おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

シン・ゴジラ

2019-08-16 07:22:34 | 映画
「シン・ゴジラ」 2016年 日本


監督 庵野秀明 / 樋口真嗣
出演 長谷川博己 竹野内豊 石原さとみ
   高良健吾 松尾諭 市川実日子
   余貴美子 國村隼 平泉成
   柄本明 大杉漣 野村萬斎

ストーリー
東京湾・羽田沖。突如、東京湾アクアトンネルが崩落する重大事故が発生する。
すぐさま総理以下、各閣僚が出席する緊急会議が開かれ、地震や火山などの原因が議論される中、内閣官房副長官・矢口蘭堂は未知の巨大生物の可能性を指摘したが、上官にたしなめられてしまう。
しかしその直後、実際に巨大不明生物が海上に姿を現わし、政府関係者を愕然とさせる。
のちに“ゴジラ”と名付けられるその巨大不明生物は陸に上がると、逃げまどう人々などお構いなしに街を蹂躙していき、政府は緊急対策本部を設置するが、対応は後手後手に。
巨大生物の再度襲来に備え、矢口を事務局長とした「巨大不明生物特設災害対策本部」が設置される。
被害地域で微量の放射線量の増加が確認され、巨大生物の行動経路と一致したことから、巨大生物が放射線源だと判明する。
一方、米国国務省が女性エージェントのカヨコ・アン・パタースンを派遣するなど、世界各国も事態の推移と日本政府の対応に強い関心を示していく。
倍近い大きさとなったゴジラが鎌倉市に再上陸し、横浜市・川崎市を縦断して武蔵小杉に至る。
自衛隊は武蔵小杉から多摩川河川敷を防衛線としたが、傷一つ付けることができず、突破されてしまう。
総理大臣官邸から立川広域防災基地へ避難するところであった総理大臣らが乗ったヘリコプターも光線によって撃墜され、総理を含め官房長官など閣僚11名が死亡してしまい、政府機能は立川に移転、農林水産大臣を総理大臣臨時代理とし、矢口はゴジラ対策の特命担当大臣に任命される。


寸評
ブラック・ユーモアに満ち溢れた大人のための怪獣映画だ。
延々と描かれるのは政府の会議シーンで、会議を重ねて現状把握や出現したゴジラへの対処法を考えるものの、指揮命令系統が不明確だったり、責任をなすり合ったりして何も決められない。
会議は誰が誰だか分からなくなるほど多くの登場人物があれやこれやとセリフをしゃべりまくるだけのものだ。
おまけに御用学者は通り一辺倒のことを言うだけで、総理にも愛想をつかされる始末だ。
おびただしいテロップが表示されるが、その表示時間があまりにも短いために判読できない時もあるし、第一その内容を覚えておく暇などはない。
これだけ徹底されると、これは意図されたものだと思わざるを得ない。
重要人物と思われる人が示され、その所属部署も示されたはずだが、多分そんなことはどうでもいいと言いたいのかもしれない。
アメーバ―の様な組織の集まりをエイリアンの様な人物が動かしているこの国の国体を揶揄し、能力が優れた個人の力で率いられた国家ではなく、そんな人がいなくても何となく維持運営されている実情を描いている。
総理及び総理代行者と決められている5人が死亡しても、それなりに組織が作られ運営されている。
無能と思われていた農水大臣が、無能ゆえにプライドを投げ捨てフランス大使に頭を下げることが出来て核攻撃を1日延期することに成功し、日本にこんな外交手腕があったのかと外国に言わしめている。
僕たちは本当に人材に安心していいのか?

東日本大震災と原発事故を意識させる展開で、やたらと想定外と発せられるし、安易に安全宣言が出されたりし、発表した後からすぐに訂正会見が行われたりしている。
日米の安保問題も浮上してきて、結局は自分の国は自分で守るしかないことが匂わされる。
日本単独で対処できない問題を同盟国や多国籍軍との連携でカバーするという集団的自衛権の欺瞞と恐ろしさを表していたと思う。
防衛大臣は現時点で小池百合子、稲田朋美という女性大臣が誕生していることもあって余貴美子が務めているのだが、やることは総理に攻撃許可を求めるだけである。
頼りない大臣たちに比べて、落ちこぼれと言われて役所から浮いていた人たちが集まり活躍する。
なかでも厚生労働省医政局研究開発振興課長(医系技官)という市川実日子が際立ったキャラで本作の主人公と言ってもいいくらいの存在感を見せている。
政府は有害鳥獣駆除ということで自衛隊を議論を経ることなく防衛出動させる。
結局やろうと思えば理由をつけて何でもやれてしまうのである。
最初に登場したゴジラは陳腐な縫いぐるみのようで、なんだこれは子供だましだったころのゴジラ映画じゃないかと思わせたが、それが形態を変えて徐々に進化していく発想は面白い。
一人の人間を助けるために総理は攻撃中止命令を出すが、その結果ゴジラはさらに進化を果たしてしまう。
総理は100人の命を救うために、1人の命を犠牲にする決断を求められるのだ(その一人になるのは嫌だけど)。
活動を停止したゴジラは東京に立ち続けているが、その体は核によって死んだ人々の亡骸でできていた。
初代ゴジラは水爆の化身だったし、本作でのゴジラは核廃棄物によって生み出された怪獣だった。
「シン・ゴジラ」のシンとは、新だったのか真だったのか、それとも神だったのか?

仁義なき戦い

2019-08-15 06:41:53 | 映画
「仁義なき戦い」 1973年 日本


監督 深作欣二
出演 菅原文太 松方弘樹 田中邦衛
   中村英子 渡瀬恒彦 伊吹吾郎
   金子信雄 木村俊恵 川地民夫
   渚まゆみ 内田朝雄 三上真一郎
   名和宏 曽根晴美 川谷拓三
   梅宮辰夫

ストーリー
終戦直後の呉。復員後遊び人の群れに身を投じていた広能昌三は、その度胸と気っぷの良さが山守組々長・山守義雄の目にとまり、山守組の身内となった。
当時の呉には土居組、上田組など四つの主要な組があったが、山守組はまだ微々たる勢力にしかすぎなかった。そこで山守は上田組と手を結ぶことに成功し、当面の敵、土居組との抗争に全力を注ぐ。
その土居組では組長の土居清と若頭・若杉が仲が悪く、事あるごとに対立し、とうとう若杉は破門されてしまった。そして、若杉は以前からの知り合いである広能を通じて山守組へと接近していった。
若杉の山守組加入で、土居殺害の計画は一気に運ばれた。
広能は土居殺害を名乗り出た若杉を押し止どめ、自ら土居を襲撃し、暗殺に成功。
ところがそれ以来、山守の広能に対する態度が一変し、組の邪魔者扱いにするようになり、広能は結局自首して出るのだった。その態度に怒った若杉が、山守の若い衆を殺害したことから、警察に追われ、激しい銃撃戦の後、殺された。
その間にも、土居組の崩壊と反比例して、山守組は増々勢力を伸ばしていった。
しかし、その組の中でも、主流派の坂井鉄也と、反主流派の有田俊雄という二つの派閥が生まれ、山守を無視しての内戦が始まっていた。
まず、市会議員・金丸と、土居組の残党を味方に引き入れ勢いづいた有田は、坂井の舎弟山方、兄弟分上田を殺害した。
激怒した坂井は有田を破門するとともに報復に出て、血で血を流す凄惨な抗争車件に発展してしまった。


寸評
オープニングと同時に原爆投下の写真が映し出され、それにテーマ音楽と共に「仁義なき戦い」とタイトルがかぶさる。
このストレートな入り方だけでワクワク感が生じてしまう。
単純だがインパクトのあるテーマ音楽は描かれる無法状態を盛り上げるに十分過ぎるほどの出来栄えで作品を支える。
津島利章の音楽は貢献大である。
組織名や人命を変えているとはいえ、実話を基にした実録ものとして、絵空事ではないリアリティを生み出した笠原和夫の脚本もまた功績大だ。
ヤクザはしょせんヤクザであってヒーローたりえないことをわきまえた脚本だ。
したがって重要人物らしくなってきたところでも、あっけなく死んでしまい突如姿を消してしまう。
梅宮辰夫が演じた若杉などがその最たるものだ。
次から次へと主要人物をアッサリと消し去っていく笠原の脚本は間延びすることなく終始アップテンポで物語を進展させている。
もちろん監督である深作のダイナミックな演出力は評価されるのだが、笠原の脚本はそれに匹敵するものが有ると思う。

タイトルに続いてスタッフ、キャストのクレジットがあり、昭和21年呉市と表示されヤミ市がモノクロの静止画からカラーに変わり動き出す。
描かれるのは戦後闇市の混乱状態で、主要な登場人物がドサクサの中で起こるエピソードを通じて名前と共に紹介されていく。
この時点からストップモーションが多用され、その後も殺害場面はストップモーションで締めくくられ、それに殺害された日付と名前がテロップされる。
首尾一貫してとられるその演出が、この映画をドキュメンタリータッチに仕上げている。当然のごとく最後もストップモーションで終わる。
広能が殺人を買って出て、流しのやくざ者を射殺する場面がオープニングの一連として描かれるのだが、そこでは広能が撃とうとした拳銃から玉が出ず2回ほど空打ちとなって、焦りながらも広能は何とか相手を射殺する。
ここで死んだ相手を見つめる広能を捉えた画面が斜めに変わり緊迫感をもたらす。
こういったカメラワークも生々しさを生み出して、吉田貞次のカメラワークも冴えわたった一遍となっている。

生々しさと言えば発せらる広島弁がやたらと迫力と雰囲気があり、この広島弁による名セリフも作品を支えている。
松方弘樹の坂井が頼りない親分に向かって言う「アンタは初めからワシらが担いどる神輿じゃないの!神輿が勝手に歩ける言うんなら歩いてみいや!」や、菅原文太の広能が坂井の葬儀で欺瞞に満ちた香典や花輪を撃ちまくり、すごんできた山守に言う「山守さん、弾はまだ残っとるがよ」などだ。
それを言われる山守を演じた金子信雄がこれまた怪演で、こんな親分についていく奴などおるんかいなと思わせる、何とも調子のよい頼りない親分でありながらも、笑われバカにされながらも、実はちゃんとみんなを牛耳っているしたたか者を見事に演じている。
その山守のカミサンをやった木村俊恵も負けず劣らずのお調子者で、その口八丁ぶりがたまらない。
それぞれのパートを受け持つスタッフとキャストが一体化し、その力量が見事に凝縮されるという奇跡を有した作品で、小池朝雄のナレーションも巧妙だ。

新幹線大爆破

2019-08-14 08:59:10 | 映画
「新幹線大爆破」 1975年 日本


監督 佐藤純弥
出演 高倉健 山本圭 田中邦衛
   織田あきら 郷えい治
   宇津井健 千葉真一 小林稔侍
   志村喬 永井智雄 志穂美悦子
   渡辺文雄 竜雷太 丹波哲郎
   鈴木瑞穂 青木義朗 川地民夫
   北大路欣也 多岐川裕美 露木茂
   宇津宮雅代 藤田弓子 風見章子

ストーリー
約1500人の乗客を乗せたひかり109号、博多行は9時48分に定刻どうり東京駅19番ホームを発車した。
列車が相模原付近にさしかかった頃、国鉄本社公安本部に109号に爆弾を仕掛けたという電話が入った。
特殊装置を施したこの爆弾はスピードが80キロ以下に減速されると自動的に爆発するというのだ。
さらに、この犯人は、このことを立証するために札幌近郊の貨物列車を爆破する。
これらの完璧な爆破計画は、不況で倒産した精密機械工場の元経営者・沖田哲男(高倉健)、工員の大城浩(織田あきら)、そして元過激派の古賀勝(山本圭)によるもので、沖田は500万ドルを国鉄本社に要求した。
運転指令長の倉持(宇津井健)は、運転士の青木(千葉真一)に事件発生を連絡するとともに警察庁の須永刑事部長(丹波哲郎)、公安本部長の宮下(渡辺文雄)を招集、対策本部を設定した。
やがて国鉄側が沖田の要求に応じたために、大城が500万ドルを受け取りに向ったが、パトカーの執拗な追跡に事故死してしまった。
仲間を失った沖田は単身、捜査本部と虚々実々の掛け引きを展開し、沖田は巧妙な手口を駆使してついに500万ドルを手に入れた。
しかし古賀は、貨物爆破の現場に残したタバコから身許が割れ、沖田を逃すために自爆した。
沖田は、捜査本部に爆弾除却方法を記した図面が喫茶店サンプラザのレジにあることを知らせ、変装、偽名を使って海外旅行団の一員として羽田に向った。
ところが、その喫茶店が火事になって、図面が焼失してしまったのだ。
捜査本部はTVで必死に沖田に呼びかけたが、反応はなかった。
緊迫した捜査本部に、制限速度ぎりぎりで走る109号を外から撮影したフィルムが届けられたのだが・・・。


寸評
カットバックを利用した演出は魅力にあふれ、日本映画としては最高の娯楽作のひとつだと思うのだが・・・。
これが当時あまりヒットしなかったのはおかしいぐらい面白い映画になっている。
もう少しうまい宣伝を行っていれば映画史に残ったかもしれないのに・・・。
私はこの映画が、キアヌ・リーブス主演の「スピード」の元ネタだと思っている。
一定速度以下になると爆発する爆弾とか、平行して別の新幹線車両を同じ速度で走らせボンベを渡す発想などは同類だ(もっとも、スピードでは乗客の救出に使われていたけれど)。

オープニングからいきなり本題に入るような展開で、タイトルが出るまでの数分間にこの手の映画に必要なスピード感を感じさせる。
少し残念なのは、犯人の一人である山本圭が早い時期で割り出されたり、現金を持ち去る設定などに甘いものがある。
犯人が残した爆発物を取り外すための図面が、不慮の火災により焼失してしまったりするのも少し飛躍しすぎだ。
そして難題が起きてそれが解決できた時の運転指令に従事している職員の喜びようの描き方が型通りのもので、ちょっと白々しい雰囲気を出してしまっている。
必死で窮地を切り抜けることができた安堵感の様なものを出せなかったものか。
沖田、古賀、大城を結びつけているものが少し希薄なので、彼らの結束ぶりがイマイチ伝わってこない。
過去の出来事がフラッシュバック的に挿入されるが、そのあたりの事情を詳しく入れるとテンポが崩れてしまうことに配慮したのだろうか?
沖田一味のやっていることは犯罪で、いくら誰も殺さない犯罪でも悪は悪だ。
そのままでは彼らがヒーローになってしまうので、妊婦の新生児を死亡させることで彼らの犯罪性を訴えることにしていたような気がする。
結局、乗客を見捨てることを決断した倉持の行動で、国鉄職員のモラルを保たせていたように思う。
JRには倉持の様な職員が育っていることを願うばかりだ。

映画「スピード」との比較だが、エンディングは絶対こちらのほうがいい。
主犯の高倉健が偽名で空港に現れると、そこには離婚して別居している元の奥さんが警察に連れられて来ていて、二人の間に出来た子供も同席させられている。
目と目が合って、その緊張に耐えられなくなった男の子が「お母さん!」と叫んでしまう。
逃げる高倉に向かって、「逃げれば撃つ」と警官から言葉が浴びせられる。
それでも逃げる高倉にライトが当てられ、犯人の高倉は真っ白なシルエットとして浮かび上がる。
そしてその瞬間、のけぞって倒れる高倉がストップモーションで映し出される。
その間銃声の音など一切しない。
搭乗するはずだったロサンゼルス行きの飛行機が頭上を飛び去り、ロマンチックな甘いメローディが流れているだけだ。
このエンディングがバツグンの効果で、この映画を際立たせていると思う。
JRがまだ国鉄だった頃の作品としては抜群に面白い。

次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊

2019-08-13 08:15:59 | 映画
「次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊」 1954年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 小堀明男 森繁久弥
   越路吹雪 河津清三郎
   田崎潤 小泉博
   志村喬 田中春男
   水島道太郎

ストーリー

清水一家は次郎長の女房お蝶と豚松の法事の日を取り仕切っている。
百姓姿の身受山鎌太郎(志村喬)が受付に五両置いたのを石松(森繁久彌)は二十五両と本堂に張り出した。
さて読経の声もたけなわ、死んだ豚松の母親(馬野都留子)や許婚お静(北川町子)が来て泣きわめく。
鎌太郎のかん言もなく次郎長は深く心打たれていた。
法事を終えた次郎長は愛刀を讃岐の金比羅様へ納める事になり、選ばれた石松は一同心ずくしの八両二分を懐に旅の空へ出た。
途中、知り合った浜松の政五郎(水島道太郎)にすっかりノロけられた石松は金比羅様に刀を納めると、そのまま色街に足を向けて、とある一軒の店へ入った。
夕顔(川合玉江)というその女の濡れた瞳に惚れた石松は八両二分をはたいて暫く逗留、別れ際には手紙迄貰って讃岐を去った。
近江で立寄った身受山鎌太郎は先の二十五両を石松に渡して義理を果し、石松の落した夕顔の手紙に同情して、夕顔を身受して石松の女房にする事を約した。
その頃、盆踊りが始まっていた小松村では、都鳥の常吉(佐伯秀男)と梅太郎兄弟が、博打の借金を取り立てを理由に、七五郎(山本廉)の家を訪ねていたが本当の目的は、石松が立ち寄っていないかと探りに来たのだ。
都田村の吉兵衛(上田吉二郎)は石松暗殺を助けると布橋一家に請け負って20両を受け取っていた。
七五郎の家では、訪ねてきた石松が、自分が金を持っているので、それで借金を返してくれと申し出た。
石松は、林の中を進んでいたが、そこで待ち伏せていた面をかぶった集団に囲まれ命を落とす。
石松の死を知った次郎長一家が東海道を西に急ぐ頃、清水へ向う二人、それは鎌太郎と身受けされた夕顔であった。


寸評
森繁久彌演ずる森の石松が、次郎長の刀を奉納するため讃岐の金比羅に出かけ、その帰りに、都田村の吉兵衛に騙されて死ぬまでを描いている。
女に持てない石松が、薄幸の美人遊女夕顔と出会うドラマが丁寧に描かれているので、後半の悲劇性が強まって、悲しいまでの恋物語が胸を打つ。

この回の見所は、何と言っても、身受山の鎌太郎を演じている志村喬の存在感だ。
鎌太郎親分は百姓姿でひょひょうと現れるので、志村喬がよくやる役柄をイメージしてしまう。
法事の席で豚松の母親が「お前は参列している親分衆に参ってもらいたいから死んだのか」と泣き叫んだことで親分衆の不評かったとしょげかえっている次郎長一家の子分を鎌太郎親分が叱る場面がある。
この時のドスの効いた志村喬のタンカは随分と迫力があった。
近江の親分らしく違和感のない関西弁で子分たちを叱るシーンは胸に迫り、先ずは観客を感動させる。
石松が鎌太郎親分を訪ね、そこでの金のやり取り、夕顔の手紙を巡るやりとりは一人娘おみの(青山京子)が加わって人情味があふれるいい場面となっている。
夕顔をどうしていいか分からない石松に説教し、夕顔がいないながらも借り祝言をあげるまでの描き方もなかなか堂に入ったものでテンポも良い。
ここでは森繁久彌の森の石松もかすんでしまう、志村喬の身受山の鎌太郎親分である。
名前の通り、鎌太郎親分は夕顔を身請けする役目を申し出て終わるこのパートの締めくくりは小気味よい。

さてその夕顔だが、彼女は薄幸の女性である。
夕顔を演じた川合玉江の美しさは、人柄も飾り気のない素朴で優しい女性でありながらも幸せ薄い女性を絵にかいたようなもので、白黒画面で観ても、その美貌は輝いている。
夕顔は風呂に入っている石松の着物の片袖がないことに気付く。
昨夜夕顔を巡って男と争った時に破れたようである。
翌朝婆さんは石松の着物の片袖を道で拾い上げ、それを庭で洗濯をしていた夕顔に手渡す。
夕顔は石松の袖を繕いながら、「どうせ、うちらは、山鹿の猿やけん…」と寂しそうに呟くのだが、この一連で夕顔が石松に思いを寄せたことを示していたと思うのだが、ちょっとわかりにくい描き方だった。
初めて男に思いを寄せる夕顔の気持ちの変化をもう少し上手く処理できたような気がする。

最後の盛り上がりが小松村の七五郎の借金を巡って石松が襲われる場面である。
都田村の吉兵衛一家の連中は顔が知れてはまずいので祭りの面をかぶっている。
その面をかぶった男たちの顔だけが次々と画面を横切り、石松が襲撃される緊張感を高めていく。
この様な緊迫感が出る演出はこのシリーズで初めてだ。
ラストには、半死半生で七五郎の家の側まで戻って来た石松が思わず木に手を伸ばし、そこに咲いていた夕顔の花をもぎ取るようにしてその場にしゃがみ込んでしまうことで石松の死を感じさせ、そして身請けされて花嫁姿になって馬の背で揺られる嬉しそうな夕顔が映るという万感胸に迫る何ともいいシーンがある。
尚、作中で出会った浜松の政五郎が後の小政らしい。

白いリボン

2019-08-12 08:19:12 | 映画
「白いリボン」 2009年 ドイツ / オーストリア
            フランス / イタリア

監督 ミヒャエル・ハネケ
出演 クリスティアン・フリーデル
   レオニー・ベネシュ
   ウルリッヒ・トゥクール
   フィオン・ムーテルト
   ミヒャエル・クランツ
   ブルクハルト・クラウスナー
   ライナー・ボック

ストーリー
第一次世界大戦前夜の1913年7月、北ドイツの小さな村。
ある日、ドクターが自宅前に張られた細い針金のせいで落馬し、大けがを負って入院する。
牧師の娘クララと弟マルティンは帰りが遅くなり、牧師から“白いリボン”の儀式を言い渡される。
翌日、男爵の家の納屋の床が抜け、小作人の妻が亡くなる。
教師は、男爵家の乳母エヴァと初めて言葉を交わす。
秋、男爵家で収穫祭の宴が行われている頃、小作人の長男マックスは、男爵家のキャベツ畑を荒らしていた。
その夜、男爵家の長男ジギが行方不明になり、杖でぶたれ逆さ吊りの状態で見つかる。
冬、犯人がわからぬまま、敬虔な村人たちの間に不安と不信が拡がり、次第に村は重苦しく張り詰めた空気に覆われていく。
エヴァが町で働くことになり、教師は求婚に行くが、父親から1年待つよう言われる。
ある夜、男爵家の納屋が火事になり、小作人が首を吊って死んでいるのが見つかる。
春、男爵夫人は子供と新しい乳母を連れ、戻ってくる。
教師は家令の娘から、助産婦の息子カーリが酷い目に遭う夢を見たと聞かされる。
その後、カーリが失明するほどの大怪我を負って発見される。
自分の息子たちがジギを川に突き落としたことを知った家令は、杖で体罰を加える。
カーリの事件の犯人が分かったと聞いた教師は、子供たちの関与を疑う。


寸評
映画は無音のクレジットで始まるので、いきなり画面に集中を余儀なくされる。
そして事件が次々起きてミステリー映画の様相を呈してくるので、最初の関心ごとは「犯人は誰だ?」と言うことに向かうが、小作人の妻の死亡は殺人なのか事故死なのかは不明だし、男爵家の長男ジギを連れ去り、杖でぶって逆さ吊りにした犯人と、ドクターを自宅前に張った針金で落馬させた犯人が同一犯とも思えず、ましてや犯人のヒントもないとなれば犯人捜しは大変だなあという出だしである。

ミステリー映画特有の「犯人は一体誰か?」というテーマを追及するそぶりを全く見せずにストーリーだけが先行していくので、これは単なるミステリー映画ではないと感じてくる。
村人の多くを雇っている荘園の持ち主の男爵は経済的にこの村を支配しているが、妻をも力で支配している。
プロテスタント信者の精神的支柱である6人の子供をもつ牧師の家庭教育は厳格である。
学校からの帰りが遅れたことによって、長女クララ、長男マルティンらが「白いリボン」の罰を受ける。
村の医療を一手に担うドクターは、愛人関係にあった隣人の助産婦と泥沼の愛憎劇を展開する。
おまけに助産婦が指摘したように自分の娘と近親相姦らしき行為を行っている。
男爵、牧師、医者という村人から尊敬を集めるべき人が、どこか怪しいところがあり、考えようによっては村人全部が怪しく見えてくる。
男爵に愛想を突かした妻が言うように、この村は悪意、嫉妬、無関心、暴力に支配されているのだ。
地主対小作人、牧師対信者たち、父親対子供たちの力関係が絶対であるために、そんな力関係に反逆することは容易ではないことが感じ取れ、それ故に次々と起きる事件は陰湿にならざるをえず、そこにかえって迫力を感じる作りで、モノトーンの画面がその迫力を後押ししている。

人間は誰でも表の顔と裏の顔があるものだが、それを一番表すのがドクターである。
助産婦との乱れた関係以上に、姉のアンナがいないことに気づいた幼いルディが診察室の中で見た情景がドクターの裏の姿を如実に物語る。
またマルティンは父親の牧師から「白いリボン」の罰を受け、橋の欄干の上を手離し歩きして生死を賭ける。
教師に制止されて言った言葉が「神様は、僕を殺したくないんだ」である。
父親は息子に「神様に殺される機会を与えられたのだ」と思わせるような罰を与えるような宗教者なのだ。

終盤になって助産婦が「犯人がわかった、警察に説明にいくから、自転車を貸してくれ」と言って登場してくるが、犯人の名前を明らかにせず、その後姿をくらましてしまっている。
教師は家令の娘であるエルナが正夢だと言っているカーリー事件は、誰かに言われていたのではないかと推理するが、エルナは誰かをかばっているのか真実を話さない。
教師は子供たちが関与しているに違いないとも考え、牧師の子供であるクララとマルティンを詰問したが、牧師に怒られるだけで、子供たちから何も聞き出せない。
結局事件の真相は明らかにされないまま第一次世界大戦が始まったことが告げられる。
そこで僕は悟った。
なるほど・・・これは回答のないミステリー映画だったのだ。

白い指の戯れ

2019-08-11 09:28:14 | 映画
「白い指の戯れ」 1972年 日本


監督 村川 透
出演 伊佐山ひろ子 荒木一郎
   谷本一 石堂洋子 五条博
   粟津號 木島一郎

ストーリー
二人はほんの少し前に新宿で知り合ったばかりだった。
ゆきは19歳(伊佐山ひろ子)、二郎は22歳(谷本一)。
二郎はやさしくゆきを抱いた。
全てを与えたゆきは少しばかりの痛みを感じたがとても幸せで、初体験に悔いはなかった。
ゆきがいつもの喫茶店で二郎を待っていると、二郎の友人の洋子(石堂洋子)が来て、二郎がスリの現行犯で捕ったと知らされた。
洋子はゆきに優しく、洋子のアパートで二人は自然に互いを求めあうのだった。
数日後、例の喫茶店でゆきは、拓(荒木一郎)に呼びとめられた。
「二郎からあんたのことを聞いたよ留置場で」。
ゆきは拓にひかれ始めていったが、拓はスリだった。
そしてゆきもいつの間にか集団スリの片捧をかついでいく。
拓の愛は激しかったがゆきは拓を離すまいと思った。
ところがある日、拓はゆきを仲間に抱かせた。
さびしさのあまり一人でスリを働いていたゆきに、刑事の立川(粟津號)が近ずいた。
刑事とも知らずゆきは身の上話をし、ゆきは立川によって泳がされ始めていた。
やがて拓は再びゆきのもとへ戻った。
再びゆきは拓達と仕事に出かけたが、ゆきのせいで尾行されてると知った拓は、立川に「女をだますなんて汚いぜ」とすてぜりふを残して消えた。
数日後、拓とゆきはバスの中で仕事をしたが見つかり、拓は追求される。
見るに見かねたゆきは、自分一人でやったと自首するのだった。
数日後、拓は新宿で立川と会った。
「あいつどうしてますか?刑事さん」「あの女まだ一人でやったと言いはっているよ」立川が去った後、拓は次第に笑いがこみあげてきた。


寸評
スリを正業とする若者群像の時代をさまよう切ない感情を描き切る。
ヒロインは街角でふと知り合った男に処女を捧げても何の屈託もない。
男から男へと渡り歩く。
ゆきはスリ現行犯の罪を一人背負っても、それが悲劇的とも思えない妙な女として描かれる。
ヒロイン伊佐山ひろ子の独特なセリフ回しと、美人でないのに妙にかわいい彼女の新鮮な魅力が光っている。
彼女は「濡れた欲情」にも出演し、キネマ旬報ではこの年の主演女優賞も受賞している。
テレビ中継(録画)されている日本アカデミー賞なるものはまだ存在していなかったが、あのテレビ局主導の作られた華やかさの主演女優賞の中に彼女を立たせたかった。
この時の荒木一郎もバツグンで、彼の素材を活かした作品がその後出てこなかったのは残念だ。
映像とストーリーはシャープで切れ味鋭いナイフを思わせる。
カミソリでバッグを切り裂いたかと思うと、すばやく中の財布を抜き取り、中間に渡すその手際のよさのカットのつなぎや、荒木一郎がギターをくるくるっと回して投げ捨てるところなど、随分とゾクッとするシーンがある。
公開時には新しい映画作家の登場と拍手を送ったし、残酷なくせに優しさを持った非行少年といったかつての日活の伝統をまさしく受け継いでいた作品と思った。
ロマンポルノと言っても、今見ると普通の作品と思えるし、この頃のロマンポルノには秀作が多かった。
これがデビュー作の村川透演出に感心し、その後も彼の作品を追いつづけたが、ついにこの第一作を超える作品にめぐり合う事はなかった。
それほどこの「白い指の戯れ」はすばらしい映画なのだ。
ポルノ映画に名を借りた青春映画の傑作である。

白い巨塔

2019-08-10 07:48:12 | 映画
「白い巨塔」 1966年 日本


監督 山本薩夫
出演 田宮二郎 小川真由美
   東野英治郎 滝沢修
   船越英二 田村高廣
   石山健二郎 小沢栄太郎
   藤村志保 加藤嘉
   加藤武 下絛正巳
   鈴木瑞穂 清水将夫

ストーリー
浪速大学医学部では、明年定年退官となる東教授の後任をめぐって、色々な前工作が行なわれていた。
東の教え子財前五郎は最有力候補と目されていたが、東は五郎の傲慢不遜な人柄を嫌っていた。
貧しい家庭に生まれた五郎は人一倍名誉欲が強く、苦学して医学部を卒業した後、裕福な開業医財前又一の婿養子となり、その財力を利用して、助教授の地位を手にしたのである。
最も五郎は食道外科に関しては若いながら権威者であり、癌の手術をさせると見事な腕前を示した。
五郎は日頃から教授と助教授の間には大きな差があることを実感していたから、教授候補者として医学部長鵜飼に高価な絵を贈るなどして入念な事前工作を進めていた。
一方、東は自分の派閥を拡張したいという含みで、東の出身校東都大学系列である金沢大学医学部の菊川教授を、後任教授に推薦した。
こうして、教授選の日までに、財前、菊川、それに、基礎医学グループや整形外科の野坂教授の推す葛西という三人の候補者が推薦された。
そんなある日、五郎は、同期生である里見助教授の依頼で胃癌患者佐々木庸平を手術した。
しかし、術後に庸平が苦しむ原因を教授選に気をとられていた五郎は探らなかったので、庸平は死亡する。
やがて教授選の日、様々な思惑をもって投票が行なわれたが、結局、五郎と菊川が日を改めて決選投票を行うことになった。
買収、脅迫、あらゆる手段を用いて五郎は教授の地位を手にした。
ところが、間もなく、佐々木庸平の遺族が、五郎に対して誤診の訴訟を起しマスコミが注目した。


寸評
田宮二郎、一世一代の演技で間違いなく彼の代表作だ。
大学の最高権威である教授選をめぐる内幕物だが、ベールに包まれた大学の医学部、日本医学界の様子が描かれて興味津々にさせる。
その他にも学部長選や学長選などもあるわけで、僕は大学の元職員からその間の様子を聞いたことがあるが、映画の描き方はまんざら誇張でもないような内容であった。
今ではテレビドラマでも手術シーンは生々しく描かれることが多くなり、その映像に驚くこともなくなったが、本作を最初に見た時の手術シーンは衝撃的だった。
ストーリー展開と、それに伴う映像は緊張感を保ち続け飽きさせない。
確かに財前五郎は嫌味な男ではあるが、一方で彼の出生がわずかではあるが描かれ、彼の出世欲の根源を感じさせるような描き方で、人間的な性格上の奥行きを持たせていたと思う。

さらに東教授と財前助教授の関係においても、善悪関係ではなくどちらも欠陥人間として描いていることもいいと思うし、東教授の娘にそれを言わせているのは単純だが違和感のない明確な意識付けとなっていたと思う。
さらに第二外科の今津教授までもが善人面をしながら、「これで第一外科も自分の思い通りになる」とつぶやいたりして、大学内の権力争いのすさまじさを見せつけている。
原作にモデルはないので、この映画にもモデルはなく架空の物語だとしているが、浪速大学医学部は阪大医学部であること、東都大学医学部は東大医学部であることは容易に想像がつく。
この作品は教授選をめぐる派閥争いを描いているのだが、さらに面白くしているのが財前の義父である財前又一の存在だ。
彼が存在していることで、もう一つの対立軸である東京対大阪の関係が浮かび上がってくる。
東の合理主義に対する西の実利主義といった対極関係を面白おかしく描いている。
もっとも極端に表れているのが、「向こうが権力で来るなら、こっちは金や。なんぼいるんや!」といった又一の発言シーンだ。
又一は、五郎に金を無心されると「なんぼや! 2つか、3つか? 女やったらええ女を選ばなあかん」と婿殿に言う強烈なキャラで、この何でも金で解決を図ろうとする財前又一の石山健二郎は、主役を食ってしまいそうな熱演を見せていたように思う。

国立大学と医学界の権威を守るために、敵対していた医学界の重鎮船尾教授が、裁判における鑑定人証言で財前批判をしながらも、結局は彼を擁護する豹変ぶりを示し、どこまで権威主義なのかと思わせる。
僕が大学病院に入院していた時に経験したのが教授による総回診で、映画ほどの人数は引き連れていなかったが、婦長さんなども「先生が来られますので座って待っていてください」とベッドでの態度を言って回られていた。
患者の僕がなぜ来てから起きてはダメなのかと思ったものだが、やはり教授としての権威の象徴なのだろう。
財前教授の総回診と大学をバックに里見助教授が去る姿で終わるラストは見るものに強烈なものを残す。
ゴロスケちゃんと財前を呼ぶ愛人のケイ子と世間体を気にする妻杏子の対比を少し描いていたが、里見と東教授の娘と里見の奥さんの関係は触れられていない。
三角関係の顛末も見たかった。

シリアの花嫁

2019-08-09 08:49:57 | 映画
「シリアの花嫁」 2004年 イスラエル / フランス / ドイツ


監督 エラン・リクリス
出演 ヒアム・アッバス
   マクラム・J・フーリ
   クララ・フーリ
   アシュラフ・バルフム
   ジュリー=アンヌ・ロス
   ウーリ・ガヴリエル

ストーリー
イスラエルとシリア間に位置するゴラン高原。
イスラエル占領下にあるこの地の住民は、いずれの国籍も持たない無国籍者となっていた。
マジュダルシャルス村の娘モナ(クララ・フーリ)がシリアの人気俳優タレル(ディラール・スリマン)に嫁いでゆく。
婚礼の準備が進む一方で、各地から親戚がお祝いのために続々と集まってくるが当のモナ本人は淋しげ。
イスラエル占領下のこの地を出てシリアに渡った場合、二度と戻ってくることは出来ないのだ。
相手のタレルは写真でしか見たことのない相手で、もし結婚がうまくいかなくても、村には帰れないのだ。
不安を口にするモナを優しく励ます姉のアマル(ヒアム・アッバス)。
モナの家族も、結婚式に臨んで様々な問題を抱えていた。
信仰に背いてロシア人と結婚した長兄ハテム(エヤド・シェティ)は、長老たちの反対で妹の結婚を祝うパーティーに出席できない。
親シリアの政治活動で投獄された過去を持つ父のハメッド(マクラム・J・フーリ)には、娘に付き添ってシリアへの“境界線”へ行くための許可が降りない。
やがて、花嫁を送り出すためのパーティーが進み、モナが“境界線”へ向かう時が来る。
ハテムもハメッドも家族に促されて同行するが、警察がハメッドを連れ戻しにやってくる。
そこに立ち塞がったのはハテムで“自分は弁護士だ。逮捕状なしの逮捕は違法だ”。渋々引き下がる警察。
モナが“境界線”の向こう側へ渡る準備が始まる。
両国に国交がない関係で、手続きは国際赤十字のジャンヌ(ジュリー=アンヌ・ロス)が代行する。
だが、両国の複雑な関係から手続きが難航。
進展しない状況に皆が苛立ちを見せ始めた頃モナの姿が見えなくなる。
アマルが“境界線”へ近づくと、ゲートをするりと越えてシリアへ向うモナの姿が。
見つめ合うモナとアマル。2人はやがて笑顔を交わし歩み出す……。


寸評
1967年の第3次中東戦争でイスラエルに占領されて以来、ゴラン高原の支配権はイスラエルとシリア双方が主張して譲らず、結果としてそこに住む人々はどちらの国にも属さない“無国籍者”になった。
事態を複雑にするのが国境という存在で国連も両国の内政には無力の存在である。
こんな特殊な状況下を、さまざまなエピソードで手際よく説明していく。
ゴラン高原の名は幾度となく聞いたが、実際にこのような場所なのかと初めて目の当たりにする。
映画は無国籍状態について、そして世代を経たことによって起きる古い家父長制度をめぐる若い夫婦間のジェンダー・ギャップ、事実上イスラエル社会内部で進学していく若い世代と、それを受け入れられない親世代とのギャップ、アラビア語とヘブライ語との混淆状況、ロシア人との結婚などの多文化的状況について要領よく描かれていて、シリア問題というかイスラエル問題というか、僕たちが理解できないでいた状況の一部を教えてくれた。

人物設定はメリハリが効いていて解りやすい。
父親は政治的に過激で、母親はそれを見守るしかできない。
長女のアマルは、家族のことを心配するしっかり者だが夫に嫌気がし自立を目指している。
長男のハテムはロシア人と結婚して村を出たために勘当されている。
次男のマルワンは無国籍のまま海外で手広く商売中。
末の弟のファーディはシリアで暮らす大学生。
アマルの夫であるアミンは世間体を気にするだけの保守的な男。
その単純な設定ではあるが複雑な家族関係が、単純ではあるが複雑な国家間の状況と折り重なっていく展開はうまいと感じる。
その複雑さは、分断された家族が高台に上って、遠くに相手を見ながら拡声器を使って会話するという、冗談のような場面で象徴されている。
そして更に国境での結婚のセレモニーのいきさつに於いて中東情勢のすべてが表現される。
人間が作った国境で翻弄される人間のこっけいさがこれでもかと描く。
それでも、そのような政治情勢など関係ないとばかりにふるまう凛としたモナの姿に感動し、そのモナに勇気づけられるように凛とした態度を見せるアマルにも感動を覚える。
かつて彼女は娘のマイに「あなたは未来をつかむのよ」と語っていた。
彼女たちの凛とした姿は、未来を信じて進んでいく姿であり、それが平和の訪れを信じる監督のメッセージでもあったのだろう。

しかし現実のシリアはトルコや、アラブ・イスラム世界の中で敵対関係にあるイスラエルなどと国境を接しているという地政学的に厄介な場所に存在する国家で、なかなか平和が訪れそうもない。
シリア政府軍と反体制派による武力衝突があったり、シリア国外からの勢力も入り込んでくる政情だ。
おまけに民族闘争や宗教的対立もある。
だからこそ監督は平和の訪れを信じるメッセージを送ったのだろう。
僕は公開時にこの映画を映画館で観たのだが、シリア難民が続出している今日のシリア情勢の混乱を目にすると、モナにはたして幸せは訪れたのだろうかと思ってしまう。

ジョゼと虎と魚たち

2019-08-08 07:16:10 | 映画
「ジョゼと虎と魚たち」 2003年 日本


監督 犬童一心
出演 妻夫木聡 池脇千鶴
   新井浩文 上野樹里
   江口徳子 新屋英子
   藤沢大悟 陰山泰
   荒川良々 中村靖日

ストーリー
大学生の恒夫(妻夫木聡)は、深夜に麻雀屋でアルバイトをしている。
明け方、恒夫は、坂の上から乳母車が走ってくるのに遭遇する。
恒夫が近寄り、中を覗くと、包丁を握り締めた少女(池脇千鶴)がいた。
恒夫は危うく刺されそうになるが、間一髪で難を逃れる。
乳母車の中は老婆(新屋英子)の孫で、彼女は原因不明の病で生まれてから一度も歩いたことがないという。
老婆は近所に孫の存在を隠して暮らしており、夜明け間もない時間に乳母車に乗せて散歩させていた。
そのまま恒夫はふたりの家に連れて行かれ、朝食をごちそうになる。
恒夫が少女に名前を尋ねると、彼女はジョゼと名乗った。
恒夫は、不思議な存在感を持つジョゼに興味を持つ。
一方で恒夫は、大学の同級生の香苗(上野樹里))に好意を持っている。
しかし、福祉関係の就職を希望している香苗との関係は思うように進まない。
ジョゼのことも気になる恒夫は、事あるごとに家を訪ねる。
ジョゼの部屋には祖母が拾ってきた様々なジャンルの本がある。
その中から、恒夫が抜き出した一冊が、フランソワーズ・サガンの『一年ののち』。
いつもそっけないジョゼが、その本の続編を読みたいと強く言う。


寸評
映画タイトルが意味ありげで、タイトルを見ただけで映画の中身を想像するのは不可能である。
ジョゼとはヒロインくみ子が愛読しているフランソワーズ・サガンの「一年ののち」に出てくる人物の名前で、恒夫はくみ子をジョゼと呼ぶようになる。
虎はジョゼの幸せの象徴である。
虎は、ジョゼがイメージできるこの世の中で最も恐いものということだ。
ジョゼは怖いもの見たさで、その恐い虎を見てみたいのだが現実に見るのは恐い。
自分に好きな男の人ができたら、その男の人と一緒に恐い虎を見るのがジョゼの夢だった。
そして、好きになった恒夫と一緒に虎を見ることができて、こんな幸せなことはないというけわけだ。
魚は別れの象徴であり、ジョゼが孤独に生きる決意の象徴でもある。
ジョゼは「昔、自分は深い深い海の底にいた、いつか恒夫が居なくなったら、また迷子の貝殻みたいに、ひとりで海の底を転がり続けるようになる」と話す。
「寂しいじゃん」と言う恒夫に、「でも、まあ、それもまた良しや」と返してジョゼは微笑むのである。

ジョゼを演じた池脇千鶴が素晴らしい。
足が不自由で自分一人では外に出ることが出来ない女性だが、まるで哲学者の様でもある。
祖母が「この子は壊れもんや」と酷い表現をしているが、ジョゼは悪びれたところがなく卑屈になっていない。
祖母が拾ってきた本を精読していて知識は豊富である。
言動に反して非常にピュアな気持ちを持っていている女性、世間を冷静な目で見ているのだが強がりを言っているようでもある身障者女性を見事なまでに演じている。
初めて見る真昼の街を見た時の喜び、初めて海を見た時の感動を僕は共有できた。

恒夫は田舎から都会の大学に出てきた普通の大学生で、サークルでの飲み会も楽しそうだし、学食での友人との食事や語らいも楽しんでいる。
セックスフレンドがいて、本命的な同級生とも仲良くやっているのが普通かどうかわからないが、特別の悩みもなく今の状況をありのままに受け入れて楽しんでいる大学生の典型として登場している。
冒頭で思い出話が語られるから、ジョゼとは別れていることが最初から知らされていて、観客はどのような展開で別れることになるのかの興味を持ちながら作品を見続けることになる。
その別れはピュアな恋愛を経験したものなら分かるものだ。
大好きだったのに、なぜ別れなければならなかったのかと泣きたくなる恒夫の気持ちがよくわかる。
見守る香苗はごく普通の女性で、独占欲や嫉妬心も備わっているから、、嫉妬心にかられてジョゼを待ち伏せしてビンタをくらわし、「正直言って、あんたの武器がうらやましい」というすごい言葉を浴びせている。
(ジョゼも「そんならあんたも足を切ってみい!」と反撃したのだけれど)
結局最後は普通の美人の女が「勝つ」というのではないが、同時にそれが普通のおさまりかたなのだろう。
僕だって上野樹里を選ぶだろうなと思ってしまうのだが、それでも恒夫はその後も多分ジョゼの素晴らしさを思い続けたような気がする。
単なる純愛物ではなく奥が深いが、一体ジョゼは生計をどのようにして立てていたのだろうとの疑問が残った。

JAWS/ジョーズ

2019-08-07 07:22:04 | 映画
「JAWS/ジョーズ」 1975年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 ロイ・シャイダー
   ロバート・ショウ
   リチャード・ドレイファス
   ロレイン・ゲイリー
   カール・ゴットリーブ
   マーレイ・ハミルトン
   ジェフリー・クレイマー

ストーリー
小さな海水浴場アミティの浜辺には、気の早い若者のグループが焚火を囲んでビールを飲んだりギターをかき鳴らしてたわむれていたが、その中にクリシーという女子大生がいた。
波打際めがけて走り出し、一糸まとわぬ姿でなまぬるい夜の海に飛び込んだ。
やがて彼女何かが自分の足をひっぱっているような衝撃に襲われた。
恐怖で声が凍って、クリシーの身体はかき消すように海面から消えた。
翌朝、アミティの警察署長ブロディの家に電話がかかり、溺死者が出たとの報告が入った。
浜辺に直行したブロディは、そこに打ちあげられているきりきざまれたような人間の肉体の断片を目撃し、署に戻ったブロディは事故報告書の死因欄に“鮫に襲われて死亡”と書いた。
ブロディは海岸に遊泳禁止の立て札を立てることを決意したが、アミティ市の市長ボーンが、アミティは夏の間に海水浴場がおとしていく金で、住民が細々と残り1年の生活を成り立たせていて、海岸を閉鎖する事は大変な死活問題であり、死因は鮫でなく漁船に巻き込まれたかもしれないと主張した。
検死官も市長の言葉に追従し、翌日の日曜日、大勢の人が浜辺にでて初夏の太陽を楽しんでいたが、ブロディの心は落ちつかなかった。
やがて第二の犠牲者として少年が海中に消えた。
少年の母親は復習のために3千ドルの賞金を出すという新聞広告を出した。


寸評
この頃のスピルバーグはいい。
僕は1970年代のスピルバーグ作品である「激突!」「ジョーズ」「未知との遭遇」などは好みに合う作品群だ。
1980年以降になるといい作品もあるが、偉くなりすぎてしまったのかちょっと鼻につく作品が多くなったような気がしてあまり好きな監督でなくなった。
「激突!」に次いで見たこの映画も映画的才能を感じさせる彼の代表作だ。
サメの映画だがあまりサメが登場しないのも良くて、ジョン・ウィリアムズのテーマ音楽がサメの接近をあらわすという演出はなかなかいい。
恐怖の盛り上がりに使われる手法だと思うが、ここでは何度も巧みに利用されていて効果的だ。
テーマ音楽は色んなものに使われることになり、ジョン・ウィリアムズの功績は極めて大きい。

美しい夜の海の光景から女子大生が被害にあうシーンの手際よさはこの作品のレベルを感じさせる。
その後に人命を重んじる警察署長のブロディと、島の経済を優先したい市長の対立も、ありきたりとは言え適度の尺をもって描かれている。
そして男の子が犠牲になって、その母親から「遊泳禁止にしなかった署長が悪い、息子を殺したのは所長だ」となじられ、市長が母親の誤解だと署長を慰める展開も自然な流れで、観客の緊張は保たれたままである。
人食い鮫が襲ってくというだけの作品なのだが、その中で緊張感を保ち続ける至難の技を見せているのは特筆もので、脚本と表現が上手い具合にマッチしている。
サメが全容を見せるのはわずかで、背中のヒレであったり、音楽であったり、タルの動きなどがサメの存在と動きを著し、そ事がかえって恐怖と緊張感を生み出していくという演出だ。
この作品に影響を受けてどれだけのパニック映画が撮られたことか。
しかし本家をしのぐ作品はついに現れなかった。

ロバート・ショウのクイントという鮫ハンターが登場し、話は彼の強烈な個性によって面白くなっていく。
昔ながらの漁師で、海洋学者のフーパーなど眼中にない。
それなのにサメにかじられた自分の体を自慢し合って認め合う場面は、お互い鮫に取り付かれている仲間と感じたのだろう。
そこでクイントは鮫の傷の一つが極秘作戦で広島に投下する原爆を運んだ帰りに、日本の攻撃を受け海に放り出されて鮫の餌食となりほとんどが死亡したことを語る。
戦争そのもだけでなく、戦争が原因で亡くなる人も多くいるのだとの主張が見て取れる場面だ。

いよいよサメ対人間の闘いが始まる。
黄色タルを引っ張って突撃してくる鮫の迫力が素晴らしい。
口を大きく開き牙をむいて襲ってくる鮫は作り物とは思えない迫力を生み出している。
実写との融合が上手い。
クイントが「鮫は人間を丸のみにする」と言っているのが彼自身に対する伏線となっている。
スター俳優が出なくても面白い作品は撮れるのだと証明した作品だ。

ショーシャンクの空に

2019-08-06 07:56:27 | 映画
「ショーシャンクの空に」 1994年 アメリカ


監督 フランク・ダラボン
出演 ティム・ロビンス
   モーガン・フリーマン
   ウィリアム・サドラー
   ボブ・ガントン
   ジェームズ・ホイットモア
   クランシー・ブラウン
   ギル・ベローズ
   マーク・ロルストン

ストーリー
銀行の若き副頭取、アンディ・デュフレーンは、妻と間男を殺した罪でショーシャンク刑務所に服した。
誰とも話さなかった彼が1ヶ月後、“調達係 ”のレッドに、鉱物採集の趣味を復活させたいと言い、ロックハンマーを注文する。
一方あらくれのボグズ一派に性的行為を強要され常に抵抗したアンディは、2年間生傷が耐えなかった。
アンディは屋根の修理作業に駆り出された時、監視役のハドレー刑務主任が死んだ弟の遺産相続問題で愚痴をこぼしているのを聞き、解決策を助言する。
彼は作業中の仲間たちへのビールを報酬に、必要な書類作成を申し出た。
取り引きは成立して囚人たちはビールにありつき、彼らはアンディに一目置くようになる。
アンディがレッドに女優リタ・ヘイワースの大判ポスターを注文した頃、彼を叩きのめしたボグズはハドレーに半殺しにされ病院送りにされた。
ノートン所長はアンディを図書係に回すが、これは看守たちの資産運用や税金対策の書類作成をやらせるためだった。
所長は、囚人たちの野外奉仕計画を利用して、地元の土建業者たちからワイロを手に入れ、アンディにその金を“洗濯”させていた。
ケチなコソ泥で入所したトミーが、以前いた刑務所で同じ房にいた男が「アンディの妻と浮気相手を殺した真犯人は俺だ」と話したと言う。
アンディは20年目にやって来た無罪証明の機会に色めきたつが、所長は再審請求を求める彼を相手にしない。
所長はアンディが釈放されると、今まで彼にやらせてきた不正の事実が明らかになるのを恐れていた。
アンディは懲罰房に入れられ、その間にトミーはハドレーに撃たれて死んでしまう。


寸評
アンディは教養豊かな人物で、彼はその教養でもって信者を増やしていく。
正反対なのがケチなコソ泥で入所したトミーで、彼は高卒の知識すらないのだが、子供が誕生したことを聞き及び一念発起して高卒資格をとろうとする。
努力が報われるが、その時彼は口封じのために殺されてしまう。
無知が招いた悲劇ではないが、この事件は所長の悪人ぶりを際立たせるエピソードとして挿入されたと思う。
脱獄物ではあるが、脱獄に主眼を置いておらず、主人公のアンディが自らの教養で立場を得ていく様子が手際よく描かれていて、その最初ともいえるビールの一件は心に残る。

アンディは脱獄に成功して降り注ぐ雨に打たれながら歓喜の声をあげるが、彼の喜びとは何であったのだろう。
何十年も奪われていた自由を得た喜びだったのだろうか、そうではあるまい。
多分、彼の喜びはコツコツと積み上げてきたことを成し遂げたことへの喜びだったのではないか。
絶望的な終身刑の受刑者であっても生きる目的を見出すことの重要性を物語っていたと思うし、ましてや我々においてはというメッセージであり、アンディの言を借りればそれは「希望」ということになる。
人はやはり明日への希望をもって生きなくてはならない。

アンディが壁に貼る大きなポスターが映画ファンには楽しめる小道具となっている。
最初は1940年代のセックスシンボルと言われたリタ・ヘイワースだ。
刑務所で上映されていた映画は彼女の主演による1946年作の「ギルダ」のようである。
次に貼られていたのがご存知1955年度作品「七年目の浮気」のマリリン・モンローであった。
3枚目が100万ドルの乳房と言われた1966年度作品「恐竜100万年」のラクエル・ウェルチだった。
それぞれの年代のセックス・シンボル的女優たちだが、今となってはマイナーなラクエル・ウェルチが登場したのは嬉しかったし、僕はあまりにも印象深いあのポスターが登場した時に思わずニンマリしてしまった。

映画は終身刑の問題点もあぶりだす。
死刑と終身刑は一体どちらが重い量刑なのだろうと思わせる。
日本では終身刑はなくて、極刑である死刑の次の求刑が無期懲役である。
期間がないということで早期出所が語られたりするが、一年間で認められる人数は10人に満たないらしいから、やはり終身刑に近いのではないかと思う。
そうした受刑者は長年の刑務所暮らしで刑務所の生活に馴染んでしまっていて、出所した後に訪れる外界の生活に恐れを抱いている様が描かれている。
50年も刑務所暮らしが続いたブルックス老人はシャバに出ても、子供の頃に1台だけ見た自動車があふれていることに戸惑い、社会に順応できないで自殺してしまう。
出所する前には、刑務所にとどまりたいがために問題を起こそうとさえしていた。

いろんなエピソードを盛り込みながらも、最後には爽快感を感じさせたフランク・ダラボンの最高傑作だと思う。

昭和残侠伝 死んで貰います

2019-08-05 14:37:41 | 映画
「昭和残侠伝 死んで貰います」 1970年 日本


監督 マキノ雅弘
出演 高倉健 池部良 藤純子 
   中村竹弥 荒木道子
   加藤嘉 永原和子
   松原光二 下沢広之
   山本麟一 長門裕之

ストーリー
東京下町の古い暖簾を誇る料亭「喜楽」に生まれた秀次郎は、父が後妻をめとり妹が生まれたとき、家を出て渡世に身を沈めた。
雪の降る寒い夜、秀次郎は、なけ無しの金をはたいて挑戦した勝負でイカサマとも知らず無一文になり、雪をしのいで軒下にうずくまっていた。その時出会ったのが、芸者見習いになったばかりの貧しい娘・幾江だった。
それから三年、押しも押されもせぬ堂々たる渡世人になった秀次郎は、イカサマ師とのごたごたで刑を受ける身となった。
時は流れ、秀次郎の服役中に関東大震災が起き、「喜楽」は一家離散の瀬戸ぎわにと追い込まれるが、これを支えていたのは板前の風間重吉と小父の寺田だった。
大震災を境いに新しい近代都市として生まれ変っていく東京。
「喜楽」もまた、苦しい内情とは裏腹に、木の香も匂う真新しい建物となった。
出所した秀次郎は板前として働くこととなり、その姿を寺田は涙の出る思いで見守っていた。
一方幾江は芸者となって秀次郎の帰りを待っていて、重吉と寺田の計いで二人は七年ぶりに再会する。
そんな頃、寺田一家のシマを横取りしようとことあるごとに目を光らせていた新興博徒の駒井が、「喜楽」を乗っとろうとしていた。
秀次郎の義弟・武志は相場に手を染め、むざむざと「喜楽」の権利書を取り上げられてしまう。
それを買い戻す交渉に出かけた寺田が、帰り道で襲撃され殺される。
駒井の執拗な挑発に耐えてきた秀次郎だが、かけがえのない恩人の死に、ついに怒りを爆発させる。


寸評
「義理と人情を計りに掛けりゃ、義理が重たい男の世界・・・背で泣いてる唐獅子牡丹」と高倉健の腹に響く歌声が聞こえてくる。
唄の内容どおり人情よりも義理を重んじて、つまるところ惚れた女をふりすてて斬り込んでいく。
仁侠映画は決まりごとの連続で、観客もその決まりごと通りに話が進むので安心していたような所がある。
我慢に我慢を重ね、最後は惚れた女の未練を断ち切っての殴り込みとなるのだが、女は、男を理解し包み込むような愛情をもつ芸者さんなんかがいい。
まさにこの映画では藤純子がその芸者を演じて、雰囲気を醸し出す立役者の一人となっている。
「今度はアタイだけの義理と情けに生きて欲しい」と送り出す。 名セリフだねえ~。
思いつめたように風間重吉(池辺良)が歩いてくると、素足に雪駄、服装は着流し一枚の花田秀次郎(高倉健)が柳がなびく掘割で待っている。
木は、桜やモミジじゃあダメで、柳とかイチョウでないと似合わない。
流れるようにラストに向かっていくのだが、この期に及んで長いセリフはいけない。
重吉が「お供させていただきます」と声を掛けるだけなのだ。
二人は無言で歩き始める、いわゆる道行きで、今度は主題歌が流れ一番盛り上がる場面だ。
場内は、手順を間違えることなく進んできたこのシーンになって、待ってましたとばかりに大きな拍手が巻き起きる。
その阿吽の呼吸がたまらなくいい。
この映画はその構成において申し分がなくシリーズ中の最高傑作だし、任侠映画の中でも記憶に残る作品だ。

始まりは秀次郎が賭場絡みのいざこざで叩きのめされるシーン。
それが終わるとテーマ曲に乗ってキャストの真っ赤な文字が表示され出す。
歌は流れずメロディだけなのだが、昭和残侠伝のファンならこのメロディを聞いただけで、その世界にどっぷりと浸れる。
この映画ほど気の利いたショットと台詞を有している任侠映画は数少ない。
池部良が渋い表情を見せて画面を引き締める。
刑務所の秀次郎に面会に行った時の斜めに構えた姿勢と表情が何とも言えない。
池部良もいろんな名前で残侠伝シリーズに出ているが、この作品の風間重吉が一番いい。
また重吉がタチの悪い客ともめた秀次郎を折檻し、それを詫びる場面での重吉のセリフも忘れられない。
「流れ流れた食い詰め者が、先代に拾われて、やっとどうにかカタギの道を歩けたというのに・・・」
この後に今は盲目となり秀次郎を義足と知らないオカミサンに謝りに行くシーンが続き、初めて死んだ父と妹の仏前火を灯す。 泣けるシーンだ。
秀次郎は背中の刺青を隠すために遠くの銭湯に通っているが、そこでヤクザ仲間の長門裕之と出会う。
長門のひょっとこの松もまた同じ理由でその銭湯に来ていたのだ。
一度入ったヤクザの世界からは容易に抜け出せないことを、そのエピソードで示していた。
だからかつてイザコザを起こした熊倉(山本麟一 )との一件に、話としての値打ちが出てきたと思う。
そこで売れっ子芸者の富司純子が「私は三味線も踊りも出来ないが、この人の女房なら立派に努めてみせます」と秀次郎をかばうのだが、これまた名セリフを吐くいいシーンだ。
二人のラブシーンは雰囲気だけのしっとりとしたものだ。
「馬鹿だなあ、俺は・・・」
「馬鹿が好きよ、アタイが馬鹿だから惚れたのよ・・・」とそっと寄り添う。 粋だねえ~!

公開時、最後の「死んでもらうぜ!」には「異議な~し!」の掛け声が飛んだことが懐かしい。

少年時代

2019-08-04 09:16:33 | 映画
「少年時代」 1990年 日本


監督 篠田正浩
出演 藤田哲也 堀岡裕二
   山崎勝久 小日向範威
   岩下志麻 細川俊之
   河原崎長一郎 三田和代
   仙道敦子 大滝秀治
   芦田伸介 大橋巨泉

ストーリー
昭和19年10月、戦況の逼迫する中、東京の小学校五年生だった風間進二は、富山に縁故疎開することになったが、ひ弱な優等生タイプの進二は学校ではよそ者扱いを受ける。
富山で最初に進二に近づいてきたのは地元のリーダー武で、田舎での生活に不安を抱き始めていた進二は、そんな武に親しみを感じるのだった。
ところが武は学校でよそ者扱いされる進二を無視し、自らも進二に対しい高圧的な態度で接してきた。
進二は武の矛盾する態度が理解できないまま、皆の前では召使いのような扱いに甘んずるのだった。
年が明けたころ、進二は東京からの荷物を受取りに行った隣町で悪童どもにからまれる。
だがそれを救ったのは武だった。
春になり、病欠していたクラスの副級長須藤が復学してきた。
武は須藤の巧みな策によって権力を失い孤立してしまう。
武はかつての取り巻きたちにまで屈辱的な仕打ちを受けたが、毅然とした態度を守り続けるのだった。
進二は今こそ真の友達として対等なつきあいが出来ると思って武に近づくが武は頑なに進二を拒んだ。
やがて終戦となり、進二が東京に帰る日が来た。
叔父や叔母、級友たちが見送りに来てくれたが、その中に武の姿はなかった。
汽車が走り出し、もはやあきらめかけていた時、少し離れた田んぼの道を必死に手をふりながら走る武の姿があった。
進二も夢中で手をふりかえしたが武の姿はみるみる小さくなっていったのだった。


寸評
少年時代とはこの映画を見る者にとっては思い出の世界のはずだ。
僕は戦後っ子で、空襲も知らないし、疎開も経験がない。
しかし少年時代はあったわけで、この作品で描かれた少年たちの世界は間違いなく存在していた。
映画はそんなノスタルジーの世界を演出するように、セピア調の画面の中で物語を進めていく。
冒頭で父親の細川俊之が「田舎はいい人たちばかりだ」と言って進二(藤田哲也)を送り出す。
ラストでは迎えに来た母親の岩下志麻が「何事もなくてよかった」と言う。
父親の言ういい人たちとは、疎開者に対して親切にしてくれる叔父たち一家のような大人たちであり、母親の言う何事もなかってとは、命があってよかったの意味で、子供たちの間にあった出来事は知る由もない。
子供たちは彼らなりの世界の中でいろいろな問題を引き起こし、彼らの世界でそれらを解決していたのだ。
描かれていた懐かしさを感じる出来事は、今はすっかり年を取ってしまった僕にはノスタルジーを感じさせた。

疎開先は叔父の家だが、門柱には靖国の家の札が掛かっており、この家の息子は戦死していることが分かる。
進二は一人で疎開してきたので、ばあちゃんが「東京で皆が死んだらこの子が一人だけ残る事になる」と現実めいたこと言って母親たちを不安がらせる。
実際、東京大空襲はあったわけで、ばあちゃんの言った通りのことが起こらないとも限らなかった時代だ。
しかし子供は与えられた環境に順応していくたくましさを持っている。

ここからは進二と武(堀岡裕二)の奇妙な関係が描かれる。
武は級長を務め、子守をするなど家の手伝いもするしっかり者だ。
ガキ大将でもあり、進二には皆の前では辛く当たったりするのだが、二人の時は格段の親切を見せるのである。
となり村での進二のピンチには一人で助っ人に駆けつける義侠心も持っている。
どうもこれは進二を独り占めしたい感情の表れで、進二と同じく親戚筋に当たる美那子(小山篤子)が現れ、大人たちの仲良くしたら良いとのはずんだ声を聞いて、それまで上手に描いていた飛行機の絵にバッテンを入れる行為に出ていた。
同じ5年生という大阪から疎開してきている美那子は武にとってはライバルの登場だったのだ。
武が度々他の子供たちに、進二には構うなといった行動をとるのもその独占欲の現れだったのだろう。
しかし進二は美那子に言われた言葉で変心する。
弱虫と言われ、ガキ大将に取り入っていると言われ、武にも反発を見せ始める。
女の子を前にした、少年とはいえ男のプライドを見せる誰しもに心当たりのあるシーンだ。
写真館のエピソードがラストを飾り、見送る武の姿が目に焼き付くいいエンドだった。

振り返れば、僕の少年時代にもK.T君というガキ大将がいた。
彼よりも早く帰ることを許さず、早く帰ろうものなら子分たちを引き連れて追ってきた。
この行為は母親たちの抗議と、彼の転居でなくなったが、学芸会の発表会にはわざわざ駆けつけてくれて皆が喜んだことを思い出す。
初恋とともに、僕の少年時代を飾る思い出である。

少年

2019-08-03 10:37:26 | 映画
「少年」 1969年 日本


監督 大島渚
出演 渡辺文雄 小山明子
   阿部哲夫 木下剛志

ストーリー
秋風のたつ夕暮、無名地蔵のある広場で、ひとり“泣く”練習をしている少年がいた。
翌日、その少年の家族四人が街へ散歩に出た。
やがて交差点に来ると、母親が一台の車をめがけて飛びだし、続いてチビを抱いた父親が間髪を入れず、駈けつけ、叫んだ、「車のナンバーはな……」。
傷夷軍人の父、義理の母と弟のチビ、少年の家族の仕事は、病院の診断をタテに示談金を脅しとる当り屋だった。
二回目の仕事が成功した時、父の腹づもりが決まり、少年を当り屋にしての全国行脚が始まった。
一家が北九州に来た時、母が父に妊娠したことを告げたが、一家の生活は、彼女に子供を産ませるほどの余裕を与えなかった。
父は母に堕胎を命じ、一家はその費用を稼ぐために松江に降りたった。
その夜父は芸者を呼んで唄い騒いだ。
少年は土佐節を聞いているうちに、高知の祖母に会いたくなったが、高知に帰るには小遣が足りない。
仕事の旅は依然として続き、一家は北陸路を辿り、山形に着いた。
この頃、母はつわりに襲われ、少年は母と二人で父に内緒の仕事をした。
一家が小樽へ着いた時、父母が少年を奪い合って喧嘩をした。
その時、少年は、時計のくさりで、手の甲を血がでるほど掻きむしった。
その意味を悟った父は、時計を投げすてた。
チビが、その時計を拾いに道へ出た瞬間、一台のジープが電柱に衝突。
少年は、担架で運ばれる少女の顔に一筋の血を見た・・・・。


寸評
この映画のタイトルを見るたびに思い浮かぶのはチビが一面の雪景色の中で「アンドロメダ」とつぶやくシーンだった。
そのシーンだけがやけに脳裏に残っていて、チビのそのつぶやきと真っ赤なブーツの印象が僕にとっての映画「少年」のイメージだった。
再見すると、あんなシーンもあった、こんなシーンもあったなのだが、兎に角そのシーンだけが記憶の中で鮮明であり続けた。
なぜそのシーンだけが記憶の底で生き続けたのかといえば、その場面に少年の思いが凝縮されていて、あまりにも痛々しい姿だったからではないかと思う。

アンドロメダ星雲は全編を通じて度々登場するが、それは少年が持っている自分だけの世界だ。
自分だけの世界ではあるが、この話をする時はチビがいたり継母がいたりする。
継母に対しては、車にぶつかるのは嫌ではないが怖いともらし、「忍術が使えるといいな」「宇宙人ならいいな」とつぶやいたが、継母からは「あんなものウソ」「宇宙人などいない」とあっさり否定されてしまう。
その後はもっぱらチビを相手にこのストーリーをふくらませ、少年の心に深くこの夢想があることがわかる。
この夢想は少年がありふれた子供であることを象徴しているが、同時にどうすることも出来ない自分を救ってくれる神の出現を望んでいるようでもある。

前述の雪原シーンで少年は三角の大きな雪だるまを作り、そして赤いブーツを乗せたその雪だるまを破壊する。
その時に発する叫びが痛々しい。
少年はチビに、その雪だるまは宇宙人でアンドロメダ星雲から来たんだと告げる。
正義の味方だから悪いことする奴をやっつけるために来たので、怪獣も鬼も電車も、自動車も怖くはない奴だ。
お父ちゃんも、お母ちゃんもいない一人きりの宇宙人だが、本当に怖くなった時は別の宇宙人が助けに来てくれるらしい。
少年はそういう宇宙人になりたかったんだが、普通の子供なのでなれないし、死ぬことも上手に出来ないと言う。
そして叫ぶ・ チクショウ! 宇宙人のバカヤロー!
やはり救いを待っていたのだろう。 痛々しいなあ。

当り屋って現在では殆ど聞かなくなった犯罪だが、僕はよく耳にした。走っている自動車にわざと接触し、示談金の幾らかをせしめる文字通り身体を張っての死線ぎりぎりのゆすり稼業だ。
少年はそれが犯罪であることは認識しているが、自分がこの家族にとって稼ぎ手として重要な位置にあることも自覚している。
この家族は、専制的な父親のもとに外界との繋がりをもたず、経済的にも精神的にもお互いに依存し合って閉じている。
専制的な父親に従順に従うように見える少年は時折拒否の意志を表明しても基本的には従順である。
しかし家出事件から戻った後は、少年の決断は毅然としたものとなり、自ら仕事をこなすようになっていく。
そんな少年が精神的に父を越えたのが少女の死に直面した交通事故で、少女の死を直視する少年に対して父は逃げるだけであった。
この時から少年にとって、父親は自分を支配するような大きな力ではなくなったのだ。
それは同時に誰も助けてくれず、一人で立ち向かわなければならないことを悟ることでもあった。
親をかばい、犯行を否定し続けていた少年は刑事に護送される電車内で、北海道の真っ白な雪景色の中で少女の死顔が思い浮かんだ。
切れ長の目から一筋の熱い涙が流れ落ち、そしてポツリと「北海道には行ったことがある」と呟く。
少年は罪を認め、そして同時に親から独立したのだ。
それはあまりにも切なくて悲しい旅立ちだったと思う。

傷痍軍人で働けなくなった父親が伏線になっていたいるのか、一家の行く先々でやたら日の丸が姿を見せる。
山をなして並んだ真新しい位牌と骨壷の背後に壁一面の巨大な日の丸が垂れ下がっているシーンがその極めつけだ。
タイトルバックでも使われた黒い日の丸は、果てしなく流されてきた血を吸ってきた国家の象徴かもしれない。
しかし、それがこの映画とどんな関係にあるのかは僕は理解できないでいる。

上意討ち 拝領妻始末

2019-08-02 08:12:38 | 映画
「上意討ち 拝領妻始末」 1967年 日本


監督 小林正樹
出演 三船敏郎 加藤剛 司葉子
   仲代達矢 江原達怡 
   大塚道子 松村達雄
   三島雅夫 神山繁 山形勲
   市原悦子 山岡久乃

ストーリー
会津松平藩馬廻りの三百石藩士笹原伊三郎(三船敏郎)は、主君松平正容(松村達雄)の側室お市の方(司葉子)を、長男与五郎(加藤剛)の妻に拝領せよと命ぜられた。
武芸一筋に生きてきた伊三郎は、笹原家に婿養子として入った身で、勝気な妻すが(大塚道子)の前で忍耐を重ねて暮してきたので、与五郎には自分の轍を踏ませず、その幸福な結婚を願っていたため、なんとしても命を受けるわけにはいかなかった。
伊三郎は親友で国廻り支配の浅野帯刀(仲代達矢)に相談し、時をかけてこの話を立ち消えにしようと考えた。
しかし、側門人高橋外記(神山繁)の性急な要請と、笹原一族の安泰を考える笹原監物(佐々木孝丸)の談判を受け、伊三郎は藩命という力の前に屈した。
いちの花嫁姿は子を生んだ女とは思えないほど初々しく、その後も夫や姑に従順に仕えた。
家督を与五郎に譲った伊三郎はそんないちが、なぜ藩主から暇を出されたのか訝った。
いちは十九歳の時、許嫁がいるにもかかわらず一方的な藩命で正容の側室にされ、菊千代を生んだ。
その悲惨な運命を受け入れたいちが、喜々として正容の側室になったお玉の方(小林哲子)を見た時、正容をけだもののように感じて逆上したのであった。
与五郎も伊三郎も、この一部始終をいちから聞いているうちに、いちほど立派な嫁はいないと思った。
平和な日が続き、いちはとみを生んだ。
そんなある日、正容の嫡子正甫が急死した。
菊千代が世継ぎと決り、いちの立場は藩主の母となってしまったために、藩の重臣は与五郎にいちを返上せよと命じられ、この人道にそむく理不尽な処置に伊三郎は怒った。


寸評
原作が滝口康彦で監督が小林正樹となれば「切腹」と同じだ。
そうとあって内容は「切腹」の姉妹篇といった感じで、権力側のご都合主義や理不尽さが描かれ、さらにはそれに抗うような家族愛を描いている。
新鮮に思えるのは豪放磊落な役が多い三船敏郎が、婿養子で家付きの奥方に頭が上がらず我慢の生活を何十年も続けている男を演じていることだ。
言葉の端々で婿養子の悲哀を語らせるが、やはり長年のイメージと貫禄からどこかどっしりとしている。
婿養子としての立場の弱さを感じさせるのは三船ではなく、その妻をやっている大塚道子の根性悪さによって感じさせられるので、彼女の頑張りは中々のものである。

まず人の情などはそっちのけで、家名を第一と考える者たちの右往左往が描かれる。
殿様の意に沿って動き回る藩の重役たち然り、笹原家と一族の存続を願う親類縁者たち然りだ。
側門人の高橋外記は殿様の意向であることを盾に無理強いを押し通す。
上役の土屋庄兵衛も揉め事が起こらずに収まりそうなことを「よかったよかった」と事勿れ主義である。
笹原家当主の伊三郎は殿様の上意と、妻すがの意向の間で苦慮するが、それを見かねた与五郎が市の拝領を願い出る。
この与五郎の態度は父を思ってのことで、そのことは与五郎が市に語って聞かせる「辛い時は父の姿を見よ」に表されている。
このことで父と長男与五郎との信頼関係は相当のものであることが分かる。
伊三郎は長男の嫁である市をかばいだてしているので、この笹原家は父、長男、嫁のグループと、母、次男、親戚のグループに分かれているように見える。
婿養子の立場といい、姑と嫁の関係といい、現在にも通じている問題が描かれていて納得させられる。

与五郎と市との愛はお互いの思いやりによって深まっていくが、その象徴は市の過去の出来事を告白するシーンに集約されていて、さらに二人がいとも簡単に果てることでふたりの愛の深さが強調されている。
市はできた嫁だが意思の強い凛とした女性として司葉子が好演している。
司葉子の風貌のためか、少し歳をとっているように感じるが、子供を産んだ女性なのでそれも許容範囲で、彼女の見せる目力はなかなかいい。
あまり深くは描かれていないが、これは不本意な結婚をしたが、それでも愛を深めた夫婦の物語でもあった。

伊三郎は与五郎とともに笹原家を滅ぼす覚悟を決め、妻のすがを追い出したと言っているのだがその場面は描かれていない。
描けば夫の妻への鬱憤話になってしまうことを恐れた為なのだろうか?
最後に伊三郎が親友の浅野帯刀と対決になることはキャスティングからいっても、モノローグでの試し切りのシーンからしても当然の成り行きだろう。
その時の口上のやりとりは、不本意ながらも二人が形式社会の中に身を置いていることを思わせて面白い。
伊三郎が断末魔で叫ぶ結末は少し芝居じみていたように思うのだが・・・。