私の恩師でもある蹴上の安養寺から、スウェーデン在住の美術家が「二河白道展」をやっていると聞き、電車に乗って観に行ってきました
ここに来るのは本当に何年ぶりでしょうか それまでは車で行っていたのですが、展示の為、邪魔になってはいけないと電車でのんびりとした暖かい日に出かけました
蹴上駅で降りて、山科方面へボツボツ歩いて行くと
あったあったと、登って行きました
車で行くと全然違う細い道から行くのですが、階段を登って行くと蹴上インクラインと云われる所らしく、とても美しい所で少し驚きました
安養寺では、本堂の所で「二河白道」を展示されているスウェーデン在住の高見さんに歓迎されました
私は総本山のイラストなどを描かせていただいたりして、関わりはあるものの、神仏の事はいろいろと見聞きして知っている事もあるのですが、無知な部分も多くて、高見さんと、恩師である住職の先生に「二河白道」の事について教えていただきました
今年は法然上人の800年御遠忌です。法然上人は中国の唐の善導大師の「二河白道のたとえ」を知り、これに感銘して布教活動を行ったそうです
私が先生から聞いて心に残った事があるので書いてみます。
昔昔は修業をしたり、悟りを開いたり、何か特別な事、特別な人でないと極楽浄土にはいけないと思われてきたそうです でもそうしたら世間一般の大勢の人はみんな不幸せなのか?
人はそれぞれで、いろいろな環境があって、気持ちもいろいろです
でも、心穏やかに過ごせている人や、悩み苦しんでいる人の違いというのは、誰かに何かをして欲しい、あれが欲しい、あの人の心が欲しい・・・など、それが水の河。
それに対しての熱い怒りや恨み、それが火の河。
それが二河で、その真ん中に細い細い道があって、恐ろしい欲に飲み込まれない、惑わされないキレイな純粋な気持ち。
それが真ん中の細い白道なのだと私は思います
そして、人や環境に惑わされない自分の道を少しずつ歩いて行けたら、極楽浄土に行けるような気がするのです。
二河白道は、そのように私は解釈しました
そこの細い道に自分が歩けているかは、自分や周りを見回してみて、そんなに悪くなっていないなとか、心が元気だなというので判ると思います 極楽浄土というのは、特別な所ではなくて、自分自身の気持ちの平安だと思います
でも、環境の変化などによって、私も気持ちが沈んだり、嫌な気分になる事があり、そんな時はきっと私の心が弱くなって、水の河に引っ張られているのでしょう
でも、そのまま深みにハマらないで、ちゃんと正しい道に戻してくれる頼もしい私もいます
自分自身は、今心が幸せで、環境も悪くないので、こんな感じでやじろべえのようにこの気持ちを持って進んでいければ、きっと幸せな人生だったなと思えるような気がします
先生も言っていたのですが、幸せになれるのは何か特別な才能を持った人だけではないと思います 先生が言うには、特別な才能を持った人は、それによって、周りに引っ張られて、自分自身にも引っ張られて、とても気苦労するものだし、それは仏様から見ると全然大した事ではないから、みんな同じなんだよ・・・・そういえば前にもそのような話を聞いた事があるのですが、その時はやっぱり才能ってあったらいいなと思っていた事を思い出しました
・・・今は、あんまりそんな事は思わなくなり、それよりも自分に出来る事とか、世間ズレしないようにしたいとか、人の気持ちが解るようになって思いやりを持って生きたいとか、時間があったら美しい自然に触れたいとか、そんな事を考えるようになれたのは、ちょっと成長したのかな と少し嬉しくなりました
先生夫婦や高見さんにお会いして、あまり変わらない先生を嬉しく思い、楽しく過ごせて、とても良い日だったなと思いました
ここに来るのは本当に何年ぶりでしょうか それまでは車で行っていたのですが、展示の為、邪魔になってはいけないと電車でのんびりとした暖かい日に出かけました
蹴上駅で降りて、山科方面へボツボツ歩いて行くと
あったあったと、登って行きました
車で行くと全然違う細い道から行くのですが、階段を登って行くと蹴上インクラインと云われる所らしく、とても美しい所で少し驚きました
安養寺では、本堂の所で「二河白道」を展示されているスウェーデン在住の高見さんに歓迎されました
私は総本山のイラストなどを描かせていただいたりして、関わりはあるものの、神仏の事はいろいろと見聞きして知っている事もあるのですが、無知な部分も多くて、高見さんと、恩師である住職の先生に「二河白道」の事について教えていただきました
今年は法然上人の800年御遠忌です。法然上人は中国の唐の善導大師の「二河白道のたとえ」を知り、これに感銘して布教活動を行ったそうです
私が先生から聞いて心に残った事があるので書いてみます。
昔昔は修業をしたり、悟りを開いたり、何か特別な事、特別な人でないと極楽浄土にはいけないと思われてきたそうです でもそうしたら世間一般の大勢の人はみんな不幸せなのか?
人はそれぞれで、いろいろな環境があって、気持ちもいろいろです
でも、心穏やかに過ごせている人や、悩み苦しんでいる人の違いというのは、誰かに何かをして欲しい、あれが欲しい、あの人の心が欲しい・・・など、それが水の河。
それに対しての熱い怒りや恨み、それが火の河。
それが二河で、その真ん中に細い細い道があって、恐ろしい欲に飲み込まれない、惑わされないキレイな純粋な気持ち。
それが真ん中の細い白道なのだと私は思います
そして、人や環境に惑わされない自分の道を少しずつ歩いて行けたら、極楽浄土に行けるような気がするのです。
二河白道は、そのように私は解釈しました
そこの細い道に自分が歩けているかは、自分や周りを見回してみて、そんなに悪くなっていないなとか、心が元気だなというので判ると思います 極楽浄土というのは、特別な所ではなくて、自分自身の気持ちの平安だと思います
でも、環境の変化などによって、私も気持ちが沈んだり、嫌な気分になる事があり、そんな時はきっと私の心が弱くなって、水の河に引っ張られているのでしょう
でも、そのまま深みにハマらないで、ちゃんと正しい道に戻してくれる頼もしい私もいます
自分自身は、今心が幸せで、環境も悪くないので、こんな感じでやじろべえのようにこの気持ちを持って進んでいければ、きっと幸せな人生だったなと思えるような気がします
先生も言っていたのですが、幸せになれるのは何か特別な才能を持った人だけではないと思います 先生が言うには、特別な才能を持った人は、それによって、周りに引っ張られて、自分自身にも引っ張られて、とても気苦労するものだし、それは仏様から見ると全然大した事ではないから、みんな同じなんだよ・・・・そういえば前にもそのような話を聞いた事があるのですが、その時はやっぱり才能ってあったらいいなと思っていた事を思い出しました
・・・今は、あんまりそんな事は思わなくなり、それよりも自分に出来る事とか、世間ズレしないようにしたいとか、人の気持ちが解るようになって思いやりを持って生きたいとか、時間があったら美しい自然に触れたいとか、そんな事を考えるようになれたのは、ちょっと成長したのかな と少し嬉しくなりました
先生夫婦や高見さんにお会いして、あまり変わらない先生を嬉しく思い、楽しく過ごせて、とても良い日だったなと思いました