八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆☆〝脆弱な国と厄災〟~「アベノマスク」到着☆☆☆

2020-04-26 12:26:24 | 思うこと、考えること!
 いろいろ曰く付きの「アベノマスク」が、わたしにも届きました。
 見た瞬間、〝ちっちゃ!〟の一言でした。

 まさに安倍晋三氏の顔に、ちょこんと乗っている「給食マスク」さながらのもので、安倍氏も、かなりの大顔ですけど、大顔では引けをとらないわたしにとっても、どうにも情けないマスクでした。
 こんな「アベノマスク」に大金を投じた意味はあるのか?

 たしなめ顔、したり顔の某東京キー局の局アナは、せっかく作ってくれた人への感謝を持てとのご意見(Twitterかなんか)でしたが、このマスクはそもそもとある東南アジアの国で作られたそうで、その国でマスク作りの作業をしている労働者が、はたして日本へのものであるとかコロナ禍への援助の気持ちがあったかとなると、そのこと自体を慮るのは無理筋ではないのか。この「感謝云々」は、まさに「アベノマスク」批判封じの効果しか生まない。すこしでも考えてみれば、わかることのように思います。
 日本人が、よく陥りがちな〝杜撰〟〝不出来〟〝欠陥〟なことがあっても、「一生懸命」であれば許されるという無定見な情緒は、まさに欺罔です。それを押しつけられるウザさすら感じます。ましてやそれが現政府・政権が行ったことであるなら、政策の失敗だと厳然と批判されてしかるべきでしょう。

 ところで、マスク到着でさらに驚いたのが、マスクに添付されていた文章でした。
 わたしは長い間、身過ぎ世過ぎで、大学受験生の論述問題の添削を生業としているのですけど、こんな文章で、よく東大などの入学試験を通過できたもんだと、あきれるくらい不出来で、これほど拙い文章を見たことがありません。
 ランクわけしてもしようがありませんが、A/B/C/Dランクでは、DかよくてCレベルの文章です。わたしだったら落第点しかありません。ちなみに、わたしの論述の授業に出た者の少なくない数が、官僚になっているのですが、今回はなんか怖いと感じざるをえませんでした。

 いきなり冒頭で「現下の情勢を踏まえて・・・」という書き出しです。まるでうしろで軍歌でも流れているのかなと思わざるをえない書き出しに驚かされます。旧軍人が戦時中よくこの文言を多用していました。
 まずもって「現下の情勢」とやらに具体性がありません。わかっているだろう!といった威圧がここにあります。知らないのなら〝非国民〟だという声がすぐ近くにあります。
 ここは、すくなくとも「新型コロナウイルスの流行によって、多くのみなさんがお困りのことかと存じます」といった書き出しでしょう。
 そこで「政府としては、この新型コロナウイルス撲滅のため、緊急事態宣言を出して、みなさんとともにたたかっていきたいと思っています」とでも書けばいいのに、いきなり「不要不急の外出を避け」ろって文に移る。どこまでも〝指示伝達〟意識から抜けていない。
 そのつぎには、いきなり「他の地域でも感染が拡大する可能性」と述べているのですが、まずこの「マスク」の配布がどこになされ、「他の地域」とはどこなのか。こんな適当な文はないでしょう。
 ここは少なくとも「首都圏ならびに主要都市での感染のみならず、全国的な拡大を防止するため・・・」といった流れでしょう。
 それよっかひどいのは、そのあとで「人と人との接触を7割から8割削減することで、感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせる・・・」の一文で、ここで「ピークアウト」という言葉が必要かってことです。
 なにも横文字を使う必要などない。ましてや「ピークアウト」という言葉自体、本来は「頭打ちになる」の意味ですが、それを感覚的につかめてもよくわからない人も多いと思います。
 体験的なお話しをすると、むかし定時制高校の教師をやっていたとき、「ワンパターン」という言葉が流行ったことがあります。〝意味は?〟と生徒に聞くと、〝繰り返し〟と答える。ちがうよ。ほんとの意味は、「ひとつの型」なんだ。それを言ってもピンときていない様子。
 「スリム」の意味はと聞くと、〝痩せる〟と答える。「細い」って意味だといっても、まぁいいじゃねーって感じ。
 英文で「・・・center in the ground」の訳の部分で、訳させると、生徒はグランドの〝うしろ〟でと訳す。〝いや違うだろ!〟というと、「だって先生、野球でセンターは、ライトとレフトの〝うしろ〟にいるじゃねーの?」
 それほど、横文字言語は意味をもたないものだと言えます。
 ですからその意味で、この「ピークアウト」も人びとの理解にそぐわない、意味のない、余計な言葉でしかないように思います。おそらく、この文章を書いた官僚くんは、いまどき流行っている横文字言葉を気取って入れ込んだとしか思えない。浅薄なヤツとしか言いようがありません。ここは「・・・感染者の増加を抑える」でいいわけでしょう。
 さらに最後には、このマスクは使い捨てでなく「洗剤を使って洗うことで、何度も再利用可能」とある。これまでの検証によれば、一回洗っただけで80%近くに縮小するそうで、「再利用可能」は事実に基づいていない。

 これが厚労省の添え書きの内容です。悪文というより、どう考えても、実態にそぐわない、強いて言えば、「官許のマスク」「恩賜のマスク」的な上から意識が透けて見える気がします。
 じっさい、この文章は、書き手とそれを確認する何人かの手を経てのものでしょう。だとすると、厚労省という組織の不出来さが、なんとなくわかるように思います。水俣病のとき、薬害エイズのとき、ハンセン病裁判のとき、それらの事件での厚労省のありようは、たしかに杜撰で非人道的でした。
(わたしの教え子にも厚労省官僚はいます。彼、彼女らでないことを祈ります!)

 ところで、戦後の日本について、ずいぶん前ですが、『戦後史を歩く』という本を書きました。
 その本の中でも、またその本を書いたあとも、日々の暮らしや人びととのつきあいのなかで持続的に思い考えてきたことは、わたし自身が生きた戦後の日本という国が、いかなる国だったのかということでした。
 そしてその問いのなかで、いつも〝痼り〟のように浮かんできたのは、一言で言い表すと、この国の〝拙さ〟という感慨でした。
 対中国、アジア、英米戦争の長い戦争の時代のことはまずおくとして、〝戦後史〟という時代の括りで日本の歴史を眺めてみると、それは見かけだけは美装されているものの、丘陵を切り崩し、海を埋め立て地盤の脆弱な場所に拙速に造られた安普請の欠陥住宅のイメージでした。そこには歴史性や精神性が疎外された〝根ざす〟もののない空虚さが浮き出たものでした。
 たしかに戦後「昭和」の時代は、疫病や飢饉、天災は局地的なものですみました。また戦後の「東西冷戦」の狭間のなかで、日本はアメリカの下請け工場として力をつけ、そのうちにその技術を取り込み、短期にめざましい経済的成長を遂げました。
 しかしそのため、経済的恩恵だけを追い求め、〝豊かさ〟に身を委ね、美食やブランドの獲得に優越的な価値しか認めず、その思想や精神の〝拙さ〟〝脆弱さ〟を真正面から捉えることを、わたしたちは長く怠ってきたと思わざるをえませんでした。
 それは、すぐ以前の歴史である超軍国主義国家だった時代。武力に頼り、「日本精神」だとか「神州皇国」だとか雲をつかむような言葉で自身を鼓舞し、驕りに狂奔しアジア諸地域に覇権を唱えた時代のことを、この国の「罪責」として受けとめることなく、戦後になって、いつしか免責されたとばかり深く考えることを忌避して忘れ去ってしまおうとした。そのことの〝合わせ鏡〟のように、日本の戦後史は過ぎてきました。

 そして、バブル崩壊、阪神大震災、オウム真理教事件、東日本大震災、福島第1原発事故、さらに熊本での地震と大水害、中国地方の壊滅的な水害、そして現在のコロナウイルスによる惨禍・・・。
 こうした事態に立ち入ったときの、エリート官僚の不出来さ、器量の乏しさ、政治家の無責任でいい加減なありよう、SNSで騒ぎ立てている識者という者たちのはしゃぎよう、加えていまどきで言えば、安倍晋三氏を中心とする政権の統治力の低さと後手に回った政策能力の欠落。それらがあまりにもくっきりと露骨に目立ってきています。
 星野源さんのu-tubeでの安倍晋三氏の姿は、まさに冗談かと思うほど、犬にしろコーヒーにしろ、テレビのリモコンにしろ、その扱いはまったく落ち着きのない稚拙なものでした。
 そのなかで、多くの罹患者が、ろくに検査も受けられないまま、死に追いつめられ、医療現場の人びとの疲弊はすでに頂点を超え、さらに飲食業や旅行業など、本来わたしたちに喜びと楽しみを与えて、さらに明日への活力を生みだしてくれるはずの多くの事業者が、危機に陥っています。
 そして、教えることとは知識を伝えるのではなく、その人の心の扉をたたくことであるというインドの詩人タゴールの言葉から乖離するオンライン授業の教育現場。
 そのなかでいま、わたしたちはなにをすべきか。

 わたしはここにまずもって、「戦後」のこの国のいい加減さ、拙さ、安普請さを感じざるをえません。いつかも述べましたが、歴史性を喪失した国、人びとは、どう華美に繕っても〝根無し草〟でしかありません。そのわずかに土塊にまとわりついている根は、もはや腐っているとしか言いようがないかもしれない。ですが、このままでいいわけはありません。

 いまわたしたちは、まずこの惨状をきちんと見据える眼を持ちたいものです。そして、自分だけではなく、他者への思いを作り直し、足下の不安に打ち勝ち、明日にはどう生きればいいのか考えぬくこと、そのために、まずは自身の精神を養うこと。そんなことをわたし自身に課したいと思っています。
 精神を養うこととは、ある意味で、売るための謀略史観や嫌韓・嫌中といった安易で杜撰な歴史書ではなく、通史を読み込むことでも得ることができます。いわば正面から歴史に対することでもあります。または、読書を通じて感動を得ることでもあると思います。または、ネットを通じて友人にメールを送って、交歓することでも得ることができるでしょう。
 
 というわけでつらつら書きつらねてきました。拙い雑感をお読みいただいてお礼を申し上げます。また、お時間を取らせてすみませんでした。
 いつか、どこかでこの経験を踏まえて、いろんなお話しができることを願っています。ともに生き延びましょう!


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☆☆コロナウイルス禍と「池ビズ」講座の変更のお知らせです!☆☆

2020-04-20 14:44:31 | 思うこと、考えること!
 歴史をふりかえると人類は何度も、疫病に苦しんできました。
 しかし科学が進んだはずの21世紀も20年が過ぎたこの時期のコロナウイルスのもたらした禍。いままさに、まさかと思う大惨事が人類を覆っているわけです。
 この厄災についての原因からそれへの対応、そして独裁体制がいいのか民主的体制がいいのかといったありようについては、のちのち検証されることだと思いますが、それまでわが身が安全であるのか。不安と恐怖に憤りを感じているのが現実だと思います。
 もしかして人類は、気候変動しかり、遺伝子組み換えしかり、クローンや人工頭脳に至るまで、すべてが利便性と富を生み出だけの「科学」の一側面に目がくらみ、途方もない錯誤や瑕疵を生んでしまったのではないか。あるいは、あまりにもわれわれは、無頓着で無邪気にも開発と破壊を重ね、自己と少しばかりの係累との閉域に閉じこもり、動植物や微生物が主人公である〝自然界〟を痛めつけてきたのではないのか。

 いずれにせよ、いまコロナ禍で苦しんでいる方々。病魔の前線で身を削って対応している医療関係の方々。さらに仕事や職を失い、やりがいを失い、わたしをも含めて収入が途絶えた人びと。医療が進まず、ウイルス禍が野放し状態となっているアフリカ諸国や南米諸国の人びと。都会で人知れず罹患して死を受け入れざる状況になっている人びと。いまを生き延びていくしかない寄る辺のない人びと。そうした人びとの前に立ち塞がる「格差」の現実、くわえて権威と見せかけだけの政治権力・・・。そうしたすべての現実の前で、いまなにをすべきか。
 まずはその悲哀と貧困、困難を心に刻み、ひたすら頭を垂れて、そうした人びとの苦痛と慟哭の声を聞くしかないのかもしれません。
 むろん、薄っぺらな政治家や著名人と自惚れている者たち、芸能人がするように、やたらとSNSで発信し、自己顕示欲を高め、怒号と批判、中傷と焦燥を爆発させることはしたくはない。そうした品性には与しない。
 まずは沈黙と落ち着きを、しっかりと身に纏うこと。
 いま求められているのは、そうした過剰に蔓延する空虚な言説に、不安を募らせたり快哉をあげたりすることではないでしょう。とにかく自分自身いまどうあるべきか、そしていま、そして生き延びたあとで、何を語り、何をすべきなのかを練っていくべきときかと思います。
 もちろん口先だけの言説を弄する政治権力やその周りを取り巻く子どもじみた官僚の姿は、しっかりと見詰め、記憶に留めるなかで、抗う怒りとともに未来に生かす「精神の種子」を、いまはできるかぎり育てていくしかない。わたし自身は、そんなふうに考えています。

 それはさておき、2020年の夏学季講座について、お知らせいたします。
 こんな時代だからこそ、なんとしても今年の講座は実施したいと努力を重ねています。ただし、会場である「池ビズ」(としま産業振興プラザ)が、5月6日まで閉鎖となり、その後の目処もはっきりせず、そのため講座日程をたてること自体が、厳しくなりました。
 そこで、夏学季は『時代に杭を打つ!partⅢ』だけを開講し、『哀しみの系譜』は、秋学季以降に設置すると決断をしました。

 『時代に杭を打つ!partⅢ』の講座日時については、下記にフライヤーを添付しておきますが、会場の関係もあり、先に延ばして、初講日は5月24日(日)午前10時からとし、たいへんタイトな日程となりますが、初講日のほか、5月が31日(日)、6月は14日(日)、21日(日)、28日(日)、ここまではすべて午前10時開講です。そして7月12日(日)を第六講・最終講として、この日だけは午後13時開講と変更させていただきました。
 7月分までの会場はすべて、池ビズ第三会議室で開講するよう押さえております。

 講座の内容については、できるだけ受講するみなさんとの対話を考え、テーマとしては戦後日本の〝困難〟を自覚した思想家・文学者6名の事跡を通じて、いかにわれわれの住むこの国が、危うげで拙いものであったのか。コロナ禍のなか、いまこそこの国の現実を見返すという内容にしたいと考えています。

 日本の近代をながめると、福澤諭吉の言葉で「一生を二世の如く」生きた時代が二回ありました。ひとつは明治維新を一期として、それ以前とそれ以降。もう一つは1945年の敗戦を一期として、それ以前とそれ以降でした。
 明治維新のことはいつか触れるとして、1945年の敗戦を期に、比喩としてカーキ色の国防服を身に纏っての超軍国主義体制の時代とお仕着せの体格に合わない背広を着だし、外からやって来た民主主義を享受した時代と、このころの日本人は、まさに「二世」を生きたと言えます。
 しかし、昭和天皇が象徴するように、戦前まで軍服姿で、膨大な人びとを死に追いやる戦争を、仮に〝傀儡〟だとしても行った人物が、戦後は平和の象徴の如く背広姿で現れ、戦前のありようを無かったかのようにした虚偽性は、戦前は参謀本部詰めのエリート軍人、戦後は戦略産業商社の取締役幹部。戦前は有無を言わせない軍国主義者であり強圧的だった教師、戦後は組合活動に奔走し民主主義を体現したかのような教師。戦前は軍国主義・天皇主義のイデオローグ、戦後は反体制・共産主義のイデオローグとなった思想家と変わることのない、まったく同じ質の〝罪責〟そのものだったのではないのか。
 そしてそれは、ほかの多くの「二世」を生きた人びとに、「戦前」をあたかも無かったものとして、その歴史性の否定を強要したことで「歴史という根」を失わせ、「戦後」そのもの自体の虚妄を生み、同時に歴史の事実や真実に対しての後ろめたさをおぼえさせることではなかったか。
 その結果、戦後を生きる人びとは、その後ろめたさを隠蔽あるいは粉飾、忘れ去るために、東西冷戦の奇禍を好景気に変換させ、経済、いわば金儲け奔走し、自ら「経済大国」だと嘯いて納得させるしかなかったのではないのか。そう考えていくなら、わたしたちのいまにつながる「戦後」は、いったい何だったのか。あたかも根の腐った土壌のうえの禍々しい花畑だったのではないか。それを踏まえ、本講座では、そういった課題性を中心において、考えていきたいと思っています。

 とはいうものの、コロナウイルス禍のなか、講座をはたして開講できるか。それ自体、おぼつかないのですが、かねてお知らせしたように、じゅうぶんな「ソーシャルデスタンスsocial distance」が取れる広い会場をご用意しています。まずは5月24日から無事に講座がはじめられますことを、願っているしだいです。
 また講座日程がタイトですので、一回での参加もできます。ぜひ、ご参加ください。「三密」を防ぎつつ、みなさんが講座に参加できますことを願っています。




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☆☆「夏学季講座」延期のお知らせ☆☆

2020-04-07 14:08:05 | 思うこと、考えること!
  2020年は予測ができにくい、とんでもない春を迎えています。

 新型コロナウイルス禍は、これからもますます地球上のさまざまな地域と人びとを苦しめることになるだろう。その漠然とした予想は、少しでも想像力のある人びとには、暗澹とした気分とともに、見えてきているかと思います。
 以前のブログでも触れましたが、ちょうどいまから100年前、1918年から1920年までアメリカが発生源だった「スペイン風邪」が起こっていますが、これは第一次世界大戦中だったこともあり各国政府が感染を隠し、さらに医学も現代のものとはちがって、ウイルス性のものとの判断ができず、三回の大きな感染の波が世界を呑み込んで、やっとおさまった大規模感染となりました。
 今回のコロナ禍も、ワクチンが開発されない限り、何度も集団感染や国家を呑み込む感染が波のように押し寄せてくるようにも考えられます。

 ウイルスは、ちょうどキリスト教における「天使」に対する「悪魔=サタン」の位置づけなのかもしれません。サタンはもともと神のもとで働いていた天使であり、「ルシファー」の別名が示すように、光の使徒でした。しかし、神が「善なる存在」となってゆくと、ここは一種の疎外論の領域ですが、一方で「悪」の部分を受け持つ存在が必要となります。言い換えれば、 人間が生み出す嫉妬、怒り、冷酷、嫌悪、排除、差別、暴虐など内的外的なさまざまの邪悪さが「サタン」を生み育て、その邪悪さの肥大化とともに 「サタン」はその威力を強めます。

 ふと現代世界を見渡してみれば、それぞれ国で、民衆と乖離した「特権階級」に属する者たちが政治権力を握り、巨大資本がそれら政治権力者と結託する中で、ナチスばりのプロパガンダ政治、ポピュリズム政治が横行しているように見受けられます。
 〝国益優先〟〝ディール至上主義〟〝威圧と監禁、暴力〟〝あんな人たちに負けるわけにはいかない〟〝排外主義〟〝ヘイト〟などさまざまな〝悪〟が横行していて、それに追いつめられた人びと、寄る辺のない人びと、自己以外の人びとの存在に無自覚な人びとが、ときにそうした〝悪〟に狂喜し、喝采を送っていると言ってもいいのかもしれません。

 古代中国の戦乱期にあって、その時代に生きた智者たちは、戦乱や混乱、貧困や狂気に向き合うために「徳」という概念を生み出しました。そのひとつが儒教であり、儒教では、原則的に人間関係に「徳」の生まれるありようについて説くものであり、また権力者・指導者に「徳」という〝鉄の檻〟を纏わせるものでした。
 「徳」のあるものが権力を握るに値する。そして歴史の興亡も、「徳」ある王が権力者となり、それが何代もつづき、子孫に「徳」が尽きると、新たに「徳」を身につけた王が出現する。いわゆる〝徳治〟にもとづく「易姓革命」の運動として、歴史を見通すものでした。
 では、その「徳治」の概念の中で、現代の世界は、いったいどんな時代として映っているのか。
 「ディール」しかないトランプにしろ、「皇帝然」と強権と人気とりに終始するプーチンにしても、また「覇権」にしか権力の行使を見いだせない習近平にしろ、安倍氏も金正恩にしてもドゥテルテ 、ボルソナーロなどの世界に簇生するそれらの亜流政治家にしても、そこに「徳治」という相貌は見えてきません。

 新型コロナウイルス、サタン、「徳」を喪った現代の政治家。何もそこに明瞭な因果関係を見いだしているわけではないにしろ、ある意味で強い暗喩(=メタファーmetaphor)を感知することはできるかと思います。
 今日から、一ヶ月ほどわたしの住む東京は、非常事態宣言下に置かれることになります。テレビ画像に写る小池東京都知事のパフォーマンス、不自然な力こぶの入れ方のまえで、なにか素直になれない感じがしてなりませんが、このコロナ禍が過ぎたあとの世の中は、一体どうなっていくのか。
 コロナと闘ったとばかり、すごい強権政治がやってくるのか。相互の助け合い、人類の希望を再認識するなかで、リベラルで差別のない世界の構築に近づくか、それはわかりません。
 しかし、マスクの供給の現実でもわかったように、ここ二十年以上の日本のありようは、中国からの安い輸入材と安い労働コストによって、20年以上給料が変わらず、国民所得が低いままでも耐えられてきた。皮肉を込めていうならば「ユニクロ国家」であり、「100円ショップ国家」でした。
 言い換えるなら、アジアの中で、日本は活力ある生き方を放棄し、これまでの貯えを原資に生活を送っていて、経済的にも劣位にある自身に気がついていない国家、国民ではなかったか。
 ヴェトナム、台湾、韓国、もちろん中国などの国々を旅し、インテリも商売する人も、若者も新聞記者も、いろんな人びとと会って話してみて、日本が優等などと思い上がっている手垢のついた自尊心は、もう捨てる時期かと思います。
 ましてや国家主義者や愛国者も含め、自分たちがアメリカの属国である現実に気がつかないふりをし、アメリカ人と同等、現代版「脱亜入米」意識、別格意識にとらわれ、「youは何しに日本へ」といった番組に、安心感を見いだしている状況は、一種滑稽でもあります。
 はたして真に日本の美術や芸術を鑑賞しうる力量を日本人は持っているのでしょうか。うすっぺらなアニメブームとコスプレブームと「富士山」「芸者」「おもてなし」は表裏一体の、とても文化と呼べない代物ではないのか。
 三島由起夫は生前、「愛国心を教えようという思想そのものが唾棄すべきもの」だと述べています。〝薄徳の時代〟の中にいる。その風景が、目の前に広がっているように思います。

 であっても、もう少しで非常事態宣言下に入ります。
 そこで、4月19日と26日に初講日を迎える予定だった『時代に杭を打つ!part3』と『哀しみの系譜part1』の講座をそれぞれ5月開講というふうに延期いたします。
 いまのところ5月は3日と9日、21日と31日の会場を押さえています。6月も7日を除き、毎週日曜日の会場を押さえています。
 どちらも大教室で、2メートル以上の間隔をおいても十分に着席できる広さの会場です。5月の時間は9日だけは土曜日で、ほかは日曜日です。これも含めてすべて講座の時間は午前10時から12時までです。時間の変更はありません。
 詳しくは、また20日ころ、7月の会場を押さえた時期に、当ブログで発表しますが、まずはさしあたって初講日が5月開講だということをお知らせいたします。
 また、札幌で開講予定の「what,s」すすき野講座も、開講は5月からとなります。
 これも詳細が決まり次第、お知らせいたします。いましばらく、お待ちください。また、すでに講座をお申し込みの方には、別途メールで連絡をいたします。
 という状況ですが、いまコロナ禍で参加しようかどうか決めかねている方々には、上記の件を考えいただき、ぜひ5月からの講座にご参加いただけたらと存じます。
 よろしくお願いいたします。

 こんな時だからこそ、「学び」が大切です。いま学ばなくて、いったい何時学べるのでしょうか。そのために全力を傾けたいと思っています。

<わたしが一番最初に出版した書籍です>

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☆☆☆誕生日祝のお礼と「池ビズ」講座夏学季〝講座日変更〟のお知らせ☆☆☆

2020-03-28 20:22:46 | 思うこと、考えること!
 3月28日はわたしの誕生日でした。
 子どものころからそう言われてきましたが、じっさい自分自身が生まれた日の記憶があるわけでもなく、あとでこの日だよと聞かされたわけです。
 でも母親が子どものころ話してくれたことだと、深い愛情に包まれ慈しまれて生まれてきたかと思いきや、わたしはタコ入道のような顔で生まれたことで母親を笑わせ、生まれ落ちてすぐに盛大なおしっこをして驚かせたと聞かされ、それでなくてもそのころ出来が悪く、ダメダメな自分だと思い詰めていたことに加えて、この生まれた状況を聞いて、なんだいまと同じかと、子どもながらにがっかりした記憶があります。

 それからもう数十年が過ぎ、すでにこれから先の時間より、とっくに過去の時間の方が多くなって、新聞の死亡欄だとか周囲を見渡すと、ちらほら同世代の人びとの訃報を目にするなか、わたしにも確実にそんな時期が迫っているのだと思わざるをえなくなりました。

 そんななかこのコロナウィルス禍です。かつて世界で1918年から20年まで続いた「スペイン風邪」(正しくはアメリカが発生源で第一次世界大戦の兵員の移動のなかで大発生した感冒)が大流行して、当時少なくとも五千万人以上の死者が出たとされる禍がありましたが、それとほぼ匹敵するかも知れない危機にいまは面しているわけで、危機感を募らせた人びとは買い占めに走るは、人混みの中でマスクをしないでくしゃみなんぞしようものなら、まさに〝非国民〟の眼差しを浴び、ほんとに暗い2020年となってしまいました。まさに恐怖が、人びとを歪めている。そしてこれまで以上に「死」が現実的になっている。そんないまの状況です。

 『徒然草』を著した卜部兼好は、「死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり」(第百五十五段)と、怖いことを記しています。
 兼好の生きた時代は、鎌倉幕府の滅亡と南北朝の抗争による混乱期で、武士たちは自己の野心と所領の争奪に「生」を軽んじ、戦闘や略奪に明け暮れた時代でした。足利尊氏軍に迫られた、ときの光厳天皇は、鎌倉幕府軍とともに関東に逃げ延びる途中、近江の番場の宿で野伏らに包囲され、流れ矢が左肘を刺し貫くといった事態となり、そのときの幕府軍・六波羅武士団はもはやこれまでと北条仲時以下四百三十二名がいっせいにその場で腹を搔き切って自害するという惨状を呈しました。
 そのなかで兼好は「死」とは前にあるんじゃなく、うしろからわれわれを包囲している。「死」の充満するなかで、「死」とは、ある日突然にやってくるもので、それはかならずしも予定されるもんじゃなく、むしろわれわれは「死」に囲繞されていると説いたわけです。
 たしかに、周囲を見渡してみると、「死」は突然にやってきて、それは兼好の言うとおり「沖の干潟遙かなれども、磯より潮のみつる」ようにして、あっという間に、その人を浸して呑み込んでしまうという印象があります。

 そんな危機のなか、「パンデミック」「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」など耳慣れない言葉を駆使して、首相なり首長なりの権力者が、緊張感溢れる相貌で叱咤誘導するような会見をする光景を見る事態になっています。
 たしかに状況は悪いわけで、感染予防の見地からは、むやみに出歩かないのがいいのだと理解はされているかと思います。でも、そうした権力者の顔をじっと見詰めていると、なにか一種ヒロイックなアドレナリンが出ているのかなと思わざるをえない気もしてきます。もっというと、彼らの言説の多くは、必要以上に〝危機〟を叫び、上から目線で注意喚起を促すだけで、どのような対策なり、保障なり、手当をするのか。それもいつ、どんな形でといった具体性を欠くものです。これって統制社会への道筋と思わざるをえない。

 ナオミ・クラインというカナダの思想家は、9・11テロやリーマン・ショック、あるいは東日本大震災などなど、21世紀に入って、権力者はそうした危機に便乗して、権力が勝手し放題できる体制を固めてきたと述べています。
 その本のタイトルは、ずばり『ショック・ドクトリン』(2011年岩波)というものなのですが、いわば大災害や大規模テロなどの衝撃的事件で茫然自失となった人びとを狡猾に操作し、それまであった「公共的秩序」を、危機意識を募らせて無力なものに貶め、その空白に市場原理主義的なもの、言い換えると「勝ち組」「負け組」的な格差を肯定させる原理を押し込む。それも迅速に資本力を一挙に注入して、有無を言わせず実施する。それによってそれまでの風景を一変させる。
 そして、そのなかで自らの富や権力基盤をより強固にする。これを「惨事便乗型資本主義」(本の副題にもなっている)と呼んでいます。言い換えるとファシズム化ってことでもあります。

 たしかにつねにファシズムは、危機を梃子にして人びとを統制し、それまで人びとが営んでいた「公共圏」を破砕するものでした。ヒステリックに買い占めに走る人びと、電車の中での人びとの射るような眼差し、感染者への差別と排除、さらにウィルスは持っていても発症しにくい子どもを近づけないようにする老齢者など、コロナの〝危機〟は、その感染力がもたらすもの以上に、人びとの不必要で悪意に満ちた〝危機〟を増大させていると言ってもいいかと思います。

 卜部兼好は、さきほどの「死」への一文のあとに、つぎのような言葉をつなげています。「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」。
 つまり、「死」を怖がる前に、いまある「生」を大事にして、それを楽しんだらよかろうというのです。兼好は、でも多くの愚かなる人間は、この日々の中に存在する「生」を楽しもうとしない。ご苦労なことに、その恐怖から逃れようとして「外の楽しび」を求めてばかりで、消費や享楽に走ったり、かと思えば、マスクやトイレットペーパーを買い占めて、うずたかく部屋に積み上げて満足するようなことになってはいまいかというのです。
 そんなことをしていたのでは、「志満つ事なし」。つまりは「死」から逃れようとして、あるいは恐怖を除こうとして、いつまでも足掻くばかりで、またその望みもけっして満たされることなく、いつも渇いたままだと説いています。

 たしかにコロナウィルス禍の前で、わたしたちは恐れを深くし、なんとか逃れたいと思いを募らせているかと思います。しかし、こんな時だからこそ、いまある自分の「生」を見つめ直し、心を震わせるような絵画や音楽、そして本に出会い、なによりも自身の精神と向き合うこと。そんなことが大切ではないかと思われるのです。
 「生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり」。わたし流に言い換えてみると、いまある「生」をしっかり生きない人は、ほんとうの「死」の意味も理解できない。「死」をただ怖がっているのでは、ほんとうのいまある「生」を理解できない。

 というわけですが、そんなことを考えて今日の誕生日と相成りました。
 しかも、多くのみなさんに誕生日のお祝いの言葉をいただきうれしい限りです。まずは、お礼申し上げます。ありがとうございました。
 
 そして、長くはなりましたが、ここで本題のお知らせです。
 4月開講のNPO新人会講座ですが、会場である「としま産業振興プラザ」(池ビズ)の関係で、6月以降の予定が変更になります。

 講座「時代に杭を打つ!」は、初講日が4月19日、二講は5月3日、三講は5月31日、四講が6月14日、五講は6月28日、六講・最終講は7月19日になります。
 講座「哀しみの系譜」は、初講日が4月26日、二講が5月24日、第三講6月21日、第四講は7月12日、第五講・最終講は7月26日になります。

 すべて日曜日の午前10時から12時までの時間帯で、4月と5月は変更ありません。それと「講外講」は6月7日(日)に移動となります。以下、フライヤーを張っておきます。

 またこの4月から、
 札幌でも月一回全五講の予定で講座を開講することになりました。
 会場は札幌市の男女共同参画センター、通称エルプラザというところで、19時半から21時半まで、日本の戦後責任をテーマに、現在の日本社会の構造的な歪みについてお話し、対話ができるように企画しています。こちらの方も、下にフライヤーを張っておきますので、ぜひ札幌および近郊にお住まいの方は、おいでください。連絡先・お申し込みは、090-6269-4529what,s Email:whats.everything@gmail.comです。
 いろいろな対話を通じて、みなさんの思いを共有したいと思っています。

 ながながと書きましたが、とても最後まではお読みいただけていないかもしれません。そこで、講座の連絡は、また4月の早い時期に、再度掲載いたします。よろしくお願いいたします。

 

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本を読もうぜ!

2020-03-10 15:57:35 | 思うこと、考えること!
 毎日、メディアは〝コロナ〟一色。
 コメンティターだの専門家だの、いっぱしの知識人ぶった芸人だのが、根拠に乏しい、あーでもない、こーでもないと、あちらこちらをつついて批判し、悲憤慷慨風にコメントを寄せる。すこし飽きてきたなぁ。

 ここ数日、街歩きをしてみると、ドラッグストアで、なにが不満か、とにかく大声で店員を怒鳴っている老人がいる。手持ち無沙汰に公園で、もてあまし気味に携帯をいじりながら屯している中学生高校生がいる。なかには手をつなぎ合ってじっと見つめ合っている少年少女のカップルがいる。〝濃厚接触?〟 小学生が、パパ、ママに手をつないでもらって、いつもは学校に行っている時間に、スーパーでお買い物している。これは楽しそうだ。
 でも、マスクを大量にネットで売った政治家がいる。ご丁寧に、とあるテレビ番組に嘘の情報をTwitterで流して、圧をかけた厚労省の役人がいる。〝非常事態だ!〟と力んで見せる首相がいる。初動の失敗を取り戻す。〝日本を取り戻す!〟 宣言好きなんですね。
 なんか荒んでいる。この国の人びとが悪くなってきている。もともとだったかもだけど・・・。

 そんなとき、いつもよりずっと乗客のすいた電車の中で、ひとり、文庫本を静かに、そして真剣に読んでいた紳士がいた。ブックカヴァーがかかっていて、どんな本を読んでいるのかは、外目からはわからなかったが、ふと覗いてみると、その本のページはびっちりと活字で埋められていて、スカスカな本が多いなかで、かなり硬派の本だと見た。
 紳士は、本のなかの文章に食い入るように目を動かし、ページのあちこちには、すでに多くの付箋が施されていた。その余裕が、他の乗客のマスク越しに見える怯えた目のなかで、別次元のように見えた。いいものを見た感じがした。

 江戸時代のそこそこ財をなした町人は、自分たちの子どもに手厚い教育を施したという。
 それはいまどきの「受験」のために塾通いをさせる、学歴資本をつけることで経済資本につなげるといった功利的なありようとまったく違う教育。
 それら町人たちは、自分の子らに一見商売などとは無関係、むしろ実利から離れた漢学や儒学を学ばせた。いまも知られている学校として、京都堀川の古義堂、大坂の懐徳堂、豊後日田の咸宜園、岡山の閑谷学校などがあげられようか。
 いや、もっと近場で知られている先生、あるいは学塾。彼らの子どもたちはそうした塾で学んだ。いうまでもなく、そこでの学問は、読書からはじまるものである。

 読書をすることは、とりもなおさず知性を磨くことにつながる。彼ら町人たちは、そのことに本能的に気がついていた。もちろん知性と知識はちがう。物知りは知識を生かす術を磨いていないからかえって害をなす。本を読んでも要点だけを切り貼りする処理能力が高い人間は、立ち止まって思考することを軽蔑するから、他者への眼差しに温がない。
 知性とは徳を磨くもの。人格を陶冶するもの。そんなふうに町人らは考えて、彼らの子弟を学ばせた。そして読書を勧めた。

 そんなことをふりかえってみると、いまの〝コロナ〟騒ぎのなか、人心はちっとも落ち着きを見せていない。つまり〝徳〟がない。
 だから、どうだろうか。この際、読書からはじめてみては。まずは世の中にあって、落ち着きこそが大事だろう。そして本を読むならば、その本は誰かに勧められたとかではなく、できれば自分で本探しをしてみたい。

 良い本を探すのには、いくつかの作法がある。
 ひとつに平積みの本でも、棚差しの本でも、本の題名をじっくり眺めること。題名は、いわば表札のようなものであるから、表札の意匠を含め、できれば品格のある題名が良い。もちろん自分の興味を引くもののなかで、まずは題名に品格を求めたい。
 つぎに「まえがき」、ならびに小説などは冒頭の一節を読む。筆者ならびに版元が、この本はどんな本なのかの紹介がここに集まっている。問題意識もここにある。できれば、やたらに〝新しい〟と宣伝しているまえがきは避けたい。ほとんどの場合、そんなことはないからだ。
 そして、ここが一番肝心なのだけど、「あとがき」を必ず読むこと。これまで本を書いたことのある人はよくわかっているだろうが、あとがきには筆者の本音が唯一述べられているケースが多い。あとがきの面白い本。あとがきが魅力的な本は、ほとんど内容もハズレがない。反対にあとがきに自身の自慢話ややたら誰それのおかげで、という内容ばかりの本は、著者が何らかのたくらみをもっていて、世間に迎合しようと満々な場合が多く、どんな有名人の本であっても選択しない方がいい。

 そんなふうにしてできるだけ自分で魅力的な一書を見つける。これは賭けでもあり、楽しみでもある。そして、本を決めたら、一心不乱に読んでしまう。

 いまの3月4月の時期は、移転や移動、新しい環境に馴染んでいかなければならない時期である。そして慌ただしい時期でもあるし、〝コロナ〟だし・・・。そんなときだから落ちつきたいし、じっくり自分を確認したい時期でもあるだろう。
 だからこそ本を読もう!

 もちろん読書だけでは、不十分。福澤諭吉は、知性を磨くには、まずは読書する。そしたら、つぎには、そこで得たものを発表し、人に聞いてもらうこと。ただし、聞いてもらうだけではダメで、それによって他者と「対話」することが大事だといっている。
 「対話」は大事である。室町の時代には「対話」を〝雑談(ぞうだん)〟といったそうだけど、いろんな角度から自己の話しを検証することまでいかないと思想は熟していかない。しかし、その一歩目は「読書」からである。こんな〝コロナ騒ぎ〟であるなら、ある分だけ、暇をもてあましているのなら、その時間を使って、まずは読書する!

 ちなみに、いまわたしの読んでいる本。金子光晴の『どくろ杯』『マレー蘭印紀行』『ねむれ巴里』などの三部作。茨木のり子詩集。これらは魯迅の作品とならんで、なんどもよく読んだ本だけど、いつも読みたくなる。
 一度読んだ本を再読するのも、かなりありだと思う。



 
 

 
 

 




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☆☆☆「あざみ野講座」最終講です!☆☆☆

2020-02-26 10:27:15 | 思うこと、考えること!
 横浜「あざみ野」での日本現代史の連続講座も、2月29日(土)をもって全五講の最終講となりました。
 
 最終講では、日本とアメリカ合衆国との関係をお話しながら、いまの「この国」を覆っている問題についてみなさんとの質疑を中心に対話させていただければと考えています。

 いまの「この国」をめぐる問題といってもあまりにも曖昧ですが、戦後長く続いた「冷戦構造」のなかで、あるいはポスト「冷戦」の時代という時代のなかで、日本という島嶼国家はいかに過ごしてきたのか。
 沖縄問題、米軍基地問題、農産物を中心課題とするTPPの問題、そして改憲や政権を握っている勢力とその抵抗勢力との関係性など、さまざな局面や状況のなかで、一見それは対立構造のように見えながら、そのじつは相互補完、戦後の功利主義的経済欲求を維持するための〝延命〟装置であったのではないか。
 そしてその背後には、強引さと偏見に満ち、杜撰で機会主義的な圧力を行使してきた「USA」という国家権力がみえてくるように思います。
 日本という島嶼国家が、いま直面していて抜けきれない状況を、いかに転換していくのか。もしかして、それはわたしたち自身の生活のありようを問い直す問題でもあるのかなと思わざるをえません。
 「じつはこうだった!」式の暴露的謀略史観的な立ち位置ではなく、はたしていまわたしたちが享受している環境は、そのままでいいのだろうかという問題に立ち向かう「精神=心構えattitude」にまでに至る。そうしたお話しができればと考えています。



 
 

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☆☆☆「池ビズ」講座夏学季〝開講のお知らせ!〟のお知らせ☆☆☆

2020-02-22 11:43:39 | 思うこと、考えること!
  2020年度の講座についてお知らせいたします。

 今年度も昨年度同様に講座を開講します。
 今年度は京都商工会議所の「京都学」講座がオリンピックの都合等で回数が減ったため、その分を講座で補おうと、「二講座」を予定しています。

 概要は、下記のフライヤーflyerをご覧いただければと存じますが、一つは〝時代に杭を打つ partⅢ〟として、今回はおもに丸山眞男から高橋和巳、むのたけじ、鶴見俊輔など戦後の思想家・文学者の歴史意識やその哲学的立ち位置についてお話ししていきたいと思っております。
 「人はなぜ生きようとするのか?」という疑問から、すべての哲学は出発しています。ふつうその疑問は、人びとに意識的に止揚されることはありませんが、道を急ぐなかでのふとした光景や仕事に疲れた空隙のなかで、他者とのさりげない会話のなかから、あたかも井戸から水が漏れ出してくるように人びとの心に浸みてくることがあるかと思います。その意味で、世に称される哲学者や思想家といった人びとと市井を生きる生活人には、なんらの垣根はありません。その疑問に、知識的な処理もまた階級もありません。誰でも平等に、わたしたちはわたしたちの生きていることへの想いを持っているかと思います。
 そうした誰でもが抱く哲学や思想の姿を、歴史のなかでどのように彼ら思想家・文学者は発言し表現したのか。そのことについて、時代性をふくめて丹念にお話しできればと考えています。
 
 もう一つの講座は、〝哀しみの系譜〟という講座です。
 わたしはおもに現代史と日本人の精神史にいろいろアプローチを重ねてきましたが、とりわけ〝抒情〟について、それは日本人の好む情緒である〝侘び寂び幽玄〟のありようとも深く結びつくものですけど、その歴史的な変遷と意味について考えてきました。
 人はなぜ〝悲哀〟という感情を持つのか。それを西欧の哲学が説く〝catharsis〟として捉えきれるのか。また〝浄化〟という心情は、なぜ人びとに「哀しみ」を溢れさせるのか。そうしたことを世阿弥や兼好法師、松尾芭蕉や良寛の〝生き方〟とその芸術哲学から見届けていきたい。
 ほんらい、この講座はこれまで長いあいだ京都商工会議所の講座でお話ししてきましたが、先の事情から果たし得ず、今回はその集大成として真剣に取り組みたいと考えました。
 じつはこの企画は、書籍化の話しが進んでいたのですが、昨今の出版事情の劣化からお蔵入りになり、そこで講座を通じてお話しできればと考えたしだいです。夏学季に一部を秋学季には二部を予定しています。

 二つの講座とも、見栄えは悪く、また難しそうといった印象を持たれるかも知れませんが、文章にすれば難しいこともお話しとしてお聞きいただき、それぞれ疑問点や感想も含めて互いに対話していけば、難しいものにはならないかと思います。現代史も古典もいわばわたしたちの日ごろ思っていることや感情が現れ出たものに過ぎませんし、人びとのありようや生き方に深く通底するものがあるかと思います。

 日時は、おもに日曜日の午前中になっております。初夏に向かうもっともいい季節のなかで、知識を得るということだけではなく、思索のなかで自身を見いだす時間作りができればと思っているしだいです。

 まずは軽やかに、真剣に、そして満ち足りた時間を生きるために、と考えています。
 楽しい講座にしていきたいと思っています。


 

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☆☆☆京都で文化史の講演会を行います!☆☆☆

2020-02-06 00:11:55 | 思うこと、考えること!
   緊急のお知らせです。

 京都で2020年、つまり今月の2月15日に講演会をします。

 テーマは、みなさん高校生だったとき古典の授業でおなじみの、
兼好法師と『徒然草』についてのお話しです。

 とはいっても、兼好法師の生きていた時代の〝歴史〟のお話しです。
 そんな大昔、興味がないとおっしゃる方も多いかと思いますが、『徒然草』がなぜ古典の教科書のメインになったか、ほんとは兼好法師は、京都の人じゃないってこと。
 その他諸々のお話しを、現代風に、しかも人の「生き死に」への透徹した哲学として、お話しいたします。
 〝聞かないという 選択肢はないやろ!〟って感じでやります。

 日時は2月15日午後13時半から約2時間。主催は京都商工会議所です。
場所は京都商工会議所会議室(京都市下京区四条通室町東入 京都経済センター7階)です。市営地下鉄の烏丸線「四条駅」下車26番出口直結だそうです。

 申し込みは、教材その他の都合があり、申し訳ありませんが2月12日(水)まで京都商工会議所検定担当にお電話かファックスでお申し込みください。でも最悪、前日までお電話していただければ、なんとかなるのかな・・・。 
tel:075-341-9765(平日9時~17時) fax:075-341-9795


下記にフライヤーを張っておきます!



 


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歴史は思考する!

2020-02-01 13:45:13 | 思うこと、考えること!
 コロナウィルスの恐怖というか、感染のニュースで何となく気が滅入ってしまう日々になりました。
 この流行病を思うにつけ、14世紀半ば以降、数度起こったヨーロッパでの激発的なペストの流行の歴史を思い起こしています。
 ペストでパニックとなった人びとは、その理性をすべてをひっくり返し、「外」からくる脅威に逆毛を立てて逃れようとしました。余所者への過剰極まる疑心、嫌悪、排除・・・。それらは危機意識の異常な興奮とドロドロに溶け合い、罹患者への過激な差別と嫌悪ばかりでなく、東欧からペスト菌がやって来たというデマが飛ぶと、東側の人間をすべて排除する事態を生むまでになりました。
 それはちょうど数年前の戦禍から逃れてきたシリア難民を〝テロリスト〟だと決めつけ、恐怖から排除しようとした東ヨーロッパの国々の姿にも重なり合うのですが、その際のゼノフォビア(xenophobia)の反知性的ありようも、疑心、嫌悪、排除という「内」なる脅威によってもたらされたものでした。

 黒人解放運動で知られるキング牧師(Martin Luther King,Jr)は、人びとが抱く恐怖について、心理学者フロイド(Sigmund Freud )の説を引いて、「アフリカのジャングルの真ん中で蛇を怖れる」人間と「街中の自分のアパートの絨毯の下に蛇がいるのではないかと怖れる」人間の違いを、前者を正常な恐怖、後者を異常な恐怖と分けて、「正常な恐怖はわれわれを保護してくれるが、異常な恐怖はわれわれを麻痺させてしまう」と述べています(『汝の敵を愛せよ』新教出版社)。
 正常な恐怖は、わたしたちにその対策を考える知恵を与えるけど、異常な恐怖は、わたしたちの「内面」を毒し歪めるものとなるということです。その毒し歪めるものこそが、根拠のない疑心、嫌悪、排除といったものになって現れてくる。

 今回のコロナウィルスの流行は、まずもって中国武漢市の当局者が、十分な対応を怠り、それに加えて中国政府も後手に回り、併せて春節の時期であり、日本政府の対応も腰が引けたようになったことが瑕疵となりました。
 だからといってパニックになってもしかたないでしょう。厄介なのは、中国への差別や嫌中といった「内」なる脅威です。キング牧師の言葉を借りれば、「異常な恐怖」といかに距離を置くかということなのだと思います。

 中世ヨーロッパで起こったペストは、ヨーロッパの全人口の30%~60%が死亡したとまでいわれていますが、結局解決策は、その原因を突き止め、いかに対処すべきかを合理的に導き出したことで、それ以降の流行を押さえつけるかによりました。一番問題なのは、根拠のない恐怖に陥らないことだろうと思います。

 そんなことを考えながら、2月になってしまいました。さてと、ここでわたしもそろそろ冬眠から覚めていかなければなりません。今年は暖冬ですから、少し早めの目覚めにしようかな、そんなふうに思っています。
 そこで2020年度の夏学季の講座ですが、こちらの方は、
現代史である「時代に杭を打つ!PartⅢ」と日本の美意識探訪の「哀しみの系譜PartⅠ」の日程と会場がほぼ決まりました。
 会場はいつもの「池ビズ」(JR池袋駅南口3分)となります。初講日は「時代に杭を打つ!」は4月19日(日午前10時~)、「哀しみの系譜」は4月26日(日午前10時~)です。内容は、このつぎにアップします。

 ところで、つい最近、
朝日新聞出版から出ている会報誌『一冊の本』にわずかながらエッセイを書きました。この本はふつうの書店でカウンター近くに置いている冊子です。一冊消費税込みで110円です。もしよろしければご覧頂ければ、幸いです。
 下に表紙と目次を張っておきます。ご高覧いただければと思います。

 
 
 
 

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☆2020年!思えば遠くに来たものです!☆☆☆

2020-01-14 11:33:40 | 思うこと、考えること!
 新年あけましておめでとうございます。

 いつも毎年、年をまたいで大晦日から元旦には、「新年の手紙」をみなさまに書いていたのですが、今年はサボってしまいました。2020年は「オリンピック・イヤー」といった華やかなお年賀をいくつかいただいたのですが、わたし自身、どうもこうした同調気運に乗っていけない気分で、たとえばここ10年以上続く、世界規模の、あるいは日本の気候変動、天変地異。そしてそれにともなって起きているさまざまな厄災に危機感を持ってしまう。こうした厄災の背景には、ハイパー資本主義をとる人類の醜悪な〝欲望〟〝身勝手〟が透けて見えてならない。           
 そんなわけで、新年早々、暗い話からはじまるのは、どーかな、と思って、〝松〟が取れた時期になってしまったというわけです。

 さて、そんなことはどうでもいいのですが、最近、ある美術評論家の「言葉」に、茶道の道具類には、「氏(うじ)より素性(すじょう)」という言葉があるんだと教えられました。
 つまりたとえば茶碗とは、どんな名陶工が造ったとか、由緒あるどの窯で焼かれたかに意味はない。そうではなしに、どこに、そしてだれに〝美〟を見いだされたのか。どの人たち、あるいはさまざまな人の手を経て、気に入られ、愛されてきたか。その来歴というか、careerに価値が宿るということなんだそうです。
 翻って考えてみると、21世紀になって、ますます激しく醸成されている世界的な「格差」の現実のなかで、多くの人びとは、「どこの家」に生まれてきたかで、一生涯の価値が決まるかのような雰囲気になっています。それは、わたしたちが暮らす日本でも、政治家も芸能人も、やたらに〝二世〟が多い。それは、〝二世〟という、それだけしか持ち合わせていない〝ニセ〟者が闊歩している現実と言ってもいいでしょう。
 どんな名門家に生まれても、嘘つきで下品で、口から出任せの、ペーラペラ、ペーラペラ、耳障りの言い言葉をまき散らして、自身のスキャンダルはもみ消し、取り巻きと仲間だけで利益を貪っている政治家、経済人が不遜にも、いかに闊歩して歩いているか。
 〝氏〟に対した場合、〝素性〟とは、これまでどんな風に時間を過ごしてきたのか、あるいは生きてきたのかの意味となります。

 ちなみに江戸時代の商人などは、自身の子どもに「学問」を身につけさせることを大切にしました。一見、商売に「学問」は無関係のようですが、人間を磨くには、しっかりと「学問」をして、先人の思想や思考のありようを学ぶことである。そのためなによりも「教養」を大切にし、そこから培われる〝人格の陶冶〟こそ、もっとも身に備えるべきものと考えられていました。
 いまの時代、哲学や歴史、思想など、もっとも〝人格の陶冶〟にかかわる「学問」が等閑視され、やれ「英語ができる」だの「役に立つ理系」だの、それ自体、「学問」の空洞化が進んでいる状況なんだと思います。大学でも、やたらに「国際教養学科」だの「グローバル専攻科」、「先端技術学部」とか「戦略的イノベーション学科」「キャリアデザイン」なんとかとか、いったいそこで何を学ぶのか、意味不明な「横文字」の羅列という状況です。
 口溶け感がある、耳通りのいい言葉がもたらす〝空洞感〟〝非現実性〟そしてふわふわとした〝欺瞞性〟・・・。そんななかで若者は〝陶冶〟されうべくもない。

 いわば、「氏」のまま、「素性」が形成されない。江戸時代の商人たちが、なぜ「学問」を子どもたちにさせたか。その意味は、「家」に寄りかかるのではなく、自身の「人格」で、つまり「氏より素性」を大切にしたからに他なりません。

 現在、オーストラリアで猛威をふるっている莫大な森林火災の被害など世界的な気候変動による厄災と同じように、現代における人びとの内面の〝空洞化〟は、もはや手の施しようがないのか。
 といっても、そんな風に「絶望」の振りをしても仕方がないこともわかっています。そんなわけで、今年も講座をバンバンやるしかないなと思ったしだいです。

 とりあえず、1月18日(土)は、あざみ野で開催されている講座の第四講(14時30分開始)があります。今回のテーマは、
 〝欲望列島〟だった戦後の日本
  ~国鉄崩壊からバブルの崩壊。功利と利殖、

          消費に走った戦後ニッポン~
というお話をします。主催は「放課後バンド」。
連絡先はnnn@yokohama.email.ne.jpか090-7638-5093です。前日までにご一報ください。レジュメ印刷の都合がありますので・・・。

 それと今年ももちろん、4月以降も講座を予定していて、こちらの方は、まだ「池ビス(としま産業振興プラザ)」の会場が確定していませんが、日本人の抒情感について論考する『哀しみの系譜』(全五講、毎月1回)と、これまで継続している『時代に杭を打つ!partⅢ~現代の思想家』(全六講、毎月2回)を、ともに土曜日曜の午前・午後に開講する予定です。そのうち『哀しみの系譜』のフライヤーを貼っておきます。『時代に杭を打つ!partⅢ』のフライヤーは、次回にお知らせします(もう出来てはいます)。

 というわけで、今年もなんだかんだ、できる限りのことをしようかと思っています。
この一年、みなさまにもいい一年でありますように!

 
 
 
 


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「あざみ野講座」第三講(12月7日・土)のお知らせ!

2019-12-04 15:22:30 | 思うこと、考えること!
 いよいよ今週の土曜日、
 「あざみ野講座」第三講を開講します。
 時間は、いつもと同じ14時30分から16時まで講座をし、

 そのあと質疑応答、討論に入ります。

 今回のテーマ!
「60年安保の残像〝二人の美智子〟」
 ~「政治少年死ス」から「憂国」へ。
   君は「無国家時代」を体験したか?~
       です。そんなわけで、こんな案内文を作ってみました。

 戦前までの日本は、〝超軍国主義国家〟として、人びとの前に屹立していました。しかし、その砂上に打ち立てられた威厳と荘厳さは、1945年8月15日をもって、いとも簡単に日本の民衆の心の中からで崩壊し、そのあとは変わり身を競うかのような〝文化国家〟の粉飾に身を纏う。しかしそれは、ベニヤ板に急いで貼り付けたような皮相感を免れえないものでした。
 こうしてみると戦前もまた戦後も、日本人は自らが「日本」という国を作り上げたことがない欠落をそのままに、なんとなく〝ニッポン〟という閉域に滞んでしまっていた。一人一人が「日本」という国家に向き合うことなく、〝無国家時代〟をやり過ごしてきた。そんな気がします。
 ただし、その戦前と戦後のせめぎ合う分水嶺に「60年安保」があって、これを契機に日本は「経済国家」として、日本人それぞれがしゃにむに〝利益と利潤〟に邁進する生活スタイルを追い求めていきます。そんな時代の境目に、二人の女性、ひとりは正田美智子。そしてもうひとりは樺美智子という〝二人の美智子〟が立っていました。
 正田美智子は、ご成婚ストーリーからファッション、生活スタイルまで〝スター〟として民衆の憧れとなり、樺美智子は、安保改定阻止を叫び国会突入をはかる生真面目な一女子学生として、〝ジャンヌ・ダルク〟〝聖少女〟として人びとに伝説化されていきました・
 第三講では、そんな二人が時代の風景となった1960年に焦点を当てて、日本という国家のその後の動きを俯瞰しながら、日本人がなにを欲望し、なにを希望としたのかを探っていきます。はたして日本の民衆に、日本という国家は存在したのか。
 まずは歴史の底流にある哀切と痛切について感じていくとともに、激しく知性を刺激する〝現代史〟の面白さを体感できればと思っています。

 まずはこんな感じで、
  またお話しでもりあがりたいと思っています!

 

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いよいよ開講します!「あざみ野」現代史講座! 

2019-10-16 16:13:48 | 思うこと、考えること!
 この10月19日から、いよいよ「あざみ野」現代史講座がスタートします!
 今回の講座は、ある意味ですごく緊張しています。というのも、最近、歴史についていろいろ思うところがあり、そもそも「歴史とは一種の媚薬」のようなものであって、仮に栄光に満ちた歴史であっても、また悲惨と辛酸に縁取られた負の歴史であろうとも、それを語る人びとにとっては、少なからずその個人を陶酔せしめる何かがあるように思えてならないのです。
 「歴史」を前にして、わたしたちのほとんどは、その歴史の現場に裸足で立ち会ったわけではありません。その場にいたとしても、そのときの感情や印象、情緒、そして追体験されたものを、語る時点で再構成したものです。
 よく本当の悲惨で辛苦の現実を目の当たりにした人は、何も語れない、語ろうとしないと言います。その事実と現実が、過去となって、一つの記憶に再構成されるまで、人びとは沈黙の中にいます。
 そんななか、「歴史」を語ることの重さを、いつものことではあるのですが、考えざるをえない。しかし、だからといって語らないわけにもいかない。
 なぜ、おまえは歴史を語るのか。じつは思うに、それはどこかで「未来」というものの明るさを信じているからではないか。そんなふうに思っています。
 謀略史観に口角を逆立てて危機として語ろうとも、差別や偏見に満ちた攻撃的な歴史も語りたくはありません。だからといって、栄光の歴史も、やれやれと脱力した歴史も語ろうと思っていません。
 もしかすると、この事実は、わたしたちの未来にとって何か光りとなって差し込んできはしまいか。そんな可能性にある歴史を、これまでもまたこれからも語っていきたいと思っています。
 まずは、堅苦しい話しはともかく、楽しい講座にしたいと思います。ぜひおいで下さい。

  
 

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岩波の『世界』をついに廃棄する日。

2019-08-29 12:25:25 | 思うこと、考えること!
 もうそろそろ夏の気配も終焉を迎えた感がします。
 しかしここ数年の、いやもう10年以上続く「猛暑」「酷暑」「憎暑」、それに先日小田原周辺を車で通行しているときに、1メートル先も見えないほどの「ゲリラ豪雨」の来襲に冷や汗をかいたのですが、ここ数年続く九州や中国地方での水害などなど、だれが考えてもおかしいほどの気候の変動。それと不気味なのはアマゾンの密林での大火災。ここは〝地球の酸素〟の供給源ともいわれる地帯なのですが、これが大火災になる。
 これなどは、どっか地球がおかしくなっている現実そのものなのですが、あまり人びとの関心を引かない。自分たちの後に続く人びとへの配慮や思慮が、社会のなかで醸成されない。自分たちだけが過ごせていれば、それでいい。あるいは日々忙しくて、そんなことを考えることすらできない。
〝滅亡extinctionの予兆〟
 生業として、ながいこと歴史をずうっと見てくると、もう人類は、種としての賞味期限が過ぎていまったのか。そんな気がしてならないときがあります。
 未来への視線が社会に絶えてしまって久しい。せいぜいで自分の子供や家族の漠然とした将来しか思い浮かべない。いい時代なんでしょうね。

 さて、前書きが長くなったのですが、じつは自宅の書庫がもう限界で、1970年代から、つまりわたしが学生だったころからずうっと購読していた岩波の雑誌『世界』を廃棄せざるを得なくなりました。
 『世界』を毎月買い始めたころのわたしは、いっぱしの苦学生で、読みたい本がたくさんあったのに、『世界』のきまった額の支払いは、そんなに楽なものではありませんでした。
 でも読み続けたのは、1970年代に政治的にも文学的にも、新鮮な言葉を駆使していた大江健三郎や小田実、あるいは鶴見俊輔など幅広い書き手のエッセイが読みたかったこと、もうひとつにTK生という人物が岩波の編集部に送ってきたという手紙、『韓国からの通信』を読みたかったこと。
 それでも大学の図書館に行けば、『世界』はいつでも閲覧できたのですが、当時はコピーなどという便利なものはなく、付箋を貼って赤鉛筆で印をつけ、ときにノートにとるということをしていたわたしには、やはり購入するしかなく、それが習い性になって50年近く『世界』をため込んでしまうことになりました。
 それにもう一つ、『世界』を読み続けた理由には、それぞれの時代の変化がどんな風に現れるか、それを見極めたかったという思いもありました。
 それは大江健三郎が、あるエッセイで『世界』はその時々の世界の動きや人びとの精神の彷徨い、現実的actualな社会問題を伝えてくれるとともに、長く読み続けることで、自らの歩みも定点観測のように知ることが出来る。だから長期的に買い続ける意味があるといったことを述べていて、それにかぶれちゃったわけですし、また高校の恩師である尊敬する歴史の先生が、『世界』を読み続ける意味を話してくれたことも大きかったと思います。
 大学生になったら『世界』を読む。なんとなくアカデミズムに近づいたような気分。大学に入学して上京したときから、そんなふうに心に決めて、『世界』を読みはじめた記憶があります。しかしそれをいま廃棄する。
 
 もちろん、古本屋さんに引き取りの件で聞いたり、友人や教え子にも、ほしかったらあげるとメールなど出しましたが、古本屋さん曰く、『世界』はいっぱい出ているので古本としての価値もないし、結局廃棄処分にするので引き取りすらも出来ないという返事。友人教え子は返事なし。
 それでは仕方がないという結論になりました。
 それと、『世界』を廃棄すると決めたのは、書庫がどうにも手狭になったこともありますが、もう一つの原因に、紙面がどんどん〝脱色〟されていく感がしたことも事実です。
 今回、廃棄するに当たって、これまでの『世界』を一通り年代順に眺めていきました。そこでこれはという「号」については保存し、当時自分がどんな風に考えていたかがよくわかる書き込みのあるものも保存しました。
 そんななかでずうっと読み通してみると、紙面の内容が、あまり売れていない雑誌の宿命か、あるいは編集者の意向もあるでしょうが、その時々の「トレンド」に揺れてきて、それだけならいいのですが、書かれている内容も、事件性や事象の分析に終始し、この人いったい何のために書いているのか、つまり体裁や形は整っているのですが、読んでいて記事やエッセイの内容が〝ガツン!〟とこない。そんな記事やエッセイが増えてきた印象になりました。当たっているかどうかはわかりませんが、物事に向き合う〝熱〟が薄れ、ニコニコ笑いながら分析や結論を導き出す。それ自体悪いことではないにせよ、〝軽く〟なったなと思わざるをえませんでした。
 時代的にいうと、1980年半ばから90年代、その期間に『世界』は、ひとつの画期があったのかもしれません。2000年代になると、9・11、3・11などの大惨事を迎え、それなりに論調は変化するものの、一概に知的有名人のエッセイを並べ、かれらの身に纏っている「進歩」的知性を店先で並べている印象がして、やはり岩波は〝権威〟なんだなという、それはなにも岩波に限らず、左翼系の雑誌には、よくありがちなんですが、読み直してみると、そんなここ数年だった印象です。よくいう新人発掘も、まるで自社出版物の番宣みたいな印象だったような・・・。

 いずれにせよ、この土曜日には、資源ゴミとして廃棄します。それとともに、自分のこれまでのありようにもひとつの区切りをつけようと思っています。もっと「身になるもの、心の糧となるもの」、そんなものを妥協せず生みだしていく。
 けっして決意表明というわけじゃないんですが、どうしても『世界』を読み始めていた自分の若いときの記憶が蘇り、感慨が深くなって困るのですが、まずは孤立は免れえないのかも知れないけど、そうでも飲み会はどんどん増やし、人との人的交流は、ネットに頼らず、やっていこうかな。もっといろんな話しを聞こうと思っています。

 ちなみに教え子の中国研究者の手引きで、『中国研究月報』(8月号 中国研究所刊)に、高橋和巳についてのちょっと長めのエッセイを書いています。書店や大学図書館に置いてると思いますので、お手にとってごらんください。

 もう数日で、9月です。最近つくづく思うのは、どうでもいいことですが、ほんとにビールがうまくなる季節は初夏と秋だなと思います。気温が30度超えていては、ビールは、ほんとうの旨味を発揮できない。飲む人の喉に爽やかでありながら〝ガツン〟とくるものではない。
 夏がおわった9月にドイツ・ミュンヘンの市庁舎地下のビアホールでのビールは、ほんとに美味かった。
 きっと、これからいい季節が来ます。 

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