なにくそ!・・・早川徳次
ねずきちのひとりごと さんより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-767.html
SHARP(シャープ)といえば、最近では液晶AQUOS、太陽熱発電に携帯電話、パソコンなどを製造販売する東証1部の大企業です。
シャープの創業社長は、早川徳次(はやかわとくじ)さんという方です。
ですからシャープという名前になる前は、「早川電機工業」という社名でした。
シャープの本社は大阪にあります。
ところが、もともとはこの会社は、東京で創業されました。
実は、創業社長の早川徳次さんは、東京日本橋の生まれです。
生家はなにかのご商売をされていた家のようですが、家業が衰退し、母親も病気になってしまう。
徳次さんは、2歳半のときに、出野家に養子に出されます。
出野家の養母は、徳次少年を非常に可愛がってくれたようです。
ところが、徳次が5歳のとき、実の母と思って慕ったこの養母が、亡くなってしまいます。
出野家では、後妻をもらいます。
この後妻が、とんでもない伝説の女性で、徳次に対して殴る蹴るの暴行はあたりまえ、真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落とし、放置したりもした。
泣き声を聞きつけた近所の人々が助け出したのですが、糞尿まみれでおぼれかけていたのですから、半死半生です。もちろん全身糞まみれで、臭い。
出野の後妻は、眼を吊上げて徳次少年を井戸端(いどばた)に引きずって行くと、厳寒の中、罵声とともに井戸の水を浴びせ続けたそうです。
近所の人たちも、あきれはててものもいえなかった。
徳次少年は、食事もしばしば与えられなかった。
さらに「お前に勉強なんか贅沢だ!働け!」と、小学校も二年で中退させられてしまいます。
あまりのヒドイ仕打ちをみかねた近所の井上さんという盲目の女行者さんが、徳次少年の手を引いて、かざり職人の丁稚奉公に連れて行ってくれた。
修験道の信仰をされていた女性です。徳次は晩年になっても、「あの時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない」と述懐しておられたといいます。
女行者の井上さんの手のぬくもりが、それほどまでにあたたかく感じた。
徳次少年には、よほどつらい毎日だったのだろうと思います。
徳次が連れて行かれたかざり職人さんの家は、男っ気のある親方の下に、何名かの職人さんがいる商店です。そこで徳次は、18歳までかざり金物の丁稚(でっち)職人として奉公します。
徳次少年が一生懸命働いた給金は、れいの後妻がやってきて、ぜんぶ持って行ってしまったそうです。
だから徳次少年には、遊んだり、自分のモノを買ったりするお金は一円もない。
徳次少年にとっては、黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込んでいる時間だけが、楽しい時間だったようです。
ちなみに、偉大な事績を残す創業者というのは、不思議なことに創業前の十年が、めちゃめちゃ不幸な生活をしていることが往往にしてあります。
人並みはずれてたいへんな苦労をする。その苦労した自分を償う気持ちを持てたとき、はじめて人は大きな仕事ができるようになれるのかもしれません。
明治44(1911)年、徳次18歳の時、ズボンのベルトに、穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明します。ちなみにねずきちがいま使っているベルトのバックルも、この「徳尾錠」タイプです。
徳尾錠
徳次は、この発明で新案特許を取り、19歳で独立します。
このとき彼ははじめて、自分が出野家の養子であったこと、実の両親が死んでしまったことを知ります。
そして実の兄である早川政治と対面し、兄弟で「早川兄弟社」を設立した。そして「徳尾錠」の製造販売を開始します。
独立資金50円のうち、10円は兄弟でお金を出し合い、40円は借金した。
会社は、徳次が商品を考案し、兄が、販売を担当します。
たいへん苦しい財務状態からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、ヒット商品となって、事業は拡大していきます。
さらに徳次は、22才のとき、独創的な芯の繰出し装置付きのシャープペンシルを考案します。
これは、棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できると言う現象を利用したもので、ほとんどいま使われているシャープペンと同じ仕様のものです。
大正4(1915)年、徳次は、このシャープペンシルを「早川式繰出鉛筆」として特許を出願します。
最初はプロペリングペンシル(軸をひねって芯を出す機構だったため)の名で売り出したのですが、後に、エバー・レディ・シャープ・ペンシルと改名しました。この名前が詰まって、後にシャープペンシルとなり、シャープの社名にまでなっています。
しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪かった。おかげで全く売れなかったそうです。
それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けるうち、徳次のシャープペンは、欧米で人気商品になります。
すると、日本でも売れ始めた。
海外でヒットすると日本でも売れ始める。
いまも昔も日本は変わらないです(笑)
徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で、会社の規模を拡大します。
さらに徳次は、当時としては先駆的な試みである、流れ作業方式を導入することで、製品の生産効率を格段に高めた。
「早川兄弟社」は、大正12(1923年)には、従業員数200名の会社に成長します。
「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗ったかにみえた。
ところが徳次は、激務がたたって、過労で倒れてしまいます。29歳のときです。
当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをします。
徳次が30歳になった大正12(1923)年のことです。
関東大震災が起こった。
震災で、徳次は九死に一生を得たのだけれど、妻と2人の子供は死亡してしまいます。工場も焼け落ちてしまった。
残ったのは、借金だけです。
さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣きに泣いたそうです。死のうとすら思った。
しかしこのとき生き残った社員たちが、彼を励まします。
何もかも失ってしまったけれど、自分はまだ生きている。生きている限り、何かをなさなければならない。
徳次は、借金の返済のため、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却すると、心機一転、大阪へと移り、震災の翌年の大正13(1924)年には、大阪で「早川金属工業研究所」を設立します。
日本文房具の下請けの仕事をはじめた。
と、こう書くとなにやらもっともらしいのですが、実は、震災ですべてを失って、一文無しどころか、借金だけが残った。
工場もない。
やむなく徳次は、日本文房具に特許権を売り渡し、売却益で小金を作って、関西に夜逃げしたのです。そして大阪で日本文房具の下請け工場をはじめた。
細々と下請け仕事をする徳次のもとには、債権者が追いかけてきます。脅され、民事で訴えられ、刑事告訴され、徳次はまさに舌筆につくしがたい苦境を味わいます。
そんな日々の中で、徳次は、たまたま大阪の心斎橋でアメリカから輸入された鉱石ラジオを見かけます。
日本でもラジオ放送が始まろうとしていたのです。
徳次は、これはイケルと確信します。
徳次は、一心不乱に鉱石ラジオを研究し、震災の翌年(大正14(1925)年)には、国産第1号機の鉱石ラジオを開発します。
鉱石ラジオというのは、ゲルマニウム・ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。真空管ラジオよりも古い。
方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信します。
電力には、アンテナから受けた電波を利用します。当然アンプなんてしゃれたものはついてませんから、音声信号も微弱です。だからヘッドホンで音を聞いた。
それでも当時としてみれば、NHKがラジオ放送を開始する、ラジオが普及する、これは、実に楽しみな出来事です。
この年の6月1日、会社で、社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信します。
レシーバーから細々と声が聞こえた。それを聞いて、社員全員、抱き合って喜んだ。
国産初の鉱石ラジオ
ラジオ放送の開始に伴い、このラジオは爆発的に売れます。
そして昭和4(1929)年には、鉱石ラジオに替わる新技術の交流式真空管ラジオを発売します。
以後、相次ぐ新製品の開発などで、「ラジオはシャープ」の名を不動のもにします。
ラジオの普及と共に業績は拡大し「早川金属工業研究所」は、昭和17(1942)年には「早川電機工業」に社名を変更しました。
しかし昭和4(1929)年といえば、ブラックマンデーから世界大恐慌に至った年です。
関東大震災で壊滅した首都東京と、有名な「震災手形」で、日本国内は、明治以来最大の恐慌へと向かっていきました。
そんな中で徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用し、また援助の手を休めなかったといいます。
早川徳次は、晩年、色紙を求められると必ず、
「なにくそ」
と書いたそうです。
どんなに苦しくても、いじめられても、ほんとうにヤバイと感じる情況に陥っても、絶対に負けない。「なにくそっ」と思って頑張る。
いま日本という国は、建国以来最大の国難の時代をむかえてると言われています。
気がつくと保守は、いつのまにか少数派になっていた。
そういうときだからこそ、目覚めた少数の保守が、「なにくそっ」と頑張りぬく。
頑張ってがんばって、がんばりぬいた先に、日本の未来がある。
そんな気がします。
ねずきちのひとりごと さんより
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-767.html
SHARP(シャープ)といえば、最近では液晶AQUOS、太陽熱発電に携帯電話、パソコンなどを製造販売する東証1部の大企業です。
シャープの創業社長は、早川徳次(はやかわとくじ)さんという方です。
ですからシャープという名前になる前は、「早川電機工業」という社名でした。
シャープの本社は大阪にあります。
ところが、もともとはこの会社は、東京で創業されました。
実は、創業社長の早川徳次さんは、東京日本橋の生まれです。
生家はなにかのご商売をされていた家のようですが、家業が衰退し、母親も病気になってしまう。
徳次さんは、2歳半のときに、出野家に養子に出されます。
出野家の養母は、徳次少年を非常に可愛がってくれたようです。
ところが、徳次が5歳のとき、実の母と思って慕ったこの養母が、亡くなってしまいます。
出野家では、後妻をもらいます。
この後妻が、とんでもない伝説の女性で、徳次に対して殴る蹴るの暴行はあたりまえ、真冬に公衆便所の糞つぼの中に突き落とし、放置したりもした。
泣き声を聞きつけた近所の人々が助け出したのですが、糞尿まみれでおぼれかけていたのですから、半死半生です。もちろん全身糞まみれで、臭い。
出野の後妻は、眼を吊上げて徳次少年を井戸端(いどばた)に引きずって行くと、厳寒の中、罵声とともに井戸の水を浴びせ続けたそうです。
近所の人たちも、あきれはててものもいえなかった。
徳次少年は、食事もしばしば与えられなかった。
さらに「お前に勉強なんか贅沢だ!働け!」と、小学校も二年で中退させられてしまいます。
あまりのヒドイ仕打ちをみかねた近所の井上さんという盲目の女行者さんが、徳次少年の手を引いて、かざり職人の丁稚奉公に連れて行ってくれた。
修験道の信仰をされていた女性です。徳次は晩年になっても、「あの時の井上さんの手のぬくもりを、私は生涯忘れる事が出来ない」と述懐しておられたといいます。
女行者の井上さんの手のぬくもりが、それほどまでにあたたかく感じた。
徳次少年には、よほどつらい毎日だったのだろうと思います。
徳次が連れて行かれたかざり職人さんの家は、男っ気のある親方の下に、何名かの職人さんがいる商店です。そこで徳次は、18歳までかざり金物の丁稚(でっち)職人として奉公します。
徳次少年が一生懸命働いた給金は、れいの後妻がやってきて、ぜんぶ持って行ってしまったそうです。
だから徳次少年には、遊んだり、自分のモノを買ったりするお金は一円もない。
徳次少年にとっては、黙々と金属の加工をし、飾り物作りに打ち込んでいる時間だけが、楽しい時間だったようです。
ちなみに、偉大な事績を残す創業者というのは、不思議なことに創業前の十年が、めちゃめちゃ不幸な生活をしていることが往往にしてあります。
人並みはずれてたいへんな苦労をする。その苦労した自分を償う気持ちを持てたとき、はじめて人は大きな仕事ができるようになれるのかもしれません。
明治44(1911)年、徳次18歳の時、ズボンのベルトに、穴を開けずに使えるバックル「徳尾錠」を発明します。ちなみにねずきちがいま使っているベルトのバックルも、この「徳尾錠」タイプです。
徳尾錠
徳次は、この発明で新案特許を取り、19歳で独立します。
このとき彼ははじめて、自分が出野家の養子であったこと、実の両親が死んでしまったことを知ります。
そして実の兄である早川政治と対面し、兄弟で「早川兄弟社」を設立した。そして「徳尾錠」の製造販売を開始します。
独立資金50円のうち、10円は兄弟でお金を出し合い、40円は借金した。
会社は、徳次が商品を考案し、兄が、販売を担当します。
たいへん苦しい財務状態からのたち上げでしたが、二人は寝る間も惜しんで働き、「徳尾錠」は、ヒット商品となって、事業は拡大していきます。
さらに徳次は、22才のとき、独創的な芯の繰出し装置付きのシャープペンシルを考案します。
これは、棒を金属ではさむと、摩擦の力で軽い力でも強固に固定できると言う現象を利用したもので、ほとんどいま使われているシャープペンと同じ仕様のものです。
大正4(1915)年、徳次は、このシャープペンシルを「早川式繰出鉛筆」として特許を出願します。
最初はプロペリングペンシル(軸をひねって芯を出す機構だったため)の名で売り出したのですが、後に、エバー・レディ・シャープ・ペンシルと改名しました。この名前が詰まって、後にシャープペンシルとなり、シャープの社名にまでなっています。
しかし、この「早川式繰出鉛筆」は、売出し当初は、「和服に向かない」、「金属製なので冷たく感じる」など、まったくもって評判が悪かった。おかげで全く売れなかったそうです。
それでも銀座の文房具屋に試作品を置いてもらうなどの努力を続けるうち、徳次のシャープペンは、欧米で人気商品になります。
すると、日本でも売れ始めた。
海外でヒットすると日本でも売れ始める。
いまも昔も日本は変わらないです(笑)
徳次の会社は、このシャープペンシルの大量生産で、会社の規模を拡大します。
さらに徳次は、当時としては先駆的な試みである、流れ作業方式を導入することで、製品の生産効率を格段に高めた。
「早川兄弟社」は、大正12(1923年)には、従業員数200名の会社に成長します。
「早川式繰出鉛筆」も、米国特許を取得し、事業は完全に軌道に乗ったかにみえた。
ところが徳次は、激務がたたって、過労で倒れてしまいます。29歳のときです。
当時としては珍しい「血清注射」による治療で命拾いをします。
徳次が30歳になった大正12(1923)年のことです。
関東大震災が起こった。
震災で、徳次は九死に一生を得たのだけれど、妻と2人の子供は死亡してしまいます。工場も焼け落ちてしまった。
残ったのは、借金だけです。
さすがの徳次も「何もかも、元に戻ってしまった」と、泣きに泣きに泣いたそうです。死のうとすら思った。
しかしこのとき生き残った社員たちが、彼を励まします。
何もかも失ってしまったけれど、自分はまだ生きている。生きている限り、何かをなさなければならない。
徳次は、借金の返済のため、シャープペンシルの特許を日本文房具に売却すると、心機一転、大阪へと移り、震災の翌年の大正13(1924)年には、大阪で「早川金属工業研究所」を設立します。
日本文房具の下請けの仕事をはじめた。
と、こう書くとなにやらもっともらしいのですが、実は、震災ですべてを失って、一文無しどころか、借金だけが残った。
工場もない。
やむなく徳次は、日本文房具に特許権を売り渡し、売却益で小金を作って、関西に夜逃げしたのです。そして大阪で日本文房具の下請け工場をはじめた。
細々と下請け仕事をする徳次のもとには、債権者が追いかけてきます。脅され、民事で訴えられ、刑事告訴され、徳次はまさに舌筆につくしがたい苦境を味わいます。
そんな日々の中で、徳次は、たまたま大阪の心斎橋でアメリカから輸入された鉱石ラジオを見かけます。
日本でもラジオ放送が始まろうとしていたのです。
徳次は、これはイケルと確信します。
徳次は、一心不乱に鉱石ラジオを研究し、震災の翌年(大正14(1925)年)には、国産第1号機の鉱石ラジオを開発します。
鉱石ラジオというのは、ゲルマニウム・ラジオが生まれるよりも、もっとずっと以前のラジオの仕様です。真空管ラジオよりも古い。
方鉛鉱や黄鉄鉱などの鉱石の表面に、細い金属線を接触させ、その整流作用を利用して電波を受信します。
電力には、アンテナから受けた電波を利用します。当然アンプなんてしゃれたものはついてませんから、音声信号も微弱です。だからヘッドホンで音を聞いた。
それでも当時としてみれば、NHKがラジオ放送を開始する、ラジオが普及する、これは、実に楽しみな出来事です。
この年の6月1日、会社で、社員みんなが集まって、大阪NHKのラジオ放送を受信します。
レシーバーから細々と声が聞こえた。それを聞いて、社員全員、抱き合って喜んだ。
国産初の鉱石ラジオ
ラジオ放送の開始に伴い、このラジオは爆発的に売れます。
そして昭和4(1929)年には、鉱石ラジオに替わる新技術の交流式真空管ラジオを発売します。
以後、相次ぐ新製品の開発などで、「ラジオはシャープ」の名を不動のもにします。
ラジオの普及と共に業績は拡大し「早川金属工業研究所」は、昭和17(1942)年には「早川電機工業」に社名を変更しました。
しかし昭和4(1929)年といえば、ブラックマンデーから世界大恐慌に至った年です。
関東大震災で壊滅した首都東京と、有名な「震災手形」で、日本国内は、明治以来最大の恐慌へと向かっていきました。
そんな中で徳次は、貧しい人、不幸な人、身障者を積極的に雇用し、また援助の手を休めなかったといいます。
早川徳次は、晩年、色紙を求められると必ず、
「なにくそ」
と書いたそうです。
どんなに苦しくても、いじめられても、ほんとうにヤバイと感じる情況に陥っても、絶対に負けない。「なにくそっ」と思って頑張る。
いま日本という国は、建国以来最大の国難の時代をむかえてると言われています。
気がつくと保守は、いつのまにか少数派になっていた。
そういうときだからこそ、目覚めた少数の保守が、「なにくそっ」と頑張りぬく。
頑張ってがんばって、がんばりぬいた先に、日本の未来がある。
そんな気がします。