑星に存在する以上、魂の輪廻転生 というプロセスは絶えず作動し続けるだろう。 ただ、本当に言えることは、現在は人口爆発により、歴史上の他の時 代よりも大量の魂が同時に生まれ変わっているということだ。こうして サイクルの終了時に合わせて、こうした魂も進化の最も重要な時期に転 生する機会を得るのだ。これが「最後の時には死者が復活する」という 一文を解釈し得る唯一のものだ。

*それでは、原罪に対する信仰はどうですか。つまり、人類の先祖だと される者(アダムとエバ)が罪を犯したので、子孫がその行為の結果を 償わねばならないということですが。

 それについては、例を示して答えるとしよう。 ある男が銀行を襲い、逃亡時に車にはねられ死亡したとしよう。彼を 裁くことが不可能なので、裁判官が強盗犯の息子に父親の罪を償わせる 決断をし、親の代わりに監獄に入れようとしたとする。君たちは、この ような決断を下した裁判官を公平だと見なすのだろうか?

*もちろん公平だとは思いませんよ。それに、文明化した国ならどこの 裁判所だって、そんな決断はしないと思いますよ。

 

 人間の正義観から見て、父親の罪を息子に着せるのが異常なのなら、 どうして神の裁きが人間のもの以下になり得るのだろうか? 霊界では、各自が自分の行為に責任を取らねばならず、他者のしたこ とには問われない。したがって、原罪や先祖から「継承した」罪などの 信念は不公正なもので、何の根拠も存在しない。

*それでは、先祖から受け継いだ罪という信念は、何に基づいているの ですか。

 確かなことは、各人が自身の行為に責任を取らねばならないことで、 それは過去生のものであるかもしれないので、先祖の中に過去に転生し ていた自分自身がいた可能性はある。 これが、そのような信念を正しく解釈し得る唯一のもので、転生の存 在を認めることで、初めて理解することができる。

 

*性が罪深く、性関係を慎む者がその他よりも清純で高潔だと信じるの は誤りだ、とも言われましたよね。

 その通りだ。司祭であろうと僧侶や修道士であろうと、宗教家たちに 貞潔を誓わせたそのような概念を、どこから引き出して来たのか知りた いものだ。

*イエスが示した手本によるのだと思いますが。

 君たちはイエスに性関係がなかったと断言できるほど、イエスの私生 活を知らないではないか! 性関係を自制すれば神に近づいたりより純潔 になれるなどと、イエスが公言したことは一度もない。 たとえ本当であっても、全人類が生涯にわたって性関係を控える決意 をしたとしたら、百二十年以内にこの地球から人間の命は絶えてしまう であろう! 「生めよふやせよ」ということと矛盾してしまう、と思わん かね? もし君たちが、性関係以外の増殖法を知っているとしたら、お教 え願いたいものだ。過去の時代には、試験管で受精させるなど不可能だ ったのだよ!

*あなたのお話から、性関係はいつも繁殖のためでなければならないと 理解するべきでしょうか。

 もちろん違う。もうそれについては充分話しただろうに。進歩した魂 にとっては、性関係は親密な愛の表現方法だ。 それと全く異なるのは、性欲を満たすために、あらゆる手段を用いて 自由意志が侵害される場合だ。特に女性や子どもといった最も弱い者が 性商売(売春や小児性犯罪のことだ)に従事させられたり、君たちの世 界では良くあることだが、実際には愛してもいないのに愛していると言 ったりして、セックスのために、あらゆる方法で人を操り嘘をつく場合 だ。

 イエスはこのようなことを全て、告発したのだ。その時代には女性は、 性も含めた全ての面において、奴隷に毛が生えた程度に見なされ、実質 的には何の権利も持っていなかったのだよ。男どもは、誰にも文句を言 われずに好き放題で、女性は、男性の権力の乱用を、宗教の加護にすが って耐えねばならなかった。たとえば、離縁され、他に生き延びる手段 がないために、売春を強いられた。 イエスは女性の権利を守るために、大いに闘った。女性を性奴隷と見 なすことを止めさせ、彼女たちを咎める者を叱責し、その惨めな状況は 男性のせいなのだと分からせようとした。しかし、教会がそれら全てを、 性を卑しむ抗弁にすり変えてしまったのだ。

 

*教会は、イエスの母親の聖母マリアを例に挙げて、純潔と貞潔を掲げ てきたのではないですか。

 イエスの受胎については一旦置いておくが、マリアは大半の女性がそ うであるように、伴侶であるヨセフと性関係を持ち始めるまでが処女で あった。ヨセフとは複数の息子と娘を得たのだが、彼らはイエスの兄弟 に当たる。 特筆すべきなのは、これがキリスト教徒の福音書に記載されており、 著者たちがイエスに兄弟がいたことを多くの者のように問題視せず、現 在の教会のようにそれを隠そうともしなかった点だ。

 マリアに他にも子 どもがいて、彼らに名と姓があったことは、福音書の様々な節(マルコ 6, 3; マタイ 13,55; マタイ 12, 46-47; ルカ 8,19-20)に反映されている。 幾つか例を示してみよう。 イエスがまだ群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちとが、イ エスに話そうと思って外に立っていた。それで、ある人がイエスに言っ た、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟がたが、あなたに話そうと思 って、外に立っておられます」 「マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセフ、シモンとユダの兄弟ではない か。またその姉妹たちも、ここに私たちと一緒にいるではないか」 他の者は言った、「この人は大工のヨセフの子ではないか。母はマリ ヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。ま たその姉妹たちもみな、まだここで暮らしているではないか。ならば、 なぜこんなに多くを知り、奇跡を起こせるのだろうか」 福音書の著者が、イエスに兄弟がいたことを何も問題とせず、恥ずか しがらずにそれを記載しているのに、なぜその後継者たちが問題視する のだろうか?

*今生での行いで未来が永久的に決定され、悪者や異教徒には永遠の処 罰と地獄が待ち受け、キリスト教徒と信者のみが救われて永遠の栄光を 手にする、という信心についてはどのようなご意見ですか。

 それに関しては、魂の「進化の法則」と霊界でどのように物事が作用 するかについて説明した時に、時間をかけて広く話した筈だ。 だが、まだ充分明らかでないのなら、もう一度くりかえそう。実に全 ての魂は不死であり、魂の目標は、霊性進化のより高次の段階に達することだ。したがって、宗教的・政治的信心や人種やその他の資質を問わ ずどんな人間でも、進化の計画から締め出される者は一人もいない。

 す なわち、神やイエスや教会などを信じようが信じまいが、または人間的 には大失敗であろうと、不死だという性質や、霊的に改善できる可能性 を失うことなど絶対にない。よって、誰にとっても死は存在しないし、 永遠に罰せられることもない。 それに、皆の魂の過去を一人ひとりじっくり回顧したならば、過去生 のどれかで、誰もが殺人者や人食い人種、またはその両方であったと分 かるのだ。もし今、それを異常だと思うのであれば、それは霊的に成長 できたからであり、自分の能力を試すためにくりかえし転生したことで、 犯した誤ちを修正する無数の機会を得たからである。もし、改悛の機会 がなくただ一度の人生の行いで、将来が未来永劫にわたって決められる のなら、「地獄」はもう満杯で入れる者などいないだろうし、「天国」 はサハラ砂漠よりも閑散としていることだろう。

*それでは、司祭の前での最期の告解が罪を緩和すると考えられている ことに関しては...

 肉体を離脱した後の魂の行方は、生存中の行為でのみ決まるのだが、 進化し改善する機会はいつでもあるので、そう決意した瞬間から「救わ れる」チャンスがある。だが、それは一朝一夕にはなされず、魂の心底 からの変化を伴うものなので、反省し自覚して、否定的な態度を修正す る時間が必要となる。 また、霊的な負債や「愛の法則」に反する行為を清算するためには、 自分の罪業を修復しなければならず、これには強い意志と時間とが必要 とされる。 このことから、司祭によって最期の瞬間に免罪されても、肉体の死後 の魂の行方を変えることにはならないだろうと推察できるだろう。

*しつこくて申し訳ないですが、キリスト教徒と信者のみが救われると いう信心に関しては、イエス自身が「わたしを信じる者には永遠の命が 与えられる」と言って、救済されるのは信奉者だという信仰のきっかけ を作ったのではないですか。

 イエスはそういう意味で言ったのではない。 彼は、各人に霊的な変革を起こさせる秘訣を教え、命は永遠であり、 それぞれが自らの運命の創作家であることを自覚させたのだ。現在の言 葉に置き換えるのなら、「わたしの言うことと教えを信じる者は、命が永遠であることと、『救済』(進化)は本人次第で、その人自身が自ら の運命の担い手であることを自覚できるだろう」となる。

*では、キリストの信徒だけが永遠の命を手にするという信心は、何に 由来するのでしょう。

 イエスが言ったことが誤って解釈されてしまったためと、教会がさら にそれに、「教会の外に救いはない」と付け加えて改変してしまったた めだ。 この場合ではキリスト教徒のことだが、一般的に、特定の宗派の信者 のみが救われるという信仰は、その宗派の首長自身の考えに過ぎず、信 徒の忠誠を確保するために利用される謳い文句の一つに過ぎない。 もっと証拠が欲しいのかね?「教会の外に救いはない」というのはラ テン語では “extra Ecclesiam nulla salus” と言うのだが、これは、イエス が地上に現れてから千余年も経った、1215-1216年に開催された第4回 ラテラン公会議で、聖キプリアヌスが最初に発言したことを、教義に取 り入れたものなのだ。

*でも、カトリックの信者の多くが、そう確信している筈ですよ。つま り、キリスト教徒だけが永遠の命を手にできるのであり、善い信者であ り救済されるためには、教会の規則に従わなくてはならない、というこ とですが。

 いいかね、カトリック教会や他の多くの宗教が、善人とは従順である ことに等しい、と君たちに信じ込ませたのだ。特に、教会の規則に従順 になることだと思い込ませ、意のままに信者を扱えるようにしたのだ。 しかし、慈悲深いのと従順なのとは全く異なることだ。規則に従順で、 社会的に表面上は情け深い人であっても、個人的には我欲に完全支配さ れた真の「悪魔」であるかもしれないのだ。

 規則や儀式をひどく愛好し たのに隣人を全く愛そうとしなかったパリサイ人を、イエス自身も「白 く塗った墓」と評し、そういう偽善を批判した。 反対に、正直者で偽善を嫌う善人なのに、決められた規則に従わない がために、人から良く思われない者も沢山いる。そういう正直で誠実な 人がいると、そうでない者との違いが歴然となるので、危険で蔑むべき だと見なされるのだ。

 ここにイエスの手本がある。イエスはユダヤ教会の権威者の命令には 従順ではなく、勇敢で、自己の霊的な信念に首尾一貫していた。自分の 考えを公に布教すれば山ほど問題を引き起こすと知っていたが、暴力を 用いず真実と愛の力で、彼を黙らせようとした輩に立ち向かったのだ。 多くの人もこれに追随した。 歴史上には、支配者に「従順」でなかったために、ローマの競技場で ライオンに貪られたり、異端や黒魔術の宣告を受けて焚き火で焼かれる など、死に至る拷問を受けた正直者や善人の事例は山ほどある。

 しかし それでも、彼らは、自由で愛すことができたのだから、幸せ者だと見な されるべきだ。進化の劣った同胞から苦しめられたので、きっとそれに 見合う償いを受けたであろう。 奴隷のような規則に従い、心と感受性を抑圧し、苦々しい無意味な人 生を送って自己を嫌悪し、その上宗教に洗脳されて、不毛な苦悩自体が 善人にさせてくれるのだ、という幻覚を信じる者の状況の方が、ずっと 悲惨だ。内面では、自由で本当に幸せな者を羨んでいるのだ。中には嫉 妬により、他者の罪悪感を弄んで、嫌な思いをさせようとする者もいる。 罪悪感を利用することは、意志放棄をさせるために教会が良く使った手 口なので、彼らも充分心得ているのだ。

*罪悪感を弄ぶ、とはどういう意味でしょう。

自分の不快感を他人のせいにする、ということだ。

*弄ばれる人を助けるためにはどうしたらいいでしょうか。

 その人は最初に、その問題、つまり信条とする観念によって自分の意 志と感情が実質的に失われてしまったこと、を自覚する必要がある。 これは、それ自体がもう凄い進歩だ。それというのも、普通はこのよ うな人は、自分が他者より上だと思っていて、自分の宗派で信用のない 人の言うことなどを聞こうとしないからだ。それは、教会が、規則に従 わない者は「罪人」で信じてはならない悪い仲間だと、思い込ませたせ いでもある。 次に、内面を見つめる努力をし始める必要がある。

 本当にしたいと思 ってすることは何か、したいのに規則で禁じられてしないことは何か、 したくないのに規則に強いられてすることは何か、などを自覚すること から始める。 その次のステップは、自由意志という自己の意志力を行使し始めるこ とだ。つまり、定められた規則に逆らう必要があろうと、自分の気持ち に従って行動し始めるのだ。 

 

*これまでの長い説明からは、全ての宗教は茶番であり、神の御心など 全く反映されていない、と結論づけるべきでしょうか。

 そこまで極端なのは良くない。 宗教の問題は、霊的に高次な教えを幾つか取り入れてはいても、全て を「神の御言葉」だと、一連の信念や規則をパッケージのように、論拠 のないまま教義として受容することを信者に要請することだ。 そこには思考の自由も、本当に心に響くことを選ぶ自由も、自分にと って嘘や的外れなことを除外する自由も、何を信じ何を信じないかを選 択する自由もない。 宗教の指導者たちは、随分長い間、隣人愛などの高次の教えを呼び水 として、人を惹き付けてきた。

 魂の成長を阻む、その他の馬鹿げた付け 足しの規則には、関心がない人がいたからだ。信徒になり、教会の権力 者の叱責を怖れて、「神の御言葉」だとされるものを問いただす勇気の ないまま、自称「神の代理人」に導かれてゆくと、少しずつ自分の意志 を放棄するようになり、いつしか古書の規則に従って生きるようになる のだ。 だが、それらの規則は、自己体験に充分な意味づけと満足のゆく答え を与えてくれるには時代遅れなので、信者はコルセットをきつく締めら れて、自由な自己表現を阻まれてしまう。意志を放棄をすると、神の御 言葉の代弁者として勝手に立候補した者の意のままになるので、狂信に 向かって進むのだ。

 現存するほとんど全ての宗教・哲学・イデオロギーには、嘘に混じっ て真実がある。自分の心が真実だと見なし進化に役立ちそうなものを、 こっちから少し、あっちからも少し、と選び取って、自分自身の真実を 見つけていくことは、各人の仕事なのだ。


*困難な状況にいる時に、生身の人間を信頼して助言がもらえないので あれば、その方法にはリスクがありはしませんか。

 霊的な真相の広い知識を有し、多くの転生と内面改善の努力によって 愛の能力をさらに発達させたために、霊性において他者を導いて助言で きる人が君たちの中にいることは確かだ。でも、それらの人は仰々しい やり方を取らない。司教や聖人だなどと自分で名乗ったりはしないし、 特別な衣装をまとうこともない。 彼らは表面的には普通の生活を送っているが、内面を改善したいとい う強い意志と、他者を助けたいという強い思いがある。自己顕示も目立 ちもせずに、無私で行動し、手本となって教える。そして彼らとの比較によって、道徳性がそれほど高くないことが明らかになってしまった者 たちからの、多大な侮辱と中傷とに耐えなくてはならないのだ。

 霊的世界からの影響は、無神論者であろうと不可知論者であろうと別 の宗派の信者であろうと、君たち全員の一人ひとりに感じ取られるもの だ。だが、自分自身で決断するようにと、それはとても精妙になされる のだ。先ず一人ひとりが、それぞれの最良のガイドである良心の声を聴 き、それから進みたい道を選び取るのだ

 

(P222~P237)

 

(作者あとがきをご覧ください)

https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。



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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~イエスの地上での使命 part 1

2019-09-25 01:15:30 | 魂の法則

 

 https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~イエスの地上での使命

part 1   P202~P222

(P202~P222)

イエスの地上での使命 part 1


*イエスが言ったとされる言葉と関連させて物事を説明されることがあ ることに気づきましたが、どうしてそうするのですか。

 その場を借りて、ついでに君のもう一つの質問にも答えようとしてい るのだ。ナザレのイエスの真相について知りたいと思っていたのは、君 ではなかったかね?

*そんなことも知っているのですか。

もちろんだ。

*この話が出たので、ナザレのイエスについて、聞きたいことを言いま す。彼が本当のところ誰だったのか、地上での使命があったのだとした ら、それが何だったのか知りたいのです。

  良かろう。生まれてから二千年も経つのに、彼のメッセージはまだ正 しく理解されてはいないのだ。

*どういう意味ですか。

 彼の死後、あたかも彼のものであるかのように、無数の付け足しが盛 り込まれていって、携えられた教えの本来の意味が徐々に歪めてられて しまったのだ。 イエスの使命を理解するには、彼が言ったように、「麦粒」と「麦 殻」、つまり真実と偽りとを区別する必要があるのだ。

*それで、彼の任務は何だったのですか。何をしに来たのですか。

 霊的進化の道を教えに来た。「魂の法則」を教えに来たのだ。 中でも「愛の法則」の伝道に力を注ぎ、「汝の隣人を自分のごとく愛 しなさい、汝の敵を愛しなさい」という無条件の愛のメッセージをもた らした。

*ナザレのイエスは、神自身の生まれ変わりだったのですか、それとも 神の子だったのですか。

ナザレのイエスは、非常に進化した魂が転生したものだった。

*では、神の生まれ変わりではなかったのですね。

 そう、神の生まれ変わりではなかった。だが彼は、自分が神であるな どとは、一度も言ったことがなかった。そう断定したのは、イエスの後 にやって来た、別の者たちだ。

*少なくとも、神の子ではあったのですね。

 そう、君たちと同じように真の神の子だ。違いと言えば、彼はそれを 自覚していたが、その他の人たちには自覚がない、ということだけだ。

*それなら、イエスはそれほど超自然的でも神聖な存在でもなく、僕た ちのようにただの人間だったのですか。

 君たちのように正真正銘の人間だったが、もっと高度に進化していた。 進化することで段々と神に近づけると理解するなら、イエスは君たちよ りも神に近かったと言えよう。

*でしたら、僕たちも進化すれば、イエスが転生した時の進化レベルに 到達できるのでしょうか。

 そうだ。しかも、同じレベルに限らず、もっとずっと高いレベルに達 することも可能だ。霊的進化の工程は、止まるところがないのだ。 だが、それがただ一度の肉体生では無理なのは明らかだ。イエスと同 じ域に至るには、君たちも多数の転生をして、無数の体験をする必要が あろう。それに、君たちがそこに達する頃には、イエスも他の全ての魂 と同じように進化を続けているので、さらに高いレベルに進んでいるで あろう。

*イエスも進化するために、輪廻のサイクルを経験しなければならなか った、とほのめかしているのですか。それは、かつては僕たちのように 全くの未熟者だった、という意味ですか。

 そう示唆しているのではなく、断定しているのだ。イエスも君たちと 同じように、物的界での経験を通して改善せねばならなかった。そして、 自分の意志力と個人的な努力によって、地上で果たした任務を遂行する 上で求められた進化のレベルに至ったのだ。 君たちはイエスが行ったことに強い衝撃を受けたが、それをほとんど 理解することができなかった。

*イエスは、進化を続けるために、肉体に宿って十字架上で死ぬ必要が あったのでしょうか。

 いや、すでに何のカルマも負債も背負っていなかったので、その必要 はなかった。あれほど酷な最期を迎える必要もなく、自己進化を継続で きたであろう。だが、それがどんな影響をもたらすかを知っていたので、 好んでそうしたのだ。 イエスが偉大なのは、カトリック教会があれほど強調してきたように、 十字架にかかって死んだことではない。もしもそれがイエスの功績なの だとしたら、その時代にはそれが罪人の処刑法だったので、同じ形で死 んだ何十万人の人びとにも、功績を認めなければならないだろう。 イエスの最大の功績は、携えてきた愛のメッセージを布教した果敢さ と勇気にあるのだ。そうすることで、多大な苦悩や死さえも被ることを 知っていたにも関わらず、誰の脅しにも屈せず、自分の考えを変えるこ とがなかった。

*では、何のためにそうしたのですか。

 後進の同胞への愛のためだ。イエスのように無条件の愛を知った魂は、 償いの必要性のためではなく、遂行せねばならぬ任務のために行動する のだ。通常それは、どのように愛をもって生きるかの手本を示すことと 関係している。 魂は、ある段階からは、愛だけを動機として行動する。多くの魂が、 発展の遅れた世界への転生を希望し、後輩を支援して愛に生きることで、 もっと速く幸福に到達できるようにする。 この場合に遭遇するネガティブな状況は、贖罪のためではなく、霊的 に劣った世界自体に元来備わっているものだ。だが彼らは、苦痛も死も 怖れていないので、そのような苦悩を味わうことや殺されることすらい とわない。高次に進化しているので、死が存在しないことを知っており、 肉体の命は魂の命のほんの一瞬に過ぎない、と分かっているのだ。

*では、劣った世界に転生する高次の魂が、学ぶためにではなく、教え るためにだけやって来るのだとしたら、その人生では余り進化できない のでしょうね。

 いや、そうではなく、人生のいかなる試練からも学び取ることができ るので、教えるためだけではなく学ぶためにもやって来るのだ。そして、 自己の愛と理解の度量を常に試されることになるので、自分と同等レベ ルの世界にいるよりも、速く進化できるようになるのだ。 さらに、愛に満ちた環境では露呈せず、極限状況でなければ表面化し ないような、奥深く隠れた自分の欠点を浮き立たせてくれる。こうして、 欠点を改善する機会が得られるので、我欲を除去する面で前進できるの だ。 

 

*イエスの話に戻りますが、彼はどこからも援助を受けずに、独りで仕 事をしたのですか。

 人が愛に突き動かされて尽くす時には、さらに進化した霊的存在から の影響を受けるにふさわしくなる。イエスの場合は、その中でもロゴ ス・キリストに影響された。

*ロゴス・キリストとは誰ですか。

君たちの惑星の進化の最高責任者となる霊的な存在だ。

*でしたら、聖なる三位一体の三人とは、神とキリストとイエスなので すか。

 それは分からない。そう言い出した人たちでさえ、それが何を意味し ているのか知りはしないと思うからだ。 断言できるのは、神が唯一であることと、キリストとイエスが、神と は異なる別々の存在であることだ。それゆえ、彼らは神でも神の顕現で もないが、御心と調和しているので、神の代理人とか神の使者、などと 捉えることは可能だろう。つまり、彼らは「愛の法則」を遵守する者で、 進化の計画に自主的に参加しているのだ。

*キリストはイエスを通してどのように行動したのですか。

 イエスはある時点から人生の最後の数年間は、ロゴス・キリストにイ ンスピレーションを与えられ、励まされて、行動した。実際、イエスが 任務を完了できるためには、その必要があったのだ。

*でしたら、話していたのはイエスですか、それともキリストですか。

 二人で行動していたと言っておこう。キリストから閃きを与えられて、 イエスが話していたのだ。だが、イエスは決して自分の意識や個別性を 失わなかったし、自由意志を失いもしなかった。

*イエスは、地上に再び生まれ変わるでしょうか。

 キリストは必要とあらば、人間の進化段階にいる魂を転生させて、い つでもそれに顕現するだろう。イエスの前にもそうしたことはあるし、 地球の霊的進化が求めるなら、今後も再び、そうするであろう。転生す るのがイエスであるか、別の似たような進化程度の者であるかは重要で はない。 予め言っておけるのは、新たな救世主・預言者・アバターなどとして 生まれ変わる際には、キリスト教徒が待ち望むように、茨の冠に十字架 を背負ったナザレ人としてではないし、釘で血にまみれた手もしてはい ないということだ。

 外見的には、普通の人であろうが、通常の域を超え る、愛と霊的叡智の能力を備えていることだろう。だがそれは、隣人愛 のメッセージと霊性進化と同調できる者にしか感知されないのだ。 またイエスが現代に転生した場合に、最初に彼を攻撃して布教させま いとあらゆる手段を講じるのは、イエスを旗印にしている教会そのもの のお偉いさん方だろう。なぜなら、彼の教えが地球の人類の心に浸透し てしまえば、彼らが宗教的貴族でいられる日々も数えるほどとなり、凡 人に帰してしまうからだ。

*イエスについて最初に話された時に、彼の本来のメッセージには多く の付け加えがされて、伝えたかったことを歪めてしまった、と言われま したね。当初の教えと、後世の追加事項とを、どう見分けるのですか。

 ごく単純に、「魂の法則」に反する信念はどれもイエスの教えではな い、ということになる。イエスはこれらの法則を熟知しており、聞く耳 を持つ者に伝達しようとしたのだ。

*イエスの真の教えの中で、最も大切なものを幾つか挙げていただけま すか。

もちろんだ。

1.全ての人間は、人種を問わず、性別や宗教を問わず、同じ本質であ る。

 すなわち、皆、進化途上の魂であり、それゆえ、兄弟である。 この根本的な教えは、以下の金言に収められている。 「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのであ る」(ルカ 8,21) 「誰でも天におられるわたしの父の御心を行なう者が、わたしの兄弟、 姉妹、また母である」(マタイ 12,50) このことから、魂の進化の工程から除外される者など一人もいないこ とが分かる。どんなに酷い罪業を犯したにせよ、決して見捨てられはせ ず、永遠に有罪とされることもない。改悛して、真の幸福に到達する機 会はいつでもあるのだ。そしてこれは、福音書でも次のように表明され ている。 「もしある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、 九十九匹を山に残しておいて、迷った羊を捜しに行かないだろうか。そ してもし見つけられたなら、その人は、迷わずにいた九十九匹のことよ

りも、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が 一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ 18,12-14)

2.魂の生命は永遠であり、死は存在しない。

 「 体を殺しても、魂を殺し得ぬ者どもを、恐れるな」(マタイ 10, 28) 「天に昇った者はいないが、天から降りてきた者はいる」(ヨハネ 3,13) 二番目の節の意味については、前にすでに話している。これは、出産 を経て物理的に生まれ変わる全ての人は、霊界(天)からやって来て、 肉体の死後はそこに戻るという意味だ。

3.地上の人間の務めは、無条件に愛すことを学び、我欲から解放され ることだ。

 魂がどれだけ成長したかは、愛の力量だけで量られる。愛が 我々を進化させる、つまり、神へと近づけるのである。 「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われ ている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者の ために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。天の父 は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない 者にも、雨を降らして下さるからだ。だから、あなたがたの天の父が完 全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」 (マタイ 5, 43 – 48) 「わたしの戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 15,12)

4.霊的進化は、自分自身の努力にかかっている。

人間の死後の運命は、 生存中の「愛の法則」に基づいた行為、あるいは反した行為によっての み、決定される。

「しかし、真理を行なう者は、光の方に来る」(ヨハネ 3, 21)

 「まことに言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、みな天に おいてもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれ るであろう」(マタイ 18, 18)

5.各人は、それぞれ神との独自の繋がりがあるので、仲介者に依存し て霊界と交信すべきではない。

「そこで、あなたがたに言うが、祈って求めるものは何でも、すでに 叶えられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう。また 祈るとき、誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうす れば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦して下さ るだろう」(マルコ 11, 24-25) 「そしてこれが、神に対する私たちの確信だ。すなわち、何事でも神 の御心にかなう願いをするのなら、神はそれを聞きいれて下さるという ことだ」(ヨハネによる第一の手紙5章14節) 「そこで、あなたがたに言う。求めよ、さらば与えられん。捜せよ、さ らば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求める者は得、捜す 者は見出し、門を叩く者には開かれるであろう。...このように、あ なたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い物を与えることを 知っているのだ。とすれば、あなたがたの天の父はなおのこと、どうし て求める者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ 11, 9-13)

6.魂の成長は、ただ一度の肉体生では終わらず、高度な霊性を獲得す るには、多数の転生が必要となる。

 イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰 でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモ は言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができる のですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょう か」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水 と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生 れる者は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新し く生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思う には及ばない。(...)天に上った者はいないが、天から下った者は いる」(ヨハネ 3, 3-13) 

 

7.「霊的裁きの法則」または原因-結果の法則。自分がまいたものを 収穫する。

「人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁く通り に、あなたがたも裁かれ、あなたがたが量る通りに、あなたがたも量ら れるからだ」(マタイ 7,1-2) 「だから、何事でも人びとからして欲しいと望むことは、人びとにも その通りにせよ」(マタイ 7,12) 8.この他にも人が住んでいる世界はあり、ここと同じ目的がある。す なわち、霊性進化の学校として役立つことだ。 「わたしの父の家には、住まいがたくさんある。もしなかったならば、 そうあなたがたに言っておいたであろう」(ヨハネ 14, 2)

*イエスの発言に言及する時に、どうして福音書を引用するのですか。

 福音書に収集されたものに限定されずに、イエスの教えを説明する方 が、私にとっては簡単だ。だがそうしても、イエスが語ったものだと君 たちが認めないであろうから、文献に記載されている彼の言葉を使用す ることに留めるのだ。そうすれば、私が勝手に創作しているのではない ことが、君たちにも分かるだろう。

*霊的な観点からは真実ではなく、イエスの死後に付け加えられたキリ スト教の信念を、幾つか挙げていただけますか。

沢山あるが、霊的進歩に一番悪い影響を及ぼす、最も重要なものを挙 げてみよう。

1)宗教儀式の執り行いに道義的・精神的な何らかの価値があり、死後 に天国での特権的地位の確保に役立つという信心。

2)聖書や他の聖典が神の御言葉であるという信念。

3)教会や聖職者が、地上における神の仲介者だと信じること。

4)悪業を清算するには、告白が必要であり、司祭から免罪されれば解 消されると信じること。

5)最期に後悔すれば罪があがなわれる、という信念。

6)イエスは十字架上で死ぬことで、人類の罪をあがなったと信じるこ と。

7)原罪への信念。

8)性が何か罪深いものだと信じること。 

9)ただ一度の人生で、魂の行く末が永遠に決められる(救われる者に は永遠の天国と栄光が約束され、罪人には永遠の地獄と罰が待ち受け る)と信じること。

10)キリスト教徒と信者だけが救われるという信念。

11)肉体の蘇りを信じること。

*元々のイエスの教えにはこれらの信念がなかった理由を、一点一点、 説明下さいますか。

よし、そうしてみるとしよう。これらの信念に、どうして「魂の法 則」と矛盾する点があるのか、一つずつ順番に説明してみよう。

*最初のものから始めましょう。霊的視点からは、儀式や聖礼には何の 有効性もないと言われましたね。

その通りだ。

*それは、どうしてですか。

霊道に、近道などないのだ。我々を霊的に進化させる、すなわち「救 済する」唯一のものは、自己改善であり、我欲を手放し愛の能力を成長 させることだ。それ以外にはない。

*でも多くの人が、それを最も重要な事柄の一つだと信じていますよ。

自分自身を騙しているか、そのように騙されたいのだ。

*では、救済には儀式が不可欠である、という信念は、何に由来するの ですか。

  様々な教会の指導者たちが、人びとの霊性を監督し、私益に利用しよ うとしてきたからだ。「我々の言うことを聞けば、善人にならずとも、 天国で優遇してやる」、と要請するようなものなのだ。

*でも教会は、善い人にならなくてもいい、などとは言ってませんよ。その上で、戒律も守るようにと、要求しているだけではないですか。

 言葉ではそう言っていないのだろうが、既成事実がそう言っているの だ。 儀式や聖礼や式典 ―派手であれば派手であるほど良い― に従うように あれほど強調するにも関わらず、隣人の支援に力を入れていないのなら、 そう言っているのと同然なのだ。

*それなら、宗教に儀式があるのは、良くないことでしょうか。 

  人びとの霊性進化を操作したり逸脱させるために、儀式を利用するの は、良くないことだ。必要ないのに、どうして儀式を行い続けねばなら ないのだ?

*霊的なメッセージを喚起させる手段として、設けられたのではないで しょうか。

 だが歴史を見ても、儀式や象徴は、メッセージを喚起するために役に 立つ代わりに、代弁していた筈のメッセージ自体に置き換わってしまう ことが多い。そして、それらの儀式や象徴を楯に取り、従うべき信仰に はことごとく反するという、さらに大きな過ちを犯してしまうのだ。 その一例が、十字軍と宗教裁判だ。胸元に目立つ大きな十字の印を付 けた服を着た人たちによる、大量虐殺や殺人だ。彼らは毎日、聖体を受 けていたのだが、手には聖書を握ったまま、死の宣告を行ったのだ。隣 人に対する愛の教えは、一体どこに見出せるのだろうか?

*でも、聖餐式のように、イエス自身によって伝達された儀式もありま せんか。

 いいや、そうではない。イエスが、自分が処刑されるまでに時間が残 されていないと悟り、別れの晩餐に弟子たちを集めたことは本当だ。だ が彼は、聖餐の儀式だけでなく、その他のいかなる儀式・式典・聖礼も 確立しようなどと考えてはいなかった。 さらに言えば、たとえ象徴的であろうと、キリストの肉体や血を口に するのは、カニバリズムを連想させ、イエスはそれと何の関係もない。

*では、聖餐式の儀式は何に由来するのですか。

 それ以前からの宗教儀式が、キリスト教に組み込まれたのだ。実際の ところ、そういう式典は全て、イエスの使徒を指すキリスト教徒の名称 や彼らを象徴する十字の印と共に、後世に導入されたものなのだ。

*でしたら、十字の印もイエスに由来しないのですか。

十字架というものは、イエスの時代には、今の電気椅子と同じように、 人を処刑するために用いられていたのだよ。正常な判断力があれば、自 分の信仰の象徴に十字を使おう、と思いつく者など誰一人としていなか ったろう。イエスが現代に生まれ電気椅子で処刑されていたとしたら、 ペンダントとして電気椅子をぶら下げようとする者がいないのと同じこ とだ。

*このようなお話はかなりショッキングで、キリスト教徒やカトリック 信者には、なかなか受け容れられないのではないかと思います。

 そうかもしれないが、それが真実だ。またこの場では、霊的な真相に 目を開くように、努めているのだ。 イエスの地上での任務が、霊性進化の道を示すことであったと思い出 してごらん。あの時代の宗教組織は、多くの迷信と偽りで人びとを怖れ させ、自らの富と権力への願望を満たすために神の名を利用して、長き にわたって、人びとの霊的な成長を阻止してきたのだ。複雑な儀式制度 で気を逸らし、自分たちの思いのままにお金を巻き上げることに利用し、 人びとを犠牲にして、派手な暮らしをしていたのだ。そして、イエスが その事実を明白にしたので、彼を殺したのだ。

 当時のユダヤ教会は、イエスの人物像を利用して教えを操り、人類の 霊的な成長を阻んで生き永らえてきた今日の教会の姿と、非常によく似 ていたのだ。もういい加減に、きちんと正されるべきだろう。

*儀式に反対なさるあなたの論拠はどれも大変結構なのですが、キリス ト教徒からすると、聖書に記載されていないことは...

それなら、マルコの福音書の第12章(29-34節)を調べてごらん。そ こには、ほぼ同じ教えが収められている。 彼らが論じ合っているのを聞き、一人の律法学者がやって来て、イエ スが巧みに答えられたのを認めて、彼に質問した、「すべての戒めの中 で、どれが第一のものですか」 イエスは答えられた、「第一の戒めは これである、『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の 主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主 なるあなたの神を愛せよ』第二はこれである、『自分を愛するようにあ なたの隣人を愛せよ』この二つより大事な戒めは、他にない」 そこで、 律法学者はイエスに言った、「先生、仰せの通りです、『神はひとりで あって、その他に神はない』また『心をつくし、知恵をつくし、力をつ くして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということ は、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」 イエスは、 彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くな い」

*第二点目では、聖書や他の聖典が神の御言葉である、と信じることは 間違いだと言われましたね。

そうだ。

*では、聖書が神の言葉でないのであれば、何だとお思いになっている のですか。

  旧約聖書は何冊かの本がまとまったもので、イスラエルの歴史の一部 が収められているが、指導者たちの征服欲を正当化し、それが「神の意 志」であったと見せかけるために都合がいい修正がされている。 また、平均よりも霊的に進化した存在、つまり預言者たちのかなり正 しい教えも記載されているが、それはすでに、宗教的な信仰が狂信的に 操作されていることを警告しており、真の霊性とはいかなるものかを垣 間見ることができる。

 一方、新約聖書は、イエスの生涯で最も特出した事実、特に最後の数 年間の公での説教、に関する口頭伝承を収録しようと試みたものだ。イ エスが伝えようとした教えを部分的に収めた「福音書」と、以後の使徒 たちの生活「言行録」と、人類の未来に関する著者の一連のヴィジョン を集めた「黙示録」とから成る。

*「文書」に関して余り良い心象がないようですが、論拠を裏付けする ために、折に触れ、新約聖書の文言を引用されていますね。

 全てが偽りだとは言っていない。各々の事柄はそれぞれ正しく評価さ れるべきだ。 山上での説教のようなイエスの公での宣教を著わした章句や喩え話の 多くは、イエスが言ったことをかなり忠実に再現している。それで、私 は引用しているのだ。 イエスが演説に比喩を用いたのは、偶然ではなかったのだよ。そうす ることで、教会に不都合であった多くの部分が改変されてしまうことか ら救ったのだ。人には比喩の意味が良く理解できなかったので、教会の 検閲に引っかからずに済んだのだ。

*例を挙げて下さいますか。

 たとえば、輪廻転生の概念は、新約聖書の二つの章に巧みに収録され ている。初めのヨハネの三章は、もう見た通り、イエスとニコドモの会 話の中でだ。 イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰 でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモは 言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができるの ですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水と聖霊 とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者 は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生ま れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及 ばない。(...)天に上った者はいないが、天から下った者はいる」 (ヨハネ 3, 3-13) 二つ目は、マタイの17章、10-13節だ。

 そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った、「いったい律法学者た ちが、エリヤが先に来るはずだと言っているのは、どうしてですか」 イエスは答えて言われた、「確かに、エリヤが先に来て、万事を元どお り直すのだ。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たの だ。ところが人びとは彼を認めず、彼に好き勝手なことをしたのだ。人 の子もまた、彼らから同じように苦しみを受けることになろう」 その とき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟っ た。

*それなら、聖書自体を読んだり、聖典とされるもの全般を読むことに 関しては、どんな姿勢でいるべきですか。

 いいかね、全ての宗教には、神、または神の使者の手によるとされる 聖典があるのだ。そうしなければ、自分たちの神聖を正当化できないか らだ。 だが、霊的に進化している者や高次の霊に感化されて書かれた可能性 があるものが存在していることは確かだが、現実的には、君たちと同じ ような人間によって書かれたものなのだ。 いずれせよ、著者の名前には惑わされず、常に内容を吟味してみるこ とが、騙されないための一番良い方法だ。

 メッセージの質を見れば、作 者の霊的レベルが分かるであろう。 また、一人の著者のものだとされていても、同じ書物が何人もの手に よることもあるのだ。千余年にもわたって原本が偽造・改変されてきて、 聖なる仲介者だと勝手に名乗り挙げる者の利益となってきたのだ。それ ゆえ、ある段落は霊的に進化した者によって書かれたが、その次のもの は詐欺師の手によるということもあり、偉大な真実のすぐ脇に大嘘が書 かれている可能性もある。そして真実は、徹底的に中味を分析して、 「麦殻」を捨て「麦粒」だけを集めることによってのみ、知る得ること ができるのだ。 

 *地球には多くの宗教がありますが、その多くが一神教で、かなり厳し い戒律を設けています。権威者によるとそれは神の意志だそうですが、 それをどう思われますか。

 魂の「自由意志の法則」を尊重せず、権力者の見解による教義を押し つけて成り立つ学説や宗教は全て本物とは言えないし、神や高次の霊性 からの恩寵だと見なすこともできない。したがって、これらの宗教の権 威者たちを、真の霊道の導き手だとは見なせない。なぜなら、霊性の指 導者は、絶対に力を行使したり操ろうとすることがなく、特定の掟を強 要することもないからだ。

*地上の宗教は、神の意志を代弁してはいないので、本物ではないと言 われるのですか。

 全ての宗教には、高次の存在から閃きを得た真実の一部と、多くの虚 偽とがあるのだが、後者は、地上の利益に左右された者たちが付け加え たのだ。

*例を示して下さいますか。

 よろしい。たとえば、旧約聖書の中の十戒はかなり的を得た規律であ り、霊的に進化した存在の教えに忠実だ。 十戒の一つに「汝殺すなかれ」がある。それなのに同じ旧約聖書の中 には、神と称する者が、仮定上の「約束の地」を征服するために、イス ラエルの民を他民族の攻撃に派遣するくだりがあるのだ。 当然だが、このような戦闘では、人びとはお互いに戦って人を殺す羽 目になるのだ。つまり、そのくだりが本当であるなら、神が民に「殺 せ」と命じたのだと推測できるのである。その場合、この(殺せとい う)メッセージは、最初の「殺すなかれ」と矛盾する。

 それでは、この明らかな逆説をどう解決すべきだろうか? 神が矛盾し たことを言ったのだろうか。でも、けた外れに進化した存在に、それは 認めがたいであろう。それなら、二つの指示はそれぞれ異なる動機を持 った別々の者に由来するのだ、と認める必要があるのではなかろうか。 では、「殺すな」というメッセージと、「殺せ」というメッセージと では、どちらが常識的に見て、霊的に進化したものだと言えるだろうか。

*僕にとっては、「殺すな」の方ですが。

この教えが高次の霊性からであることを認めるのであれば、その反対 のものは、同じ源から生じてはいないのだ。

*では、どこで生まれたのでしょう。

侵略に興味があった者たちによるのだ。

*でも、それは過去の事例ですから。

 現在でも同じことがくりかえされているのだよ。 表向きは熱心な神の信奉徒とされ、いつも「神のご加護がありますよ う」という言葉で演説を終わらせているのに、自国民を他国の侵略に派 遣するのをいとわないリーダーが、現在の地球には沢山いやしないだろ うか?何百万もの死者を出し、何百万もの家庭を何世代にもわたって破 壊しているのに、聖書の詩篇や「神を信じる」・「神は我々と共に!」 などの言葉を、自分たちの行為を正当化するために利用してはいないだ ろうか?

 はっきり言っておこう。 神や高次の霊性を持つ存在は、紛争の一方の 側を味方することはないし、いかなる侵略も征服も支持することはない のだ。もしそうするのであれば、神自身が、宇宙に設けた諸法則の一つ の「愛の法則」を侵すことになるからだ。 前述のような人たちは、ユダヤ教徒やキリスト教徒が守るべきだとさ れる「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒律を侵しているの だ。それなのに、あたかも神が、神の子を蹂躙することに同意したかの ごとく、その名を利用して、自分たちの非道を正当化しようとしている のだ。これが、神の名をみだりに唱えるということで、一部の者が思っ ているように、俗っぽい話の中で「神」という言葉を使用することでは ない。

*それでは、神によって選ばれた民ということについてはどうですか。

 神に優先される民族や人間など存在しない。神や高次の霊性は、他の 者を虐げて特定の民族や人種と特別に結びつくことなどはせず、全ての 人に進化の計画を推し進めるように呼びかけるのであり、それに協力し たいかどうかを決めるのは、各魂である。もちろん、神の法則に従うよ うにと、誰にも強いられることはない。 望みとあれば、各人の意志と能力に応じて、個人や集団での人類の進 化計画で、具体的な役割を果たす約束をすることが可能だ。これが、魂 の選択なのである。 ゆえに「選ばれし者」とは、自分の内面を高次の霊性に開き、「愛の 法則」に従った人生を送る約束をした者に過ぎず、それによって、自分 を成長させるだけでなく、まだこの呼びかけに心を許していない者の手 本となるのである。 

*そのように、霊的な世界からの呼びかけに心を開く人たちは、神秘主 義者や預言者と関係があるのでしょうか。

 霊界との直接的な交信は、ごく一部の人たちだけの特権ではないのだ よ。すでに言ったことだが、全員が個々に、神や高次の霊性や自分のガ イドとの直接的な繋がりを持っていて、それぞれが独自の方法で、それ を体験していくのだ。 大切なのは、誠実に謙虚にコンタクトを求めるということと、魂を成 長させるという目的が、探求の動機づけであることだ。もしそうであれ ば、各人に、それぞれが必要としているものが与えられるであろう。

 体 験の華々しさが重要なのではなく、その経験を、欠点を正当化するため にではなく、愛における進歩のために役立てることが大切なのだ。 不幸なことに、「アセンデッドマスター」やその手の重要な人物だと 思われたいという欲望から、自己暗示による経験を本物だと思い込み、 他の人を騙してしまうような人が沢山いる。また、本当の霊的な交信を した後で、その経験を、自己進化や他者の援助に活かす代わりに、偉ぶ って、自分は優れていると思い込み、他者に神のごとく扱われることを 要求する人もいる。

 自分をどう改善するかを追求するよりも、他者の称賛を求めてしまう のは、虚栄心からの欠点だ。残念だが、これは君たちの世界ではごく頻 繁に見られる現象だ。

*預言者とは何ですか。

 預言者とは、霊界の真実を教え、「愛の法則」に反する行為がもたら す結果を各時代の人びとに忠告するために、高次の霊性から送られて来 る者である。一般的に、転生する惑星の平均よりも進歩した魂だが、そ うでなければ、委託された使命を遂行することができないからだ。 他者を助けると同時に、自己を進化させることができるのだが、それ は一般的には、生まれ出た社会から拒否や拒絶をされ、虐げられたり罵 倒されれたり馬鹿にされたりするからで、そのために、自己の愛の力量 が試されるからである。

 彼らは、通常考えられているように、特別で神 聖な特権を持つ存在などではない。 その霊能力は、輪廻のサイクルの中で ―他世界での転生であったかも しれないが― 自分自身の功績によって獲得されたものだ。あらかた、年 下の生徒を手助けする年上の生徒といったところだが、それと異なるの は、他の人と同じ条件で転生して来るので、肉体的にも年齢からも、彼 らを識別できない点だ。

  いつか、君たちの惑星の住人が充分に進化を遂げる日が来たら、その 中から、進化の遅い人類が住む世界で預言者の役目を果たす者が出るこ とだろう。

*でも、偉大な師匠だと思われていた人が、後から、実は詐欺師で、人 びとの純粋さにつけ込んで大金を貯え込んでいた、と発覚することがよ くありませんか。

 その通りなのだ。多くの者が猫をかぶっているのだ。 だがその一方で、初めは良く、いい線を行っていたので、必要な霊的 援助が与えられた、という者も沢山いる。問題は、その者たちが、人び とに与える効果に目が眩んでしまうことだ。 本当に答えを探し求めている人は、内面を覚醒してくれる人に出会う と、その人にとても感謝して、それを大げさに表現しようとするものだ。 そのため本人も、本当は霊的知識の光を届けているだけの筈なのに、自 分自身がまぶしく輝いているのだと勘違いしてしまう。人びとも間違っ て、その人を神のように奉り始める。 我欲とその顕現形態をまだよく知らず、自分でも克服の努力をしない のであれば、我欲は増大し、自分が全ての者に勝ると思い込むに至るだ ろう。

 そして、他者に奉仕する代わりに、その反対となってしまう。道 義上の家来か奴隷のように仕えてくれることを人に要求し、どんな決断 や願望であっても決して問い正さずに、盲目的に自分に追従することを 求める。 こうして、光は段々と消えて行き、最初の思いは失われ、インスピレ ーションもなくなるのだ。霊的な閃きが消えると、我欲が頭脳を支配し 始め、その時から、受け取るメッセージは混乱し、矛盾したものとなる。 そして、本物になり得たであろうことは、守りきれずに失われてしまっ たものの混沌とした記憶として残り、我欲の高揚を正当化する多くの嘘 で固められるのだ。

*真の預言者と詐欺師とを、どのように見分けるのですか。つまり、真 の預言者・ガイド・霊的な使者に必要とされる条件とは何ですか。

 肉体を持たない霊的なガイドは、何の分け隔てもせずに、全ての魂を 支援する。真の霊性というものには、国境も経済格差も、人種や宗教や その他のいかなる違いも存在しない。それゆえ、富める者と貧しき者、 白人と黒人、信者と非信者とを差別しない。これらの違いは、一時的な 条件や状況に過ぎず、転生から転生で変化するものだからだ。 霊的な教えを普及するにふさわしいと自認する者は、それと同じやり 方で行動しなければならない。肉体を持つ真の霊的指導者は、「魂の法則」に従い、目立たず謙虚に生きようとし、何の見返りもなく、他者を 援助し啓発しようとしている。

 それゆえ、霊的な真実らしきものを公開することで、金銭的な、また はその他の代償を貰おうとする者たちは、全て、真の霊的な指導者だと は見なせない。「会員だけ」の真実というものは存在しないからだ。 真のマスターは、自由意志を尊重する。 

 つまり、絶対に自己の見解を 押しつけず、自分が手本となって宣教し、提供するものを受け取るか取 らないかは、他者の自由に任せるのだ。したがい、権力主義に訴えて正 当化することはなく、絶対に「俺の言う通りにしろ。俺はマスターで、 悟りを得た神の使者だぞ」などと言ったりしない。 心を開いた者を説得するには、メッセージの質が高いだけで充分だ。 それに関心を持たず説得できない人たちがいても、彼らにはそうして独 自の道を歩む自由意志があるのだ。好きでもないものを信じたり同意し たりを、義務づけられることも強要されることもない。

*偽マスターや見せかけの霊性に引っかからないための助言があります か。

 どんなに高次に思える宗教や政治・哲学的思想であろうと、その信仰 のために、絶対に君たちの意志を放棄してはならない。信仰のために意 志の放棄が求められるのであれば、そうするには値しないものだ、と確 信しなさい。 伝達者を偶像化せずに、メッセージを分析なさい。メッセージに納得 できなければ、疑問を表明し説明を求め、それでもその教えと同調でき なければ、それを拒めば良い。理解できなくても信じることを強要する 信仰のドグマによってでは、一切、何も受け容れるべきではない。

 自分自身の経験・感情・理解・分析によってではなく、神聖だとされ る人がそう言ったから、という不可解な外からの押しつけによって同意 してしまうことは、権力主義に従うだけで、進化のためにも幸せになる ためにも役に立たない。魂は自由でいる時だけが幸せなのだ。 したがって、妄信的な信仰も、霊性を管理し操る社会層も必要ない。 答えは自分の内に探しなさい。君たちの内面は、霊的ガイドや高次の霊 性と直接繋がっているので、思っているよりもずっと賢いのだ。

*でも多くの宗教では、霊との交信は、悪魔のすることだと思われてい て、それをしようとするのは、有害で邪悪なことだと考えられています。 聖書がこのような交信を禁じているとのことですが、聖書が神の言葉で あるのでしたら、神自身がこれを禁止したことになるのでしょうか。こ れについてどう思われますか。

 各人が高次の霊性、それを神や霊的ガイドと呼ぶが、と独自の繋がり を持つことを認識してしまえば、教会権威者たちは、主役の地位と権力 を失うこととなり、そうなれば、信者を気の赴くままに操ることができ なくなってしまう。 彼ら自身が矛盾しているのだ。なぜなら、彼らの聖典を、神から閃き を得た人によって書かれた御言葉なのだと見なすのなら、それは、霊界 と霊的な交信を持ったことになるのだ。しかし、信者にはそれと同様な 交信は許さず、彼らが崇める本を書いた過去の著者だけの特権としてい るのだ。

 イエスや他の進化した預言者は、高次の霊性との接触を求め、そこか らインスピレーションを得て任務を支援してもらった訳だが、それは、 肉体に宿った者が肉体を離脱した魂から助言と支援をしてもらうという、 完全なる霊界との交信なのだ。 霊媒力を非難するのなら、イエス自身をも批判することになってしま う。イエスは、霊界の教えを当時の同胞に伝達するという、大変強力な 霊媒として、活動したのだから。

*その通りですね。でも彼らは、「イエスは神の子だったから、閃きを 与えたのは神自身で単なる霊ではなかった」、と言うことでしょう。

 全てを盲信させて教えを分析することも認めていないのに、二千年以 上も前の預言者にインスピレーションを与えたのが、神か、聖霊か、そ れともサタン自身であったのかが、どうして分かるのだね? 実際、教会権威者たちが御言葉だと崇め奉る旧約聖書を書いた、本物 の預言者の一人が今生まれ変わって、前世の業績を解析したり豊かにす る新たなお告げを書いたとしても、昔のようにそれを公言すれば、権威 者たち自身がその人を嘲り、メッセージを吟味することさえ許さず、そ の人が狂っていて悪魔の類と交信しているのだと思わせようとするだろ う。 だから、常識的に判断しよう。相手の能力を知る唯一の手がかりは、 メッセージの質なのだ。

 現在、メッセージで暴力や戦争や他者を憎むことを奨励している人を、 神の使者だと信じられる者などいるであろうか? 同世代の人をそう認め られないのであれば、どうして、いかに古かろうと、過去の著者を神の 使者だと認めなければならないのだろうか? 過去の作家が特別な存在で あるのは、とても古いためだからだろうか? それなら、神々の代わりに恐竜や鮫や蟻を選ぶとしよう。それらは、古代の作家の誰よりも前に、 この世に出現していたのだから。

 イエスのメッセージが人類にこれほど大きな影響を及ぼしたのは、イ エスがそう言ったからではなく、無条件の愛を示すという教え自体が、 偉大であったからだ。しかしこの世の権力者たちは、布教に歯止めをか けることができなかったために、自分たちの特権や搾取が終焉を迎える ことを恐れ、イエスの人物像と教えを手中にし、その内容を著しく侵し てしまったのだ。そして、元のお告げそのものと矛盾し、イエスが一度 も口にしなかった言葉を、特権と権力を維持するために彼が言ったこと にして、教えと反対のことを我々に信じ込ませることにほぼ成功したの だ。

*キリスト教徒にとっては、イエスは神同然か神の子なのですから、イ エスがすることなら何でもいいのではありませんか。一般人が直接霊と 交信することを、認めるつもりがないのでしょう。

 初期のキリスト教徒の間では、慈善的な霊との交信がごく頻繁に行わ れていた、と知ったら驚くであろう。襲いかかる酷い迫害に耐えること ができるように、彼らはこうして霊界から勇気づけられていたのだ。 初期のキリスト教徒は、愛をもって祈れば、高次の聖霊から応援され て近くに来てもらえることを知っていた。新約聖書自体の使徒言行録の 中にその例があるが、イエス自身が肉体を離脱した後に霊となって、使 徒たちの前に随意に現れたり消えたりしたことがうかがえる。

 それ以後、教会自体がこの種の顕現を敵視した。なぜなら、そこから また愛の種が生まれ、再び人びとの心の中で発芽し、当時の人類が宗教 組織によっておかれていた霊的な闇から解放されてしまうことを怖れた のだ。 イエスは戻って来なかったが、霊界と直接交信ができる非常に高度な 魂たちがやって来て、恵まれない者を癒したり面倒を見たり、多くの善 をなしたのだ。だが、その多くの者は、魔術使いや異端の罪状で、宗教 裁判で火刑とされた。

*でも、悪霊を呼び出すために集まって、他者を支配したり、富や権力 を獲得する能力を授けてくれる魔法の力を得ようとした人たちも実在す るようですが。

 そのような交信は行われていたし、我欲に満ち溢れ富と権力を渇望す る魂がこの世に存在する限り、今後も行われることだろう。だが、そう いう意図で行動すると、同レベルの低級霊の都合のいい餌食にされて、 あらゆる手段で彼らの支配下に置かれてしまい、隷属させられて、もっ と酷いことをさせられてしまう。だから、このような接触は非常に危険 で、全く奨励できないものだ。 しかし、他者に害を与えようとして、霊媒力を使って下級霊と通信す る者がいるからといって、霊媒を介した霊界との交信の全てが有害だ、 と結論づけることはできない。

 それとも、悪意のある目的にインターネ ットを使用する人がいるので、ネット上の全ての通信を政府が禁止する ことが理にかなっているのだろうか? 理論的に考えれば、使用を制限す べきなのは、社会の健全性が狙われる時だけで、全体を禁じてしまう必 要はない。

*でしたら、なぜ世間では、霊との交信がこれほど反対されるのでしょ うか。

 それは、この世の宗教権威者やその他の権力者たちの多くが、人が自 力で神や守護霊と交信することを阻むことによって、支配力を維持して いるからだ。 霊界との接触を怖れさせようと、明確に意図して作成された映画は無 数にある。それらは、ダイアリー・オブ・ザ・デッド(Diary of the Dead)、ポルターガイスト(Poltergeist)、エクソシスト(Exorcist) などの恐怖映画で、全ての交信が恐ろしいものになる、と思い込ませる のだ。 こうして、誰もが怖れによって自分自身を異端視し、直感や夢などで あろうと、霊界からのメッセージかもしれないと思う度にそれを抑圧し たり、誤った解釈をしてしまうのだ。

 

(P202~P222)

 

(作者あとがきをご覧ください)

https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。



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