人は国家財政の観点からは平等ではない。
これが、僕の見解です。
人は、人間としての価値の観点からは平等であるが、
国家を運営する財源という視点からは、平等ではない。
自分で稼ぐことができる、努力するタイプの人間が尊い。
その帰結として、貧富の差はあってよい。
むしろないほうが、不自然であり、不平等である。
努力したものと努力しなかったものの結果を、国家が意図的に平等にするというのは、
努力したものからすると、不平等な結果を国家が招いたことになる
わけです。
憲法は、努力できる機会を同じように与えるという機会の平等は保障するが、
それによって生じた貧富の差という結果の平等は是認している。
貧しいものが、豊かなものに、
お前は豊かだから、俺たちにカネを払うべきだ
というのは、
誤りである。
政治家がこんなことを言おうものなら、袋叩きにあうかもしれません。
しかし、弱者の味方だと善人ぶっているメディアも、
弱者のために何かをしているわけではない。
あなたの団体は、弱者の救済のためにがんばっておられるんですね。
弱者保護のために、無償で30秒のスポットCMをゴールデンタイムに提供しましょう。
などとは、言わない。
ビジネスだからです。
他の国民もそう。
弱者だからといって、お金を恵んでやる人はそんなにいない。
募金箱にお金を入れる人もそれほど多くない。
自分のお金は大事だからです。
それが、税金という形で、自分のお金でなくなった瞬間、
弱者にお金をばらまかなければいかない
というような、
「善人の暗示」にかかってしまう。
累進制を高めて、お金持ちからたくさん取って、貧しい人に配ることは善である。
そのように主張しだす。その背景には、自分は関係ないという真意があります。
富の偏在に悩んでいたイギリスは、累進性を高め、富を平準化しました。
その結果、格差は小さくなったわけですが、
富を作る強者がいなくなってしまい、国家が停滞しました。
それにより、強者から税を取れなくなってしまい、結果として、財源不足に陥り、弱者も苦しむようになりました。
また、強者がいなくなったことにより、仕事が減り、失業率が上がり、国際競争力もなくなりました。
必要なのは、強者を育てる戦略です。
強者を育て、仕事をたくさん作ってもらう。グローバル市場で戦ってもらう。
弱者にお金を配るくらいなら、強者を育て、弱者を採用してもらい、弱者を強者に換えるための機会を与えるべきです。
この方が、ずっと健全であり、希望もあります。
弱者にお金をばらまいても、日々の生活が維持されるだけで、希望は生まれません。
弱者に仕事を与えれば、そこで、スキルアップが図られ、人間的にも成長でき、成り上がっていく機会が与えられるわけです。
今、就職活動に苦しんでいる学生なら、イメージできるはずです。
生活保護を国からもらって、生きながらえる生活よりも、
大変かもしれないけれど、仕事がある生活
を選ぶはずです。
仕事をさせるには、仕事を作る強者が必要です。
そのためには、貧富の差という結果の不平等は認め、スキルアップにより成功した人をたたえる文化が必要です。
そして、成功した人には、ノブレスオブリージュの思想を持ってもらう。
スキル(能力)がある人には、責任が伴う
という意味です。
自分が生活できるようになったら、その能力を他の人のためにも使う責任があるということ。
神から、すごい才能を与えられたんだから、それに感謝し、周りの人にも恩恵を与えてあげなさい。
貴族の思想です。
これは、僕の思想の核にあるのですが、どの哲学、宗教にも出てくる考え方です。
儒教でいえば、仁がそうです。思いやりの心。君子は仁が不可欠。
仏教でいえば、利他。お布施の考えもそう。
イスラム教でいえば、ザカードやサダカ。
ちなみにイスラム教は、テロの影響から怖いというイメージが大きいですが、
ムハンマドの教えは、キリスト教同様、慈愛に基づくものが多く、寄付行為もさかんだと言われています。
つまり、貧富の差をなくすために、累進性を高め、少数の金持ちから、略奪して、貧困層にばらまくのではなく、
貧困層が暮らしていけるための仕事の創出を行わせたり、
出資をしてもらい、教育施設を建設したりすべきであるということです。
あしなが基金をたくさん作って、授業料に悩む子供を支える。
出資をしてもらい、特別養護老人ホームと託児所を一緒にできる施設を作ってもらう。
施設には、出資者の名前をバネルで彫り込む。地元名士の名前が並ぶ。慈愛の精神に富んだロータリーやライオンズの人が協力してくれるはず。
どうしても、生活できないような人に対しては、お金で支給する必要がありますが、
仕事があれば、生活できるという人には、仕事を与える。
魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える。
その方が、本人のためになるからです。
貧富の差をなくすべきだと叫ぶのは、
みんなで貧乏になるべきだ
と言っているのと同じことです。
大企業から税金をたくさん取るべきだという共産党の主張も同じです。
大企業を仮想敵国として、貧乏な人の票を集めるという手法は、そろそろやめた方がいいと思います。
まぁ、ばらまいて票を買おうとする民主党も、利権を失ってみじめさを実感している自民党も(巻き戻しに必死です。利権なき自民党は自民党ではない。政権を奪って、利権を取り戻せ。パーティー券を買ってもらえないままじゃ浮かばれん。)、
特定宗教に頼りっぱなしの公明党も、理念なき集合であるたくさんの新党も大差はないですが。
この強者に資源を集中するというのは、経営戦略としては、基本です。
弱点を補うために資産を遣っても、他者と差別化ができないので、結局売れず、資源が無駄になります。
強みに特化して希少性が生まれれば、利益を上げることができ、その利益を遣って、弱い部分の補強もできるようになります。
強者の論理だと言われそうですが、強者の論理が重要です。それについて、議論する必要はないと思います。
強者の論理で何が悪いのですか?
強者の論理こそが、みんなを幸せにする。
強者の論理は、弱者を食い物にするものだ。
というのは、直ちに結びつくものではないというのが、僕の考え方だからです。
強者が、孔子の言う仁を備え、弱者に配慮できれば、すべての人が幸せになれる共同体が生まれます。
弱者の論理に従えば、みんなが弱者になって、競争に敗れてしまいます。
ばらまきの弱者の論理では、すべての人が不幸せになってしまいます。
どちらを選択するか?
今日本は、あまり状況を分析することなく、
多数になりつつある弱者の票が欲しくて、後者を選択しようとしています。
僕の思想は、
小さな国家を基本として、
成熟した知的な国民が、自助努力に励み、イノベーションを起こす。
その結果、うまくいったものが豊かになり、失敗したものが貧しくなる。
貧しくなったものも、うまくいったもののビジネスがあるため、仕事にありつける。
そこで、仕事をしながら、知的に成長し、第2回戦に臨むことができる。
今度は、そのものが成功をおさめ豊かになる。そのころ、時代の流れから、前回うまくいったものが失敗をする。
そのときには、2回戦でうまくいったものが、1回戦ではうまくいったが、その後失敗したものに仕事を提供して、再チャレンジのための準備をさせる。
こうして、社会は助け合いながら、成長を遂げていく。
そういう自助努力と慈愛に満ちた国家が僕の理想とする国家像です。
その国の国民は、知的能力が高いので、
選挙には必ず行き、政治にも関心を持っています。
自分の政治思想も、自分の理想の国家像も持っています。
判断する際には、自分の利益のみならず、他の仲間の国民の利益、他国や地球規模の利益、
これから生まれてくる将来の国民の利益
を考慮し、
何がみんなの利益になるかを考えて、判断します(無知のヴェール+功利主義的思想)。
会計スキルの高く、会計監査院を通して、無駄がないかを確認します。
ずるをして自分さえ儲かればいいという人はいないので、天下りや談合、随意契約などもなくなっています。
自分の特性に合わせた仕事について、
ライフワークバランスをとって、仕事とプライベートを楽しんでいます。
休日には、ボランティアなど他の人のためにも行動して、エネルギーをもらいます。
みんな職につくことができ、コミュニティーもしっかりしていて、
みんながお互いを配慮しているので、孤独死も児童虐待も存在していません。
気軽に相談できるので、おれおれ詐欺にも引っかからずに済みます。
効率的な国家運営のため、税金も安く、規制がない分物価も安い。
比較的広い家に住み、安全でおいしい食べ物を食べ、自分の好きな洋服でおしゃれを楽しむ。
効率的な福祉運営により、介護施設が充実しているので、老後の心配をしなくてもすむ。
そのためには、どうしたらよいのかを考えていけば、
きっといつか実現できると思います。
そのための第一歩が、若い世代が政治に関心を持って選挙に行くということです。
おかしいものは、おかしいと文句を言う。
こういう制度を作れと国に言う。
これが、僕の見解です。
人は、人間としての価値の観点からは平等であるが、
国家を運営する財源という視点からは、平等ではない。
自分で稼ぐことができる、努力するタイプの人間が尊い。
その帰結として、貧富の差はあってよい。
むしろないほうが、不自然であり、不平等である。
努力したものと努力しなかったものの結果を、国家が意図的に平等にするというのは、
努力したものからすると、不平等な結果を国家が招いたことになる
わけです。
憲法は、努力できる機会を同じように与えるという機会の平等は保障するが、
それによって生じた貧富の差という結果の平等は是認している。
貧しいものが、豊かなものに、
お前は豊かだから、俺たちにカネを払うべきだ
というのは、
誤りである。
政治家がこんなことを言おうものなら、袋叩きにあうかもしれません。
しかし、弱者の味方だと善人ぶっているメディアも、
弱者のために何かをしているわけではない。
あなたの団体は、弱者の救済のためにがんばっておられるんですね。
弱者保護のために、無償で30秒のスポットCMをゴールデンタイムに提供しましょう。
などとは、言わない。
ビジネスだからです。
他の国民もそう。
弱者だからといって、お金を恵んでやる人はそんなにいない。
募金箱にお金を入れる人もそれほど多くない。
自分のお金は大事だからです。
それが、税金という形で、自分のお金でなくなった瞬間、
弱者にお金をばらまかなければいかない
というような、
「善人の暗示」にかかってしまう。
累進制を高めて、お金持ちからたくさん取って、貧しい人に配ることは善である。
そのように主張しだす。その背景には、自分は関係ないという真意があります。
富の偏在に悩んでいたイギリスは、累進性を高め、富を平準化しました。
その結果、格差は小さくなったわけですが、
富を作る強者がいなくなってしまい、国家が停滞しました。
それにより、強者から税を取れなくなってしまい、結果として、財源不足に陥り、弱者も苦しむようになりました。
また、強者がいなくなったことにより、仕事が減り、失業率が上がり、国際競争力もなくなりました。
必要なのは、強者を育てる戦略です。
強者を育て、仕事をたくさん作ってもらう。グローバル市場で戦ってもらう。
弱者にお金を配るくらいなら、強者を育て、弱者を採用してもらい、弱者を強者に換えるための機会を与えるべきです。
この方が、ずっと健全であり、希望もあります。
弱者にお金をばらまいても、日々の生活が維持されるだけで、希望は生まれません。
弱者に仕事を与えれば、そこで、スキルアップが図られ、人間的にも成長でき、成り上がっていく機会が与えられるわけです。
今、就職活動に苦しんでいる学生なら、イメージできるはずです。
生活保護を国からもらって、生きながらえる生活よりも、
大変かもしれないけれど、仕事がある生活
を選ぶはずです。
仕事をさせるには、仕事を作る強者が必要です。
そのためには、貧富の差という結果の不平等は認め、スキルアップにより成功した人をたたえる文化が必要です。
そして、成功した人には、ノブレスオブリージュの思想を持ってもらう。
スキル(能力)がある人には、責任が伴う
という意味です。
自分が生活できるようになったら、その能力を他の人のためにも使う責任があるということ。
神から、すごい才能を与えられたんだから、それに感謝し、周りの人にも恩恵を与えてあげなさい。
貴族の思想です。
これは、僕の思想の核にあるのですが、どの哲学、宗教にも出てくる考え方です。
儒教でいえば、仁がそうです。思いやりの心。君子は仁が不可欠。
仏教でいえば、利他。お布施の考えもそう。
イスラム教でいえば、ザカードやサダカ。
ちなみにイスラム教は、テロの影響から怖いというイメージが大きいですが、
ムハンマドの教えは、キリスト教同様、慈愛に基づくものが多く、寄付行為もさかんだと言われています。
つまり、貧富の差をなくすために、累進性を高め、少数の金持ちから、略奪して、貧困層にばらまくのではなく、
貧困層が暮らしていけるための仕事の創出を行わせたり、
出資をしてもらい、教育施設を建設したりすべきであるということです。
あしなが基金をたくさん作って、授業料に悩む子供を支える。
出資をしてもらい、特別養護老人ホームと託児所を一緒にできる施設を作ってもらう。
施設には、出資者の名前をバネルで彫り込む。地元名士の名前が並ぶ。慈愛の精神に富んだロータリーやライオンズの人が協力してくれるはず。
どうしても、生活できないような人に対しては、お金で支給する必要がありますが、
仕事があれば、生活できるという人には、仕事を与える。
魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える。
その方が、本人のためになるからです。
貧富の差をなくすべきだと叫ぶのは、
みんなで貧乏になるべきだ
と言っているのと同じことです。
大企業から税金をたくさん取るべきだという共産党の主張も同じです。
大企業を仮想敵国として、貧乏な人の票を集めるという手法は、そろそろやめた方がいいと思います。
まぁ、ばらまいて票を買おうとする民主党も、利権を失ってみじめさを実感している自民党も(巻き戻しに必死です。利権なき自民党は自民党ではない。政権を奪って、利権を取り戻せ。パーティー券を買ってもらえないままじゃ浮かばれん。)、
特定宗教に頼りっぱなしの公明党も、理念なき集合であるたくさんの新党も大差はないですが。
この強者に資源を集中するというのは、経営戦略としては、基本です。
弱点を補うために資産を遣っても、他者と差別化ができないので、結局売れず、資源が無駄になります。
強みに特化して希少性が生まれれば、利益を上げることができ、その利益を遣って、弱い部分の補強もできるようになります。
強者の論理だと言われそうですが、強者の論理が重要です。それについて、議論する必要はないと思います。
強者の論理で何が悪いのですか?
強者の論理こそが、みんなを幸せにする。
強者の論理は、弱者を食い物にするものだ。
というのは、直ちに結びつくものではないというのが、僕の考え方だからです。
強者が、孔子の言う仁を備え、弱者に配慮できれば、すべての人が幸せになれる共同体が生まれます。
弱者の論理に従えば、みんなが弱者になって、競争に敗れてしまいます。
ばらまきの弱者の論理では、すべての人が不幸せになってしまいます。
どちらを選択するか?
今日本は、あまり状況を分析することなく、
多数になりつつある弱者の票が欲しくて、後者を選択しようとしています。
僕の思想は、
小さな国家を基本として、
成熟した知的な国民が、自助努力に励み、イノベーションを起こす。
その結果、うまくいったものが豊かになり、失敗したものが貧しくなる。
貧しくなったものも、うまくいったもののビジネスがあるため、仕事にありつける。
そこで、仕事をしながら、知的に成長し、第2回戦に臨むことができる。
今度は、そのものが成功をおさめ豊かになる。そのころ、時代の流れから、前回うまくいったものが失敗をする。
そのときには、2回戦でうまくいったものが、1回戦ではうまくいったが、その後失敗したものに仕事を提供して、再チャレンジのための準備をさせる。
こうして、社会は助け合いながら、成長を遂げていく。
そういう自助努力と慈愛に満ちた国家が僕の理想とする国家像です。
その国の国民は、知的能力が高いので、
選挙には必ず行き、政治にも関心を持っています。
自分の政治思想も、自分の理想の国家像も持っています。
判断する際には、自分の利益のみならず、他の仲間の国民の利益、他国や地球規模の利益、
これから生まれてくる将来の国民の利益
を考慮し、
何がみんなの利益になるかを考えて、判断します(無知のヴェール+功利主義的思想)。
会計スキルの高く、会計監査院を通して、無駄がないかを確認します。
ずるをして自分さえ儲かればいいという人はいないので、天下りや談合、随意契約などもなくなっています。
自分の特性に合わせた仕事について、
ライフワークバランスをとって、仕事とプライベートを楽しんでいます。
休日には、ボランティアなど他の人のためにも行動して、エネルギーをもらいます。
みんな職につくことができ、コミュニティーもしっかりしていて、
みんながお互いを配慮しているので、孤独死も児童虐待も存在していません。
気軽に相談できるので、おれおれ詐欺にも引っかからずに済みます。
効率的な国家運営のため、税金も安く、規制がない分物価も安い。
比較的広い家に住み、安全でおいしい食べ物を食べ、自分の好きな洋服でおしゃれを楽しむ。
効率的な福祉運営により、介護施設が充実しているので、老後の心配をしなくてもすむ。
そのためには、どうしたらよいのかを考えていけば、
きっといつか実現できると思います。
そのための第一歩が、若い世代が政治に関心を持って選挙に行くということです。
おかしいものは、おかしいと文句を言う。
こういう制度を作れと国に言う。