集客のマニュアルでよくある、
いかにして他所でなく自分の所に来てもらうか
他所に勝てる所をアピール
というのがどうしてもしっくりこなくて・・・
私と合いそうと思ったら来てくれたらいいし、
他所の方が合う人もいるしそれはそれでいい、
この感じでやってきた。
それでも生きてるし、こんなのでも大丈夫。
他所に勝つことばっり考えるって
なんか疲れるから苦手。
「そんな事ではこの競争社会で生きていけない」
って言われた事もあるけど、
競争社会で生きようと思ってないからそれでいい。
自己啓発系のセミナーとか本にはまってた時期は、
一番お金になること以外切り捨てる
集客に繋がらないブログを書くのは無駄
最小の労力で最大の利益を上げる
というのを頑張ろうとしたけど無理だった。
結局書きたいことしか書けないし、
集客とまるで関係ない内容ばっかり。
それでも来てくださるお客様の八割以上の方から
「ブログ読んで」と言っていただけるし、
占いの仕事でたくさん人に会っているからこそ
書くための引き出しが増えていく。
気がついたらこれで
自分が生きていけるくらいは回ってる。
一番長いものでは二十年くらい前から
ほぼ毎日ブログ書いてるし
書くことがやっぱり好きなんだと思う。
二次創作でも一次創作でも
書いてる時やっぱり楽しい。
何々しなければいけない
が口癖になっていると
しなければならないことだけで
1日が終わっていく
それが繰り返されると
数ヶ月
数年
数十年
一生涯
しなければならない
と言いそうになったら
本当にしないといけない?と自分に聞く
答えがノーだったら
やらないで済む方法を考える
未来の何かご褒美のために
頑張ることはなくなった
日常が毎日楽しければ
それが普通の状態
特別ご褒美とか要らない
何かのために今を我慢
というのも要らない
今一番やりたい事を
最優先にして今やるだけだから
表現する
というと、
何か作るとか、
話すとか書くとか、
歌とか演奏とか、
そういうのを連想して
「自分には何も表現出来ない」
ってすぐ言うけど・・・
生きている事そのものが
自分を表現している事。
何も表現出来ない人は居ないはず。
大袈裟に考えるから
そこで止まってしまう。
好きなことをやって生きていけるのは
一部の特別な人だけで、
他の大多数の人は
あまりやりたくない事を我慢しながら
たまにある楽しみをご褒美として
日々を耐えるのが普通。
世間ではこう思われてるけど、
これこそが
一部の人にとってのみ都合のいい
ミスリード。
「楽しみは時々ある位で
我慢と忍耐の方が多いのが普通」
と思って生きていると、
周りを見渡しても
そういう人しか目に入らなくなり、
「皆んなそうだから」
「皆んな我慢してるから」
という理由で受け入れてしまう。
違う生き方をしている人は沢山いる。
フォーカスしてないから見えないだけで。
自分自身も一番悩んだ問題。
好き嫌いでなく
出来る事で日々しっかりお金を稼いで
生活を安定させた上で経済的不安のない所で、
好きな事を少しだけやるという選択をする
という人も多い。
それが一番安心と言われてたりするけど・・・
それだと好きな事をやる前に疲れ切っていて
結局好きな事をやめてしまう事もある。
時間配分の問題もあるけど。
「生活を安定させる」
とか
「不安のないところまで働く」
というのも
どれくらいを指しているのか・・・
満員電車で通勤時間長くて
日々残業もあったりすると、
平日の帰宅後や休日に好きな事に向ける余力は
すでに残ってないように思う。
そういう人をいっぱい見てきたし。
「いつの日か」好きな事を
思いっきりする時間を作るために
今は努力忍耐根性で出来るだけ長く働いて
お金稼ぐとか
やっぱり無理があるように思う。
「いつの日か」って一体いつの事なのか?
そのために今を我慢することに
どれだけ意味があるのか?
「好きな事と得意な事は別物」
というのもよく言われてるし
「経済的に困窮したくなければ
好きな事より得意な事を」
というのも言われてる事だけど・・・
どうもなんか違うと思う。
一番やりたい事を最優先に持ってきた時に、
その結果もし
今一番収入源になっている仕事を失ったら、
自分は死にたいと思うのか?
これを自分に聞いたら答えはノーだった。
それなら今やりたい事は全部今すぐやる。
決めたら出来る。
こうでなければ
お金に困るのでは?
と思っている時は
そこから一歩も動けない。
動いてみたら
困らないで済む色々な事が
なんか次々来て
1つ1つは細かい事なんだけど
積み重なると大きい。
気がついたら何とかなってた。
そんな事って多い。
思考が先 現実はあと。
絵描く事
文章書く事
好きな物作って食べる事
散歩に出かけて
好きな景色を眺める事
子供の頃から店の真似事したり
実際イベントや物販もやったし
自分の場所、店に
こだわりはあったと思う。
好きな事を1つずつ
ゆっくり形にしていく楽しみ。
以前の家から一軒家住まいに変えて、
隣の人と仲良くなった。
今の場所に移って今度は、
隣の人ともその周辺の人とも
色々交流がある。
植物の育て方
料理の仕方
安くていい物がどこで手に入るか
人からの直接の情報が一番確か。
「こうでなければ
お金に困るのでは?」
と思っている時は、
そこから一歩も動けない。
動いてみたら
困らないで済む色々な事が
なんか次々来て、
1つ1つは細かい事なんだけど
積み重なると大きい。
気がついたら何とかなってた。
思考が先 現実はあと。
自分も何十年もの間、
お金のマインドブロックで
ものすごく引っ張られたから
お金の不安持ってる人の気持ちは
嫌というほど分かる。
お金とはそもそもどういうもの?
というところから考えていくと
少しずつ少しずつ
思考が変わっていく。
困らない現実を作るアイデアも出る。
自炊はいつもてきとう。
材料見てから考える
最近作ってみて美味しかったもの。
カブのサラダ
てきとうに切って
自然塩で軽く揉んで
しばらく放置(1時間↑)
水が出たら水を捨てて
自然塩、黒胡椒、酢、オリーブオイル
てきとうに入れて混ぜて完了
シンプルだけどこれだけで美味しい
りんごと混ぜても合う
「本人のためを思って
こうしてあげた方がいいから
言ってあげている」
というのは、
自分こそ正しいという前提で出てくる言葉。
本人にとって何がいいかは本人が決める事。
言われる方も、
「自分のためを思って言ってくれてるし
従わないわけにはいかない」
と考える人も多いけど・・・
相手が何を思って言っていようが、
従わなければいけない理由にはならない。
バッサリ断るのが気になるなら
「言ってくれてありがとう
でも自分はそれはできない」
でいいと思う。
周りの誰かに対して勝手に期待して
「あなたがこうしてくれないと困る」
というような事を、
言わないで済むように生きてる。
自分もそれ言われるの一番嫌いだから。
依存と干渉が無くなったら、
恋愛含め人間関係の悩みって
おそらく全部無くなると思う。
「ゆっくり暮らすのが夢」
だった以前は、
そうするには
今は出来るだけ長時間必死に働いて、
困らないだけのお金を貯めて、
それからでないと無理と思ってた。
でも考えてみると
困らないだけのお金っていくら?
今すぐゆっくり暮らしたらいいのでは?
そう思ったら出来た。
「こうならないと無理」
と決めてるのは自分の思考。
そしていつも「まだ足りない」
って思ってた。
そうすると
「足りない」を実現させる
余計に足りなくなる現実が
「未来の不安を解消するために
お金を置いときたい」
っていう発想が
根本からズレてたなと今は思う。
根底にあるのが、
足りなくなる
不安
なわけだから、
足りなくなる現実は当然来る。
何か目的があって
そこまで貯めようというのは
全然違うけど。
必要な時に必要な分を
これだけ欲しいと思った時は
たしかに何とかなってる。
「退屈な日常」とか
「つまらない日常」を
「抜け出して」
「離れて」
「何々を楽しもう!」
といった宣伝文をよく見かけるけど
・・・
これを見るといつもモヤっとする。
日常とは退屈でつまらないもので
(そういう状態が普通で)
たまにある楽しい事で
その時一瞬だけ日頃の鬱憤を晴らす。
そしてまた
退屈でつまらない日常に戻って
次の一瞬の楽しみの時まで我慢。
それが普通?
本当は
日常こそ楽しいのが普通。
楽しい事が
たまにしかない無いような人生って
本当はあり得ない。無理。
退屈、つまらない、無味乾燥
場合によってはもっと酷くて
ストレスと我慢
そういうのが普通で、
どこかにご褒美的なものを入れて
何とか耐える。
これが普通だと思ってたら
本当にそれがいつまでも続く。
これはおかしいのでは?
と思い始めると変わってくる。
思考は現実を作るということに関して
「大事なのは思考だから
表面上周りに合わせていても
心の中は自由だから大丈夫なのでは?」
という事も聞かれることがある。
地球で物質的な体験をする
今生きている世界というのは
思考して
それから行動しないと
現実は目の前に現れない。
その過程、めんどくささを
楽しむというところだから。
弊害の一つ目は
言葉に出すということも、
行動の一つの形。
言葉に出したことでそれが現実になる
ということは十分にある。
本当は望んでいないことをいつも
言葉に出していると何が起きるか・・・
二つ目は
自分と合う人とつながるということも
普段、内面と違う言動をしていると
難しくなってくる。
普段表面に見せている方の自分と合う人としか
つながりが出来ないという事も。
三つ目は
内面と表面が違うというのは、
どことなく違和感として人に伝わることもある。
そうなるとなかなか信頼は得られない。
本音で人とつながることが難しくなる。