いかにいまの時代に向き合うのか。
ほんとうに難しいことになってきました。
これまでも、世界のあちこちには、内戦や民族対立、テロなどさまざまな惨劇があり、ぼう然とする事件が起こってきました。
そして、またいまのロシアのウクライナ侵攻、ミャンマーの内戦・・・。きびしいな、と思わざるを得ない毎日です。
そうした事件との遭遇ということだと、
わたし個人の経験には、2004年3月11日の朝に起こったマドリッドのアトーチャ駅爆破テロの記憶が鮮明です。
テロの当日、マドリッドに到着し、その翌日、規制線が張られた、いわば日本でいうと新宿駅といってもいいアトーチャ駅で、その惨状を目の当たりにしたことは、なんとも言えない深い衝撃になって残っています。
テロがいかに虚無的なものかを、そのときほど烈しく、身を打たれ、肌で感じたことはなかったように記憶しています。
人が死ぬということの、酷たらしさ。もちろん、死者の骸は片づけられていましたが、駅舎には、濃密な血の臭いが残っていました。
でも、そんななか、早くもマドリッド大の若者たちが、アトーチャの空き地にテントを張って、たくさんの寝袋が積んでありましたから、おそらく不寝にでしょう、
「No A La Guerra!」(戦争反対!)と黒く染め抜いたTシャツを売って、救済カンパを募っていました。
いかなる「戦争」も止めるべきです。
もとより「戦争」は、核兵器はもちろん武器によって押さえつけることはできません。
「戦争」の事態に際しては、肚を括って、それを止めるためのさまざまな行動を起こすべきでしょう。
声を上げる。説得する。戦わなくていいシェルターをつくる。世論を喚起する。デモや集会に出る。いろんなかたちで意思表示する。
身体を張って、放水車の冷水をものともしない。困った人びとに言葉をかける。戦うことは、前線に出ることだけじゃない。
もし、万事休したら地下に潜る。逃散する。一人一人がもっている能力を注ぐ。
いつも熱くならず、冷静に、いつも自分よりも後に来る人たちのために、自分自身の行動を考える。
いまのわたしたち国では、核抑止論が飛び交い、日本の核共有とか核武装、憲法の改正、その他法制の改正、あげくには敵対的拠点へのミサイル先制攻撃の必要など、勇ましいばかりの論議が出ています。
わたしから見て、これらはみんなアウトソーシング、いわば「外化」して、自分の不安を解消しようと必死に醜い姿をさらしているようにしか見えません。
泥沼のなかで泥が軍靴に冷たく染みこむのに幾時間耐えれるか。砲弾の飛び交うなかで、何時間、冷静にときを過ごせるか。
熱風の中で匍匐前進をして、体力の限界まできても、意志力だけで、重い銃器をもって走れるか。
「フェイク」に惑わされないため、わたしたちは権力者の発する情報や勇気もなく自ら名のりもできないnetの住民が発する言葉には、それがいくら真実らしく聞こえても、耳を貸さないし、人に伝えない。ぎりぎり、自分で確かめる。
憲法を変えても、ましてや核武装したところで、仮に今回のように他国からの理不尽な侵攻を受けたら、ほぼ何の役にも立ちません。
対手を説得する。権利通義をどこまでも貫けるか。貫くことで、自分たちより後に来る人びとに理解される意義をどれだけ持てるか。
歴史講座【第3部】<第1講>、今日の冒頭のお話しは、そんなことでした。あと講座は4講座あります。
すべてアーカイブで視聴できますし、以降もzoomで、まだまだこの講座は続きます。
それとこの機会に、司馬遼太郎という作家について、よくいわれる「司馬史観」というものについての講座も、5月21日から池袋の「としま区民センター」で行います。
べつに司馬遼太郎の本をお読みいただく必要はありません。講座に参加いただき、そこから読んでみようか、ということでいいのです。
そんなわけで、司馬遼太郎の講座の準備のため、ほぼその作品と関連する図書に当たっていますが、いまのロシアのありようを、司馬は歴史を見渡し、広いユーラシア大陸の自然と風土を思い描き、多くの示唆に富む発言をしています。
それらを読み解きながら、わたしたちが「後世」というものと、どう対話していかねばならないのか。そうしたことの態度=精神のありようを、互いにお話しできればと考えています。
ぜひ、この講座にもご参加ください。
ちなみに、わたくしどもNPO新人会のTwitterができました。
NPO法人新人会@Vi4WmmxAsWnvTpk
です。
まだ、本格活動していませんが、これからこちらのほうからも、いろんな情報をお知らせしたいと思っています。