平成30年2月19日(月)
本年二月に入り、
本日までのことを記しておきたい。、
二日に、
大阪のザ・シンフォニーホールで演奏された神武天皇の東征と即位を謳った、
北原白秋作詞、信時潔作曲の交聲曲「海道東征」を聴き、
その演奏後に、
大伴家持作詞、信時潔作曲の「海ゆかば」を皆と合唱した。
その「海ゆかば」の海は、
対馬の海だ。
天智二年(六六三年)の朝鮮半島の黄海に面する白村江での唐との戦い以来、
我が国は、国境防御の為に対馬に防人を送り続けた。
その頃、
陸奥国より黄金が産出される。
そして、大伴家持は
「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ほ)ける歌」を作る。
その長い長歌のなかで自らの家系を次の通り嘔ふ、
大伴の 遠つ神祖(かむおや)の
その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて
仕へし官(つかさ)
海行かば 水浸く屍
山行かば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
顧みは せじ
と言立て
丈夫(ますらを)の 清きその名を
古(いにしへ)よ 今の現(うつつ)に
流さへる 祖(おや)の子等(こども)そ
大伴と 佐伯の氏は、 ・・・
この万葉の「海ゆかば」を、今謳うということは、
我々の祖先も、大伴家持と同じく
大君の為に命をかけてきたと謳いあげることだ。
それ故、私の同行者は、ザ・シンフォニーホールで、
大伴家持の心と信時潔のメロディーに
万葉以来の日本人の血が揺すぶられたように、
皆、涙を流して「海ゆかば」を歌っていた。
その同行者は、対馬の同志である。
一人は、日露戦争の勝利を決定付けた日本海海戦(ロシアでは対馬沖海戦)百周年の
記念行事を海戦海域を見渡せる北対馬で挙行し、
以来毎年、日本海海戦における日露両軍戦没将兵の慰霊祭を挙行し続けている高士
武末裕雄氏だ。
もう一人は、博多・対馬航路でフェリーを運航させている対馬フェリーの経営者で
その一隻の船の名を「みかさ」と命名している
真崎越郎氏。
彼は、この「みかさ」を
百十三年前に東郷平八郎連合艦隊司令長官の旗艦「三笠」が
連合艦隊を率いてロシアのバルチック艦隊と戦った同じ海域を走らせて
対馬と博多を往復させている。
私は、日本海海戦百年記念行事以来、
毎年五月二十七日の海軍記念日、
即ち、日本海海戦の日には、
北対馬の海戦海域を見渡す丘の上で、
彼らと共に、「海ゆかば」を歌っている。
二日の夜、ザ・シンフォニーホールの演奏終了後、彼らと別れた。
次に会うのは、
五月二十七日の対馬だ。
諸兄姉も、
どうか、太古からの国境の島である対馬を訪れていただきたい。
近年、島の人口を三倍ほど超える韓国人が島に毎年訪れる。
観光客ならまだいい。
しかし、その中には、
対馬は韓国の島だと主張し、対馬の土地を買い占めに来ている者もいる。
こういう鬱陶しい訪問者に我が対馬を我が物顔にされてはたまらん。
対馬を守ろう、我が国土を守ろう、ではないか!
十一日、紀元節
堺の仲間と共に橿原の橿原神宮に参り参拝し、
神武創業の我が国の肇と八紘一宇の理想に思いをはせた。
そして、勅使、即ち、天皇陛下のお使いを境内でお迎えし、
その後、境内から出て仲間と酒を酌み交わして別れ、上京した。
十二日、
ご指導を頂いた保守の重鎮であり尊皇の志の篤い大恩人、
旧臘、帰天された
宇都宮鐵彦先生をお見送りさせていただいた。
靖國神社近くの会場での、すばらしい、お見送りの会だった。
幾山遠く隔つとも、
そのまごころは隔てなく
一つに尽くせ国のため!
これが私のお見送りの辞だった。
楠正成の七生報国の誓いの通り、
我らは、一旦、幽明相隔つとも、また、国の為に甦る。
同日夜、大阪に戻り
畏友吉村伊平さん宅で、
陸上自衛隊信太山駐屯第三十七普通科連隊連隊長と
陸軍航空隊の八尾基地司令と会い、
日夜国防の任務とそのための訓練を果たしてくれていることに感謝し杯を重ねる。
翌十三日も上京し、夜また大阪に帰り、十四日午後また上京、
この十四日こそ、
七十六年前の昭和十七年二月十四日
我が国の興廃を決定付ける「石油」を確保する為、
スマトラ島パレンバン落下傘降下挺身作戦が発動され、
午前8時、
まなじり決した挺身隊員達が、
マレー半島南部のスンゲイバナニ飛行場に集合し、
東方に向かい宮城遙拝して
これが最後とコップに酒を注ぎ、一同乾杯した。
そして、小隊長奥本實中尉は、
「本日ノ休養ハ靖國ニ於イテス」
と大書した日の丸を首に巻き付けて輸送機に乗り込んだ。
こうして、マレー半島を飛び立った護衛戦闘機および輸送機合計八十八機が
陥落直前の断末魔のシンガポールから立ち上る黒煙を右翼に眺めながら、
スマトラ島パレンバンに向かい、
午前11時26分、
奥本實中尉ら三百三十六名の挺身隊員が空港近くのジャングルに落下傘降下し、
同日午後9時、
飛行場制圧という連隊主力の作戦目的を達成し、
精油所も無傷のまま確保した。
このジャングルに降下した奥本實中尉等の行動は、
文字通り鬼神も退く命知らずの、
生きていること自体が不思議なほどのものである。
遭遇したオランダ兵やオーストラリア兵は、
空から「悪魔」が降りてきたと思ったであろう。
降下したジャングルのなかで
奥本中尉が確認できた兵は自身を含めて五名だけであった。
機関銃などの武器弾薬は別途梱包して降下させているが見つからない。
彼らは、降下時に身につけていた拳銃と手榴弾だけで行動を開始してジャングルから出る。すると、空港を守るために兵員をのせた敵のトラック四台が走ってきた。
奥本中尉等は、ためらうこと無くその敵を手榴弾と拳銃で攻撃して撃退する。
しかし、またトラック四台に乗って駆けつけてきた百余人の敵兵と遭遇し、
戦死者をだしつつ満身創痍になってこれも撃退し、
そして、あくまで作戦目的を完遂する為に飛行場制圧に向かっていったのだ。
この奥本中尉等の鬼神も退く敢闘が、
日本軍に初めて遭遇したオランダ軍やオーストラリア軍に非常な衝撃と恐怖を与え、
作戦目的完遂に多大な貢献をした。
それ故、奥本中尉は、生存者として初めての殊勲甲の武勲を受け、
翌年の十八年二月十九日に、中尉ながら単独で天皇陛下の謁を賜った。
この十四日午後五時三十分より、
憲政記念館で開催された「パレンバンデー記念講演会」に出席し
パネラーとして話をさせていただいた。
前日の連隊長等との懇談の余韻が残っていた私は、
日本を守ったパレンバンの勇者を讃えると共に、
現在の日本を守っているのは自衛隊である。
我らは、ことをもっと自覚しようと語った。
なお、以前にも紹介したが、
この殊勲甲で生きて還った奥本實中尉のご子息が奥本康大氏であり、
産経新聞の髙山正之氏と共に奥本實中尉の遺した手記を出版され、
昨年から、二月十四日に、
「空の神兵」を讃え英霊を慰霊する「パレンバンデー」を主催されている。
その本は
「なぜ 大東亜戦争は起きたのか
空の神兵と呼ばれた男たち
インドネシア・パレンバン落下傘部隊の記録」(ハート出版)
である。是非、ご一読いただきた。
十八日正午より、
大阪市西区の新阿波座公園に集まり、
「日本唱歌を歌う日の丸行進」に参加し、
御堂筋を難波の産経新聞本社近くまで四キロほど歩いた。
この「日の丸行進」は、
冬季になると路上生活者の為に炊き出しを行い、おにぎりと寝袋を配っている
石黒大圓さんが提唱して実施されるようになった行進で、
毎月一回行われて、十八日は第七十八回の行進となった。
私は、石黒大圓さんの提唱に賛同した者であり、
その行進が十年以上続いていることに敬意を表し、参加させていただいている。
行進の目的を石黒さんは、次のように書いている。
「郷愁をさそう日本の唱歌を歌うことで『日の丸』に親近感を感じていただき、自衛官の皆様に感謝の気持ちを伝えています。」
主張の内容は、
「日の丸を掲げましょう」、「国歌を歌いましょう」、
「がんばろう日本」、「自衛官、警察官 ありがとう」
「日の丸」を掲げて行進させていただいた当初は、
街宣車で大音量の軍歌を流して走り回る街頭右翼が車に乗らずに歩ているのか、
と思って眺めていた方もいるかも知れないが、
今は、「ウサギ追いし彼の山~、小鮒釣りし彼の川~・・・」と
歌いながら女性や子供やお年寄りも日の丸の小旗を持って歩いている姿に、
御堂筋沿道の人々は親愛の表情で眺めてくれていたし、
外国人はしきりに写真を写していた。
そして、いつも通り、解散場所で集合写真を撮ってすがすがしい思いで解散した。
ところが、
解散後、高島屋の北側歩道を歩いていると、歩道上で
日の丸を掲げた群れと、プラカードを掲げた群れが、
大勢の警察官が見守る中で、両者ともマイクでがなり合って、もめている。
プラカードには「人種差別主義者」、「ヘイトスピーチ」、「レイシスト」などと書かれている。
日の丸を掲げた群れを見ると顔見知りのおっちゃんがマイクで話しているではないか。
話の内容ははっきり聞き取れないのだが、
彼のことだから、
拉致被害者救出、北朝鮮糾弾、朝鮮総連出ていけ、
そして、彼を糾弾する在日外国人に「レイシスト」と叫ばれれば
彼ならば、「そんなに日本が嫌いならば、日本から出て行け」くらいは言っていたと思う。
しばらく眺めていたが、
警察官が立ち止まらず、つまり、騒ぎを大きくせず、
立ち去って欲しいような素振りをするので、その立場を察し、その場を離れた。
思うに、日の丸を掲げたおっちゃん達を、
「ヘイトスピーチ」を武器に糾弾するために付け狙っている連中が、
おっちゃんらの街頭活動を待ってましたとばかり攻撃していると推測できる。
おっちゃん達は、警察の許可をもらって街頭に立っているが、
相手方は警察の許可をもらわずにマイクで叫んでいる。
これは一種の言論妨害である。
彼らは「ヘイトスピーチ」というレッテルを貼れば、
警察の許可を取って行っている街頭活動も妨害できると傘にかかっている。
その彼らは、ほしいままに日本の歴史を非難し、日本は「従軍慰安婦」の「強制連行」をしたとウソを宣伝できるのに、
おっちゃんが、「それはウソだ」、「ウソばかりつくな」と言えば、
ヘイトスピーチとして糾弾される。
いやな法律ができたもんだ、と思い、石黒大圓さんらとビールを飲んだ。
そして、十九日、つまり今日だが、
朝、産経新聞を見たら、新保祐司さんが「正論」を書いていた。
実に、我が意を得た。
その「正論」は、
二月二日の交聲曲「海道東征」の演奏から筆を起こし、
西郷隆盛とは何者かが分からなかった三島由紀夫が、
その理由を
「それは私が、人間という観念ばかりにとらわれて、
日本人という具体的問題に取り組んでいなかったからだ」
と告白していること、
さらに保田與重郎が、
「我々は人間である以前に日本人である」
と書いたことを紹介し、
「戦後民主主義」という空想の中に閉塞してきた日本人には、
「日本人である以前に人間だ」
そして
「人間であれば別に日本人である必要はない」
というのがふさわしいのであろうが、
「しかし、今や『文明の衝突』の時代を迎えて、
三島由紀夫の言うように
『日本人というう具体的問題』に取り組むべき『時』がやってきた。
その考察に当たって
『海道東征』は屹立した日本の古典として聴かれることであろう。
この音楽のなかに『日本』が鳴り響いているからである。」と結んでいる。
この「正論」を読み終えて、
そうだ、昨日街頭で出会った違和感は、
これが「日本」だという日の丸行進の後で、
人間であれば日本人である必要は無い、
と思っている日本人と外国人の、いや、何国人か分からないヘイトスピーチ糾弾の演劇に由来していると思った。
以上、本日は、二月に入って行ったことと思ったことを書いた次第。
明日は、このキーボードの前を離れるが、
二月十六日と十七日に書いた原稿用紙二十枚分の論考をお送りしようと思う。
それは、日本とは何か、日本人とは何か、
を浮き上がらせる為に、
反対側のヨーロッパのキリスト教徒は如何なる作用を果たしてきたか。
私には、その崇高な信仰と理想を語る資格も能力も無いが、
人類の歴史の中で、キリスト教というものが、抽象的にあるのではない、
従って、人間の世界において、
ローマの国教となってヨーロッパの国教となったキリスト教とは
何をしてきたのかを書いた。
この具体的考察の後に浮かび上がってくるものは、
日本とは何か、日本人とは何か。
神々は、天は、なぜ、太古から日本を日本として現在に至らせてきたのか、
ということである。
楠正成は、無量の英霊は、
この日本であるからこそ、微笑んで死ねた、この日本の為になら。
西村眞悟の時事通信より。