聖徳太子の大予言「未来記」


聖徳太子の大予言「未来記」
山口敏太郎
@蔵出し
古代日本史の中でも、最も人気のある人物が聖徳太子である。厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳皇子などと複数の呼び名があるが、聖徳太子という呼称は死後百年ほど経った頃、生まれたものである。また、豊聡耳皇子という名前のもとになった「一度に10人の話す内容を同時に聞き分けた」と言われた稀代の超能力者であった。
因みに、聖徳太子といえば日出處の天子という名で、大国・隋に挑戦的な書状を送ったことで有名だが、「隋書』「卷八十一 列傳第四十六東夷 俀國」によると、この書状を送ったのは、俀王・多利思北孤という名前の人物である。従って「日出處天子致書日沒處天子無恙云々」という文言で隋を挑発した俀王・多利思北孤は、必ずしも聖徳太子とは限らず、推古天皇か、或いは九州のローカル王朝の首長という説もある。一説には、聖徳太子の存在そのものが架空の存在だとも言われている。
なお、聖徳太子にはユダヤとの関連を指摘する声もある。事実、彼の後援者であった秦氏はユダヤ系の渡来人であり、中国に移住したキリスト教ネストリウス派の集団であり、ユダヤの失われた十二師族であったとも言われている。秦氏の本拠地であった太秦には、ユダヤ教との関連が深い。なお、秦氏と関連が深い広隆寺は秦公寺(ハタキミデラ)と呼ばれており、ユダヤの寺と認識されていた。現に境内には三角鳥居があり、敷地の隣接地にはイサライ(=イスラエル?)という井戸が現存する。また、広隆寺の守護神でもある大酒神社(=大辟神社)はダビデを奉った神社とも言われている。いや、そもそもローマ帝国の首都ローマを大秦と漢字表記していた当時、太秦という地名自体、ローマからやってきた人々の居住地であった、と判断するのが妥当ではないか。
このようにユダヤ民族と思われる秦氏を後ろ盾にした聖徳太子には、イエス・キリストの伝承と一致する点がある。まず、二人とも不思議な力を使ったという点である。また、聖徳太子は厩戸(馬小屋)の前で出生したと言われる伝説がある。これは、マリアがキリストを馬小屋の前で生んだという伝承と同じである。更に、キリストは大工の息子に生まれているが、一方日本では、大工たちの間で古来より 太子講(聖徳太子を崇める信仰者の集り)が各地で開催されてきた。これは聖徳太子が大工の祖であるという考えが古来よりあり、大工関係者の間で太子講が盛んであったからである。つまり、キリストと聖徳太子の共通項は、「超能力」「馬小屋が生誕の地である」「大工に関連が深い」という三点があげられるのだ。
また、聖徳太子一族の怨霊が、法隆寺に封印されているという説もある。この聖徳太子怨霊説は、梅原猛が「隠された十字架」という著作において主張し、その後も井沢元彦が著書「逆説の日本史」で展開するなど、一部の識者の間で熱狂的な支持を受けてきた。
このように不可解な伝承の多い聖徳太子には、未来を見通せる力、つまり予言する能力もあったと言われている。『日本書紀』には聖徳太子を評して、「兼知未然(兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」と説明している。
この記述をもとに、聖徳太子の予言書と呼ばれる一連の文献(口伝も含む?)が「未来記」である。平安時代には広く知れ渡っていたようだ・『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。この「未来記」は、伝承される寺や時代によって様々なバリエーションがあり、何種類か確認されていると言われている。
幾つか、聖徳太子の予言の事例を紹介してみよう。「先代旧事本紀」にこんなエピソードが紹介されている。聖徳太子は、敏達天皇の御前で喧嘩をはじめた蘇我馬子、物部守屋を評し、「蘇我は才が徳に勝ち、物部は気が徳に勝っている。気が勝つものは、早く滅び、才が勝つものは遅く滅びます。どちらにしろ滅ぶことは避けられません」と断言した。結果、両家とも滅びてしまった。
また「聖徳太子伝暦」によると、物部軍と蘇我軍が交戦中、物部軍に蘇我軍が押されていたとき、蘇我軍に加わっていた太子が、木の枝を四本削り髪に指して、「これは四天王である。もし我らが勝ったなら、必ずお奉りするので勝たして欲しい」と叫んだとたん、矢が総大将の物部守屋にあたり、物部軍は総崩れになったという。予言というか、カリスマ的なパワーを感じる。
これら一連の太子の予言書「未来記」の元ネタはどこにあるのであろうか。中国の高僧、宝詩和尚によって書かれた「野馬台詩」がその原典であると推測されている。この詩は、陰陽道の祖・吉備真備が唐の朝廷に解読を強要された結果、判明した予言詩であり、日本における予言が興味深い。天皇家も百代を過ぎると国が衰退し、犬猿の化け物のような者が政権をにぎると記されていたのだ。
この「未来記」によって人生が変わってしまった人物もいる。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には、楠木正成が未来記を読んだという記述がある。後醍醐天皇の反鎌倉幕府の呼びかけ応じ、挙兵した楠木正成は、浪速の天王寺に参拝し、寺宝として残された聖徳太子の予言書「四天王寺未来記」を読んだ。その中には、
「人王九十六代に当たり、天下一たび乱れて主安からず。この時東魚来たりて四海を呑む。日、西天に没する三百七十余日、西鳥来たりて東魚を食らう。そののち、海内一に帰すること三年、ミコウのごときもの天下をかすむる事三十年余、大凶変じて一元に帰すなり」という文が記述されていた。明らかに、「野馬台詩」の影響が認められるが、この文を読んだ楠木正成は自分の未来と宿命を実感し、鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇の建武の新政の為に、一命をかける決心をしたという。
また、「聖徳太子御記文」という予言書は、北畠親房の手紙に言及されている太子の予言書であり、南朝の正統性を主張する根拠にされた。他にも唐招提寺に伝承される「唐招提寺五十巻本未来記」という文書など、複数バージョンの「未来記」の存在が噂されている。
これらの未来記は、聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりであるという「太子信仰」が民間に盛んになった室町時代前後に成立したと考えるのが賢明である。
聖徳太子の未来記以外にも、宗教家や武士が未来を予言したとされる話は多い。幾つか例をあげると、伝教大師、達磨大師、弘法大師、源義家などが列記される。例えば、弘法大師(=空海)の予言書が「弘法大師御手印縁起」という文書であり、智証大師の予言書が「智証大師御記文」、伝教大師(=最澄)の予言書が「末法灯明記」、聖武天皇の予言をまとめたのが「聖武天皇勅書銅板」である。偉人は予言するものなのだ。
関連記事 ユダヤ 秦氏、聖徳太子
山口敏太郎
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古代日本史の中でも、最も人気のある人物が聖徳太子である。厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳皇子などと複数の呼び名があるが、聖徳太子という呼称は死後百年ほど経った頃、生まれたものである。また、豊聡耳皇子という名前のもとになった「一度に10人の話す内容を同時に聞き分けた」と言われた稀代の超能力者であった。
因みに、聖徳太子といえば日出處の天子という名で、大国・隋に挑戦的な書状を送ったことで有名だが、「隋書』「卷八十一 列傳第四十六東夷 俀國」によると、この書状を送ったのは、俀王・多利思北孤という名前の人物である。従って「日出處天子致書日沒處天子無恙云々」という文言で隋を挑発した俀王・多利思北孤は、必ずしも聖徳太子とは限らず、推古天皇か、或いは九州のローカル王朝の首長という説もある。一説には、聖徳太子の存在そのものが架空の存在だとも言われている。
なお、聖徳太子にはユダヤとの関連を指摘する声もある。事実、彼の後援者であった秦氏はユダヤ系の渡来人であり、中国に移住したキリスト教ネストリウス派の集団であり、ユダヤの失われた十二師族であったとも言われている。秦氏の本拠地であった太秦には、ユダヤ教との関連が深い。なお、秦氏と関連が深い広隆寺は秦公寺(ハタキミデラ)と呼ばれており、ユダヤの寺と認識されていた。現に境内には三角鳥居があり、敷地の隣接地にはイサライ(=イスラエル?)という井戸が現存する。また、広隆寺の守護神でもある大酒神社(=大辟神社)はダビデを奉った神社とも言われている。いや、そもそもローマ帝国の首都ローマを大秦と漢字表記していた当時、太秦という地名自体、ローマからやってきた人々の居住地であった、と判断するのが妥当ではないか。
このようにユダヤ民族と思われる秦氏を後ろ盾にした聖徳太子には、イエス・キリストの伝承と一致する点がある。まず、二人とも不思議な力を使ったという点である。また、聖徳太子は厩戸(馬小屋)の前で出生したと言われる伝説がある。これは、マリアがキリストを馬小屋の前で生んだという伝承と同じである。更に、キリストは大工の息子に生まれているが、一方日本では、大工たちの間で古来より 太子講(聖徳太子を崇める信仰者の集り)が各地で開催されてきた。これは聖徳太子が大工の祖であるという考えが古来よりあり、大工関係者の間で太子講が盛んであったからである。つまり、キリストと聖徳太子の共通項は、「超能力」「馬小屋が生誕の地である」「大工に関連が深い」という三点があげられるのだ。
また、聖徳太子一族の怨霊が、法隆寺に封印されているという説もある。この聖徳太子怨霊説は、梅原猛が「隠された十字架」という著作において主張し、その後も井沢元彦が著書「逆説の日本史」で展開するなど、一部の識者の間で熱狂的な支持を受けてきた。
このように不可解な伝承の多い聖徳太子には、未来を見通せる力、つまり予言する能力もあったと言われている。『日本書紀』には聖徳太子を評して、「兼知未然(兼ねて未だ然らざるを知ろしめす)」と説明している。
この記述をもとに、聖徳太子の予言書と呼ばれる一連の文献(口伝も含む?)が「未来記」である。平安時代には広く知れ渡っていたようだ・『平家物語』巻第八に「聖徳太子の未来記にも、けふのことこそゆかしけれ」とある。この「未来記」は、伝承される寺や時代によって様々なバリエーションがあり、何種類か確認されていると言われている。
幾つか、聖徳太子の予言の事例を紹介してみよう。「先代旧事本紀」にこんなエピソードが紹介されている。聖徳太子は、敏達天皇の御前で喧嘩をはじめた蘇我馬子、物部守屋を評し、「蘇我は才が徳に勝ち、物部は気が徳に勝っている。気が勝つものは、早く滅び、才が勝つものは遅く滅びます。どちらにしろ滅ぶことは避けられません」と断言した。結果、両家とも滅びてしまった。
また「聖徳太子伝暦」によると、物部軍と蘇我軍が交戦中、物部軍に蘇我軍が押されていたとき、蘇我軍に加わっていた太子が、木の枝を四本削り髪に指して、「これは四天王である。もし我らが勝ったなら、必ずお奉りするので勝たして欲しい」と叫んだとたん、矢が総大将の物部守屋にあたり、物部軍は総崩れになったという。予言というか、カリスマ的なパワーを感じる。
これら一連の太子の予言書「未来記」の元ネタはどこにあるのであろうか。中国の高僧、宝詩和尚によって書かれた「野馬台詩」がその原典であると推測されている。この詩は、陰陽道の祖・吉備真備が唐の朝廷に解読を強要された結果、判明した予言詩であり、日本における予言が興味深い。天皇家も百代を過ぎると国が衰退し、犬猿の化け物のような者が政権をにぎると記されていたのだ。
この「未来記」によって人生が変わってしまった人物もいる。また、『太平記』巻六「正成天王寺の未来記披見の事」には、楠木正成が未来記を読んだという記述がある。後醍醐天皇の反鎌倉幕府の呼びかけ応じ、挙兵した楠木正成は、浪速の天王寺に参拝し、寺宝として残された聖徳太子の予言書「四天王寺未来記」を読んだ。その中には、
「人王九十六代に当たり、天下一たび乱れて主安からず。この時東魚来たりて四海を呑む。日、西天に没する三百七十余日、西鳥来たりて東魚を食らう。そののち、海内一に帰すること三年、ミコウのごときもの天下をかすむる事三十年余、大凶変じて一元に帰すなり」という文が記述されていた。明らかに、「野馬台詩」の影響が認められるが、この文を読んだ楠木正成は自分の未来と宿命を実感し、鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇の建武の新政の為に、一命をかける決心をしたという。
また、「聖徳太子御記文」という予言書は、北畠親房の手紙に言及されている太子の予言書であり、南朝の正統性を主張する根拠にされた。他にも唐招提寺に伝承される「唐招提寺五十巻本未来記」という文書など、複数バージョンの「未来記」の存在が噂されている。
これらの未来記は、聖徳太子は観音菩薩の生まれ変わりであるという「太子信仰」が民間に盛んになった室町時代前後に成立したと考えるのが賢明である。
聖徳太子の未来記以外にも、宗教家や武士が未来を予言したとされる話は多い。幾つか例をあげると、伝教大師、達磨大師、弘法大師、源義家などが列記される。例えば、弘法大師(=空海)の予言書が「弘法大師御手印縁起」という文書であり、智証大師の予言書が「智証大師御記文」、伝教大師(=最澄)の予言書が「末法灯明記」、聖武天皇の予言をまとめたのが「聖武天皇勅書銅板」である。偉人は予言するものなのだ。
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