Hirakata turezure 四季のなにわ

あるとき、ときどき、いろんな思いをふっと向ける事柄があります。

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3 コメント

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Unknown (ゴー隠居マン)
2014-03-11 19:14:25
まだ外は寒いけれど、いよいよウメの季節まっさかりですね、
これを見るまでつい忘れてました。
早速次の日曜日に近くの梅園に行こうと思います。
それにしても大阪城のバックがいいですね~
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Unknown (yanasun)
2014-03-11 22:22:19
『東風吹かば匂い起こせよ梅の花主なしとて春を忘るな』古典の授業を想い出しますね。
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Unknown (馬耳)
2014-03-12 07:03:57
  『ことばの歳時記』(文芸春秋社)
「もともと風の名を必要とし風の方向、強弱、寒暖その他の性格を微細に言い分ける
必要を持っているのは貴族でも農民でもなく船乗りや漁師たちなのである。

貴族達が風流気からその名を口にしているのに対して彼らは生死を賭けた生活の知恵としてそれを口にするのである。

《省略》

風によって浜辺に多くの魚介類や海藻類などの食物や木材その他の漂流物も吹き寄せるのである。

船が港に寄ることも、それが財宝を落としてゆくもので寄り物の一種だった。

だからその風は「いたく吹く風」であり強吹(こわふき)であるほど多くの珍宝をもたらす。
そういう古い風の名がいまだに生きていて漁民たちの生活の中に使われているのである」
さらに
「万葉の無名の作家が詠んだ朝東風はまだ漁村の生活の匂いがどこかに
漂っていたかもしれない。
菅公が歌に用いたときこの言葉にまつわりついていた漁村の潮の香やたくましい生活者の匂いはすでに発散されてしまって堂上貴族達の弱々しい
美的生活の中に融けこんでしまった。

 常民の生活の必要が生み出した言葉が貴族達のただの風雅の言葉化してしまった。

言葉がその持っている生活基盤から引き離されて文人墨客のもてあそびものになり
風流韻事としてしか意味がなくなったときその言葉の生命はどうなるか。

 こういう言葉の運命と言うものを「東風」と言う言葉は私に考えさせてくれる」 
と結んでおられます。

山本健吉氏のこの文章は今から30年位前に書かれたものですが、今なお、瑞々しい
新鮮さを保ちつつ、現代の文学界への警鐘を打ち鳴らし続けておられるように感じます。
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