しばらくブログを更新せず、
申し訳ありません。
ここ数ヶ月、それなりに忙しくて、
自分自身を省みることができませんでした。
今更ながらに思ったのですが、
じっくり、いまを見据えることの大切さは、
人間にとって、何よりも大切なことだといえます。
政治学者の丸山眞男は、
『超国家主義の論理と心理』という政治エッセイで、
東条英機らの戦前の権力者を評し、
「すべてが騒々しく、すべてが小心翼々としている」と
記しています。
その言葉に触れながら思うのは、いま現在のことであり、
わたしたち周囲を取り囲む権力者や政治家、とりわけいまの内閣の面々などは、
改憲だ、やれ改革だと、なんと騒々しいことか。
そのくせ政治スキャンダルが発覚すると、
ごまかしと虚偽を連ね、じつに小心翼々たる姿をさらけ出しているのか。
まさにその落ち着きのない、小学生のようなはしゃぎぶり。
なにか異様なものを感じます。
でも、多くの人びとは、それがあんまり気にならない。
おそらく、われわれはすでに「すべてに騒々しく、小心翼々な」状況にどっぷりと首までつかってしまい、
その異様さが感じられなくなっているのかも知れません。
さて、話題は変わって、わたしは北東北秋田の生まれで、高校までその地に育ち、
大学卒業後、高校教員として秋田で8年間教職にありました。
おそらく、いまとなって振り返るなら、わたし自身、もっとも成長したのが、
秋田での高校3年間と教職にあった8年間であったのだろうなと思います。
ちなみに最初に赴任した学校は、能代農業高校(現能代西校)という学校でした。
詳しくは、またいつか機会をみてお話しするときがあろうかと思いますが、
故国を遠く離れることによって情緒化される「遠隔地ナショナリズム」と同じように、
わたしには、秋田への思いがいまも断ちがたくあります。
そんなとき今日、金足農業高校の野球部が、甲子園の決勝まで勝ち上がったことに、
訳もわからずうれしさがこみ上げて、なりませんでした。
わたしの入学した小学校は、当時の天王町町立出戸小学校で、一学年12人の
小さな学校でした。担任の先生は服部忍先生という方でした。きれいな先生でした。
ちなみに幼稚園は、いまは存在するかどうかわかりませんが、
もっと男鹿半島よりにある東湖幼稚園という幼稚園でした。
ところでわたしの通った出戸小学校は、今回甲子園で勝ち上がった金足農業高校の近くにある小学校でした。
現在は秋田県潟上市になっていて、金農野球部の多くの子が、この潟上の出身です。
まさに地元の子だけ。そうした地元のなかにわたしは幼少期を過ごしました。
甲子園といえば、かなり以前から、私立の野球学校、
いわゆる校名をあげるために、学校経営に特化する形で、
有名な監督を招き、選手を集める方式が常態化し、それが甲子園常連校になる時代です。
金農の子は、そうした商業主義とは、ほぼ無縁な子どもたちです。
かれらは、まずふつうの高校生であり、部活での野球部です。
それが甲子園の決勝まで行く。思わず快哉を叫ばざるを得ません。
秋田県は、かつては自殺者が全国トップ、無類の酒飲み県であり、
激しい人口流出に歯止めがかからない県です。
企業誘致による活性化も、企業依存を強めるだけで、
企業のわがままを許す体質を生み、地方としての自立が損なわれ、
一方で中央資本の商業施設が導入されることに期待をかけても、
地元の商業者は家業の放棄を余儀なくされることが多く、
また農業は再三にわたって外圧や政府の無策によって、変更や衰退を迫られ、
それこそ原発でも呼んでくるしかない・・・そんな状況におかれているといっても過言ではない。
「原発」は自らの身の危険を担保にして、いまを食いつなぐ手段でしかない。
わたしには、そうした認識が根深くあります。
加えて昨今、秋田と東京つなぐ秋田新幹線は、温暖化の影響か再三にわたって風水被害に遭い、
よく運休に追い込まれ、一時期は県全体が「陸の孤島化」したこともありました。
わたし自身、秋田で高校教師までやりながら、秋田を離れたことに、
心底、どうしようもないくらい苦く悔恨を感じることがあります。
また両親ともに物故し、そんなこともあり、ふたたび秋田に帰ることはないと思うにつけ、
「遠隔地ナショナリズム」と同様な、情緒的な望郷の念が募ります。
そんなときの金足農業高校の野球部の勝利でした。
うれしかった。本当にうれしく思いました。
そんなおり、以前から予定にはあったことではあるのですが、この月末、大学生たちと一緒に秋田に行きます。
秋田の平鹿平野の一隅に、わたしの祖先が戦国時代まで盤踞していた「八柏」の本貫地があります。
できれば学生諸君と一緒に訪れるつもりでいます。
秋田に行って、じっくりと落ち着いて、
自分自身を省みる機会になればと思うしだいです。