3日ほど前のニュースでしたが、小平市の道路拡張に反対する住民投票への活動について取り扱ったものについて気になったことがあるので取り上げます。
昨今の民主主義制度を考え直す動きとして住民投票制度、つまり住民が直接政治的判断に参加していこうという動きです。そうした活動は住民が自らの周りのまちづくりや政策について関心を持ち、実際に活動しようとすることは極めて大切なことであり、政治的関心事に参加、活動することを否定するものではありません。住民投票制度も法律で認められる重要な民主主義の政治的決定手段です。
しかし、こうした住民投票制度で考えなければならないことが2点ほどあるのではないかと思うのです。
まず、1点目は、住民投票の争点となる対象が、行政区域の範囲内においてどれだけ法的拘束力があり、住民投票制度の意義があるか現実的な問題としてとらえなければなりません。つまり、今回のケースでいえば、住民投票によって反対が決定されても法的拘束力はないということであり、現実的に考えれば何のための住民投票か明確にされていないのではないでしょうか。活動そのものに意義があるとするのであれば、争点の目的が少し違うということです。この点についてはコメンテーターもそのような発言をしていました。住民投票とはどういうものかの意義、そして現在の民主主義制度とはどう言うものかを理解する必要があります。そもそも住民投票そのものに多大なコストがかかります。何でも住民投票にかけ、政策判断を住民が自ら選択していくというわけにはいきません。また、単に住民投票による多数決が全面的に正義であるということが担保されるかどうかを考えなければなりません。現在の代表制による民主主義制度が、ベストではないとしてもベターの制度として政治は進められているということを再認識していく必要があると思います。
2点目は、1点目で指摘したような現実をとらえれば、私たちの代表として選ばれた政治家、議会を動かすことを主体に活動すべきではないかと思うのです。ニュースの範囲内で、この所感を書いていますので、そうした活動は十分していたと言われれば問題は少し違うかとは思いますが、現実的な活動の成果を求めようとするならば、制度の中で実現していく実効性を求めると言うことが必要です。一般的な話として、現在の政治不信、政治家はあてにならない、議会は何もしてくれないといった批判があるのは確かです。しかし、政治家や議会のとって、住民から負託された責任は十分持っていると思います。たとえそうしたずれが生じているとしても、現実的には、先ほど申し上げた制度の中で変えていくという努力をすることが大切です。今回のケースでは、そこのところが報道されていませんでしたので、勝手なことを言うようですが、活動の実効性を考えれば、活動の意義が満たされます。
批判的なように書きましたが、活動そのものを否定するものではありません。私自身は、こうした市民の活動が、社会を変えていくと信じています。今の日本は、戦後、与えられた民主主義制度として成り立っているため、決して勝ち取ったという意識が私たちにない所に問題があるのではないかと思います。それは決して今の制度が間違っているということではなく、私たち一人一人が十分理解したいないのではないかということです。明治、大正の戦前の政治史を読んでいると、先人達がいかに民主主義を勝ち取ろうとしてきたかを改めて感じます。戦争をはさんで大きく変わった政治制度が、戦後の政治的な歴史もふくめ、今一度問い直す時期に来ているのかもしれません。
以上