Hirakata turezure 四季のなにわ

あるとき、ときどき、いろんな思いをふっと向ける事柄があります。

How about Burdock Soup? Why don’t you eat a Rice Cake? (牛蒡汁いらんか、餅くらわんか!)

2010年12月31日 | 日記



一年の汚れを洗い落とす洗剤のように雪がちらついた大晦日となった。2010年があっという間の一年であったのは私だけではなかろう。また、大晦日でも働らかれている方もおられよう。たんたんとした静かな大晦日を雪が演出してくれたに違いない。九州にも雪が降ってしまったようだが、本年が穏やかな一年になることを願う。

 さて、暮れの日曜日、散歩がてらに淀川の砂だまりを歩いた。瀬田の洗堰のお陰か雨上がりの翌日でも水流は安定し、かなりの広さで砂州が出来上がっている。この砂州を土手から水際まで普通のスニーカーで歩ける。お目当ては「くらわんか茶碗」探しである。(小さい破片しか今は出ない。)
動画はわかり易くする為に見つけた破片を砂の上において撮影したが、本物の「くらわんか茶碗」の破片かどうか私にも判らない。分厚い白い生地に素朴な絵柄が見えることから判断すれば恐らく「くらわんか茶碗」の破片であろう。撮影後はもとの位置に返した。

くらわんか茶碗は長崎県の波左見、高槻市古曽部で大量生産された焼き物を使用していたとのことである。
 京阪枚方公園駅の近くにある枚方市立「鍵屋資料館」(天正年間の創業、市指定文化財)には枚方宿跡の発掘調査で出てきた茶碗が展示してある。くらわんか茶碗と酷似しているもので添書きでは展示されている茶碗のルーツは前述の波佐見の窯元とあり、磁器とのことである。従ってくらわんか茶碗は「チャイニーズ」(漆器はジャパニーズだそうだ。)だったということになる。

 川底から出てくる破片がくらわんか茶碗のものとすれば、三十石船の客を相手に商いをしていた動くスーパー、煮汁売り船の「くらわんか船」から落ちたものか、はたまた、三十石舟の客が落としたものか判らない。いずれにしても落としても気にならない廉価の茶碗であったようで歴史的な価値、美術的価値はどうやらなさそうだ。

 次郎長伝に金比羅参りの後、のぼり「伏見」行きの三十石舟に乗った森の石松と江戸、神田の商人とのやりとりに出てくる「呑みねえ、寿司食いねえ、江戸っ子だってね~、神田の生まれよ~」の場面で使われていた茶碗がくらわんか茶碗であったかどうか知る由もないが、安藤広重の東海道57次の56次となる「枚方宿」の三十石舟の絵の中に茶碗らしきものはない。

「初春(はつはる)の淀の河口に摩天楼」
「初春(はつはる)や鍵屋暖簾に朝日指す」

「おりょうでん」

2010年12月01日 | 日記
大河ドラマの「竜馬伝」が先月終了した。そんな時に「勝海舟」という文字が見出しとなった記事が朝日新聞11月20日(土)に掲載された。
自身のブログで四月に触れた「橋本砲台跡」がどうやら国の文化財審議会から文部大臣あてに国の史跡に指定するよう答申されたという内容であった。(すごい)
勝海舟の設計であり、京都府立総合資料館でその図面が見つかったとのことである。勝海舟の意匠、デザインとは驚きでありどんな景観がくずはに存在していたのか想像するだけでも楽しいが、残っている図面は是非とも拝見したいものである。
見出しの「楠葉台場跡」の名称が現地の石柱に彫られていた「橋本砲台跡」の表記と異なっていることが少し気になり朝日新聞社に直接電話した。
お答えは、『各文献を調査のうえ「楠葉台場跡」としました。』併せて『橋本砲台の表記も間違いなさそうなので枚方文化財の方に照会して欲しい。』との丁寧なご返事があった。お礼を述べて早々に電話を切ったが記事に貼付してある航空写真は私が尋ねた橋本砲台跡に間違いはなさそうだ。
ここでは楠葉砲台跡としておくが、その完成年が1865年とあるので今から155年前の慶応元年となり、同年閏5月1日には土佐藩の坂本龍馬が薩長両藩の和解を周旋し、下関馬関に於いて桂小五郎と会見した年となる。ため息が出てきた。
竜馬が伏見を出立し、淀川を下らずに京街道の道を辿ったとしたら、この橋本の関所を経由、枚方宿で一泊し、翌日、なにわ津に至り、やがて下関への途についたに違いないのだ。もちろん、おりょうも一緒に・・・・。

「おりょうにも大砲見せたり竜馬が通る。」
「キャノン砲くずはの郷(さと)に跡もなし」

2010年11月20日(土)朝日新聞

勝海舟設計の砲台、楠葉台場跡が国史跡に 文化審が答申


楠葉台場跡。実線で囲まれた部分が史跡に指定される=2010年1月、枚方市、市教委提供
 国の文化審議会は19日、江戸幕府が幕末に淀川左岸に築いた台場(砲台)の跡地「楠葉台場跡(くずはだいばあと)」(枚方市、約3.1ヘクタール)を国の史跡に指定するよう文部科学相に答申した。全国唯一の河川台場で、長州藩などの討幕派が京都に侵入するのを防ぐため、京都守護職だった会津藩主の松平容保(かたもり)が提案し、勝海舟が設計。砲台場の中に京街道を引き込んで関所を設けていた。
 府教委と枚方市教委によると、楠葉台場は1864年に着工し、翌年完成した。現在は水田になっているが、枚方市教委が2007~08年の発掘調査で堀の跡や石垣の一部などを見つけ、場所を特定した。このうち南北約280メートル、東西約150メートルの約3.1ヘクタールが史跡に指定される。
 京都府立総合資料館で見つかった図面によると、大阪方面から京都への侵攻を想定し、大阪側に向けて三つの大砲が設けられていたとみられる。また、もともとあった京街道を台場内を通るように移して関所を設け、各藩が交代で警備に当たったという。対岸の高槻市側にあったとされる「梶原台場」も、同様の関所を設けていたとみられる。府教委は「幕末の緊迫した政治・軍事状況を理解するうえで重要な史跡だ」としている。
 国の文化審議会はこのほか、すでに国の史跡に指定されている「金剛寺境内」(河内長野市)▽「安満(あま)遺跡」(高槻市)▽「古市古墳群」(羽曳野市)の新規発掘部分なども史跡に追加指定するよう答申。府内の国指定史跡は特別史跡2件、史跡67件になる見込み。