八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

◆◆季林書房HPが更新されました!2024年12月15日◆◆

2024-12-19 14:05:53 | 〝哲学〟茶論
 ずいぶん寒さが深まりました。

今年も残すところ、あと2週間ほど。
2024年はいかなる年だったのでしょうか。

思うに、この一年、
アラブ世界はもとより、
アジアや東欧諸国、
そしてアフリカの国々でも、
多くの貧しい人びとは、戦禍に追われ、
飢えと渇き、そして寒さに苦しみ、
肉親や友を喪い、
その尽きることのない悲哀に
どれほどの血の涙をながしたのか・・・。
思うにあまりあります。

北東アジアの片隅の島嶼国の一室で、
まったく無力でしかないわたしは、
せめて2025年がすこしでも、
いまよりよくなればと切に願うだけです。



季林書房のホームページが、
12月15日に更新されています。


編集者日記と書評が、
月ごとにかわっています。
今月の更新も、
ぜひご覧いただけると幸いです。

今月の書評は、
開高健著『新しい天体』
(ちくま文庫2024年)です。


年が新たになりましたら、
またblogでお目にかかりましょう!





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◆◆2024年11月15日になります。季林書房HPを更新しました!◆◆

2024-11-15 12:32:17 | 〝哲学〟茶論
 この秋のNPO新人会講座では、
 「日本の憲法」についてのお話しをしています。

 世の政治家は〝改憲論〟を唱えると正義とばかり、改憲論者が多いのが現実です。
 ただし、この間の衆議院選挙で「改憲派」政党で数を減じた政党があったため、わずかですがその勢いもやや削がれた感がします。

 とは言うものの、なんとなくも含めて、つまりほとんどの人が「日本国憲法」そのものも読んでいないようですし、また他国の憲法と比較したりしていないようなんですが、周囲の勢いで〝改憲〟の声を上げる人、いやそれ以上に、米国を含めて周囲の国々、中国や韓国、そして北朝鮮などの外交関係で〝弱腰〟だとばかり、いたずらに危機意識にとらわれる。そのうえで「日本国憲法」に一方的な不満を抱く人も多い感じです。

 いっぽうで、〝護憲派〟とされる人びとはどうか。
 ネット界では「パヨク!」などと揶揄されていますが、高々と「護憲」の旗印を掲げて、「反戦」「平和主義」を唱える人びとも、そこそこ健在です。

 国を守るのだったら〝戦争〟もするぞ! 周辺国に〝ナメ〟られてたまるか、と日の丸をかざし、鼻息の荒くマントを翻しヒロイズムに浸る〝改憲派〟に対し、こういった〝護憲派〟は論理的に高い視点に立って、高踏的な発言をします。都市部の知識人階層、もしくは〝インテリ系〟〝意識高い系〟〝リベラル系〟などといった人びと・・・。
 たしかにこういったリベラルを標榜する人びとは、野蛮な物言いや強権を忌み嫌います。そしておおかた自分たちと意見を同じくする人びととの会話を好み、そうではない人びとと〝けんか腰〟で闘うことをしません。
 その意味で〝内向き〟の人びとなのですが、いっぽうの〝改憲派〟の人びとも、ネット界を見ても仲間内で盛り上がっているようなので、どっちもどっちなのかもしれません。
 
 ですが、中国が攻め込んできたらどうする。北朝鮮が核爆弾を打ち込んできたら、あるいはロシアが北海道を占領したら・・・、手を拱いて、わが国は「平和主義」ですから、と言ってすむのか!
 いつか左翼の論客とされた経済評論家が、つぎつぎと激しい質問をぶつけられて、顔を真っ赤にして反論とも言えない、「だったらしかたないじゃないか!」とヘンな言い逃れをして、大いに突っ込まれていた場面を見たことがありましたが、日ごろの辛口トークはどこにいったのかと思うくらい、かなり情けないものでした。
 つまり、平和主義をかざしてみても、押し被さるようにつぎつぎと「現実?」といったものを突きつけられると、だいたいは答えに窮して反論が容易にできない。
 けっきょく、顔を赤くして言葉につまり、やりこまれてしまう。どうにも、みじめな〝護憲論〟という図式しか見えてこない。喧嘩ができないたちなんでしょう。

     <フランス人権宣言1789年>

 しかし、よくよく考えてみると、〝改憲派〟の物言いは、彼らが言うようなことが実際に起こっているわけでもなく、煎じ詰めてみれば、いわば〝架空〟の話です。
 それに、そうした危険が迫っているとしても、それを現実的に回避する方法は、憲法を変えて、ミサイル網を日本列島に網の目のように張り巡らし、最新鋭のイージス艦やイージス空母を倍増させ軍事力を強めればいいというものではない。
 知恵があるなら、軍事力だけではなく、いくつかの方途を思いつくはずですね。

 仮に攻め込んでくる相手が狡猾かつ狂暴な中国(?)だとして、相手の中国は、かつて日本の軍閥・軍隊に国土を蹂躙され、殺戮や強姦などの災殃を被った国です。
 そこに現在、対峙する米軍の基地がたくさんある日本。日米安保の事前通告制など無きが如くで核兵器を積んだ米国軍艦船が日本には存在する。しかも、それらはすべてこちら側に砲口を向けている。さらに日本政府は、米軍の核はないと嘘をついている可能性大である。
 となれば、尖閣列島に戦闘機を飛ばし、艦船を潜入させ、日本の領海に圧力をかける。
 それはさほどむずかしい論理にあるわけではない。

 ところで、いまの秋学季の講座は、そうしたいわゆる「9条」の問題だけではなく、そもそも憲法の大前提にある「人権」といったところから考えはじめています。
 たとえばフランス革命時に唱えられた「人権」というものはいかなるものか。「人権」とは、人間に生まれながらにして与えられたもの、自然権なのだ、天賦のものである、といったことは本当だろうか。そんなところから、お話しははじまっています。
 「日本国憲法」の前文には、「人類普遍の原理」や「恒久の平和」が掲げられているのですが、その「理想」主義の根拠はどこにあり、それは〝現実〟という性格をおびているか。そもそもそうしたものは、これまでも、これからも存在するのか。

 怖れずに言うならば、それらは「虚構」ではないのか。では、虚構だからダメなのか。
 いやむしろ、理想とはそうした虚構のなかに芽生えることで意味や人びとへの説得力を持つのではないか。
 それに対して「現実」といったもの振りかざしても、その多くは思い込みだったり、自分たちの言い分に都合よく引き寄せられたものだったり、それ自身、きわめてもっともらしくしているけど、けっこういいかげんで曖昧な代物じゃないのか。

 講座では、そうしたお話を、哲学的と言えば聞こえはいいのですが、いずれにせよそうした思考の輪の中でやりとりしながら、テーマである「シン・あたらしい憲法のはなし」とは何か? についてお話と対話をしています。

 すでに講座の半分に当たる第2講まで終わり、会場での対面講座はあと二回ですが(12月1日と12月15日)、アーカイブ版がありますので、これまでの講座を視聴するなどして、いまからでもじゅうぶんに参加できます。またすべてアーカイブでも受講できます。

ご興味ありましたら、
 NPO新人会講座担当
   npo.shinjinkai1989@
                          gmail.com
  までご連絡ください。
(詳細については、このblogをたどっていただければ出てきます!)

  ◇  ◇  ◇

 ところで、季林書房のホームページが本日更新されました。
  https://kirinsyobo.com/ 

 編集者日記はいまの
 高麗山の景色と季節感について、
 書評は、ヒオカ著
  『死にそうだけど生きてます』
   cccメディアハウス2022年
 を取り上げています。
 是非お読みください。

 それと季林倶楽部の入会をお待ちしています。
 まだ書籍を発刊していませんが、現在進行形で、会社の目標として、なんとか2冊同時に年度内には発刊したいということです。
 その際には、無料講演会の開催や特典等を準備を考えているとのこと・・・。
 多くの方々のご入会とご支援をお待ちしております。
 
<大磯から相模湾を望む。10月の夕陽です!> 

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☆☆「季林書房」のホームページが更新されました!☆☆

2024-10-13 09:43:02 | 〝哲学〟茶論
 ハン・ガン(韓江)の
ノーベル文学賞受賞につづいて、
被団協(日本原水爆被害者団体協議会 )も、
長年の地道な活動で
ノーベル平和賞を受賞しました。
 
 アジアで、あいついで意味のあることが
つづいたように思います。

 ノーべル平和賞の発表は、
2024年から委員長に就任した、
まだ39歳と若い
ヨルゲン・バトネ・フリードネス委員長が
発表しました。
 フリードネス委員長は、
ヒロシマ・ナガサキの被爆者は、
「理解できないほどの痛みや苦悩」
(incomprehensible pain and suffering)
を受けたことを
世界が知る必要があるとして、
核兵器でもたらされた被爆者の苦痛を
理解しようとする「想像力」の欠如に対し、
強い懸念を示すとともに、
彼自身がよく口にしていたとされる
「平和賞が希望を生み出す」
ものでありたい、
という思いが込められた
発表だったように思います。

 若い委員長の発表シーンを見て
思いましたが、
世界はほんとうに少しずつではありますが、
明るい光の方へと向かっている印象を強くしました。

 ところで、
「季林書房」のホームページ
10月15日に更新されました。
  
 https://kirinsyobo.com/

 15日はホームページ更新日と覚えて
いただけると、うれしく思います。

 ちなみに今回の書評は、
 O. Henry の『The last leaf』に
 ついてです。
   <『The Last Leaf』のイメージ>
 毎月15日ごとに編集者日記および書評は、
あたらしいものになっています。
 もちろん、これまでのものも
残っています。
 一社員として、お読みいただけると、
ありがたく存じます。 

 それと、昨日14日からは、
NPO新人会・季林書房共催の
秋学季講座
〝シン・『あたらしい憲法のはなし』〟
が開講されました。

 参加された方々からは、「憲法」の話しは聞き飽きたし、政治的でどうも・・・とか、
もうあたらしい話しじゃないんじゃない?
そんなふうなとらえ方もあったみたいですが、講座にご参加いただくと、おそらくはこれまでのありきたりの憲法論とはちがうお話になっているかと思います。

 まだ第1講が終わったばかりで、
次講は11月4日(月代休)です。
 これからのお申し込みでも、
アーカイブでじゅうぶん受講できます。
ひとりでも多くのご参加とzoom等での
意見交換を通じて、
おもしろくてためになる「憲法」の時間を作っていきたいと考えております。
 ご参加いただければ幸いです。


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おどろきました! ハン・ガンがまさかノーベル文学賞を取るとは?

2024-10-10 20:28:36 | 〝哲学〟茶論
 さっきネットニュースを
 何気なくみていたら、
わたしがここ数年、
もっとも素晴らしい作家だと思った
ハン・ガン(韓江)が、
ノーベル文学賞を受賞したというニュースを目にしました。



 ノーベル賞というと、あまりに権威的で、文学にはふさわしくないとは思っていますが、この数年の文学作品に対しての眼は、そんなに悪くはないな、いわばうわべだけ取り繕った文学作品は選ばれない安心感があったと思っています。
 ハン・ガンはまだ50代前半の若い女性作家です。
 これまで比較的、大家といった方々が受賞していたので、こんなに早く受賞して、今後の作家活動に変調をきたさないか心配ですが、彼女の小説の凄さやその感性には素晴らしいものがあり、一読者としてはじつにうれしいところです。

 いま仕事をしている「季林書房」という小さな出版社のホームページに、2ヶ月ほど前、ハン・ガンの『少年が来る』の書評を書いています。
 下記に「季林書房」のホームページのURLを貼っておきますのでお読みください。
 この作品は1980年の「光州事件」、いわば朴正熙大統領殺害事件後、権力奪取をはかる全斗煥ら軍部が、民主化を要求した光州市民や学生へ振りかざした過酷な暴力と弾圧への鎮魂の一書です。



 できれば、この『少年が来る』も含めて、『別れを告げない』などハン・ガンの作品を読んでいただければうれしく思います。
    ◇  ◇  ◇
 それと2024年秋学季の講座『シン・あたらしい憲法のはなし』(全4講)もまだ、ぎりぎり申し込めます。
 いま改憲論がさかんですが、
いまの日本国憲法のほんとうのところって、
知られているんだろうか?
 そんな問題意識を、みなさんで考えてみようという試みです。
 ぜひご参加ください。
 こちらの方もflyerを貼っておきますので、ご覧ください。

 初講日は10月14日(月代休)です。zoom受講も可能ですし、アーカイブでの受講も可能です。できれば池袋の会場においでいただければ幸いですけど・・・。
 お申し込みは、mailでNPO新人会まで
 npo.shinjinkai1989@gmail.com

 よろしくお願いいたします !


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◆◆秋学季講座の日程と会場変更のお知らせ!◆◆

2024-09-20 12:20:34 | 〝哲学〟茶論
  ◇はじめに◇

 まったく個人的な感想ですが・・・、
自民党総裁選挙も立民の党首選挙も、
何の意味も見出せない感じがしてなりません。

 政治への無関心とはちがう、おそろしいほどの無力感・・・。
そうした雰囲気が充満していて、
もちろん体験はしていませんが、
こんなふうにして1935年の天皇機関説事件以降、
軍部の権威主義的な暴力的介入を阻止できなかった時代のようす、それに近づきつつあるのを、感じざるをえません。
 あのときも、良識的な政治家と目された者は隠栖を決め込み、非力な知識人は沈黙したままおよそ抽象の世界に閉じこもり、おかしいと感じた市井の文学者やインテリは、腰が引けて、笑いと皮肉で世の中を斜に眺めていました。  

 戦後日本の政治シーンで、
こうした政治への絶望感が、いつごろふくらんできたのか。
 いまから近いところで考えると、
アメリカ流新自由主義のごり押しをはかった小泉純一郎の「郵政改革」の熱狂(2000年代前半)がおこったときあたりから、それは肥大化し、いまに続いているようにわたしには見えます。

 あの意味のない改革騒ぎでおこった熱狂の、祭りのあとめいた徒労感は、その後のこの国をぼんやりと覆って、その「曇り空」のなかで、自己責任の掛け声のなか、人びとの分断は進み、憎しみがまさり、コミュニティは解体に向かい、都市と地方の格差は何倍にも増していく。そして、それはいまに続く。

  ・・・と、分析してめても仕方ないですね。
 では、どうするか? です。

 そんなわけで、こんなときこそ、もう一度わたしたちの「原点」を見返す必要を感じるわけです。ましてや、小泉純一郎の息子が、ブッシュ政権もどきに出てきそうななか・・・。
 そこで、この秋学季では「日本国憲法」をテーマにして、その「原点」を考えていきたいと強く思ったしだいです。

 はたして戦争の惨禍への深い悲しみと非戦の思いは、いったいなんであったのか。
 映画監督の大島渚の言葉を借りれば、
まるで米兵がチューインガムやチョコレートをばらまくようにして、アメリカは日本人に〝民主主義〟をばらまいたのだ・・・その象徴として「日本国憲法」がある・・・そうしたシニカルさも含めて、そもそも「憲法」とは何か? それを論考します。
 いわば、メンドくさい事柄を、もう一度、政治的文脈ではなく、哲学的な視座から考えてみたい。そのように思っています。
    ◇   ◇   ◇
 そこで、秋学季講座のお知らせと訂正です。
お時間のなかなか取れないかたも、また遠方の方にも、zoomおよびアーカイブでの受講が可能ですので、ぜひご参加いただきたいのですが、問題は昨今、会場の確保がかなり難しくなってきていることです。

 申込期日初日の本日の9月20日に会場の申し込みましたが、  
12月1日と22日が予定通り会場を押さえることが出来ませんでした。

以下訂正したflyerです。

 
  結果、12月1日の会場は、としま区民センターとは反対の池袋西口・南口下車4分の「としま産業振興プラザ」(通称「池ビズ」)の美術室の会議室利用ということになりました。
 また12月22日は会場確保が出来ず、日程を変更して12月15日(日曜日)として、こちらは「としま区民センター」505会議室となります。

 時間は共にいつものように14時~16時です。

 すでにご予定等、入っている方もいらっしゃるかと思いますが、その場合はアーカイブ受講も含めてご検討ください。
 上記のflyerをご覧の上、ご参加等よろしくお願いいたします。 

 また前回のblogで、数日ブログ上で初講日の日付がまちがったまま掲載されていました。
 正しくは、初講日は10月14日(代休)です。
訂正等、よろしくお願いいたします。

 また、申し込みは、上記のflyerにもありますように、
    npo.shinjinkai1989@gmail.com
 です。

 メールをいただいて数日中に、
みなさまそれぞれに担当から連絡が行くようになっております。

 それでは多くのみなさまのご参加をお待ちしております!

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◆◆季林書房HPの更新と秋学季講座のお知らせ!◆◆

2024-09-15 10:41:48 | 〝哲学〟茶論
 両親と姉のお墓参りもあり、また亡父がお世話になった方へのあいさつもあり、日本海まわりで秋田に行ってきました。

 途中の山形も秋田も9月とは思えないくらい猛暑の毎日でした。
 田んぼを見ると、稲の生育はおおむねよかったのですが、気のせいか、わたしが子どものころ見ていた整然と稲穂が実っていた田んぼの圧倒的な美しさがうすれ、田んぼがすこし雑になっている気がしてなりませんでした。
 「米」では食っていけない農家の現実もあり、Holiday Farmerが多くなったのか、あるいは「公社」型の企業農業が増えて、生産量だけしか目がいかなくなり、そもそも米作りの環境に不可欠な山や水、入会地などへの手入れがおざなりになっているのか。
 山も野原もじつは人の手が加わることによって、その美しさや調和が保たれているわけで、けっしてなすがままの自然ではありません。   

 いずれにせよ、農業は、資本主義の論理とは合致しがたい「生活生存」の思想を宿しているものです。それは、農家出身の両親をもち、子どものころ繁忙期に手伝いに行った記憶が言わしめることでもあります。

 ちなみに途中、山形県の酒田に立ち寄り、土門拳記念館に行ってきました。
 土門拳の写真は、これまで写真集などでほぼ見ているものの、ひたひたと寄せてくる、なつかしく、また土の強いにおいの立ちこめる郷愁のなかに、激しく厳しい現実が立ち現れる。
 しばし、写真に写された人びとや仏像、そして人形の「眼」の迫力に圧倒されて数時間過ごしてきました。いい時間でした。

<上は土門拳記念館*記念館の左奥に薄く見えるのは鳥海山。
 下は『こどもたち』の逆上がりの写真。そこに自分がいるような・・・>
 

 ところで、2024年秋学季講座の日程等がきまりました。
 詳しくは、季林書房ホームページをご覧ください。
 初講日は、としま区民センターで10月14日(月曜代休日)14時開講。テーマは、ずばり現在の〝日本国憲法〟です。

 昨今の、自民党総裁選候補者の話をぼんやりと聞いていると、候補者全員が「改憲」論を語っているのですが、おそらくこの人たちは、改憲したとしても、その憲法すら守らない。自分たちの都合のいいように早晩〝言い換え〟てしまうのだろうな・・・、と。
 はたして「憲法」って、なんだろう?・・・。
 はるか古代のアリストテレスも孔子や孟子なども、為政者の圧政や横暴を許さない政治のあり方を求めて、ひとつに政治理念を説き、または政治道徳を説いたものです。
 それが現代では、「憲法」という形になった。きわめてシンプルな事柄です。そんな「憲法」の現在のすがたを考えてみたいと思います。

 お申し込みは、いつもの 
   npo.shinjinkai1989@gmal.comまで!


 それと10月5日(土)15時から西巣鴨の大正大学で、
『京の映画芸術~太秦京都撮影所の栄光』
 というテーマで講座を行います。

 日本映画のお話しとからめて、映画芸術発祥の地ともいえる「京都」の過去と現在について語ります。
 こちらの方の申し込みは、
 京都新聞文化センター
TEL:075-213-8141 FAX:075-213-8139
にお願いします。

 というわけで、季林書房ホームページともども、よろしくお願いいたします。
 季林書房HP https://kirinsyobo.com/
 


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☆☆季林倶楽部のお知らせ・その他☆☆

2024-08-26 14:47:31 | 〝哲学〟茶論
 すでにお知らせいたしましたが、
「季林書房」のホームページが完成しました!
 毎月、中旬ころには定期的に更新する予定でいます。

 「季林書房」は、従来の出版社とはちがって、
みなさまとともに時代や時間をすごし、
ともに考えながら、
さまざまなことをやりとりできる、
語り合える「場」としての役割を考えています。

 そこで、その「場」の一つとして、
「季林書房」では、季林倶楽部を立ち上げました。

 季林倶楽部では、ご参加いただいた方々とともに、
さまざまなワークショップや講演会、学習会や写真展など、
「企画=場」を作っていきたいと考えています。
季林書房ホームページから、
ぜひ〝季林倶楽部〟のページをご覧いただき、
ご賛同いただければ幸いです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  
 <パレスチナ・ガザ 
   イスラエル軍の空爆のあと>
 ・・・というわけですが、
日本では、アメリカの大統領選挙の熱狂に、うまい具合に便乗するかのように、〝postキシダ〟をめぐる一保守政党の総裁選挙に、マス・メディアがこぞってのめり込んでいる。まさに醜態とも見えます。
 ときまさに、異常な猛暑と暴風雨による河川氾濫のなかで、予想どおりの〝米不足〟が出来し、農産物価格は高騰するしで、人気とりの給付金ばらまき政策も、人気回復がかなわぬとなれば、なにげにお座なりとなり、すでにしょぼついた状況へ・・・。
 しかも、台風はやってくるし、地震はいつくるか分からない。能登地震でも分かるように、国の防災機能は拙速かつ遅滞の極みで、まさに地に墜ちている印象すらします。なんにもやれていない。
 わたし自身の体験でいえば、ちょうど高校教師のとき日本海中部地震がおこり、わたしの勤務校のあった秋田県能代市ではかなりの被害があったわけですが、そのときの防災システムを思いだしてみても、いまの国のシステムはあまり変わっていない。とくに復旧のスピードが、あのときより落ちている印象がしてならない。
 東北や北陸は、すでに中央から捨てられた地なのか。そんな気にもなってしまいます。

 そんな時期にノー天気な〝総裁選挙〟の狂騒・・・。しかも、どれも変わり映えのしない二世議員か利権議員の大きな顔と顔・・・。
 いくらお祭り好きの日本人でも、まずくないかと思うわけで、ちなみに近世あたりから、すこしでも日本の歴史をふり返ってみると、〝踊り〟はじめると、だいたいうまくいかないことが多い。
 主だったものでも、〝ええじゃないか〟と〝東京音頭〟・・・。
 戊辰戦争に日中戦争からの対英米戦・・・。

 話は変わって、写真に挙げましたが、パレスチナ・ガザでのイスラエルによる無差別殺戮の惨状は悲惨極まりない状態となっています。
 もはや、むきだしの民族殲滅の欲望の修羅場と化している状況と成り果てていると言っていい・・・。いま、こんな国にいて、なにも出来ないでいることの恥ずかしさを感じます。

 この事態が起こる前に、すでに「みすず書房」から出ていたエドワード・W・サイードの何冊の本や『イラン・パペ、パレスチナを語る』(つげ書房新社)、最近では『ガザとは何か』(大和書房)といった本を読んでいたのですが、1970年代に書かれたガッサーン・カナファニーの『太陽の男たち/ハイファに戻って』(河出書房新書)のころより、はるかに酷いことになっているのが、いまさらなのですが、痛々しいほど突きつけられ、心が痛む思いです。

 すこしお話しすれば、そもそも 「イスラエル」という国家。これはいかにも「人工国家」というべき国なのですが、19世紀までにはパレスチナにはわずかなユダヤ人が住んでいる状況で、その地には多くのパレスチナ人が住んでいて、一種の共存という状況でした。
 しかし、この時代に高まった「国民国家」ブームに刺戟され、民族と土地の自己証明を求める「シオニズム運動」が勃興してきます。
 シオニズム運動は、けっしてユダヤ教の教義にあるものではなく、むしろユダヤ教の長老からは、異端とされたものですが、20世紀の二度の大戦を挟んで、この「シオニズム運動」は政治運動としてユダヤ人のなかで高まっていきます。
 そんななか、西ヨーロッパや東欧などで差別や迫害を受けてきたことで移民してきたユダヤ人がこの地にやってきて(それでもパレスチナのユダヤ人はまだ少数派でしたが)、その後、ナチス・ドイツの行った「ホロコースト」の被害の記憶を包摂しながら、イスラエル建国によって人口が増加し、さらにソ連崩壊後、ロシアでの差別や迫害から逃れてきたユダヤ系の人びと、とくにこのロシアからの移民は2000年代前半で120万人を超えて現在イスラエルの人口の約15%以上を占めるまでになっているのですが、その間に、非ヨーロッパ系のユダヤ系の人びとも移民としてやってくるというようにして、いつしかイスラエルという国家は強固な国家体制をつくり出していきました。
 その結果、当然のように急激な人口増による弊害がおこり、またユダヤ人の中に「アシュケナジ」と呼ばれるヨーロッパ系、東欧系の階層、「セファルディ」や「ミズラヒ」と呼ばれる北アフリカ・中東系など 非ヨーロッパ系などの階層など多様な人びとの階層形成による軋轢や矛盾が発生してきます。
 しかも、くわえて、それらの人びとが〝乳と蜜の流れる土地〟への渇望を隠そうとしない。勢いパレスチナの土地を収奪していく。
 そうすると国家権力と政治権力者は、自己保身と権力保持のため、〝イスラエル〟国家の統合とその崇高さの「自己証明identity」を求め、パレスチナへのアパルトヘイトを機に、ことある毎に「戦争」に打って出る。このことは、これまでの世界史によく現れた「国家」の凶暴性とよく似た構図です。

<アウシュビッツで「イスラエル国旗」
  を翻して歩くイスラエルの若者 2012年>
 「国家」と戦争、そして惨禍になかに放棄される人びと。災害のなかで放置されつづける人びと、そしてガザの悲惨さは、われわれいまを生きる人間のまさにおおきな問題であるといってもいいでしょう。
 それを選挙という政治的駆け引きの道具に供したり、片々たる自己実現のためのもっともらしい理屈に包み込んでみたり・・・。
 まずは、この現実と歴史に、固く目を凝らして見ていきたいものだと思います。

     <国立歴史民俗博物館 蔵>  

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☆☆季林書房HPができました!☆☆

2024-08-15 11:17:59 | 〝哲学〟茶論
 猛暑と地震と台風と・・・

 おそらくいま世界は、邪悪で利己的で金権への猛烈な欲望をたぎらせた人びとの支配に覆われるか、あるいは慎みを知り、思慮深さと温順な気風をまとわせている人びとが、静かに物事の是非を語る時代を再建するか、その分水嶺にあるような気がします。

 この数年来の暑さは、まさに尋常ではなく、能登地震被害の復旧が遅々として進まないなか、九州の宮﨑・鹿児島でおこった地震を、「南海トラフ地震」の危険が高まったとして、必要以上に煽る政府・マスメディアの狂騒は度が過ぎてますし、あいついで大型台風が接近するなか、〝注意しろ〟とはなんとも無責任だし、ましてや岸田某という首相の退陣で、保守政治家が暗闘するさまは、まさにこの国の何かが壊れていっているのじゃないかと思わざるを得ません。

 そもそも岸田某とほぼ似たり寄ったりの保守政治家が目先を変えて出てきたところで、日本国憲法を超越したアメリカ支配の現実と過剰な軍備増強は続くだろうし、さらに利権がらみの原発再稼働問題、くわえてつぎつぎに設営された太陽光パネルによる環境破壊など、上滑りなSDGsの根本が崩れ、それに加えてマイナンバーカードの強圧、利権が渦巻く大阪万博(それを関西万博と言い換える姑息さ)、何事もアメリカべったりで、核兵器全廃の表明もせず、イスラエルのパレスチナ殲滅の暴挙にも無関心であり続け・・・というように、多くのさまざまな不条理があっても、こうした保守政治家は目を閉ざして、でまかせに口当たりのいいことばかりを大騒ぎしてしゃべり続ける。
 彼ら彼女らは、あきらかに慎みを知り、思慮深さと温順な気風をまとわせている人びととは異質です。


    <清閑高雅>

 といったように、この数ヶ月ブログを更新しないままに時を過ごしたせいか、どうもよろしくありませんね。
 やはり、思ったこと考えたことは、口に出したほうがよく、人びととともに話しをやりとりして気風を興すのがいいですね。

 というわけなのですが、ここでお知らせです。
 かねてからみなさんにお知らせしていました図書出版「季林書房」のホームページが立ち上がりました。
 Google等で「季林書房」と検索していただければ、
御覧になれます。
 https://kirinsyobo.com/ 

 ただし、まだ肝心の書籍刊行には至っておらず、その意味では不完全なものですが、とりあえず、これまでのわたしが行った講座がアーカイブで視聴できる体制は作りました。ぜひ、ご視聴いただければ幸いです。
 それと月一回毎に「書評」や「編集者日記」等も更新していくつもりです。

 このblogともども、今後ともよろしくお願いいたします。

 また10月14日(月曜代休)を初講として、秋学季講座も開講します。
 テーマは日本国憲法で、
 「シン・〝あたらしい憲法のはなし〟
  ~日本国憲法が時代遅れって本当か?~」
 というタイトルで連続4講座を計画しております。
 会場はいつもの「としま区民センター」となります。
 それとそのまえに10月5日(土)には、京都商工会議所・京都新聞共催の講座が大正大学であります。
 テーマは、「京都・太秦撮影所」です。
こちらの方は、京都商工会議所のお問い合わせください。

 思うに、この国も、また世界も、嫌になるくらい不条理と不正義に満ちている感じです。
 でも、モロッコの砂漠のなか、砂嵐の夜、空を見上げてみてふと思ったのは、こうした漆黒の闇のなかにあっても、まちがいなく天空にはたくさんの星で満ちているのだろうということでした。
  暗き夜空にも 星は満ちている
 砂漠のなかで星はまさにいのちの輝きのようでした。

  
 2024年の旧盆も過ぎました。
 猛暑と地震と台風。まだまだいろんなことが起こるかもしれません。
 であっても、これからしばらくのときを経て、静かに秋の風情を感じられてくるかと思います。

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☆☆「京都学講座」と「新人会講座」とお芝居のご案内です!☆☆

2024-04-29 12:20:45 | 〝哲学〟茶論
 明治のはじめのころの地方紙などを見ていくと、地方の篤農家や知識人などのなかには、私財をなげうって、その地域の教育に尽くした人物が少なくないのに気づかされます。

 ほとんど中央では知られていないそうした人びとは、学力のある子どもたちに学費と生活費を援助して上級学校に進学させたり、また当時の国民の大多数を占める農民の教育こそが大事だとして、資金を投じて村の小学校の整備を行ったり、貧困のために厳しい労働を余儀なくされ学校へ通えなくなった子どもたちがいたら、まずは親に子どもを学校に通わせるように説得して、そのうえで生活費や学用品の援助をしたり、さらに村に図書館を建て、いつでもだれでもさまざまな本を読めるようにしてやったり、ときには自らそうした子どもたちを集めて、自宅に住まわせ生活のめんどうを見るとともに学校に通わせ、その一方で子どもたちに読み書きや算数を教えたり、学問を説いたり・・・。

 その後、現在のように学校制度が整うと、むしろそうした意欲は減少していく傾向にあるのですが、いずれにせよそれらの行為は、明治初期の人びとにとって「学び」がいかにかけがえのないことだと考えられていたのか、そんなことを感じさせて事柄のように思います。
 
 もちろんそこでの「学び」とは、多くは生活の糧を稼ぐための「読み書き算盤」といった傾向がまさったものだったと言っていいでしょう。しかし、そうしたことを通じて、未知なることに触れ、自らの不足を知り、また努力する意欲を養い、技能だけではなく、技能を身につけるために必要な物事に対する真摯な態度や優れた先達や先輩への敬意もまた学ぶ。
 その意味で、そこでの「学び」とは多様でありもし、また奥深いものだったと言えます・・・。
 
 と、そんなこんなを思いつつ、2024年もあっというまに4月を越え、5月にさしかかってきました。そこで、こんな前振りをしたあとで恐縮ですが、この5月から初夏までの講座などのお知らせをします。
 5月11日には、京都商工会議所と京都新聞社主催の「京都学」の講座を単発で行います。今回のテーマは、「歌舞伎」を中心に京都の南座についてのお話しです。タイトルには「江戸から明治まで」と銘打っていますが、ちなみに京都の南座が南座と名のるようになったのは明治以降ですので、そうしたタイトルにしました。ですが、今回はおもに、
「出雲阿国」からの京都の歌舞伎
のありようをお話しします。場所は西巣鴨の大正大学で行います。
 ご興味ありましたら、京都商工会議所075-341-9764 までお問い合わせください。下記はレジュメの一部です。
 

 つぎは新人会講座です。これは毎年夏と秋の二回にわたって行っている市民講座ですが、2024年夏学季講座は、
「現在という
  〝不機嫌な時代〟を考える!」
というテーマで全4講座を行います。
 平成という時代から現在までの約30年を、もう一度しっかり記憶に留めておこうという試みです。
 こちらのほうはメール
 npo.shinjinkai1989@gmail.com
までお申し込みください。
 初講日は5月6日(代休の来週月曜日)ですので、期日が迫っています。会場は、「としま市民センター」ですが、zoomでも、アーカイブ版での後日の受講も可能です。

 つぎはお芝居のご案内です。知人の主催する「演劇バンド」のお芝居で、残念ながら、わたしは出演しません。以前、この方々の芝居を観させていただきましたが、じつに面白かったもので、紹介させていただきます。
 公演期間が2日しかありませんので、ご都合を合わせて観劇ください。お問い合わせは、下記のflyerのなかにもありますが、
e-mail:engekiband@gmail.com
    090-7638-5093 です。 






 

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☆☆〝新しい春〟が来たことと、2024年夏学季講座のお知らせ☆☆

2024-04-06 14:27:13 | 〝哲学〟茶論
 やっとのブログ更新です。
 ながいこと、手抜きしていて、
 すみませんでした。
 あと1、2ヶ月で
 新たに立ち上げた出版社
「季林書房」のホームページも
 お披露目となりますが、
 わたしのこのblogは、
 「季林書房HP」からもアクセスできるようにして、
 続けようと思っています。
 それを含め、よろしくお願いいたします。

 <2024年3月 韓国仁川・旧第一銀行仁川支店内
   仁川日本人租界のジオラマ>

さてさて、2024年も〝新しい春〟がきました。
新年早々、能登の地震といい、
昨今の台湾・花蓮の地震といい、
天変地異に見舞われ、
いっぽうでウクライナの戦場では、
極寒のなか兵士が塹壕に張り付き、
イスラエルによるガザ侵略と虐殺は止む気配はなく、
ミャンマー国軍の民衆への暴力など、
世界は混沌の時代の真っ只中にあります。
さらに〝最後の帝国〟とも言うべき
ロシアや中国の武断政治のありようなど、
大戦争やテロ勃発の危機は、
なかなか去るすべを知らないようです。

とは言うものの、
少しずつ感じつつあるのは、
世の中の不正や不正義が、
つぎつぎに人びとの目に曝され
なにが問題となっているのか、
闇に隠されていた悪事が白日の下に、
暴露されてきているんじゃないか・・・。
そんな思いがしないこともない・・・。
権力者とその取り巻きの愚かさに比して、
人びとはけっして怯んではいない。
そんな気もします。

そんななかですが、今年も講座を開講します。
この「時代に杭を打つ!」の講座も、
今回で11回目、約7年ちかく行っています。
池袋に会場を借りての講座は、それ以前にもはじめていましたので、
すでに20年近く、
こうした自主講座をやり続けていることになります。
その間、いろいろな方々、年齢も経歴もさまざまな方々とお会いでき、またお話しを聞かせていただき、深く感謝を申し上げます。

そこで今回のテーマですが、「この国」の直近30年の時代を、つまり平成・令和の時代を考えるというものです。
よく〝失われた30年〟と言いますが、それ以上に、わたしが見るところ、じっさいは「忘れ去られた30年」ではなかったのか。
つまり、目先のことばかりにとらわれ、この30年にどんな事件が起き、いかなる問題が存在したのか、そしてそれらの問題はいまどうなっているのか、多くの人々は、それらを忘れさせられているのではないか。そのなかで、ただ不機嫌なままに時代を過ごしているのではないか。
言い換えれば、〝失われた〟のは、
30年の時間ではなく、
人びと自分自身のありかたのことではなかったか。
そんな問題提起をしてみたいというわけです。

講座の詳細は、下記にflyerを添付しますが、
お申し込みは、
いつものことで、お手数をおかけしますが、
NPO新人会講座担当にe-mailでお願いいたします。
npo.shinjinkai1989@gmail.com
なお、勝手ながら、
お申込期日は、初講日が5月6日ですので、
今月の末、4月30日(火曜日)までとさせていただきます。
その後に、
参加のお申し込みをいただいた方に、
講座料振込口座の案内を差し上げます。

また、各講座(全4講)の前々日か前日までに、
参加の方のメールアドレスへ、
講座レジュメをPDFで送付いたします。
なお、会場参加の方には、
講座当日もレジュメはご用意させていただきます。

講座は、zoomで受講可能ですし、またお時間の合わない方には、アーカイブでも受講できるようにしております。
参加ご希望の際には、会場参加、zoom参加、アーカイブ希望などお知らせください。

     <春満開の桜>   
       
NPO新人会2024年「歴史と哲学」
  夏学季講座
◆時代に杭を打つ!Ⅺ◆
〝現在〟という
 「不機嫌な時代」を考える!
    ~「この国」のこの30年~

◇期間:<全4講>
 2024年5月6日~7月15日
◇日時:各月日曜or代休月曜<午後14~16時>
 *全講zoom・アーカイブで受講可能
◇会場:としま区民センター403会議室
 (JR池袋駅東口下車・徒歩5分)
◇受講料:全講受講6000円<4回分>  
◇附記:各講毎、事前にPDFでレジュメを送付。
    それに沿って講座は展開されます。
【講座内容】
 
いったい「現在(いま)」という時代はどんな時代なのでしょうか。〝失われた30年〟と呼ばれていますが、失われたものは、経済的富だけなのか。それとも各時代がそれぞれ「気風」として保っていた〝精神〟といったものなのでしょうか。
 自分が存在していた時代を、人びとはどこまで記憶しているのか。〝失われた〟30年は、むしろ〝忘れ去られた〟30年ではなかったか。 「postバブル」の1990年代の世紀末から、21世紀初頭のこの30年余り、この国の人びとは、恐怖に追いかけられ、誘われるように不安をふくらませ、いつしか心を病み、生きる意味もぼんやりとしていったのでは・・・。
 必要なのは、この「現在(いま)」を見つめ直し、生きる意味を自らの手で握りしめることではないのか。
 「平成・令和」の出来事をひとつひとつ検証して、私たちの生きている「現在(いま)」が何であるのか知る、考える。みなさまの講座への参加をお待ちしております。
【日程とテーマ】
・第1講(5月6日):
  バブル崩壊と地下鉄サリン事件
   (1990年代)~危機の時代~
・第2講(6月9日):
  小泉劇場と「新自由主義」の跳梁
   (2000年代)~気分の時代~
・第3講(6月30日):
  〝1%〟の富裕と〝99%〟の貧困
   (2010年代)~分断の時代~
・第4講・最終講(7月15日):
  〝パンデミック〟と「地球」の悲鳴
   (現在まで)~不機嫌な時代~
☆☆講外講:2024年7月21日(日):
 東京湾・横須賀「猿島」要塞跡見学☆☆




 

 

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☆☆猛暑の夏と2023年秋学季講座のお知らせ☆☆

2023-09-29 11:49:43 | 〝哲学〟茶論
 とにかく今年は暑い毎日でした。
といってももう9月もあとわずかというのに、暑い日々が続きます。

<大磯北浜海岸から伊豆半島を望む>

その暑い夏のさなか、
わたしは長年、住みなれた東京の世田谷から、
神奈川県の中郡、
郡というのも秋田以来でなつかしい・・・。
その中郡の大磯町に転居しました。

ふと大都会である東京での暮らしを整理して、もう一度、物事の現実と真実を洗い出してみようと思っての転居です。
もちろん、それは東京に居たってできることなのだと思いますが、
そもそもが田舎で育ったわけで、
東京では見えにくいことも、またあからさまに見えていたことも、
湘南とは言え、どちらかというと田舎であるこの地で、
じっくり見据えることができるかなと思い立って、転居をきめました。

引越しその他の整理、
多くはこれまでの持ち物を捨棄することに費やされましたが、
そうしたことに思ってもみない手間がかかり、引越自体も東京との往復が3日に及び、
いちおう生活ができるようになるのに、約1ヶ月かかりました。
ネットがひけたのも、つい2日前です。

しかしながら、
そうしたなか世界は至るところで武張った権威主義が蔓延り、
戦火は止むことがなく、
この夏の猛暑でもわかるように地球は各所で悲鳴をあげ、
いくらSDG❛sが叫ばれても、
そうした戦争も環境破壊もその元凶が、
欲望を原動力にする「資本主義」論理にあることは自明であるのにかかわらず、〝新しい資本主義〟などとまるで雲をつかむような詭弁を誇らしげに語る輩に、したり顔で与し、あるいは身を任せている人びと・・・。
 そんなことをすこしばかりの絶望混じりの白昼夢を見ているように、
この地では感じられています。
未来について考えず、自己の狭い現実に惑溺する愚かさを
感じざるをえません。

そんななか、恒例の講座をこの秋にまた開講します。
今回は、ポストコロナを意識して、
池袋のとしま区民センター会議室を会場に、
対面での講座となります。
もちろん、zoom配信もアーカイブでの送付も行います。
より議論の場を確保する。そうした交歓を第一義にしての講座です。
ぜひご参加ください。

テーマは『〝君が代〟と「アリランの歌」』
 ~「国境」と〝差別〟の現実~
 です。
 
 差別と偏見の起源を見直そうという試みです。
 かつて寺山修司は、
〝笑い〟の起源は〝差別〟にあると述べましたが、
差別や偏見は過去現在を問わず、だれでもどこでも、
日常というありきたりの空間に、生起しているものです。
 しかし、それがときとして人びとに侮蔑と憎悪を植え付け、いつしかとんでもない厄災として降りかかり、
大量虐殺や未曾有の戦争として現れ出てくることがあります。
あるいは歴史上、植民地支配など、支配権力による長い抑圧になって現れ出てきます。

 その意味で、この国のもっとも卑近な例としての部落差別、朝鮮人差別などをしっかり見据えることは、差別や偏見というわたしたちの隠微な情緒を見据えることにもなるかと思います。
 flyerの「講座内容」にも書きましたが、
そうした問題を必要以上に深刻ぶらず、
悲惨な事実として大声で糾弾することもなく、
わたしたちのありきたりの日常のなかから眺めていこうと考えています。

 ちなみに3月上旬(日程は未定)にflyerにもあるとおり、
「講外講」として、みなさんと「ソウル紀行」を計画しています。
 万障お繰り合わせの上、ご参加いただければ幸いです。


以下、flyerの要約です!

NPO新人会2023年「歴史と哲学」
     秋学季講座
◆時代に杭を打つ!◆
 対面講座!
〝君が代〟と 
  「アリランの歌」
  
~「国境」と〝差別〟の現実~
◇初講日 2023年10月14日土曜日 
◇期間:<全4講>2023~24年
     10月14日~1月13日
◇日時:各月第2土曜日・第3講のみ日曜日開講
 <午後14時~16時>
◇会場:としま区民センター会議室
(JR池袋駅下車東口徒歩5分)     
 *全講zoom・アーカイブで受講可能
◇受講料:全講受講6000円<4回分>
*学生3000円  
◇附記:各講毎、事前にPDFでレジュメを送付。それに沿って講座は展開されます。
【講座内容】朝鮮人への日常的な軽侮や差別、「在日」への偏見は、どこに起源があるのか。一方、差別される側である彼ら彼女らの〝ニッポン=ilbon〟への憤りや怨恨、その深淵さを、わたしたち日本人はどう考えればいいのか。そもそも〝差別〟や〝偏見〟はマジョリティmajorityが、あるいは立場的に優位にある者が、少数者や劣位にいる者を虐げ翫ぶ邪悪な心理だと、言葉では括れます。しかし、そもそも〝差別〟の歴史は古くその現実もなかなか変化しない。いつも絶えることなく、世の不満や疎外感を温床に隠微に人びとの心理に横たわって噴出してきます。秋学季講座では、そうした〝差別〟や〝偏見〟という重いテーマを、深刻ぶらず、また悲惨な眼差しを振り向けるのでもなく、いまの現実として4回にわたって考え直そうと思っています。講外講のソウル紀行も含め、みなさんのご参加を、お待ちしております。
【日程とテーマ】
・第1講(10月14日)
:朝鮮・韓国。〝差別〟の歴史と現実
            ~差別の論理と倫理。
・第2講(11月11日)
:阪済航路と「君が代丸」
          ~資本主義と
                衛生思想が生む優位性。
・第3講(12月10日)
:〝韓流〟と〝Kポップ〟への傾斜
          ~「嫌韓」と「好韓」のあいだ。
・第4講(1月13日)
:「アリランの歌」と〝君が代〟
       ~ルサンチマンと抒情の行方。
☆講外講☆
:3月上旬、ソウル3泊4日、盛りだくさんの旅
 ソウル紀行~仁川作戦記念館、
                         西大門刑務所、
                         38度線、
       堤岩里などを探訪!
*講座のお問い合わせ・お申し込みは
E-mail:
npo.shinjinkai1989@gmail.comまで
*なおお申し込みと講座料の入金は、10月11日までにお願いいたします。
◆振込先:みずほ銀行自由が丘支店(533)
    口座番号 普2775768
 特定非営利活動法人新人会まで
*お名前をカタカナで印字してご入金ください。
   よろしくお願いいたします!


  <大磯 高来(高麗)神社と高麗山>

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☆☆〝弱水三千,只取一瓢饮〟☆☆

2023-04-13 16:27:35 | 〝哲学〟茶論
 〝弱水三千、只取一瓢饮〟
 
 数日前のことですが、東京のダウンタウンといってもいい大森の映画館で、久しぶりに中国映画を観る機会がありました。

 映画の中国タイトルは『隠入塵烟』(英語だとReturn to Dust)となっていますが、日本語のタイトルは、『小さき麦の花』。

 主人公であるヨウティエ(有鉄)が伴侶であるクイイン(貴英)の手の甲に麦の種を押し当ててつくる花の形から、たどりついいた邦題だそうです(この映画の翻訳はなかなかすばらしい)。

 映画の舞台は、中国西北地方の貧しい田舎のことです。
 そこに両親はすでに他界し、三男の兄の家の作男として養われている四男の有鉄(ヨウティエ)と、そして内気で身体に障害をもつ貴英(クイイン)が、夫婦になるところから話ははじまります。
 ふたりはともに家族からしてみれば、結婚して家から出て行ってくれればいい、と思われていた厄介者でした。
 ふたりにとって、この結婚はけっして望んでのことではなく、厄介者だった有鉄と貴英は、自分たちの立場をはばかって、周囲のすすめるまま、これにしたがっただけのことでした。
 しかし、ふたりは生活のため、土地を耕し麦を植え、もらってきた鶏の有精卵からひよこを孵化させて、すこしばかり大食らいではあるものの、よく働く一頭の驢馬とともに、寄り添うようにしてともに暮らしていきます。
 映画のなかで、煌々と光を照らす裸電球の熱を逃がすため、段ボールに穴をあけ、そのなかでひよこが殻を破り生まれてくる。それを有鉄と貴英が光に顔を照らされながら、のぞき込む。一種、宗教的とも言えるその幻想的なシーンは、美しいとともに、わたしも子どものころ北国の田舎で、見たことのある光景でもありました。
 こんなふうにひよこが孵るのを見た記憶・・・。 

 そして、その冬、春、夏、秋・・・。厳しいながら美しい風土のなかで、ひっそりとふたりの時が刻まれていく。とりたてておおきな事件が起きるわけではない、ささやかで淡々とした暮らしがつづいていくのです。
 おこったことと言えば、有鉄が特異な血液型であったことで、この地方のボスに毎度輸血を余儀なくされること。
 政府の方針で、近代的なアパートに農民を住まわせるため、それまでの土壁の粗末な家を撤去すれば、報奨金がでるということになり、都市に住む家持ちのボスがやって来て、有鉄らに家を出て行くことを余儀なくすること。
 そのため、ふたりは新しい家を建てるため、忙しい労働の合間を見て、日中せっせと日干し煉瓦をつくっていました。
 ところが、そんなさなか夜中にわかに暴風雨が襲ってきて、ふたりは必死になって干し煉瓦を守ろうとしますが、泥濘に足を取られ、それでなくても貴英は足の自由がきかない、ふたりは激しい雨風にびしょ濡れになりながら、いつしか朝を迎える。
 そうした日常を、あるいは困難のなか、ふたりは手を携えて、そして互いにその手を慈しみあいながら、せいいっぱい生きていく。
 映画では、愛などという言葉はどこにも語られていません。
 でも、スクリーンに滲むようにその情感がしみだしてくる。それがふたりを取り囲む大陸の素朴な風景のなかで、うつくしい詩情となって画面いっぱいに描きだされていきます。
 中国映画にはまだ底力がある。どんなに世の矛盾を突き、社会派であることを打ちだそうとしても、日本の映画はどこかで作りものじみたチャラい感じがします。世のなかのありように正面から杭を打とうとはしない。
 その意味で、『小さき麦の花』は、さまざま、そんなことを感じさせる良質な映画でした。

 監督はリー・ルイジュン(李睿珺)。この映画を撮ったときは39歳だったようで、じつに若い監督だといえます。
 映画の舞台とされたのは、監督自身の古郷・甘粛省張掖(チャンイエ)市花牆子(ホアチャンツ)で、彼は17歳までこの村に住んでいたそうです。
 映画がクランクインしたのは2022年だったそうですが、映画のなかで、政府の進める近代的な高層アパートへの転居を良しとすることに、土地を離れ、家で鶏や豚を飼えないのは農民ではないと有鉄はつぶやきます。
 それは政府権力の農村近代化政策の矛盾をはしなくつくことになったのでしょう。そのためか、中国政府は、この作品の中国国内での上映をほとんど禁止したとされています。

 ちなみに花牆子の地は、はるか北方にある祁連(チーリェン)山脈に源をもつ中国第二の内陸河川である弱川の流域にあり、弱川がつくる湿地がそこここに点在する土地でなんだそうです。
 そこでは弱川によってもたらされる、キメの細やかな泥質土を干し煉瓦にして家を建てることが、昔からされているそうですが、泥質土には草花の種子が多く混じっているんだそうです。
 そのため家を建てると春ともなると屋根や家のそこここにいっせいに花が咲きだし、じつに華やかな景色がつくりだされる。そこで花牆子(ホアチャンツ)の地名が生まれたということです。

 素朴で、まさに美しい詩情が滲み出てくる映画。
 久しくこのような映画を見ることはありませんでした。映画が終わり、しばらくの間、映画館の座席から立ち上がるのが惜しいような、せいぜい40席にも満たない狭い映画館でしたが、映画が終わってしばらく、そこにいた観客のだれもが容易に席を立つ気配がありませんでした。

 監督のリー・ルイジュンは、インタビューに答えて、自らが生まれ育った土地に流れる弱川について、中国で伝わる一片の漢詩をあげています。
 それがこの冒頭に書かれた漢詩です。
 意味は、弱川(弱水)は三千にもわたる長い川ではあるが、喉の渇きを癒やすには一杯の水だけ掬えばいい、ということです。
 しかし、この漢詩にはもう一つの意味があって、世の中には美しい人やきれいな人は数多くいるかもしれない。でも、わたしにはあなたがいてさえすれば、それで満ち足りるし、それでいい、という意として使われるんだそうです。深い情愛の意が込められているわけです。

 中国の成金的な象徴であるBMWに乗るボスの跡取り息子。そのBMWに対峙するように、どこからともなくやってきて、ブルブルと嘶きながら草を食み、どんな重労働にも耐える驢馬。
 華美とは無縁な暮らし。地道に律儀に、それでいて満ち足りた労働と暮らし。収穫された大きなトウモロコシと馬鈴薯。そして、ひとびとのお腹を満たす麦をこねて蒸かした素朴な饅頭。
 そのひとつひとつが、なにかしらわたしたちの心に痛みと心地いい哀しみをもたらしてくれる。そんな時間がそこにはありました。

 ただし、この映画は東京ではたった二ヶ所の映画館(シネスイッチ銀座は明日4月16日10時上映まで)で上映されただけで、キネカ大森の上映は昨日、金曜日で終了してしまいました。じつに惜しまれます。
 とは言いつつ、つくづくやはり映画は、劇場で観た方がいいな。そんな余韻が映画を観て数日もたっているいまもまだ続いています。
 ほんとうに観てよかった映画でした。

 ところで今回は、この4月23日からの講座の宣伝をしようと思ってblogを書き出したのですが、けっきょく、ぜんぶ映画『小さき麦の花』の話になってしまいました。
 しかたないので、下に講座のflyerだけ貼っておきます。

 今回お話しする「学び」=教育のテーマは、わたしにとって、教師として45年以上にわたるありようの集大成になるテーマだと思っています。そうした個人の事情はともかく、ぜひ講座にご参加ください。
 ひとりでも多くの方々のご参加をこころからお待ちしております。
 申し込みはnpo.shinjinkai1989@gmail.comまで
 メールで、できれば4月20日までお願いします。


 
  
 
 
 


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「講外講」の日程変更のお知らせです。

2023-04-06 10:53:04 | 〝哲学〟茶論
 2023年夏学季講座では、
 例年のことながら、「講外講」をおこないます。
 この「講外講」という言葉は、
魯迅が作品を発表する際に、集から洩れたものながら、彼自身が愛着のあったエッセイや文章をあつめ、別途に「集外集」と呼んだことに由来します。
 でも、その題名のアイデアは、不確かな記憶ながら、どうも中国の杭州にある西湖、ここは中国四大美人の一人に数えられる西施(せいし)入水にまつわる伝承でよく知られたところですが、その湖畔にある「楼外楼」(日本にもその名前にあやかった中華料理店はいくつか存在します)という古くからある料理店に由来するようです。
 もしかして、逆だったりするかもしれません。 

 <西湖の船上から見た楼外楼。下は楼外楼から望む西湖>

 この料理屋には十数年前、食事をしに訪れたことがありますが、大きな窓から靄にかすむ西湖が望まれ、紹興酒をいただきながら、蕩蕩としていかにも気持ちよい時間が過ぎていったのを憶えています。
 その魯迅と西湖のあいまった記憶に郷愁を感じながら、講座後の楽しみとして、いつも講座では、「講外講」という楽しみの場を設けているというわけです。
 
 そんなわけで、これまでの「講外講」では、足尾銅山跡、秩父事件の足跡をたどったり、幕末の尊攘運動の事跡、このときは生麦事件の起こった生麦までいきました。あとは芭蕉の『奥の細道』をたどるべく日暮里から千住まで歩く。それに明治の元勲の別荘や吉田茂邸のある大磯探訪などこれまでもいろんなところに出かけました。
 そこで、今回は伊能忠敬の出身地でもある千葉の佐原を訪れ、あわせて佐倉にある国立歴史民俗博物館の見学を、と考えています。

 ただし、日程ですが、
 当初は7月8日土曜日としていましたが、わたし自身の都合が難しくなり、一週間ずらして、7月15日土曜日にしたいと思っています。
 下手をすれば、梅雨の真っ盛りかもしれませんが、今年は暖冬もあり、この時期には梅雨明けになるようにも思え、当たり外れはあるものの一か八か、15日に予定変更をいたします。
 ちなみに、わたしはけっこう〝雨男〟でして、「講外講」の一つであった2022年の日吉慶応キャンパス内にある海軍連合艦隊地下壕の見学も台風で流れたことがあります。
 ですから、外れたらすみません!

 それと、講座についてですが、以前も申し上げましたように、すべてzoomでおこない、当日受講できない方には、アーカイブを送付して、お好きな時間、ご都合の良い時間に受講参加できるようにしております。
 もちろん、わたしのお話が終わったあと、質疑応答や討論の時間を多めに取っており、ここでみなさまの疑問点やそれぞれのお考え、ご意見をお聞かせ願えるようになっていますので、zoom参加の方が〝白熱講義〟を味わえるのに適しています。
 とは言え、発熱後の余熱を楽しむのも、じゅうぶんありだと思っています。
 その意味でも、一方通行の講座にはなっていない、zoomだからこそ、いろんな意見を聞ける。そんな講座になっています。
 〝白熱〟のためにも、みなさまの多様な意見や声が必要ですので、ぜひ多くのみなさまのご参加をお待ちしております。

 以下、講座のflyerを貼っておきます。

 お申し込みは、4月20日(木)まで、
npo.shinjinkai1989@gmail.com
  にメールでお願いできれば幸いです。

 折り返し講座担当から、詳細についての返信をいたします。よろしくお願いいたします。



  

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説得すること。

2023-04-02 15:30:38 | 〝哲学〟茶論
 世界は、いま、どこを見渡しても〝対立と分断〟だけが、したり顔でのさばっているように見えます。
 近年になく熱いものやヒューマンなものを感じさせたWBC(World Baseball Classic )のさなか、もちろんBaseballのさかんでない地域には、その感動の波動は縁遠いものなのでしょうが、習近平はロシアに行きプーチンとひそひそと面談し、岸田文雄はウクライナに赴き、自身の選挙活動の癖がとれないのか、「必勝」と書かれた宮島しゃもじ持参し、ゼレンスキーに応援してるよとエールを送る。戦時下にあるということへの驚くばかりのリアリティrealityの欠落は、どうにもならないほど無残としか言葉が見つかりません。
 そして、任期を終えた中国駐日大使との面談をスルー・・・。G7の議長国としての見栄を張ることが、いまの彼にとって最大級の関心事なんだろうと思わざるをえない感じです。

 旧ソヴィエト帝国のノスタルジーNostalgiaに沈んで、泥濘に突っ込んだ感のあるプーチン・ロシアに、いまどきあらためて敵意と対立のメッセージをおくることは、それほど重要なのか。
 〝戦狼外交 Wolf warrior diplomacy 〟と呼ばれる自国至上主義の中国に、そっぽを向いて、いや、毅然とした態度でと思う方々もすくなくないでしょうが、嫌がらせ的な敵意を示したところで、はたして得るものがあるのか。
 <ブルーゲル画『バベルの塔』*旧約聖書:人間が驕って高慢になり、天にも届くバベルの塔を建てようとしたことに怒った神が、言語を混乱させ人びとに「対立と分断」の禍を下したという言い伝えから> 



 世界が〝対立と分断〟の困難な泥濘に足を取られているときこそ、泥濘から引っ張り上げて、乾いた草地を素足で踏みしめることができるようにすること。そのための努力を、世界は、いまこそ迅速におこなうべきではないのか。
 つまり、可能性は薄いかもしれないのですが、やはりウクライナへの侵攻は、理不尽じゃないのか。核などを使うなどとの脅しは止めて、いまから兵を引いて、まずはウクライナの話も聞くのが道理じゃないか。
 その富力で、世界の弱小国に金をばらまき、世界第一等国になるのではなく、儒教道徳の歴史を誇り、徳のある国として世界の困難をともに解決する国の列に加わってもらえまいか。

 いま世界で必要なのは、そうした説得を試みるという態度を持ち続けるということではないかと思うわけです。
 日本は、いまのロシアと同じように、過去の歴史のなかで、〝暴支膺懲〟などという言葉をひっさげて、生意気で根性なしで国家の体をなしていない中国を懲らしめてやると居丈高に言い募り、中国への侵攻をしていきました。
 途中、なんども「和平」を口実に、中国に過大な要求をくり返し、ここまでは皇軍(天皇の軍隊)が夥しい血を流して獲得した権益だと面子や意地を張り、侵略した権益を確保したままでの和平を強要し、ついには中国の人びとだけではなく多くの世界の人びとの恨みを買い、米英を中心とする連合国とソ連まで引っ張り出して戦い、惨憺たる結果を招いたのではなかったか。

 歴史はしばしば、調子に乗って、いい気になって、驕り高ぶって物事を進めても失敗する事例を多く教え諭しています。
 歴史を知らないものだけが、この轍を踏んで改めることを知らない。

 いまやることは、しゃもじをもって景気づけることでもなかったし、ぞんざいな態度で振る舞うことでもないわけで、まずは相手を「理」をもって説得することではないのか。
 「いけないことはいけない」と相手の指導者に面と向かって言う。相手の指導者が聞く耳を持たないとしたら、その周囲にいる人に語りかける。その国の人びとに囁きかける。そして、いろんな国々で心ある人に、一緒に説得してもらう。

 見るところ、いまの世界で、そうした動きを見ることはすくないように思います。まずは、相手の目を見て説得してみる。
 そのためには、自分自身が嘘や偽りを秘めていたのでは、相手を説得できません。
 虚心坦懐な気持ちで、まずは無益な戦争を止めましょう、いったん軍隊は引きましょう、と説得してみては? 占領地は返しませんかと、言ってみては? 世界がロシアを怖がっていることについて、得なことはありませんよと話しかけてみては?
 もともと漢民族国家ではなかった清の拡張政策の時代まで、台湾も新疆ウイグルも中国の領土ではなかったのでは? 「化外の地」(華化の及んでいない地の意味)ではなかった?
 いまのこの状況にあって、むりに「一つの中国」にこだわっても意味がないのではありませんか。東シナ海や太平洋に出たければ、お隣同士、周囲の国々にも納得できるようにしてみてはいかがですか?
  
 言うまでもないことですが、もちろん説得するには、自らの身と心を清廉なものにしておかなければ、その力は削がれてしまいます。
 繰り返しますが、調子に乗って、少なくともしゃもじを送るような〝カルイ〟ことは辞めにしたらと思うわけです。そして、謙虚な態度に終始すること。それが世界を〝対立と分断〟の桎梏から救う手段のように思うわけです。

 ところで、2002年ノーベル化学賞を受賞した田中耕一さんがおっしゃっていたことですが、SDGsの根幹は、地球のためではなく、人類が生き延びるためにいまの手を打っておこうという考え方なんでしょう。生物の一種に過ぎない人間が、たまたま蔓延って、そこで環境悪化を招いてしまっている。そのことが意識されていないのじゃないのか?(『朝日新聞』2023年3月26日)
 言い換えると、SGDsは、どこかに人間の奢りが潜んでいるという趣旨のことをおっしゃっていました。
 「奢れる者はひさしからず」。『平家物語』の一節です。〝対立〟や〝分断〟も、そうした気質から生まれてくるものです。自戒したいものだと思ったわけです。
 
 2023年も4月をむかえ、新たな気持ちで社会に飛び立っていく若者も多いことです。自宅の窓の外に広がる4月の青空を眺めて、そんなことを思っていました。

 それと再度のお知らせですが、この春からはじまる講座の案内をさせていただきます。
 テーマは、「教育」について、〝学び〟について考えます。
 いつもながら、思うのですが、この講座のよさは、わたしのお話が終わってのち、それをネタにzoom上でのみなさんのお話しと、その対話が面白い! 
 みなさんのご参加をお待ちしております。
          
*NPO新人会2023年夏学季講座*
 〝学び〟とは何か?
 「お受験」から「Reskilling」まで!
     ~教育と「国民国家」の現在~

◇期間:<全5講>2023年4月23日~7月2日
◇日時:隔週日曜日<午前11時~12時>
 *全講zoomかGIGAファイル便での受講
◇受講料:全講受講6000円<5回分>
 *学生3000円  
◇附記:各講毎、事前にPDFでレジュメ送付。
    それに沿って講座は展開されます。
【講座内容】
 
いまどきのこの国で、〝教育〟についての話はほとんど個々の記憶(Nostalgia)のなかで語られ、「ドラゴン桜」にせよ「ビリギャル」、「2月の勝者」にしても、その多くは受験の成功者による武勇伝ばかりが幅をきかしています。いかにしてエリートになり得たか、成功したか。親たちも子どもたちも、みな受験の勝利者が成功者であるという呪縛から逃れようとはしません。横ならびの実利のための学歴資本を得ることが最善という〝信仰〟のなんと強固なことか。そのなかで〝学び〟の精神は疎外され、いつの間にか空疎な競争社会とともにそこからの落伍者のニヒリズムが社会を覆ってしまっています。そこでこの講座では、みなさんとの対話の「トポス」を再設置し、「学び」の精神について深く考えたいと思います。
【日程とテーマ】
・第1講(4月23日):
『学問のすゝめ』とは?
 ~序論:〝学び〟は誰のためのものか?
・第2講(5月14日):
「国民皆学」と〝生活綴り方〟
 ~近代「国民国家」の教育とは?
・第3講(6月4日):
「大学」と知識人
 ~エリートと民衆について~
  人財か人格か?
・第4講(6月18日):
「平等」と〝競争〟
 ~再考:戦後「民主主義教育」とは何か?
・第5講(7月2日):
「学び」の現実と「場topos」の現在
 ~結語:いま〝学び〟とは?
☆講外講:7月15日(土)☆
 伊能忠敬の佐原と佐倉「歴博」の旅!(予定)



 
 

 

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☆☆2023年新人会夏学季講座のお知らせ!☆☆

2023-03-25 01:42:14 | 〝哲学〟茶論
 花時雨の日々のなか、桜の咲き誇りもいまだ見ぬうちに、盛りの春は終わろうとしているのでしょうか。
 そのなかで、2020年から猛威をふるったパンデミックは、2023年になって、いくぶんその勢いを失い、人びとは、忘れかけていた日常を、過剰にも取り戻そうとしているかのようにも見えてきます。

 とは言うものの、いぜんとしてミャンマーの惨状やシリアの避難民、そして言うまでもなくロシアのウクライナ侵攻による双方の多くの戦死者や犠牲者はあとを絶たず、そんななかこれまでのアメリカの絶対的支配力にルサンチマンと憎悪を強め、帝国主義的意識の勝ったロシアや中国が、市場原理主義と排他的国家意識をひっさげて対峙する世界の情勢は、ますます混迷を強めていくようにも見えてきます。
 たしかに、ここ数日のWBCのスポーツを通じてのヒューマンなありようを垣間見ることはできたものの、こうした状況下のなか厚く覆った雲はなかなか晴れ間を見せてくれないなと思うしだいです。

 とは言え、これまでの歴史を見るまでもなく、いつまでもそんな停滞のなかに人びとは沈んでいることはないでしょう。気力を奮い立たせ、とぼしくとも光を求めて、歩き出すのがもっとも大切なことのように思います。

 そんなこともあって、すでに20年以上おこなっている講座を、2023年も、まずは夏学季の講座としておこないます。
 <戦時中、国民学校での軍事教練>

 そこでテーマについてです。
 まことに私事で恐縮ですが、わたしはこの春、45年間仕事として続けていた教師の職を、いったん終えることにいたしました。よく考えると、長くやってきたものです。
 はじめの初任校は、全国でも珍しい全寮制の農業高校でした。つぎには山間の小さな定時制高校に赴任しました。そしてそのあとは古い伝統を誇る県立の女子校に勤め、そこを退職し、たいしたあてもなく上京し、塾講師や予備校の講師、その間に雑誌や機関誌の編集の仕事をしながら、社会評論や文芸、歴史ものの執筆、いろいろな講座の講師や一時は大学での講座をしたり、よく生き延びてきたな(?)と思うしだいです。
 とは言え、そんなふうにさまざま食い扶持を求めながら、ずっとやり続けたのは、10代後半から20代にかけての若者と交わることでした。
 言い換えれば、教えるという仕事を通じて、彼ら彼女らとともに〝学び〟の意味を探ってきたと言えるかなと思うわけです。
 
 そんななかで、〝学び〟とはいったいなんだろう。いまの学校のあり方や「教育」とは、はたして正しいのだろうか。そんな思いをずっと抱き続けてきました。

 <国民学校一年 国定教科書>
 言うまでもないことですが、これほど幼児教育から大学まで、学校が整備され、多くの人びとに〝学び〟の場が存在するのに、世の中には「反知性主義」が蔓延り、悪意のフェイクがたくさん散らされています。教育とは無力なのか。そんな思いもよぎります。
 たしかに資本主義がおこった19世紀からは、「学歴資本」が「経済資本」に転換されるだけで、〝学び〟の精神と共鳴するはずの「文化資本」にはなかなか転化していかない状況が続いています。実利と拝金のスキルばかりが重んじられ、〝学び〟が導き出す「人格の陶冶」はなかなか実現されないようすが見て取れます。いったい、それはなぜなのでしょうか。
 そこで、たとえば日本における江戸時代には、どんな教育がなされ、近代「国民国家」になり、どんな教育が求められ、さらに戦後の民主主義教育とは、いったいいかなるものだったのか。
 そうしたことをひとつひとつふまえながら、現在の〝学び〟とは何か、いったい〝教える〟とはどんなことを意味するのか。それらを再考する意味はけっして軽くはないように思います。
 そこで、そうした考察を、みなさんとともに重ねていきたい。
 そのように思い、この講座を開設することにしました。できるだけ、多くの方々の〝学び〟の体験と教育の意味について、お話ししていきたいと考えています。
 そんなわけですので、多くの方々の講座へのご参加をお待ちしております。 

 以下に講座のflyerを貼っておきます。
 今回の講座も、zoomによって、またアーカイブでも受講できます。とくにzoomでの受講では、これまでも受講される方と講師、あるいは受講される方々の間での、多くのご意見やお考え、質疑応答の交歓が活発におこなわれています。
 日ごろ、考えていることや思うこと、そうしたことを語りあう、あるいは対話にあげることで、物事の理解はますます深まっていくように思います。その意味でも、多くの方々のご参加をいただければ幸いです。
 また、恒例の「講外講」も企画しております。今回は佐原の伊能忠敬と佐倉にある国立歴史民俗博物館(歴博)の旅の予定です。こちらのほうも、お時間がありましたら、ぜひご参加ください。

お申し込みは、NPO新人会のメールアドレス:
 までお願いいたします。
 (ご参加については4月20日まで
   お申し込みいただけると幸いです)
 折り返し、講座担当から、
 講座についての詳細の
 ご連絡をさせていただきます。

        記
*NPO新人会2023年夏学季講座*
 
〝学び〟とは何か?
 「お受験」から
  「Reskilling」まで!
 ~教育と「国民国家」の現在~

◇期間:<全5講>2023年4月23日
             ~7月2日
◇日時:隔週日曜日<午前11時~12時>
*全講zoomかGIGAファイル便での受講
◇受講料:全講受講6000円<5回分>
     *学生3000円  
◇附記:各講毎、事前にPDFでレジュメを
    送付いたします。
    それに沿って講座は展開されます。
【講座内容】
 いまどきのこの国で、〝教育〟についての話はほとんど個々の記憶(Nostalgia)のなかで語られ、「ドラゴン桜」にせよ「ビリギャル」、「2月の勝者」にしても、その多くは受験の成功者による武勇伝ばかりが幅をきかしています。いかにしてエリートになり得たか、成功したか。親たちも子どもたちも、みな受験の勝利者が成功者であるという呪縛から逃れようとはしません。横ならびの実利のための学歴資本を得ることが最善という〝信仰〟のなんと強固なことか。そのなかで〝学び〟の精神は疎外され、いつの間にか空疎な競争社会とともにそこからの落伍者のニヒリズムが社会を覆ってしまっています。そこでこの講座では、みなさんとの対話の「トポス」を再設置し、「学び」の精神について深く考えたいと思います。
 【日程とテーマ】
・第1講(4月23日):
『学問のすゝめ』とは?
~序論:〝学び〟は誰のためにあるのか?
・第2講(5月14日):
国民皆学」と〝生活綴り方〟
~近代「国民国家」の教育とは?
・第3講(6月4日):
「大学」と知識人
~エリートと民衆について:人財か人格か?
・第4講(6月18日):
「平等」と〝競争〟
~再考:戦後の「民主主義教育」とは何か?
・第5講(7月2日):
「学び」の現実と「場topos」の現在
~結語:いま〝学び〟とは?
 
☆講外講:7月15日(土):
伊能忠敬の佐原と佐倉「歴博」の旅!(予定)☆

 




 


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