まるで大きなホテルを次々作って、個別に人畜が飼われているような世の中になっていると感じた。
みんな家畜のようなものだ、と。
今、賃貸のアパートに住んでる。
そこで隣組長の担当になった。
自治会員の選考に出ないといけないが、候補者を推薦してくれと言われたが。
お隣や近所に住んでいる人の顔すらわからないのです、私には。
そしておそらく多くの人がそうでしょう。
アパートやマンションなど。
そういう住処がほとんどになってる今の世の中です。
昔のように隣から色々お裾分けをもらったり、行ったり来たりは無い。
だから隣組という組織は不要。
形骸化してる。
近所の繋がりは無い。
そうなった場合に何が問題か?
そうです。
震災とか火事とか、何か災害とかがあった場合の連携された救助機能が無い。
でも、東日本震災では助け合ったではないか?
都市でそういう機能が発揮されたとは思えないですね。
都市ではそこにあるインフラ機関が目立っていたけれど、住民同士で何か機能することはあったのか?
そもそもそういう機能が必要なのか?
そうです。
もう既に見えてこない。
我先に逃げるだけ。
つまり虫の逃亡に似てる。
人としてのコミュニティは既に無いのでしょう。
虫たちと同じ。
養老先生は言った。
「虫は面白い。観察したり解剖したりしてると、虫はロボットと同じ機能なんだな、と解る」
そう言われてます。
そして
「AIが人間に似てきたんじゃない。人間がAI(ロボット)になってきたんだよ」
と。
現代人は生物としての『人』を脱皮しようとしてる?
そうして、サイボーグ化してる?
最後にAI(ロボット)になろうとしてる?
確かにそうなったら放射能も怖くないし、細菌兵器も怖く無いですね。
でもきっと、生きることは無いでしょう。
生きるということに意味すら解らない。
古代生物には何かしらの生存意義があったのでは無いかしら。
今の生物の理解し得ない何か不思議な感覚。
それを脱皮して脱皮して、そして今に至る。
それで何が見えた?
なんとなく、「消滅」の景色が見えるのは私だけ?
感覚というのきっとAIには無い気がするのです。
感覚機関。
その真の意味は「感覚」であるべき。
意識優先の世界を望んできた人間の行く末には「感覚優先」の「生き物」を否定するところにある。
そういう未来は予知能力とかでは無く、生き物の感覚として感じること。
単純な、コミュニティの在り方の崩壊。
それはそういう意味をも含んだ未来をどことなく感じる。
多くの人の不安要素はそこらへんに漂ってる。
私も精神疾患?
それはほとんどの人が感じてるところにある気がする。
感覚優先の需要性。
言葉ではなく、感覚で感じて生きたい。