ビール
仕事をやっている間に水無月、6月となった。
間もなく梅雨入りとなることだろう。雨が多い月がなぜ水が無い月なのか興味ある方はネットで検索して頂くことをお願いする。
さて、ペリーが浦賀に来航(所謂、黒船来航)したのは6月、1853年、嘉永6年6月3日となっている。
翌年、日米和親条約が締結されているが、「喜んだペリーは船上パーティーを開催、日本側の官吏を招待し酒を接待した。」とKIRINのHPの「日本のビール歴史年表」に記載されている。
「土色をしたおびただしく泡立つ酒」が出されたとされ、要するに「ビール」が出されたと思われる。
話を動画に振る。
大阪、全日空ホテル前、北新地の真ん中に建つ石碑「国産ビール発祥の地」である。仕事の途中でたまたま新地を通りかかり、何気なく気が付いた石碑がこれである。
そもそも日本のビール発祥地は横浜とされ、現在のキリンビールの前身という話は、酒通の方にはよく知られているところである。
しかし、ネットで調べて見るとこのビールは外国人の手によるもので、日本人によって初めて本格的に生産されたのはこの動画の石碑に刻されているとおり、この地、大阪、堂島だったようである。
「渋谷庄三郎という先人が明治5年(1872)からこの地でアメリカ人技師の指導を受け、ビールの製造をはじめ、日本人の手で作った初めてのビール」と銘板にある。ぺりーがビールを初めてパーティーで出してから20年も経っていないことになる。
興味深い話がある。残念ながら流石の新しいもの好きの浪速っ子も、慣れないこの琥珀色の液体には「けったいな小便みたいな泡飲めるか!」と顔をしかめたという話がついている。
この「渋谷麦酒」は採算割れし、10年後に生産が中止されている。
明治維新という激しい変革の時代に新しい「もの作り」に大胆に関わり、頑張り抜いた先人には大阪が誇っていい人物ではないかと思う。この頃、ノンアルコールビールがよく飲用され、普通となっている。「こんな けったいな 水飴みたいな泡飲めるか!」と渋谷氏と西郷どんが言っているような気がする。
仕事をやっている間に水無月、6月となった。
間もなく梅雨入りとなることだろう。雨が多い月がなぜ水が無い月なのか興味ある方はネットで検索して頂くことをお願いする。
さて、ペリーが浦賀に来航(所謂、黒船来航)したのは6月、1853年、嘉永6年6月3日となっている。
翌年、日米和親条約が締結されているが、「喜んだペリーは船上パーティーを開催、日本側の官吏を招待し酒を接待した。」とKIRINのHPの「日本のビール歴史年表」に記載されている。
「土色をしたおびただしく泡立つ酒」が出されたとされ、要するに「ビール」が出されたと思われる。
話を動画に振る。
大阪、全日空ホテル前、北新地の真ん中に建つ石碑「国産ビール発祥の地」である。仕事の途中でたまたま新地を通りかかり、何気なく気が付いた石碑がこれである。
そもそも日本のビール発祥地は横浜とされ、現在のキリンビールの前身という話は、酒通の方にはよく知られているところである。
しかし、ネットで調べて見るとこのビールは外国人の手によるもので、日本人によって初めて本格的に生産されたのはこの動画の石碑に刻されているとおり、この地、大阪、堂島だったようである。
「渋谷庄三郎という先人が明治5年(1872)からこの地でアメリカ人技師の指導を受け、ビールの製造をはじめ、日本人の手で作った初めてのビール」と銘板にある。ぺりーがビールを初めてパーティーで出してから20年も経っていないことになる。
興味深い話がある。残念ながら流石の新しいもの好きの浪速っ子も、慣れないこの琥珀色の液体には「けったいな小便みたいな泡飲めるか!」と顔をしかめたという話がついている。
この「渋谷麦酒」は採算割れし、10年後に生産が中止されている。
明治維新という激しい変革の時代に新しい「もの作り」に大胆に関わり、頑張り抜いた先人には大阪が誇っていい人物ではないかと思う。この頃、ノンアルコールビールがよく飲用され、普通となっている。「こんな けったいな 水飴みたいな泡飲めるか!」と渋谷氏と西郷どんが言っているような気がする。