https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)
「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~イエスの地上での使命
part 1 P202~P222
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(P202~P222)
イエスの地上での使命 part 1
*イエスが言ったとされる言葉と関連させて物事を説明されることがあ ることに気づきましたが、どうしてそうするのですか。
その場を借りて、ついでに君のもう一つの質問にも答えようとしてい るのだ。ナザレのイエスの真相について知りたいと思っていたのは、君 ではなかったかね?
*そんなことも知っているのですか。
もちろんだ。
*この話が出たので、ナザレのイエスについて、聞きたいことを言いま す。彼が本当のところ誰だったのか、地上での使命があったのだとした ら、それが何だったのか知りたいのです。
良かろう。生まれてから二千年も経つのに、彼のメッセージはまだ正 しく理解されてはいないのだ。
*どういう意味ですか。
彼の死後、あたかも彼のものであるかのように、無数の付け足しが盛 り込まれていって、携えられた教えの本来の意味が徐々に歪めてられて しまったのだ。 イエスの使命を理解するには、彼が言ったように、「麦粒」と「麦 殻」、つまり真実と偽りとを区別する必要があるのだ。
*それで、彼の任務は何だったのですか。何をしに来たのですか。
霊的進化の道を教えに来た。「魂の法則」を教えに来たのだ。 中でも「愛の法則」の伝道に力を注ぎ、「汝の隣人を自分のごとく愛 しなさい、汝の敵を愛しなさい」という無条件の愛のメッセージをもた らした。
*ナザレのイエスは、神自身の生まれ変わりだったのですか、それとも 神の子だったのですか。
ナザレのイエスは、非常に進化した魂が転生したものだった。
*では、神の生まれ変わりではなかったのですね。
そう、神の生まれ変わりではなかった。だが彼は、自分が神であるな どとは、一度も言ったことがなかった。そう断定したのは、イエスの後 にやって来た、別の者たちだ。
*少なくとも、神の子ではあったのですね。
そう、君たちと同じように真の神の子だ。違いと言えば、彼はそれを 自覚していたが、その他の人たちには自覚がない、ということだけだ。
*それなら、イエスはそれほど超自然的でも神聖な存在でもなく、僕た ちのようにただの人間だったのですか。
君たちのように正真正銘の人間だったが、もっと高度に進化していた。 進化することで段々と神に近づけると理解するなら、イエスは君たちよ りも神に近かったと言えよう。
*でしたら、僕たちも進化すれば、イエスが転生した時の進化レベルに 到達できるのでしょうか。
そうだ。しかも、同じレベルに限らず、もっとずっと高いレベルに達 することも可能だ。霊的進化の工程は、止まるところがないのだ。 だが、それがただ一度の肉体生では無理なのは明らかだ。イエスと同 じ域に至るには、君たちも多数の転生をして、無数の体験をする必要が あろう。それに、君たちがそこに達する頃には、イエスも他の全ての魂 と同じように進化を続けているので、さらに高いレベルに進んでいるで あろう。
*イエスも進化するために、輪廻のサイクルを経験しなければならなか った、とほのめかしているのですか。それは、かつては僕たちのように 全くの未熟者だった、という意味ですか。
そう示唆しているのではなく、断定しているのだ。イエスも君たちと 同じように、物的界での経験を通して改善せねばならなかった。そして、 自分の意志力と個人的な努力によって、地上で果たした任務を遂行する 上で求められた進化のレベルに至ったのだ。 君たちはイエスが行ったことに強い衝撃を受けたが、それをほとんど 理解することができなかった。
*イエスは、進化を続けるために、肉体に宿って十字架上で死ぬ必要が あったのでしょうか。
いや、すでに何のカルマも負債も背負っていなかったので、その必要 はなかった。あれほど酷な最期を迎える必要もなく、自己進化を継続で きたであろう。だが、それがどんな影響をもたらすかを知っていたので、 好んでそうしたのだ。 イエスが偉大なのは、カトリック教会があれほど強調してきたように、 十字架にかかって死んだことではない。もしもそれがイエスの功績なの だとしたら、その時代にはそれが罪人の処刑法だったので、同じ形で死 んだ何十万人の人びとにも、功績を認めなければならないだろう。 イエスの最大の功績は、携えてきた愛のメッセージを布教した果敢さ と勇気にあるのだ。そうすることで、多大な苦悩や死さえも被ることを 知っていたにも関わらず、誰の脅しにも屈せず、自分の考えを変えるこ とがなかった。
*では、何のためにそうしたのですか。
後進の同胞への愛のためだ。イエスのように無条件の愛を知った魂は、 償いの必要性のためではなく、遂行せねばならぬ任務のために行動する のだ。通常それは、どのように愛をもって生きるかの手本を示すことと 関係している。 魂は、ある段階からは、愛だけを動機として行動する。多くの魂が、 発展の遅れた世界への転生を希望し、後輩を支援して愛に生きることで、 もっと速く幸福に到達できるようにする。 この場合に遭遇するネガティブな状況は、贖罪のためではなく、霊的 に劣った世界自体に元来備わっているものだ。だが彼らは、苦痛も死も 怖れていないので、そのような苦悩を味わうことや殺されることすらい とわない。高次に進化しているので、死が存在しないことを知っており、 肉体の命は魂の命のほんの一瞬に過ぎない、と分かっているのだ。
*では、劣った世界に転生する高次の魂が、学ぶためにではなく、教え るためにだけやって来るのだとしたら、その人生では余り進化できない のでしょうね。
いや、そうではなく、人生のいかなる試練からも学び取ることができ るので、教えるためだけではなく学ぶためにもやって来るのだ。そして、 自己の愛と理解の度量を常に試されることになるので、自分と同等レベ ルの世界にいるよりも、速く進化できるようになるのだ。 さらに、愛に満ちた環境では露呈せず、極限状況でなければ表面化し ないような、奥深く隠れた自分の欠点を浮き立たせてくれる。こうして、 欠点を改善する機会が得られるので、我欲を除去する面で前進できるの だ。
*イエスの話に戻りますが、彼はどこからも援助を受けずに、独りで仕 事をしたのですか。
人が愛に突き動かされて尽くす時には、さらに進化した霊的存在から の影響を受けるにふさわしくなる。イエスの場合は、その中でもロゴ ス・キリストに影響された。
*ロゴス・キリストとは誰ですか。
君たちの惑星の進化の最高責任者となる霊的な存在だ。
*でしたら、聖なる三位一体の三人とは、神とキリストとイエスなので すか。
それは分からない。そう言い出した人たちでさえ、それが何を意味し ているのか知りはしないと思うからだ。 断言できるのは、神が唯一であることと、キリストとイエスが、神と は異なる別々の存在であることだ。それゆえ、彼らは神でも神の顕現で もないが、御心と調和しているので、神の代理人とか神の使者、などと 捉えることは可能だろう。つまり、彼らは「愛の法則」を遵守する者で、 進化の計画に自主的に参加しているのだ。
*キリストはイエスを通してどのように行動したのですか。
イエスはある時点から人生の最後の数年間は、ロゴス・キリストにイ ンスピレーションを与えられ、励まされて、行動した。実際、イエスが 任務を完了できるためには、その必要があったのだ。
*でしたら、話していたのはイエスですか、それともキリストですか。
二人で行動していたと言っておこう。キリストから閃きを与えられて、 イエスが話していたのだ。だが、イエスは決して自分の意識や個別性を 失わなかったし、自由意志を失いもしなかった。
*イエスは、地上に再び生まれ変わるでしょうか。
キリストは必要とあらば、人間の進化段階にいる魂を転生させて、い つでもそれに顕現するだろう。イエスの前にもそうしたことはあるし、 地球の霊的進化が求めるなら、今後も再び、そうするであろう。転生す るのがイエスであるか、別の似たような進化程度の者であるかは重要で はない。 予め言っておけるのは、新たな救世主・預言者・アバターなどとして 生まれ変わる際には、キリスト教徒が待ち望むように、茨の冠に十字架 を背負ったナザレ人としてではないし、釘で血にまみれた手もしてはい ないということだ。
外見的には、普通の人であろうが、通常の域を超え る、愛と霊的叡智の能力を備えていることだろう。だがそれは、隣人愛 のメッセージと霊性進化と同調できる者にしか感知されないのだ。 またイエスが現代に転生した場合に、最初に彼を攻撃して布教させま いとあらゆる手段を講じるのは、イエスを旗印にしている教会そのもの のお偉いさん方だろう。なぜなら、彼の教えが地球の人類の心に浸透し てしまえば、彼らが宗教的貴族でいられる日々も数えるほどとなり、凡 人に帰してしまうからだ。
*イエスについて最初に話された時に、彼の本来のメッセージには多く の付け加えがされて、伝えたかったことを歪めてしまった、と言われま したね。当初の教えと、後世の追加事項とを、どう見分けるのですか。
ごく単純に、「魂の法則」に反する信念はどれもイエスの教えではな い、ということになる。イエスはこれらの法則を熟知しており、聞く耳 を持つ者に伝達しようとしたのだ。
*イエスの真の教えの中で、最も大切なものを幾つか挙げていただけま すか。
もちろんだ。
1.全ての人間は、人種を問わず、性別や宗教を問わず、同じ本質であ る。
すなわち、皆、進化途上の魂であり、それゆえ、兄弟である。 この根本的な教えは、以下の金言に収められている。 「神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのであ る」(ルカ 8,21) 「誰でも天におられるわたしの父の御心を行なう者が、わたしの兄弟、 姉妹、また母である」(マタイ 12,50) このことから、魂の進化の工程から除外される者など一人もいないこ とが分かる。どんなに酷い罪業を犯したにせよ、決して見捨てられはせ ず、永遠に有罪とされることもない。改悛して、真の幸福に到達する機 会はいつでもあるのだ。そしてこれは、福音書でも次のように表明され ている。 「もしある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、 九十九匹を山に残しておいて、迷った羊を捜しに行かないだろうか。そ してもし見つけられたなら、その人は、迷わずにいた九十九匹のことよ
りも、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が 一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(マタイ 18,12-14)
2.魂の生命は永遠であり、死は存在しない。
「 体を殺しても、魂を殺し得ぬ者どもを、恐れるな」(マタイ 10, 28) 「天に昇った者はいないが、天から降りてきた者はいる」(ヨハネ 3,13) 二番目の節の意味については、前にすでに話している。これは、出産 を経て物理的に生まれ変わる全ての人は、霊界(天)からやって来て、 肉体の死後はそこに戻るという意味だ。
3.地上の人間の務めは、無条件に愛すことを学び、我欲から解放され ることだ。
魂がどれだけ成長したかは、愛の力量だけで量られる。愛が 我々を進化させる、つまり、神へと近づけるのである。 「あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われ ている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者の ために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。天の父 は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない 者にも、雨を降らして下さるからだ。だから、あなたがたの天の父が完 全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」 (マタイ 5, 43 – 48) 「わたしの戒めは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、 あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 15,12)
4.霊的進化は、自分自身の努力にかかっている。
人間の死後の運命は、 生存中の「愛の法則」に基づいた行為、あるいは反した行為によっての み、決定される。
「しかし、真理を行なう者は、光の方に来る」(ヨハネ 3, 21)
「まことに言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、みな天に おいてもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれ るであろう」(マタイ 18, 18)
5.各人は、それぞれ神との独自の繋がりがあるので、仲介者に依存し て霊界と交信すべきではない。
「そこで、あなたがたに言うが、祈って求めるものは何でも、すでに 叶えられたと信じなさい。そうすれば、その通りになるであろう。また 祈るとき、誰かに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうす れば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦して下さ るだろう」(マルコ 11, 24-25) 「そしてこれが、神に対する私たちの確信だ。すなわち、何事でも神 の御心にかなう願いをするのなら、神はそれを聞きいれて下さるという ことだ」(ヨハネによる第一の手紙5章14節) 「そこで、あなたがたに言う。求めよ、さらば与えられん。捜せよ、さ らば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求める者は得、捜す 者は見出し、門を叩く者には開かれるであろう。...このように、あ なたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い物を与えることを 知っているのだ。とすれば、あなたがたの天の父はなおのこと、どうし て求める者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ 11, 9-13)
6.魂の成長は、ただ一度の肉体生では終わらず、高度な霊性を獲得す るには、多数の転生が必要となる。
イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰 でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモ は言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができる のですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょう か」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水 と聖霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生 れる者は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新し く生まれなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思う には及ばない。(...)天に上った者はいないが、天から下った者は いる」(ヨハネ 3, 3-13)
7.「霊的裁きの法則」または原因-結果の法則。自分がまいたものを 収穫する。
「人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなたがたが裁く通り に、あなたがたも裁かれ、あなたがたが量る通りに、あなたがたも量ら れるからだ」(マタイ 7,1-2) 「だから、何事でも人びとからして欲しいと望むことは、人びとにも その通りにせよ」(マタイ 7,12) 8.この他にも人が住んでいる世界はあり、ここと同じ目的がある。す なわち、霊性進化の学校として役立つことだ。 「わたしの父の家には、住まいがたくさんある。もしなかったならば、 そうあなたがたに言っておいたであろう」(ヨハネ 14, 2)
*イエスの発言に言及する時に、どうして福音書を引用するのですか。
福音書に収集されたものに限定されずに、イエスの教えを説明する方 が、私にとっては簡単だ。だがそうしても、イエスが語ったものだと君 たちが認めないであろうから、文献に記載されている彼の言葉を使用す ることに留めるのだ。そうすれば、私が勝手に創作しているのではない ことが、君たちにも分かるだろう。
*霊的な観点からは真実ではなく、イエスの死後に付け加えられたキリ スト教の信念を、幾つか挙げていただけますか。
沢山あるが、霊的進歩に一番悪い影響を及ぼす、最も重要なものを挙 げてみよう。
1)宗教儀式の執り行いに道義的・精神的な何らかの価値があり、死後 に天国での特権的地位の確保に役立つという信心。
2)聖書や他の聖典が神の御言葉であるという信念。
3)教会や聖職者が、地上における神の仲介者だと信じること。
4)悪業を清算するには、告白が必要であり、司祭から免罪されれば解 消されると信じること。
5)最期に後悔すれば罪があがなわれる、という信念。
6)イエスは十字架上で死ぬことで、人類の罪をあがなったと信じるこ と。
7)原罪への信念。
8)性が何か罪深いものだと信じること。
9)ただ一度の人生で、魂の行く末が永遠に決められる(救われる者に は永遠の天国と栄光が約束され、罪人には永遠の地獄と罰が待ち受け る)と信じること。
10)キリスト教徒と信者だけが救われるという信念。
11)肉体の蘇りを信じること。
*元々のイエスの教えにはこれらの信念がなかった理由を、一点一点、 説明下さいますか。
よし、そうしてみるとしよう。これらの信念に、どうして「魂の法 則」と矛盾する点があるのか、一つずつ順番に説明してみよう。
*最初のものから始めましょう。霊的視点からは、儀式や聖礼には何の 有効性もないと言われましたね。
その通りだ。
*それは、どうしてですか。
霊道に、近道などないのだ。我々を霊的に進化させる、すなわち「救 済する」唯一のものは、自己改善であり、我欲を手放し愛の能力を成長 させることだ。それ以外にはない。
*でも多くの人が、それを最も重要な事柄の一つだと信じていますよ。
自分自身を騙しているか、そのように騙されたいのだ。
*では、救済には儀式が不可欠である、という信念は、何に由来するの ですか。
様々な教会の指導者たちが、人びとの霊性を監督し、私益に利用しよ うとしてきたからだ。「我々の言うことを聞けば、善人にならずとも、 天国で優遇してやる」、と要請するようなものなのだ。
*でも教会は、善い人にならなくてもいい、などとは言ってませんよ。その上で、戒律も守るようにと、要求しているだけではないですか。
言葉ではそう言っていないのだろうが、既成事実がそう言っているの だ。 儀式や聖礼や式典 ―派手であれば派手であるほど良い― に従うように あれほど強調するにも関わらず、隣人の支援に力を入れていないのなら、 そう言っているのと同然なのだ。
*それなら、宗教に儀式があるのは、良くないことでしょうか。
人びとの霊性進化を操作したり逸脱させるために、儀式を利用するの は、良くないことだ。必要ないのに、どうして儀式を行い続けねばなら ないのだ?
*霊的なメッセージを喚起させる手段として、設けられたのではないで しょうか。
だが歴史を見ても、儀式や象徴は、メッセージを喚起するために役に 立つ代わりに、代弁していた筈のメッセージ自体に置き換わってしまう ことが多い。そして、それらの儀式や象徴を楯に取り、従うべき信仰に はことごとく反するという、さらに大きな過ちを犯してしまうのだ。 その一例が、十字軍と宗教裁判だ。胸元に目立つ大きな十字の印を付 けた服を着た人たちによる、大量虐殺や殺人だ。彼らは毎日、聖体を受 けていたのだが、手には聖書を握ったまま、死の宣告を行ったのだ。隣 人に対する愛の教えは、一体どこに見出せるのだろうか?
*でも、聖餐式のように、イエス自身によって伝達された儀式もありま せんか。
いいや、そうではない。イエスが、自分が処刑されるまでに時間が残 されていないと悟り、別れの晩餐に弟子たちを集めたことは本当だ。だ が彼は、聖餐の儀式だけでなく、その他のいかなる儀式・式典・聖礼も 確立しようなどと考えてはいなかった。 さらに言えば、たとえ象徴的であろうと、キリストの肉体や血を口に するのは、カニバリズムを連想させ、イエスはそれと何の関係もない。
*では、聖餐式の儀式は何に由来するのですか。
それ以前からの宗教儀式が、キリスト教に組み込まれたのだ。実際の ところ、そういう式典は全て、イエスの使徒を指すキリスト教徒の名称 や彼らを象徴する十字の印と共に、後世に導入されたものなのだ。
*でしたら、十字の印もイエスに由来しないのですか。
十字架というものは、イエスの時代には、今の電気椅子と同じように、 人を処刑するために用いられていたのだよ。正常な判断力があれば、自 分の信仰の象徴に十字を使おう、と思いつく者など誰一人としていなか ったろう。イエスが現代に生まれ電気椅子で処刑されていたとしたら、 ペンダントとして電気椅子をぶら下げようとする者がいないのと同じこ とだ。
*このようなお話はかなりショッキングで、キリスト教徒やカトリック 信者には、なかなか受け容れられないのではないかと思います。
そうかもしれないが、それが真実だ。またこの場では、霊的な真相に 目を開くように、努めているのだ。 イエスの地上での任務が、霊性進化の道を示すことであったと思い出 してごらん。あの時代の宗教組織は、多くの迷信と偽りで人びとを怖れ させ、自らの富と権力への願望を満たすために神の名を利用して、長き にわたって、人びとの霊的な成長を阻止してきたのだ。複雑な儀式制度 で気を逸らし、自分たちの思いのままにお金を巻き上げることに利用し、 人びとを犠牲にして、派手な暮らしをしていたのだ。そして、イエスが その事実を明白にしたので、彼を殺したのだ。
当時のユダヤ教会は、イエスの人物像を利用して教えを操り、人類の 霊的な成長を阻んで生き永らえてきた今日の教会の姿と、非常によく似 ていたのだ。もういい加減に、きちんと正されるべきだろう。
*儀式に反対なさるあなたの論拠はどれも大変結構なのですが、キリス ト教徒からすると、聖書に記載されていないことは...
それなら、マルコの福音書の第12章(29-34節)を調べてごらん。そ こには、ほぼ同じ教えが収められている。 彼らが論じ合っているのを聞き、一人の律法学者がやって来て、イエ スが巧みに答えられたのを認めて、彼に質問した、「すべての戒めの中 で、どれが第一のものですか」 イエスは答えられた、「第一の戒めは これである、『イスラエルよ、聞け。われらの主なる神は、ただ唯一の 主である。心をつくし、魂をつくし、意志をつくし、力をつくして、主 なるあなたの神を愛せよ』第二はこれである、『自分を愛するようにあ なたの隣人を愛せよ』この二つより大事な戒めは、他にない」 そこで、 律法学者はイエスに言った、「先生、仰せの通りです、『神はひとりで あって、その他に神はない』また『心をつくし、知恵をつくし、力をつ くして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということ は、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」 イエスは、 彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くな い」
*第二点目では、聖書や他の聖典が神の御言葉である、と信じることは 間違いだと言われましたね。
そうだ。
*では、聖書が神の言葉でないのであれば、何だとお思いになっている のですか。
旧約聖書は何冊かの本がまとまったもので、イスラエルの歴史の一部 が収められているが、指導者たちの征服欲を正当化し、それが「神の意 志」であったと見せかけるために都合がいい修正がされている。 また、平均よりも霊的に進化した存在、つまり預言者たちのかなり正 しい教えも記載されているが、それはすでに、宗教的な信仰が狂信的に 操作されていることを警告しており、真の霊性とはいかなるものかを垣 間見ることができる。
一方、新約聖書は、イエスの生涯で最も特出した事実、特に最後の数 年間の公での説教、に関する口頭伝承を収録しようと試みたものだ。イ エスが伝えようとした教えを部分的に収めた「福音書」と、以後の使徒 たちの生活「言行録」と、人類の未来に関する著者の一連のヴィジョン を集めた「黙示録」とから成る。
*「文書」に関して余り良い心象がないようですが、論拠を裏付けする ために、折に触れ、新約聖書の文言を引用されていますね。
全てが偽りだとは言っていない。各々の事柄はそれぞれ正しく評価さ れるべきだ。 山上での説教のようなイエスの公での宣教を著わした章句や喩え話の 多くは、イエスが言ったことをかなり忠実に再現している。それで、私 は引用しているのだ。 イエスが演説に比喩を用いたのは、偶然ではなかったのだよ。そうす ることで、教会に不都合であった多くの部分が改変されてしまうことか ら救ったのだ。人には比喩の意味が良く理解できなかったので、教会の 検閲に引っかからずに済んだのだ。
*例を挙げて下さいますか。
たとえば、輪廻転生の概念は、新約聖書の二つの章に巧みに収録され ている。初めのヨハネの三章は、もう見た通り、イエスとニコドモの会 話の中でだ。 イエスは彼に答えて言った、「よくよくあなたに言っておく。人は誰 でも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」 ニコデモは 言った、「年をとっているのに、人はどうして生まれることができるの ですか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできましょうか」 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。人は、水と聖霊 とから生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生れる者 は肉であり、聖霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生ま れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及 ばない。(...)天に上った者はいないが、天から下った者はいる」 (ヨハネ 3, 3-13) 二つ目は、マタイの17章、10-13節だ。
そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った、「いったい律法学者た ちが、エリヤが先に来るはずだと言っているのは、どうしてですか」 イエスは答えて言われた、「確かに、エリヤが先に来て、万事を元どお り直すのだ。しかし、あなたがたに言っておく。エリヤはすでに来たの だ。ところが人びとは彼を認めず、彼に好き勝手なことをしたのだ。人 の子もまた、彼らから同じように苦しみを受けることになろう」 その とき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟っ た。
*それなら、聖書自体を読んだり、聖典とされるもの全般を読むことに 関しては、どんな姿勢でいるべきですか。
いいかね、全ての宗教には、神、または神の使者の手によるとされる 聖典があるのだ。そうしなければ、自分たちの神聖を正当化できないか らだ。 だが、霊的に進化している者や高次の霊に感化されて書かれた可能性 があるものが存在していることは確かだが、現実的には、君たちと同じ ような人間によって書かれたものなのだ。 いずれせよ、著者の名前には惑わされず、常に内容を吟味してみるこ とが、騙されないための一番良い方法だ。
メッセージの質を見れば、作 者の霊的レベルが分かるであろう。 また、一人の著者のものだとされていても、同じ書物が何人もの手に よることもあるのだ。千余年にもわたって原本が偽造・改変されてきて、 聖なる仲介者だと勝手に名乗り挙げる者の利益となってきたのだ。それ ゆえ、ある段落は霊的に進化した者によって書かれたが、その次のもの は詐欺師の手によるということもあり、偉大な真実のすぐ脇に大嘘が書 かれている可能性もある。そして真実は、徹底的に中味を分析して、 「麦殻」を捨て「麦粒」だけを集めることによってのみ、知る得ること ができるのだ。
*地球には多くの宗教がありますが、その多くが一神教で、かなり厳し い戒律を設けています。権威者によるとそれは神の意志だそうですが、 それをどう思われますか。
魂の「自由意志の法則」を尊重せず、権力者の見解による教義を押し つけて成り立つ学説や宗教は全て本物とは言えないし、神や高次の霊性 からの恩寵だと見なすこともできない。したがって、これらの宗教の権 威者たちを、真の霊道の導き手だとは見なせない。なぜなら、霊性の指 導者は、絶対に力を行使したり操ろうとすることがなく、特定の掟を強 要することもないからだ。
*地上の宗教は、神の意志を代弁してはいないので、本物ではないと言 われるのですか。
全ての宗教には、高次の存在から閃きを得た真実の一部と、多くの虚 偽とがあるのだが、後者は、地上の利益に左右された者たちが付け加え たのだ。
*例を示して下さいますか。
よろしい。たとえば、旧約聖書の中の十戒はかなり的を得た規律であ り、霊的に進化した存在の教えに忠実だ。 十戒の一つに「汝殺すなかれ」がある。それなのに同じ旧約聖書の中 には、神と称する者が、仮定上の「約束の地」を征服するために、イス ラエルの民を他民族の攻撃に派遣するくだりがあるのだ。 当然だが、このような戦闘では、人びとはお互いに戦って人を殺す羽 目になるのだ。つまり、そのくだりが本当であるなら、神が民に「殺 せ」と命じたのだと推測できるのである。その場合、この(殺せとい う)メッセージは、最初の「殺すなかれ」と矛盾する。
それでは、この明らかな逆説をどう解決すべきだろうか? 神が矛盾し たことを言ったのだろうか。でも、けた外れに進化した存在に、それは 認めがたいであろう。それなら、二つの指示はそれぞれ異なる動機を持 った別々の者に由来するのだ、と認める必要があるのではなかろうか。 では、「殺すな」というメッセージと、「殺せ」というメッセージと では、どちらが常識的に見て、霊的に進化したものだと言えるだろうか。
*僕にとっては、「殺すな」の方ですが。
この教えが高次の霊性からであることを認めるのであれば、その反対 のものは、同じ源から生じてはいないのだ。
*では、どこで生まれたのでしょう。
侵略に興味があった者たちによるのだ。
*でも、それは過去の事例ですから。
現在でも同じことがくりかえされているのだよ。 表向きは熱心な神の信奉徒とされ、いつも「神のご加護がありますよ う」という言葉で演説を終わらせているのに、自国民を他国の侵略に派 遣するのをいとわないリーダーが、現在の地球には沢山いやしないだろ うか?何百万もの死者を出し、何百万もの家庭を何世代にもわたって破 壊しているのに、聖書の詩篇や「神を信じる」・「神は我々と共に!」 などの言葉を、自分たちの行為を正当化するために利用してはいないだ ろうか?
はっきり言っておこう。 神や高次の霊性を持つ存在は、紛争の一方の 側を味方することはないし、いかなる侵略も征服も支持することはない のだ。もしそうするのであれば、神自身が、宇宙に設けた諸法則の一つ の「愛の法則」を侵すことになるからだ。 前述のような人たちは、ユダヤ教徒やキリスト教徒が守るべきだとさ れる「主の名をみだりに唱えてはならない」という戒律を侵しているの だ。それなのに、あたかも神が、神の子を蹂躙することに同意したかの ごとく、その名を利用して、自分たちの非道を正当化しようとしている のだ。これが、神の名をみだりに唱えるということで、一部の者が思っ ているように、俗っぽい話の中で「神」という言葉を使用することでは ない。
*それでは、神によって選ばれた民ということについてはどうですか。
神に優先される民族や人間など存在しない。神や高次の霊性は、他の 者を虐げて特定の民族や人種と特別に結びつくことなどはせず、全ての 人に進化の計画を推し進めるように呼びかけるのであり、それに協力し たいかどうかを決めるのは、各魂である。もちろん、神の法則に従うよ うにと、誰にも強いられることはない。 望みとあれば、各人の意志と能力に応じて、個人や集団での人類の進 化計画で、具体的な役割を果たす約束をすることが可能だ。これが、魂 の選択なのである。 ゆえに「選ばれし者」とは、自分の内面を高次の霊性に開き、「愛の 法則」に従った人生を送る約束をした者に過ぎず、それによって、自分 を成長させるだけでなく、まだこの呼びかけに心を許していない者の手 本となるのである。
*そのように、霊的な世界からの呼びかけに心を開く人たちは、神秘主 義者や預言者と関係があるのでしょうか。
霊界との直接的な交信は、ごく一部の人たちだけの特権ではないのだ よ。すでに言ったことだが、全員が個々に、神や高次の霊性や自分のガ イドとの直接的な繋がりを持っていて、それぞれが独自の方法で、それ を体験していくのだ。 大切なのは、誠実に謙虚にコンタクトを求めるということと、魂を成 長させるという目的が、探求の動機づけであることだ。もしそうであれ ば、各人に、それぞれが必要としているものが与えられるであろう。
体 験の華々しさが重要なのではなく、その経験を、欠点を正当化するため にではなく、愛における進歩のために役立てることが大切なのだ。 不幸なことに、「アセンデッドマスター」やその手の重要な人物だと 思われたいという欲望から、自己暗示による経験を本物だと思い込み、 他の人を騙してしまうような人が沢山いる。また、本当の霊的な交信を した後で、その経験を、自己進化や他者の援助に活かす代わりに、偉ぶ って、自分は優れていると思い込み、他者に神のごとく扱われることを 要求する人もいる。
自分をどう改善するかを追求するよりも、他者の称賛を求めてしまう のは、虚栄心からの欠点だ。残念だが、これは君たちの世界ではごく頻 繁に見られる現象だ。
*預言者とは何ですか。
預言者とは、霊界の真実を教え、「愛の法則」に反する行為がもたら す結果を各時代の人びとに忠告するために、高次の霊性から送られて来 る者である。一般的に、転生する惑星の平均よりも進歩した魂だが、そ うでなければ、委託された使命を遂行することができないからだ。 他者を助けると同時に、自己を進化させることができるのだが、それ は一般的には、生まれ出た社会から拒否や拒絶をされ、虐げられたり罵 倒されれたり馬鹿にされたりするからで、そのために、自己の愛の力量 が試されるからである。
彼らは、通常考えられているように、特別で神 聖な特権を持つ存在などではない。 その霊能力は、輪廻のサイクルの中で ―他世界での転生であったかも しれないが― 自分自身の功績によって獲得されたものだ。あらかた、年 下の生徒を手助けする年上の生徒といったところだが、それと異なるの は、他の人と同じ条件で転生して来るので、肉体的にも年齢からも、彼 らを識別できない点だ。
いつか、君たちの惑星の住人が充分に進化を遂げる日が来たら、その 中から、進化の遅い人類が住む世界で預言者の役目を果たす者が出るこ とだろう。
*でも、偉大な師匠だと思われていた人が、後から、実は詐欺師で、人 びとの純粋さにつけ込んで大金を貯え込んでいた、と発覚することがよ くありませんか。
その通りなのだ。多くの者が猫をかぶっているのだ。 だがその一方で、初めは良く、いい線を行っていたので、必要な霊的 援助が与えられた、という者も沢山いる。問題は、その者たちが、人び とに与える効果に目が眩んでしまうことだ。 本当に答えを探し求めている人は、内面を覚醒してくれる人に出会う と、その人にとても感謝して、それを大げさに表現しようとするものだ。 そのため本人も、本当は霊的知識の光を届けているだけの筈なのに、自 分自身がまぶしく輝いているのだと勘違いしてしまう。人びとも間違っ て、その人を神のように奉り始める。 我欲とその顕現形態をまだよく知らず、自分でも克服の努力をしない のであれば、我欲は増大し、自分が全ての者に勝ると思い込むに至るだ ろう。
そして、他者に奉仕する代わりに、その反対となってしまう。道 義上の家来か奴隷のように仕えてくれることを人に要求し、どんな決断 や願望であっても決して問い正さずに、盲目的に自分に追従することを 求める。 こうして、光は段々と消えて行き、最初の思いは失われ、インスピレ ーションもなくなるのだ。霊的な閃きが消えると、我欲が頭脳を支配し 始め、その時から、受け取るメッセージは混乱し、矛盾したものとなる。 そして、本物になり得たであろうことは、守りきれずに失われてしまっ たものの混沌とした記憶として残り、我欲の高揚を正当化する多くの嘘 で固められるのだ。
*真の預言者と詐欺師とを、どのように見分けるのですか。つまり、真 の預言者・ガイド・霊的な使者に必要とされる条件とは何ですか。
肉体を持たない霊的なガイドは、何の分け隔てもせずに、全ての魂を 支援する。真の霊性というものには、国境も経済格差も、人種や宗教や その他のいかなる違いも存在しない。それゆえ、富める者と貧しき者、 白人と黒人、信者と非信者とを差別しない。これらの違いは、一時的な 条件や状況に過ぎず、転生から転生で変化するものだからだ。 霊的な教えを普及するにふさわしいと自認する者は、それと同じやり 方で行動しなければならない。肉体を持つ真の霊的指導者は、「魂の法則」に従い、目立たず謙虚に生きようとし、何の見返りもなく、他者を 援助し啓発しようとしている。
それゆえ、霊的な真実らしきものを公開することで、金銭的な、また はその他の代償を貰おうとする者たちは、全て、真の霊的な指導者だと は見なせない。「会員だけ」の真実というものは存在しないからだ。 真のマスターは、自由意志を尊重する。
つまり、絶対に自己の見解を 押しつけず、自分が手本となって宣教し、提供するものを受け取るか取 らないかは、他者の自由に任せるのだ。したがい、権力主義に訴えて正 当化することはなく、絶対に「俺の言う通りにしろ。俺はマスターで、 悟りを得た神の使者だぞ」などと言ったりしない。 心を開いた者を説得するには、メッセージの質が高いだけで充分だ。 それに関心を持たず説得できない人たちがいても、彼らにはそうして独 自の道を歩む自由意志があるのだ。好きでもないものを信じたり同意し たりを、義務づけられることも強要されることもない。
*偽マスターや見せかけの霊性に引っかからないための助言があります か。
どんなに高次に思える宗教や政治・哲学的思想であろうと、その信仰 のために、絶対に君たちの意志を放棄してはならない。信仰のために意 志の放棄が求められるのであれば、そうするには値しないものだ、と確 信しなさい。 伝達者を偶像化せずに、メッセージを分析なさい。メッセージに納得 できなければ、疑問を表明し説明を求め、それでもその教えと同調でき なければ、それを拒めば良い。理解できなくても信じることを強要する 信仰のドグマによってでは、一切、何も受け容れるべきではない。
自分自身の経験・感情・理解・分析によってではなく、神聖だとされ る人がそう言ったから、という不可解な外からの押しつけによって同意 してしまうことは、権力主義に従うだけで、進化のためにも幸せになる ためにも役に立たない。魂は自由でいる時だけが幸せなのだ。 したがって、妄信的な信仰も、霊性を管理し操る社会層も必要ない。 答えは自分の内に探しなさい。君たちの内面は、霊的ガイドや高次の霊 性と直接繋がっているので、思っているよりもずっと賢いのだ。
*でも多くの宗教では、霊との交信は、悪魔のすることだと思われてい て、それをしようとするのは、有害で邪悪なことだと考えられています。 聖書がこのような交信を禁じているとのことですが、聖書が神の言葉で あるのでしたら、神自身がこれを禁止したことになるのでしょうか。こ れについてどう思われますか。
各人が高次の霊性、それを神や霊的ガイドと呼ぶが、と独自の繋がり を持つことを認識してしまえば、教会権威者たちは、主役の地位と権力 を失うこととなり、そうなれば、信者を気の赴くままに操ることができ なくなってしまう。 彼ら自身が矛盾しているのだ。なぜなら、彼らの聖典を、神から閃き を得た人によって書かれた御言葉なのだと見なすのなら、それは、霊界 と霊的な交信を持ったことになるのだ。しかし、信者にはそれと同様な 交信は許さず、彼らが崇める本を書いた過去の著者だけの特権としてい るのだ。
イエスや他の進化した預言者は、高次の霊性との接触を求め、そこか らインスピレーションを得て任務を支援してもらった訳だが、それは、 肉体に宿った者が肉体を離脱した魂から助言と支援をしてもらうという、 完全なる霊界との交信なのだ。 霊媒力を非難するのなら、イエス自身をも批判することになってしま う。イエスは、霊界の教えを当時の同胞に伝達するという、大変強力な 霊媒として、活動したのだから。
*その通りですね。でも彼らは、「イエスは神の子だったから、閃きを 与えたのは神自身で単なる霊ではなかった」、と言うことでしょう。
全てを盲信させて教えを分析することも認めていないのに、二千年以 上も前の預言者にインスピレーションを与えたのが、神か、聖霊か、そ れともサタン自身であったのかが、どうして分かるのだね? 実際、教会権威者たちが御言葉だと崇め奉る旧約聖書を書いた、本物 の預言者の一人が今生まれ変わって、前世の業績を解析したり豊かにす る新たなお告げを書いたとしても、昔のようにそれを公言すれば、権威 者たち自身がその人を嘲り、メッセージを吟味することさえ許さず、そ の人が狂っていて悪魔の類と交信しているのだと思わせようとするだろ う。 だから、常識的に判断しよう。相手の能力を知る唯一の手がかりは、 メッセージの質なのだ。
現在、メッセージで暴力や戦争や他者を憎むことを奨励している人を、 神の使者だと信じられる者などいるであろうか? 同世代の人をそう認め られないのであれば、どうして、いかに古かろうと、過去の著者を神の 使者だと認めなければならないのだろうか? 過去の作家が特別な存在で あるのは、とても古いためだからだろうか? それなら、神々の代わりに恐竜や鮫や蟻を選ぶとしよう。それらは、古代の作家の誰よりも前に、 この世に出現していたのだから。
イエスのメッセージが人類にこれほど大きな影響を及ぼしたのは、イ エスがそう言ったからではなく、無条件の愛を示すという教え自体が、 偉大であったからだ。しかしこの世の権力者たちは、布教に歯止めをか けることができなかったために、自分たちの特権や搾取が終焉を迎える ことを恐れ、イエスの人物像と教えを手中にし、その内容を著しく侵し てしまったのだ。そして、元のお告げそのものと矛盾し、イエスが一度 も口にしなかった言葉を、特権と権力を維持するために彼が言ったこと にして、教えと反対のことを我々に信じ込ませることにほぼ成功したの だ。
*キリスト教徒にとっては、イエスは神同然か神の子なのですから、イ エスがすることなら何でもいいのではありませんか。一般人が直接霊と 交信することを、認めるつもりがないのでしょう。
初期のキリスト教徒の間では、慈善的な霊との交信がごく頻繁に行わ れていた、と知ったら驚くであろう。襲いかかる酷い迫害に耐えること ができるように、彼らはこうして霊界から勇気づけられていたのだ。 初期のキリスト教徒は、愛をもって祈れば、高次の聖霊から応援され て近くに来てもらえることを知っていた。新約聖書自体の使徒言行録の 中にその例があるが、イエス自身が肉体を離脱した後に霊となって、使 徒たちの前に随意に現れたり消えたりしたことがうかがえる。
それ以後、教会自体がこの種の顕現を敵視した。なぜなら、そこから また愛の種が生まれ、再び人びとの心の中で発芽し、当時の人類が宗教 組織によっておかれていた霊的な闇から解放されてしまうことを怖れた のだ。 イエスは戻って来なかったが、霊界と直接交信ができる非常に高度な 魂たちがやって来て、恵まれない者を癒したり面倒を見たり、多くの善 をなしたのだ。だが、その多くの者は、魔術使いや異端の罪状で、宗教 裁判で火刑とされた。
*でも、悪霊を呼び出すために集まって、他者を支配したり、富や権力 を獲得する能力を授けてくれる魔法の力を得ようとした人たちも実在す るようですが。
そのような交信は行われていたし、我欲に満ち溢れ富と権力を渇望す る魂がこの世に存在する限り、今後も行われることだろう。だが、そう いう意図で行動すると、同レベルの低級霊の都合のいい餌食にされて、 あらゆる手段で彼らの支配下に置かれてしまい、隷属させられて、もっ と酷いことをさせられてしまう。だから、このような接触は非常に危険 で、全く奨励できないものだ。 しかし、他者に害を与えようとして、霊媒力を使って下級霊と通信す る者がいるからといって、霊媒を介した霊界との交信の全てが有害だ、 と結論づけることはできない。
それとも、悪意のある目的にインターネ ットを使用する人がいるので、ネット上の全ての通信を政府が禁止する ことが理にかなっているのだろうか? 理論的に考えれば、使用を制限す べきなのは、社会の健全性が狙われる時だけで、全体を禁じてしまう必 要はない。
*でしたら、なぜ世間では、霊との交信がこれほど反対されるのでしょ うか。
それは、この世の宗教権威者やその他の権力者たちの多くが、人が自 力で神や守護霊と交信することを阻むことによって、支配力を維持して いるからだ。 霊界との接触を怖れさせようと、明確に意図して作成された映画は無 数にある。それらは、ダイアリー・オブ・ザ・デッド(Diary of the Dead)、ポルターガイスト(Poltergeist)、エクソシスト(Exorcist) などの恐怖映画で、全ての交信が恐ろしいものになる、と思い込ませる のだ。 こうして、誰もが怖れによって自分自身を異端視し、直感や夢などで あろうと、霊界からのメッセージかもしれないと思う度にそれを抑圧し たり、誤った解釈をしてしまうのだ。
(P202~P222)
(作者あとがきをご覧ください)
https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea
♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。