八柏龍紀の「歴史と哲学」茶論~歴史は思考する!  

歴史や哲学、世の中のささやかな風景をすくい上げ、暖かい眼差しで眺める。そんなトポス(場)の「茶論」でありたい。

☆☆☆誕生日祝のお礼と「池ビズ」講座夏学季〝講座日変更〟のお知らせ☆☆☆

2020-03-28 20:22:46 | 思うこと、考えること!
 3月28日はわたしの誕生日でした。
 子どものころからそう言われてきましたが、じっさい自分自身が生まれた日の記憶があるわけでもなく、あとでこの日だよと聞かされたわけです。
 でも母親が子どものころ話してくれたことだと、深い愛情に包まれ慈しまれて生まれてきたかと思いきや、わたしはタコ入道のような顔で生まれたことで母親を笑わせ、生まれ落ちてすぐに盛大なおしっこをして驚かせたと聞かされ、それでなくてもそのころ出来が悪く、ダメダメな自分だと思い詰めていたことに加えて、この生まれた状況を聞いて、なんだいまと同じかと、子どもながらにがっかりした記憶があります。

 それからもう数十年が過ぎ、すでにこれから先の時間より、とっくに過去の時間の方が多くなって、新聞の死亡欄だとか周囲を見渡すと、ちらほら同世代の人びとの訃報を目にするなか、わたしにも確実にそんな時期が迫っているのだと思わざるをえなくなりました。

 そんななかこのコロナウィルス禍です。かつて世界で1918年から20年まで続いた「スペイン風邪」(正しくはアメリカが発生源で第一次世界大戦の兵員の移動のなかで大発生した感冒)が大流行して、当時少なくとも五千万人以上の死者が出たとされる禍がありましたが、それとほぼ匹敵するかも知れない危機にいまは面しているわけで、危機感を募らせた人びとは買い占めに走るは、人混みの中でマスクをしないでくしゃみなんぞしようものなら、まさに〝非国民〟の眼差しを浴び、ほんとに暗い2020年となってしまいました。まさに恐怖が、人びとを歪めている。そしてこれまで以上に「死」が現実的になっている。そんないまの状況です。

 『徒然草』を著した卜部兼好は、「死は前よりしも来たらず、かねてうしろに迫れり」(第百五十五段)と、怖いことを記しています。
 兼好の生きた時代は、鎌倉幕府の滅亡と南北朝の抗争による混乱期で、武士たちは自己の野心と所領の争奪に「生」を軽んじ、戦闘や略奪に明け暮れた時代でした。足利尊氏軍に迫られた、ときの光厳天皇は、鎌倉幕府軍とともに関東に逃げ延びる途中、近江の番場の宿で野伏らに包囲され、流れ矢が左肘を刺し貫くといった事態となり、そのときの幕府軍・六波羅武士団はもはやこれまでと北条仲時以下四百三十二名がいっせいにその場で腹を搔き切って自害するという惨状を呈しました。
 そのなかで兼好は「死」とは前にあるんじゃなく、うしろからわれわれを包囲している。「死」の充満するなかで、「死」とは、ある日突然にやってくるもので、それはかならずしも予定されるもんじゃなく、むしろわれわれは「死」に囲繞されていると説いたわけです。
 たしかに、周囲を見渡してみると、「死」は突然にやってきて、それは兼好の言うとおり「沖の干潟遙かなれども、磯より潮のみつる」ようにして、あっという間に、その人を浸して呑み込んでしまうという印象があります。

 そんな危機のなか、「パンデミック」「クラスター」「オーバーシュート」「ロックダウン」など耳慣れない言葉を駆使して、首相なり首長なりの権力者が、緊張感溢れる相貌で叱咤誘導するような会見をする光景を見る事態になっています。
 たしかに状況は悪いわけで、感染予防の見地からは、むやみに出歩かないのがいいのだと理解はされているかと思います。でも、そうした権力者の顔をじっと見詰めていると、なにか一種ヒロイックなアドレナリンが出ているのかなと思わざるをえない気もしてきます。もっというと、彼らの言説の多くは、必要以上に〝危機〟を叫び、上から目線で注意喚起を促すだけで、どのような対策なり、保障なり、手当をするのか。それもいつ、どんな形でといった具体性を欠くものです。これって統制社会への道筋と思わざるをえない。

 ナオミ・クラインというカナダの思想家は、9・11テロやリーマン・ショック、あるいは東日本大震災などなど、21世紀に入って、権力者はそうした危機に便乗して、権力が勝手し放題できる体制を固めてきたと述べています。
 その本のタイトルは、ずばり『ショック・ドクトリン』(2011年岩波)というものなのですが、いわば大災害や大規模テロなどの衝撃的事件で茫然自失となった人びとを狡猾に操作し、それまであった「公共的秩序」を、危機意識を募らせて無力なものに貶め、その空白に市場原理主義的なもの、言い換えると「勝ち組」「負け組」的な格差を肯定させる原理を押し込む。それも迅速に資本力を一挙に注入して、有無を言わせず実施する。それによってそれまでの風景を一変させる。
 そして、そのなかで自らの富や権力基盤をより強固にする。これを「惨事便乗型資本主義」(本の副題にもなっている)と呼んでいます。言い換えるとファシズム化ってことでもあります。

 たしかにつねにファシズムは、危機を梃子にして人びとを統制し、それまで人びとが営んでいた「公共圏」を破砕するものでした。ヒステリックに買い占めに走る人びと、電車の中での人びとの射るような眼差し、感染者への差別と排除、さらにウィルスは持っていても発症しにくい子どもを近づけないようにする老齢者など、コロナの〝危機〟は、その感染力がもたらすもの以上に、人びとの不必要で悪意に満ちた〝危機〟を増大させていると言ってもいいかと思います。

 卜部兼好は、さきほどの「死」への一文のあとに、つぎのような言葉をつなげています。「されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」。
 つまり、「死」を怖がる前に、いまある「生」を大事にして、それを楽しんだらよかろうというのです。兼好は、でも多くの愚かなる人間は、この日々の中に存在する「生」を楽しもうとしない。ご苦労なことに、その恐怖から逃れようとして「外の楽しび」を求めてばかりで、消費や享楽に走ったり、かと思えば、マスクやトイレットペーパーを買い占めて、うずたかく部屋に積み上げて満足するようなことになってはいまいかというのです。
 そんなことをしていたのでは、「志満つ事なし」。つまりは「死」から逃れようとして、あるいは恐怖を除こうとして、いつまでも足掻くばかりで、またその望みもけっして満たされることなく、いつも渇いたままだと説いています。

 たしかにコロナウィルス禍の前で、わたしたちは恐れを深くし、なんとか逃れたいと思いを募らせているかと思います。しかし、こんな時だからこそ、いまある自分の「生」を見つめ直し、心を震わせるような絵画や音楽、そして本に出会い、なによりも自身の精神と向き合うこと。そんなことが大切ではないかと思われるのです。
 「生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり」。わたし流に言い換えてみると、いまある「生」をしっかり生きない人は、ほんとうの「死」の意味も理解できない。「死」をただ怖がっているのでは、ほんとうのいまある「生」を理解できない。

 というわけですが、そんなことを考えて今日の誕生日と相成りました。
 しかも、多くのみなさんに誕生日のお祝いの言葉をいただきうれしい限りです。まずは、お礼申し上げます。ありがとうございました。
 
 そして、長くはなりましたが、ここで本題のお知らせです。
 4月開講のNPO新人会講座ですが、会場である「としま産業振興プラザ」(池ビズ)の関係で、6月以降の予定が変更になります。

 講座「時代に杭を打つ!」は、初講日が4月19日、二講は5月3日、三講は5月31日、四講が6月14日、五講は6月28日、六講・最終講は7月19日になります。
 講座「哀しみの系譜」は、初講日が4月26日、二講が5月24日、第三講6月21日、第四講は7月12日、第五講・最終講は7月26日になります。

 すべて日曜日の午前10時から12時までの時間帯で、4月と5月は変更ありません。それと「講外講」は6月7日(日)に移動となります。以下、フライヤーを張っておきます。

 またこの4月から、
 札幌でも月一回全五講の予定で講座を開講することになりました。
 会場は札幌市の男女共同参画センター、通称エルプラザというところで、19時半から21時半まで、日本の戦後責任をテーマに、現在の日本社会の構造的な歪みについてお話し、対話ができるように企画しています。こちらの方も、下にフライヤーを張っておきますので、ぜひ札幌および近郊にお住まいの方は、おいでください。連絡先・お申し込みは、090-6269-4529what,s Email:whats.everything@gmail.comです。
 いろいろな対話を通じて、みなさんの思いを共有したいと思っています。

 ながながと書きましたが、とても最後まではお読みいただけていないかもしれません。そこで、講座の連絡は、また4月の早い時期に、再度掲載いたします。よろしくお願いいたします。

 

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