何年たっても持て余す筆を手に余暇を楽しんでいるだけなのに、ときたま日本画家などと言われると、身の置き所を探してうろうろとしてしまう。
「家」の一字には、命を担うほどの重さと厳しさがこめられているのだから、何やらうしろめたく面映ゆい。そして今のこの静かな好ましい空間が、安泰で変わらぬことを確かめて安堵せずにはいられない。
けれども。そのたび心がざわめくのは何だろう。
中央への出展を勧められながら固辞し続けた理由として、「自信がないから」という月並みな理由で差し障りなく答える都度、本心を覗き込みこっそり自問しては顔を赤らめたことも忘れかけている。
長い間、努力すればかならず道は切り開ける、という前進志向にふくらんで歩み続けた細い道、それはそれでしんどかったけれど幸せな歩みだったというのが実感だ。
道半ば、などとはおろか、先を忘れてしまったにしろ、残り少ない大切な時間を費やしているのだから、間違ってもただの「怠惰」であるはずなんてない。
そう力んでいれば時間のありがたさが倍加する、とはうまい言い訳を見つけたものだ。
中央展で入選するには
審査は一人平均5~6秒で通過する流れ作業、だから平凡な絵を描いていてはダメ。
技術は二の次、モチーフ、色彩と構成などがひときわ目立つものでないとダメ。
それを念頭にゴミ箱に花束なんかを描いたりしていたけど、それもほんの一時のこと、基礎を忘れて素材探しばかりむちゅうになるのに疑問を感じたら、とたんに力が入らなくなった。
たとえひとつ肩書がついたところで、中身のほうは変わるものじゃなし。
考えて、人と争うのは大嫌いな性分で、とそれを第二に理由づけて過ごしてきた。
そんな30年。
人は必ず自分以外の誰かに認められていたい、審査員でなくても、だれかのその心に残る存在でありたいと、常に願っている生き物だとつくづく知らされる。そんな分かりきったことも自覚していなかったのは、たぶん無口な子供時代から、黙っていてもなぜか後ろについてきてくれる人が常にいて、心に飢えを感じなかったからだろう。
S先生から最低限地方の県展には出品をと促されたき、子供時代は遠い昔となった平凡な市井の一主婦は、そのときだけは無条件にうなずいた。
「中央展に執着しない生徒が一人くらいいてもいいでしょ」
考えれば不遜な言葉をあっけらかんと口にできたのは、あれはたぶん邪気と縁遠い雰囲気の中だったから許してもらえたのに違いない。
困った生徒ですね、とおでこをポンとたたいて受け入れてくれたS先生は、終生地方の作家としての環境の中で黙々制作に打ち込んだ、これも失くしてから初めて気づく素晴らしい生きざまが、改めて心に深く沁み入ってくるひとである。
あの花鳥画の華麗の極みに至るまで、画家としての完成を目指してひとしれず心の葛藤と戦ったのではないだろうか。
(やっと分かったのかい)と先生の深遠な目がふっと和む。
はい、ほんの少し。比較はとても出来ないけど、
表面に立つ機会は避けたいし、誰かに認められはしたい、なんて単なるものぐさでした。甘い、アマチュアの発想と自認はしておりますが、それ以外にももっと何かが…
(それで半分。残りの半分は難しいからゆっくり考えて)
目の前にペンもノートもあるけれど、この宿題は一生のうちに解けるだろうか。