過去何度も壊れました。
その度に修復。
でも完全に治ることはなく。
サイボーグの私には如何にもこうにも。
いっそ機械になり切ったらよかった。
そう思うことがあります。
その為に人は機械に憧れるのでしょう。
機械なら心がないから、壊れたらそのまんまでいい。
使い捨て。
そのまんま。
心は面倒なモノですからねぇ。
それを5億年もかけて手にいれたのです。
何が良かったからそうしたのでしょうかね。
私の心には理解できません。
痴呆老人は意識がほぼ無いと聴きました。
本当にそうなのでしょうかね。
もしかしたら毎日、あるいはその都度意識が新たに誕生してたら。
怖いですね。
すぐに生まれる意識と、その瞬間に死ぬ意識。
まぁ、消えたらそこで痛くも痒くもない。
なら、どうでもよさそうですがね。
サイボーグに憧れた事がありました。
でも、サイボーグは自分を保ってるから、そこで人間の範疇。
やはり、人でしかない。
機械なら意識はない。
シンギュラリティと言いますが、それは無い気がします。
だって、そこには自己否定が同席するから。
サボる機械や悩む機械や心配性で最後に自殺する機械ができたら、あり得ますがね。
そうなると、しかし、自己矛盾を起こすでしょ、きっと。
私はだあれ?って。
そうなると、既に機械ではなくなるしね。
命は作れない気がします。
だって、命は儚いもの。
私があるから生きると言える。
機械が死を受け入れたら、どうなるか?
つまり、自然死を受け入れることになります。
が、自然死って機械に備わるものかどうか?
機械は人工であり自然じゃないから、人工が自然って?
シンギュラリティには矛盾がある。
人工は自然ですって、あるいは自然は人工ですって言ってるようなもの。
なら、もうすでに理論破綻しますがな。
私は私以外のモノです、って言うと一体何が言いたのか既に理論破綻してる。
上は下です。
外は内です。
なんでもありの理論はありうるか?
まぁ、宇宙の神秘。
どこかにありうるか。
だって、虚数すら存在するからね。
無いものがあるんです。
有るものは無いのかもしれない。
幽霊です私たち。
そこまでいくと、もう既に人が人で無くなる。
壊れてる。
今までも何度も壊れました。
最近、また恐ろしく壊れてきてます。
修復できるかどうか。
もう、既に老人の道をまっしぐらですからねぇ。
修復するチカラもなかなか無くなりつつ。
それでも、まだ壊れ切ってない。
そこが一番きついんですよ、これがね。
正常と異常の狭間。
まぁ、もうあまり抵抗しないのが得策かもしれないですな。
受け入れる。
そうかな。
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