夜明けとともに横尾山荘を出発。前穂のテッペンがモルゲンロートに輝いていたのですが、シャッターチャンスを一矢ました。。
キャップライトをつけて山路を辿ります。涸沢までどんな感じで歩けるか、できれば奥穂高の山頂まで行きたいのですが、なんせここから先に足を踏み入れるのは半世紀、50年ぶりのこと。その間、山からはすっかり足を洗っていて、ときどき思い出したようにほとんど歩かない山へ行ったり、チョウを追っかけたり、孫たちとキャンプに行ったりした程度。きっと足腰が弱っているに違いありません。
幸い昨日は、標準タイムより若干早い2時間40分で上高地から横尾まで歩くことができました。約10kmの道のりでしたがアップダウンも少なく、標高差は100mでした。
横尾から涸沢ヒュッテまでは標高差700mで6km弱。3時間半の標準タイムです。
そこから穂高岳山荘のある白出しのコルまでは3時間。
さらに奥穂の山頂までは1時間をみなければなりません。
下りは白出しコルまでが35分で宿泊予定の涸沢小屋までは1時間45分。この行程を踏破しなければなりませんが、登りは900m弱で、下りが840mほど。距離は往復でも6kmほどですが、1,600m登ってから840m下ることになります。
年取った身にはかなりの行程ですから、状況によっては穂高岳山荘で宿泊することになるかもしれません。その場合、3,000mでの一夜はすばらしい星空やご来光が期待できますが、最終日にしわ寄せが生じてしまいそう。がんばって予定通りの行程をこなすほうが無難かもしれませんね。
その前に腹ごしらえ。今朝も腹いっぱいで、皿には何も残っていません。
屏風岩の裾に差し掛かるころにはライトも不要になり、テッペンにうっすらとガスのかかった灰色の岸壁が次第に全貌を見せてきました。
半世紀前、タハラッチは命懸けでこの屏風岩を登っていたのです。
思い出がよみがえってきます。
機会がありましたら、命懸けの経緯をお伝えできることがあるかもしれませんが、当時は若さいっぱい。強靭な肉体と精神で登攀を繰り返していたものです。
その当時、本谷橋は丸木橋。毎年冬には雪で流され、夏のシーズン前に架け替えられていたものですが、今ではこんなに立派な吊り橋になっていました。
黄色が主体で赤はまばらですが、この辺りから紅葉が始まっていますね。
ようやく涸沢に到着。右手にあがったヒュッテで温かな紅茶をいただきながら、涸沢カールの紅葉を眺めました。
左手は北尾根の末端、屏風のコルへと続くパノラマコースです。半世紀前、屏風岩を登った後、このコースを辿って横尾のベースまで下ったアプローチだったのですが、ガイドを見ると上級者コースとのこと。そんな印象はまったく思い出せませんが、明日はこのコースから下山するつもりです。気をつけて歩きたいと思っています。
真正面は吊り尾根から下っている涸沢カール。紅葉は北尾根の6峰辺りから下がってきているようで、赤、黄色、薄みどりが渾然として美しいですね。
ヒュッテの屋上から北穂を望んだシーン。涸沢小屋との間のカールの底のテント村にベースを置き、夏になると合宿を実施していました。
真正面の南稜から北穂の山頂付近まで登り、滝谷を数100m下ってから滝谷の岸壁を登ったのですが初めてのチャレンジが15歳の夏。その後何年かの間にこれを何度も繰り返していたのです。
もうとてもロッククライミングはできません。それどころか、北穂への毎日のアプローチすらこなせそうもありません。
そういえばわけがあって、上高地から北穂小屋へのボッカをしたことがありました。20貫目近い荷を背負ってあのテッペンまで登ったのですから、まさに驚異的。そんなこんなで足がめり込んでしまい、短足になってしまったのかもしれません。
この日もテント村が展開されていました。今では環境も整い、ヒュッテでは無料で水の補給ができますし、トイレも使用できます。便利になりました。
涸沢で、否、世界中でもっとも美しいのではといわれる涸沢パノラマコースの紅葉。ちょっとややこしいのですが、先ほど紹介した明日の下山予定コースのパノラマコースとは同じ名称ですが、こちらは涸沢カールの中にあるコース。何年か前の紅葉の写真で賞を撮った人があったとのことで、プロやアマチュアのフォトグラファーが大勢、シャッターを切っていました。
今回、年取ったタハラッチは重い一眼レフの携行を断念。使い古したコンデジだけを携行しましたが、バッテリーが残り少なくなってしまいました。
写真のできはお粗末ですがともかくみごと。一年でもっともいい日に、もっともいい場所に来られた幸せを噛み締めました。
ここからの登りがたいへん。カールのガレ場が途方もなく続きます。涸沢小屋との分岐を過ぎ、ザイテングラードまで踏み跡が果てしなく伸びているのです。
陽射しは強烈。真夏のクールドライの半袖ポロシャツでも暑いくらい。すれ違う人たちのほとんどがダウンを着てるのが不思議でなりません。
いよいよザイテングラードに達しました。もうわずかかなと思ったのが大きな間違い。鎖場や梯子、フィックスロープなどが点在し、岩場が延々と続いているのです。
半世紀前には飛び跳ねるように上り下りしていたのですが・・・。
デジカメのバッテリーが不安になり、また岩場の登りに苦労したため、穂高岳山荘、すなわち奥穂の小屋までの写真はありません。
小屋にザックを預け、空身になって奥穂の山頂へと向うと、またまた絶壁の鎖場と梯子。これは記憶通りでしたが頂上までこんなに距離があったとは・・・。
やがてかっこいい岩稜が見えてきました。西穂へ連なる途中にあるジャンダルム。ここにもロッククライミングのルートがあるのですが、残念ながらタハラッチは登ったことがありません。でもいつみてもすばらしい景色です。
この社が我が国第3位を誇る奥穂高岳の山頂。真夏には登山者でごった返しているのですが、この日は人がいません。たまたま居合わせた方と写真の撮りっこができました。ラッキーですね。
左手には槍ヶ岳が写っていますが、ここにいる間ほとんどは雲の中でした。
ザイテングラードの下りから見た前穂の北尾根。その昔、炭酸ソーダのCMに登場していたので馴染みのある方もいると思います。午後4時近くになっているので、前穂のテッペンには雲がかかってきました。さすが午後になると風が冷たいので、タハラッチもジャケットを羽織って涸沢小屋へと急ぎました。
横尾から涸沢ヒュッテまでは標準タイムが3時間30分のところ3時間。ヒュッテから白出しコルまでは3時間のところ30分弱の超過。奥穂山頂までの往復はほぼ標準で、ザイテンから涸沢小屋までの下りも同様でした。
この下りかなりきつかったのですが、小屋に辿り着いてみるとほぼ標準タイム。途中の休憩時間をたっぷり取ったため、通常の山小屋に入る時刻を30分ほど超過してしまいましたが、年の割りに、そして普段山歩きをしていないのにうまく歩ききったような気がします。
でもこの山小屋の中には腰を下ろして休めるスペースがほとんどありません。割り当てられたベッドは布団1枚に枕が2個。ここに10人が肩を並べて寝させようというのですから、休めるわけはありません。
おまけに宿泊者への水も有料で、顔を洗う水もバケツから茶碗で掬って使うシステム。皆さん、歯磨きには持参したペットボトルの水を使っています。
夕食は17時の組と45分遅れのグループの2組に分かれていて、食卓には42人分の椅子が並べられています。
タハラッチは遅組でしたが、飯を口に入れた途端、食欲が減退。椀に盛った飯はほとんど、おかずの大半も残してしまいました。
飯の炊き具合がよくなかったのが最大の原因かと思われますが、昼食に満足なものを食べなかったのと、標高1,600+840=2,440mを11時間で強行したのと、久しぶりの3,000m超の高度などがも原因に挙げられるかもしれません。
食後、デッキに出て空を見上げると今日も星空。明日もよい天気が期待できそうです。
期待を胸に窮屈な寝床にもぐりこむと、その狭さに業を煮やした相客が小屋に談判。半数が隣の空き部屋に移動しましたので1枚の布団に一人ずつ、ゆったり休むことができました。
考えてみれば食事をした客の数や、靴箱の空き具合で小屋の収容限度に達していないのは明白でした。
小屋番は東京にいるオーナーの了解が得られていないので黙認するとのことでしたが、空き部屋があるのに超満員状態で寝床を使わせようとする姿勢には疑問を感じた次第です。
ゆったりしていても夜中はちっとも寒くなかったのが不思議。暑がりのタハラッチは途中で目が覚め、下着とブリーフだけになって朝を迎えてしまいました。