八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

いま懸念を示すこと。7月18日講座最終日に向けて!

2021-06-26 23:00:04 | 〝哲学〟茶論
 数日前に発表された、「今上」天皇が、コロナ禍の中でオリピック東京開催に懸念を示したニュースは、よく知られていると思います。

<1964年東京オリンピック
 左から2人目、当時皇太子、徳仁親王(現「今上」)、美智子妃>

 なぜ、この時期に、もう遅い。いや、よくぞ言ってくれた。
 そうだ、中止すべきだ。だが、オリパラ名誉総裁である天皇が、もしオリパラをさかいに感染者がまん延し、日本が立ちゆかなくなったら、天皇だって無傷にいられない。だから、このタイミングでの懸念であり、責任回避、政府と仕組んだ「出来レース」だ! それが証拠に、西村某宮内庁長官は、警察畑であり、安倍政権が送り込んだ人物じゃないか。
 政府の対応だって、長官の私見といった見方を一様にとり、もし政府と口裏を合わせてなかったら、長官は即刻更迭されたはずだ! まさに責任回避と陰謀なのじゃないか。
 いや「今上」は素直なご意思を示されたのだ。そこは疑いがない。ただ発表の時期に、どこぞの作為があったのではないか?
 なかには「今上」の意思の「拝察」の発表は、憲法で禁じている政治行為じゃないか。違憲だ・・・。
 そんなふうに、わたしのまわりでも、またマスメディアでも、さまざまな発言、批判、賛意等々が存在しているように思います。

 そんななか思うのですが、そもそも、このコロナ禍は、はたしてワクチン接種によって危機を脱することができるものなのか。
 現在のデルタ株といった変異株の拡大の兆しを見ても、またかなり多くの数で報告されている「副反応」(これはワクチンなどで起きる病症で治療などで使う薬から発症する副作用と分けられている呼び方)の問題をみても、じじつインフルエンザ・ワクチンよりもコロナ・ワクチン接種後の死亡例は数段多いこともふまえてみると、そう簡単な感染症ではないことは明らかなことのように思います。
 おそらく数年間にわたる、かなり長期の、そして苦しい圧迫の生活を強いられる可能性の高いもののように思えてなりません。
  それは事実として、ワクチン接種を確立し、コロナ禍を押さえ込んだかのような報道がなされていたイスラエルなどの再感染。また実際の問題として、このコロナ対応ワクチンの接種後、2年あるいは5年後以降の副反応の治験がまったくなされていない問題。免疫を体内につくるというmRNAの仕組みそのものにもよくわかっていないことが多いとされていること、さらにワクチン万能主義は、いつのまにかワクチン・ファシズムをつくりだしていることなど。
 「安心安全」という念仏の絶望的な空虚さが、わたしたちの足元にずっと絡みついているかのようです。 

 これは多くの科学者の見立てでもありますが、コロナ禍発症の要因は、おそらく人類がこれまで手も足もあるいはそのエリアや空気すら感知しようとすることのなかった領域に、ずかずかと入り込んでいったのがおおきな契機となったのだろうといわれています。
 大気汚染や海洋汚染はもとより、アマゾンでしばしばおこる火災や地下資源や水、レアメタルを求めてアフリカや中国奥地にその原料供給地を拡大しようとする〝人間の欲望〟・・・。森のバターと言われるアボガドだって、その需要の急増は、自然破壊をもたらすものでしかない。スマホもEV車も食も、空気だって何だって、人は地球を搾取し続けてきたという現実。
 すでに人間は、自然のなかで暮らすという「規矩」を超えて、地球への加害者でしかないのかもしれません。いま流行の「SDGs」にしても、持続可能などという言葉の奥底に自然を支配できるコントロールできるという思い上がりが占めている。
 コロナ禍はそれを象徴するもの、一口に言えば「市場原理主義的な人間のあくなき利潤追求」がもたらした厄災といってもいいかもしれません。

 そんななか、いったいわたしたち人間は、無力のまま立ちすくんでいいのか。あるいはなるようになると、でなくても巨大な超権力的な資本の歯車のなかでくるくる回っていくしかないのか。言い換えれば、あきらめ、退廃、ニヒリズム(虚無主義)の暗い底に沈殿してしまっていいのか。しかたないですますしかないのか。

 そんな虚無のなかで、ふと飛び出してきたのが、「今上」の意思というものでした。あと一ヶ月を切るオリパラ開催の時期に発表された「今上」天皇の意思の「拝察」発言とは何か。それはいったい何を意味しているものなのか。
 
 この「拝察」発言のなか、政府、担当大臣、オリパラ関係者、識者、電波芸人とも揶揄されるコメンテーター、インフルエンサー、キャスターなどが、とりわけ時流での自己の役割に目鼻が効く(それしかないのでしょうけど)橋下某といった人たちの芸風を見ていくと、あたかも一場の芝居を見るかのようにそれぞれが役割分担を担っていて、世論を焚きつけ、fakeの憶測の種をまき散らし、人びとを踊らせ、騒ぎだてさせ、あげくには泡となって、いつのまにか何もなかったかのようにしてしまおうとしている、そんな印象がします。
 それは、まいどくり返され見せられてきた風景でもあるような、どうにも底なし沼的な空虚に引きずり込まれている感覚でもあるようなものに思えてきます。

 そんなドタバタな虚無的な芝居が繰り広げられている状況で、そうはいうものの、いったい、なぜ「今上」はいまになって懸念を示すようなことになったのか。その言葉の発せられた核心とはどこにあり、なぜ発せられたのか。それについて想像して見たいと思ったというわけです。

 そもそも、古代から「天皇」は、「ケガレ」を払うという役目を負い、もっとも多きな「ケガレ」はイクサ=戦争であり、さらに疫病と飢饉であり、天変地異であり、それを歴代の「天皇」は、それぞれ凸凹はあるものの、なんとか「ケガレ」を払う役目を果たそうとしてきたという「歴史的経緯」があったとしてもいいと思います。
 後鳥羽や後醍醐、そして西欧皇帝制に範をおいた近代天皇制の中で括られる明治・大正・昭和天皇などは、むしろその意味で、〝異端〟であったとしてもいいでしょう。
 その流れで考えると、今回「今上」がもらした意思は、至極当たり前の彼自身の「役目」の流れから出てきた〝意思〟だったのではないかと思われるのです。
 それが、たとえさまざまなバイアスなりフィルターによって、変容を余儀なくされたものであっても、その〝意思〟は、わたしたちが会社や仕事がらみ、そして立ち位置からなかなか思いどおりに運ぶことのない〝意思〟と同じように、どこか底の部分から、染み出てきた〝意思〟ととっていいのではないか。
そんなふうに思われてくるのです。

 世の中を、底部から見上げてみると、人びとはずいぶん周囲に気を遣い、自身の身を守るため、忖度もし我慢もし、ときには流行や有力な勢力に身を挺したり預けたりして、生きているものです。
 こんな発言をしたらヤバい。これを言ったら受けるだろう。人気が出て金も入るかもしれない。そんな思惑と打算で日々暮らしている。
 しかし、一度そうしたせわしない生きかたから、自らのありようを見つめてみると、人は思いのほかピュアである自身に気づくように思われるのです。
 そんななかで、もしかしたら「今上」も、この時期に際して、どうしても純粋に懸念を示したいと思ったのではないか。タイミングや発し方には、さまざま困難があったとしても・・・。

 そんなふうに考えていって行き着いたのは、いまのこの国の人びとにもっとも不足しているものはなにかということでした。
 そして行き着いた先に見えてきたのは、もっとも不足しているのは〝内省〟ということではないのかなということでした。
 さまざまなバイアスやフィルターを除き、自らの原点をたどってみる。自分は果たして何者なのか。自分はいったいどうありたいのか。わたしの本当のありようとは何なのか。
 そうした精神の動きを、わたしたちはついぞ忘れてしまっているのではないか。
 もちろん、これまで「内省」など思ってもみなかった人に、そうした心の運動は、ずいぶん難しく映るかもしれません。しかし、自らを見つめる、自らを考える。それは必要なことではないかという理解は、それほど難しい理解ではないように思います。

 人は危機や困難に際して、いかなる行動をとるか。
 よく言われることは、一つに、どこかに危機を脱するヒントや指標があるとして、他国や他人といった「外」から得た知識や手段によって危機から脱しようとする。
 二つめに、限りなく自己や自国の過去にさかのぼり、その歴史的幻想や個人の麗しい物語に回帰して、いま現在を不当なものとして情念を集中させ、困難を破砕しようとする。
 一つめの思想は、「脱亜入欧」などの言葉で表され、二つめの思想は、「国粋主義」、昨今では「新しい歴史教科書」作成運動や「自由主義史観」だとか「嫌韓・嫌中」のヘイトスピーチ、そして日本礼賛のテレビ番組などの意識に、それは表れているといってもいいでしょう。
 しかし、一方で人は、危機や困難に対したとき、外部や幻想にたよるのではなく、深く自己を突き詰めて「内省」や「内観」に入り込むことで、自己自身のいかにあるべきかや態度を見出そうとするものでもあるのです。
 これまで人びとは、さまざまな戦争を経験し、飢饉、飢餓、絶望のなかで生を耐えなければならないことがいくつもありました。
 そんななかで、人びとはけっして自らを離れることなく、自らの内面を深く抉ることで、自らの力で光を見出そうとしました。そして、そうした事跡は、歴史のなかには何度も目にすることができます。
 震災ですべてを喪った人びと、水俣病で苦悶の淵に立った人びと、ハンセン病患者として差別と蔑視のなかで生かざるを得なかった人びと。そうした人びとのなかには、自らの痛苦や苦悩、絶望をまえに深く内省を繰り返すことで、一条の光を見出した人びとを、わたしたちは多く知っているように思います。

 はやくこのコロナ禍から脱出したい。ワクチンさえ打てば脱出できる。もちろん、医療系を含むエッセンシャルワーカーの人びとは、こうした〝脱出〟ある種の〝exodus〟的なありようには無縁でしょうが、なんでもかんでもワクチンさえ打てば、と焦るありようについても、まずは自身の内側をじっと見つめていくと、ちがう地平が見えてくるように思います。ただ恐怖に引きずられているだけではないのか。

 ならば、もしかして、自己を見つめること。その「内省」にこそ、この時代の困難を生き延びるヒントがあるのではないか。そうなふうにも思えないか。
 自暴自棄や退廃、虚無に埋没しない自己を考える。それはやはり、自らを見つめ直すことからはじめられていくような気がしてなりません。そしてそんなときの「今上」の懸念でした。

 と、ながなが話しを続けてきましたが、ところで2021年NPO新人会の夏学季講座〝時代に杭を打つ partⅤ〟も、6月20日に第三講を終え、あとは7月18日(日)の最終講だけになりました。
 じつはこの日、100人程度の大会場しか空きがなく、池ビズ(としま産業プラザ)の多目的ホールで講座は行われます。
 せっかくの大会場です。そこで、これまでこの講座に参加なさったことのないかたにも、もしよろしければご参加願えればと思い、ご案内しようと思ったわけです。
 お話しは、すでに2020年までの現代史をさまざま分析してきましたので、最終講は今後の時代展望についてのお話し、ちょうどこのblogで記したようなことをお話しの中心にすえて、できるだけみなさんのご意見を受けながら、「対話」をしていきたいと思っています。
 テーマは「post-SNS、post-資本主義の未来」という内容です。
 詳細は、下記にフライヤーを貼り付けておきます。
(7月18日午前10時開講、受講料1500円)
 最近はzoomでの受講の方も多いのですが、ぜひ会場に足を運んでいただければ幸いと思い、あえて案内申し上げます。
 よろしくお願いいたします。

<連絡先 E-mail npo.shinjinkai1989@gmail.com>
 
 以上。というわけで、混沌としたコロナ禍、東京オリンピックが迫る慌ただしい日々を思いながら記しました。



 

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