季節はずれといっていいような台風が接近し、日本全土を冷たい空気で押し込めて広く雨雲が包んでいる。こんな日本列島の明日、6月2日に内閣不信任決議案が提出されると電光掲示板のニュースが流れている。6月2日か、なんと日本は平和な国なのか。
出張で東京にいった。今回も日帰りだ。
名古屋を出て、岐阜羽島を過ぎると関が原、伊吹山、米原と続き、すぐ、西日を反射させる湖面が現れた。この間、15分もかからない。やがて、右手の最奥に数秒間ではあるが、安土山が展開される。山腹に「安土城跡」と書いていると思われる白いたて看板が一定の間隔をおいて建てかけてある。
新幹線は全速力で通過しており、E席横の車窓からはその文字は勿論、読み取ることは出来ない。
いつものとおり、隣席のご婦人を起こさないよう静かに、速やかにデッキに出ることになる。(もうすっかりこの手順には慣れている。)
デッキからガラス越しに焦点を合わせ、ズームレバーに指を、ブログに許容される動画時間を逆算しつつ動画ONボタンを押すことになる。
高速で通過する新幹線車内からのシャッターのタイミングは並大抵ではない。仕損じれば、なにも出来ないまま私は京都駅に運ばれてしまうのだ。一発勝負である。黒澤や、新藤監督ではないのだ。従って、貼り付けた動画は奇跡に近い動画なのである。
ズームアップをして拡大される山が安土城のあった安土山である。(と云っても絶対の確信は持てない。高速で通過しているのだ。)
さて、6月2日といえば・・・・天正10年の6月2日(旧暦)に何があったのか、この夜半、旧本能寺は明智光秀の水地に三つ桔梗紋のフラッグを翻した1万3千の集団で覆い尽くされることになった。(一説には3千人)
あとは戦国中期の分岐点となった「本能寺の乱」となったのは周知のとおりである。
五層七重の天主閣をもっていたとする大城郭、安土城を出て、わざわざ援軍がいない空家となっているような京都・本能寺に宿泊した理由や、光秀が本能寺に向かった理由は諸説あるが、限定できるものはないようだ。油断なのか。「是非もなし。」の言葉だけを残して信長は消えた。
ともかく名古屋を過ぎると、家康の関が原、光成の伊吹、秀吉の長浜、浅井の小谷、信長の安土、同本能寺、秀吉・光秀の天王山と戦国史跡が次々と展開、私は右の車窓に歴史絵巻を見ることができるのだ。もう司馬遼も荘八もいらないのだ。
京都駅を基点に乗り降りする小生には、前回、書いた、天王山の古戦場は車内からみることはない。が、代わりにこの古戦場は山からの大パノラマが楽しめるのだ。
鹿児島まで開通した新幹線を一度利用し、本能寺の乱を聞いて、世に言う「おおがえし」で山崎まで反転急行して勝利した秀吉の経路を車内から検分したいものである。『水田に 安土写して 早苗たつ』(柳子)
『山上の 永楽通宝 湖東の風』(柳子) (永楽通宝は信長の旗印)
(復興を願って)
「そのままの むなしい夏の 衣変え」
(アーモンドの花のその後)
梅と同様に果実が結実する時期となった。この前撮影したアーモンドの木の観察に出かけたが小木にも拘らず見事に結実していた。果実酒といいたいところだが、撮影させて頂き、そのままにしておいた。熟したら一個だけ頂き皆さんにアーモンドをお見せしたい。
ズームされてる部分で、一時停止してみたり
看板があるように見えますが、文字まで確認できませんでした
残念…
『さくら』か『みずほ』良いですよね
私も1度乗ってみたいと思ってます!
車内もすごいらしいですよ
去年、鹿児島に出張でいきましたが、博多から普通特急を利用しました。でも、関西の私鉄特急並みの車内装備でしたね。
さくらをどちらが先にのるか競争ですね。
ダルビッシュの急速が158キロです。新幹線はその上をいきますので新幹線からの動態視力がそんなにいいことはその球を打ちこなせる理論になりますし、一度この山のたて看板の文字を在来線からでも見ていただけないでしょうか。
もし、「ふなすし」という看板であれば連絡して頂くって結構ですす。