平成29年5月4日(木)
昭和二十二年五月三日に、「日本国憲法」が施行された。
それ故、七十年後の平成二十九年五月三日は、
「憲法記念日」という国民の祝日となっている。
その五月三日の昨日、
産経新聞朝刊の第一面の見出しは
「憲法70歳。何がめでたい」
さすが産経・・・お見事!
では、せっかく産経が「何がめでたい」と尋ねてくれたので、
昭和二十年九月二日の、
我が国と連合国との降伏文書調印以来、
我が国を占領統治していた連合国総司令部(GHQ)が、
我が国において何をしてきたのかを振り返る。
GHQは、
というより総司令官マッカーサーは、
我が国を断罪するため、また、我が国に復讐するため、
我が国の戦争時の各界の指導者二十八人を被告人に選定して、
「平和に対する罪」、「殺人」そして「人道に対する罪」
等の名目(訴因)で裁く極東国際軍事裁判の開始を決定し、
昭和二十一年四月二十九日の天長節(昭和天皇の御誕生日)に、
その起訴状を提出し、
同年五月三日に、
東京市ヶ谷台の陸軍士官学校講堂において同裁判を開廷した。
つまり、
翌年の昭和二十二年五月三日は、
「極東国際軍事裁判の審理開始一周年記念のめでたい日」である。
この極東国際軍事裁判は、
昭和二十三年十一月十二日に、東條英樹ら七名に絞首による死刑判決を言い渡し、
同年十二月二十三日(時の皇太子殿下の御誕生日)未明に、死刑が執行された。
即ち、この裁判は、
昭和天皇の御誕生日を選んで起訴され、
今上陛下の御誕生日を選んで死刑が執行され、
そして、審理開始一周年記念日には、
「日本国憲法」が施行されて「憲法記念日」となっているというわけだ。
「憲法」と、この「裁判」は、別個のことだと思われてはならない。
この「憲法」は「マッカーサー憲法」と言われていたことを思い出されたい。
GHQの総司令官であるマッカーサーという一人のアメリカ人の心理と目的のなかでは、
この「憲法」とこの「裁判」は、
「マッカーサー憲法」と「マッカーサー裁判」として一体なのだ。
これらは、一体となって、
日本を断罪し、
日本に復讐し、
日本を永久に武装解除しておくために、
仕組まれたものだ。
この「憲法」の中心は、
「九条」である。
この、「九条」を書いた者は、GHQ民政局のチャールズ・ケーディス大佐で、
後年、古森義久産経新聞記者に、あっさりと、笑いながら、
「日本を永久に武装解除しておく」ために書いたと答えている(平成十九年七月一日、産経新聞)。
その時三十九歳の民政局のケーディスが、独断で、この「九条」を書けるはずがない。
これは、最高司令官マッカーサーの指示である。
さらに、
我が国の現在の天長節と未来の天長節という「めでたい日」に、
復讐の起訴と復讐の死刑執行という「忌まわしいこと」をそれぞれ埋め込み、
復讐の審理開始一周年の「忌まわしい日」を「憲法記念日」としたのは、
ダグラス・マッカーサーの狡知である。
こいつは妙に日付に執着するのだ。
また、
極東国際軍事裁判の死刑判決が、
昭和二十三年十一月十二日に為され、
長大な判決を点検したうえで上訴を準備する時間も与えず、
十二月二十三日に七人を処刑した訳は何か。
それは、昭和二十三年十二月十日に、
「事後法の禁止」を含む
「すべての人民とすべての国が達成すべき基本的人権」を定める
「世界人権宣言」が連合国(国連)で採択されるからである。
つまり、この「事後法の禁止」を定めた世界人権宣言が採択された後には、
連合国自身の手によってこの「裁判」の違法が明々白々となり、
この「裁判」の事後法で起訴して七人を殺す判決は書けなくなるからだ。
なお、
ダグラス・マッカーサーという男は、
フィリピンのアメリカ極東陸軍の司令官であったが、
昭和十七年三月、
帝国陸軍第十四軍の攻撃によって追いつめられたフィリピンのコレヒドールから
軍を捨てて家族とともに、B17でオーストラリアに脱出するという屈辱を味わう。
それ故、彼が日本降伏後に直ちに開始したのがフィリピンでの復讐であった。
まず、彼は、
終戦時の第十四軍司令官のマレーの虎といわれた山下奉文大将を、
昭和二十一年二月二十三日、絞首して殺害した。
さらに、自分をコレヒドールから逃亡するに至らしめた
第十四軍司令官本間雅晴中将の裁判を
昭和二十年十二月十九日に開始して、
さっそく、翌年二月十一日の紀元節に死刑の判決を宣言し、
その上で、本間軍司令官がバターン半島に立て籠もったアメリカ軍に対して
総攻撃命令を下した四年前と同じ日の同じ時刻である
昭和二十一年四月三日午前0時53分に、彼を銃殺した。
このようにマッカーサーは、
執念深く日付にこだわる嫌らしい男であり、
以後、既に記したように、
ポーカーフェイスで、我が国の祝日に忌まわしいものを取り付けていった。
さらに、マッカーサーは、
シンガポールを陥落させた世界的名将である山下奉文大将が
最後に持参していた武士の魂である軍刀を、
母校のウエスト・ポイント陸軍士官学校に送らせて、
同校の展示室に展示した。今も展示されている。
・・・これが、GHQの最高司令官、
実に、イヤナ、性格の奴ではないか。
・・・この男が・・・、こんな男が・・・、
我が国の「憲法」と「憲法記念日という国民の祝日」をつくったのだ。
無念なり!
無念ではないか!
戦争は、絶対負けたらあかんなあ!
今度やるときは、
必ず勝たなあかん!
例年、五月三日は、
北海道の札幌で「憲法無効」の講演をして、
後に、札幌の同志が言う「赤の広場」(大通り公園)で街頭演説をしていたので、
自宅にはいなかった。
ところが、本年の五月三日は、久方ぶりに自宅にいた。
それで、早朝、仁徳天皇御陵への参拝のために歩き始めるに際し、
迷ったが、「日本国憲法」ではなく「封印されている真の憲法」のために、
門に「日の丸」を掲げた。
夕刻になり「日の丸」を家にしまったあと、
女房が言った。
例年、五月三日には、
門に半旗を掲げていた、と。
何・・・、今朝、俺が迷ったそれを、俺の留守中、
もう、やっていたのか!
天晴れなり!
西村眞悟の時事通信より。