市長などの職業者はいらんと思う。
市長など必要ない。
県知事も、総理大臣も必要ない。
家庭における長老というのを考えたらわかると感じた。
嘗ては家族の中でだんだんと歳をとり生活の中でオサ(長)ができる。
長はつまりオサは長老のことだ。
家族の若い衆が自分の親を慕い、そして育ててくれた恩を返す。
親も歳を重ねるとオサになる。
なかなか身体の動きも悪くなる。
しかし、恩という感情はそこでオサや母親たちの面倒をみる様になる。
確かに貧乏で暮らしの状況によりそのカタチはさまざまだろう。
しかし親を慕わない子供はたいていに於いていない。
それが日本式の家族のあり方だ。
そういう場合の家族は、嘗ては子供が多い構造を成す。
子供は家族のカナメになる。
いずれは子供が稼ぐようになるからだ。
そしてオサは給与などはもらってないだろ。
自然とそうなった人間界の構造だと感じる。
オサはその家族を取りまとめる仕事をする役目を担う。
そういう立場だ。
必然的にそうなった構造。
だからそういう長たちを支えるためには子供が不可欠だろう。
そういった過去における自然の仕組みを考えたらわかる。
今の都市社会は市長とか村長を作る。
「オサに匹敵する人」を敢えて考えて作った構造物の様なもの
今やオサという言葉すら消えて、市長とか県知事とかいうけれど、そこには『仕事』という概念がある。
つまり、給与をもらってその組織を収める役目だ。
つまりサラリーマンだ。
サラリーマンで親の長をやってるようなものではないか?
親は親という『仕事』なのか、と思う。
親は仕事ではなく、そういう立場であり、取り纏めないと組織が崩壊して、自分の存在が消えるくらいの『人としての在り方』くらいの存在ではないか?
それを『仕事』でありサラリーマンである、というならば、その組織に対する認識は、それができなかったら辞表で終わり。
家族とはそういう関係性ではない、お互いが心底信頼しあって成り立つ結び付く人と人とのあり方だろう。
自然と出来上がるカタチなのだと感じるが。
そこを切り離してしまうと、組織の認識の中に信頼は無い。
オサ(長)がサラリーマンなら子供もそういう意識になる。
子供という職業的な立場?
そうなるとこうなる。
従って、「楽であればいい」、と考える。
職業、子供A、である。
そういう場合はわざわざしんどい思いはしたくない。
その子供が更に子供を作るかどうか?
考えは自己完結に向かう気がするが。
子供は他人だ。
だから
そもそも子供は要らない。
必要ない。
なぜならそういうサラリーマンだから自分だけで完結したらいい。
構造はまさにカタチだけのものになる。
お金で家族を作るとそうなる。
組織としてサラリーマン的な意識で生活するだけでいい。
そこに家庭は『一体何?それ』だろう。
本当の家庭はそもそも自然にそうなる。
自然に出来上がる。
お金を払って雇った家族では本当の家族はできない。
同様に少子化が進む原因はそういう形式的な社会から出来上がる。
組織をお金で作るとそうなる。
都会を作るとお金で動く。
今の都市社会を壊さないと少子化になる。
今の社会の方向は少子化をさらに進めるだけだ。
都市を放棄する以外に子供を増やす道はない。
道は無い。
日本は既に崩壊する。
日本人という民族で作られたこの島の人々の「家族」は消える。
それはいくら計算しても変えられない。
確定事項になった。
ならばどうなる?
多国籍か。
或いは戦争を経て近所の大国の属国として存在するか?
しかし、そこで暮らすのはいわゆるかつての『奴隷』的な民。
この島は囚われの人の地。
まぁ、今でもかの国の属国。
奴隷とも言える立場の国。
国という体をなしてない。
あまり大きな変化はないかもしれないが。
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