自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★メモる2007年‐10(完)‐

2007年12月29日 | ⇒トピック往来

 年末、家族で加賀・山代温泉に出かけた。この「メモる2007年」シリーズの10回目の締めくくりに何を書こうか迷っていたので、ちょうどよい気分転換になった。ところで、この旅館のことを書いてもブログが3本は立ちそうなほどサービスがよい。就寝前には「羽毛、ソバ殻、低反発の3種の枕がありますが、お好みはありますか」と仲居さんが尋ねてくる。そして食事のメニューは女将さんが描いたイラスト付きである。経営者が料理の細部までマネジメントしている。だからサービスが行き届いていると実感できる。その旅館の窓から見える加賀の山里の景色を眺めながら、金沢大学が能登で展開しているプロジェクトについてこの1年を振り返ってみた。そして、このプロジェクトはどこへ行こうとしているのか自問自答してみた。

         どこへ行こうとしているのか

  能登半島の先端にある珠洲市三崎町。廃校となった小学校を再活用した「里山マイスター能登学舎」で、2007年10月6日に「能登里山マイスター」養成プログラムは開講式を迎えた。開講式のあいさつで、金沢大学の橋本哲哉副学長は「能登に高等教育機関をという地元のみなさんからの要望があり、きょうここに一つの拠点を構えることができた。環境をテーマに能登を活性化する人材を養成したい」と感慨を込めた。ここで学ぶ1期生は19歳から44歳までの男女16人。金沢から2時間半かけて自家用車で通う受講生もいる。開講式では、受講生も自己紹介しながら、「奥能登には歴史に培われた生活や生きる糧を見出すノウハウがさまざまにある。それを発掘したい」「能登の資源である自然と里山に農林水産業のビジネスの可能性を見出したい」などと抱負を述べた。志(こころざし)を持って集まった若者たちの言葉は生き生きとしていた。

  あいさつと看板の除幕という簡素な開講式だったが、かつて小学校で使われていた紅白の幕を学舎の玄関に張り、地元の人たちも見守ってくれた。5年間に及ぶ金沢大学の「能登里山マイスター」養成プログラムはこうして船出した。では、このプログラムは何を目指して、どのようなビジョンを描いているのか述べてみたい。まず、能登の現状認識について、いくつか事例を示す。

 能登半島の過疎化は全国平均より速いテンポで進んでいる。とくに奥能登4市町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)の人口は現在8万1千人だが、8年後の2015年には2割減の6万5千人、65歳以上の割合が44%を占めると予想される(石川県推計)。この過疎化はさまざまなかたちで表出している。能登半島では夏から秋にかけて祭礼のシーズンとなる。伝統的な奉灯祭はキリコを担ぎ出す。キリコは収穫を神に感謝する祭礼用の奉灯を巨大化したもので、その高さは12㍍に及ぶ。黒漆と金蒔絵で装飾されたボディ、錦絵が描かれた奉灯、何基ものキリコが鉦(かね)と太鼓のリズムに乗って社(やしろ)に集ってくる。華やかな祭りのなかにも能登の現実をかいま見ることができる。キリコは本来担ぐものだが、キリコに車輪をつけて若い衆が押している。かつて集落には若者が大勢いてキリコを担ぎ上げたが、いまは人足が足りずそのパワーはない。車輪を付けてでもキリコを出せる集落はまだいい。そのキリコすら出せなくなっている集落が多くあり、社の倉庫に能登の伝統遺産が眠ったままになっている。

  2006年5月、能登半島を視察に訪れた小泉純一郎首相(当時)は、国指定の名勝である「白米(しらよね)の千枚田」(輪島市)を眺望して、「この絶景をぜひ世界にアピールしてほしい」と賞賛した。展望台から見渡す棚田の風景は確かに絶景であるものの、小泉首相が眺望したのはざっと4㌶で、展望台からは見えにくい周囲の10㌶の田んぼは休耕田や放棄田となっている。高齢化と担い手不足、そして予想以上に放棄田が広がる背景には、棚田は耕運機や田植え機などが入りにくく手間がかかるという現実がある。輪島市では棚田のオーナー制度を打ち出すなど手を尽くしているが、名勝の棚田ですら耕作を持続するのは難しい。さらに、ことし2007年3月25日の能登半島地震。マグニチュード6.9、震度6強。この震災で1人が死亡、280人が重軽傷を負い、370棟が全半壊し、2000人余りが避難所生活を余儀なくされた。自宅の再建を断念し、慣れ親しんだ土地を離れ、子や孫が住む都会に移住するお年寄りも目立つ。能登の過疎化に拍車がかかる。もはや能登、とくに奥能登の地域再生は「待ったなし」の状態となっている。

  こうした奥能登の現状に、金沢大学は「能登里山マイスター」養成プログラムを投入することになった。奥能登に拠点を構えるにあたって、このプログラムに連携する輪島市、珠洲市、穴水町、能登町の4市町と、それにブログラムに講師派遣というかたちで参画する石川県立大学を交え、「地域づくり連携協定」を結んだ(2007年年7月13日)。地域の現状を好転させたいと心底から願っているのは当該の自治体である。しかし自治体にとって、課題の解決に向けて大学に協力を求めようとしても大学といのは敷居が高い。そこで、連携協定を結ぶことで敷居を払うという効果につながる。協定内容はごく簡単に地域再生、地域教育、地域課題の3点について協力するというものだ。調印を終え、林勇二郎学長はそれぞれの自治体の首長とがっちりと握手を交わした。その後、この連携協定が単なる文面上の約束事から、求心力へと高まっていくことになる。

  能登の自治体と金沢大学の動きに機敏に反応したのは意外にも石川県議会だった。県議会企画総務委員会の7人の議員が「金沢大学が能登でやろうとしていることを説明してほしい」とわざわざ珠洲市の里山マイスター能登学舎を視察に訪れた。総務企画委員会というのは各会派のベテラン県議、いわゆる「うるさ方」が集まる委員会である。県の局長、部長クラスを伴って、一行がバスで訪れたのは8月22日のこと。議員が動いたということで、今度は県庁内での動きにつながる。庁内で部局を横断的につないだ「里山マイスター連絡会」が組織された。8月31日の初会合には企画振興部地域振興課、環境部自然保護課、商工労働部産業政策課、観光交流局観光推進課、農林水産部企画庁調整室、同部中山間地振興室の関連セクションから課長や課長補佐、主幹、専門員といった中堅クラスが集まった。いわば県庁内での支援組織である。

  大学の研究プログラムにこれほどまでに行政が機敏な動きを見せたのには理由がある。このプログラムは文部科学省科学技術振興調整費の「地域再生人材創出の拠点形成」という課題で金沢大学が申請した。国の第67回総合科学技術会議で採択されたのは2007年5月18日。この課題では全国の大学などから75件の申請があり、12件が採択された。1年間で5000万円、5年継続が可能なのでトータルで2億5千万円の国の委託費だ。科振費の中でも、このプログラムは自治体と連携して地域再生のための人材養成の拠点を形成するというミッション(政策的な使命)を帯びていて、総合科学技術会議の採択を受け、今度は連携する自治体が大学のプログラムを活用して地域再生計画を作成し、内閣府に申請するという「二段論法」になっている。平たくいえば、大学と地域自治体の双方が申請責任者として地域課題に取り組むという仕組みになっている。そこで、石川県と輪島市、珠洲市、穴水町、能登町は「元気な奥能登を創る!“里山マイスター”創出拠点の形成による奥能登再生計画」を国に申請し、7月4日に認定を受けることになる。地域づくり連携協定から県庁内の里山マイスター連絡会まで、大学と行政の連携の動きは一連のものなのだ。

  「能登里山マイスター」養成プログラムに先立って、2006年10月、三井物産環境基金の支援を得て、能登半島の最先端にある珠洲市三崎町で「能登半島 里山里海自然学校」を開設した。地域への貢献を条件に、同市から無償で借り受けた鉄筋コンクリート3階建ての旧・小学校の校舎。教室の窓からは日本海が望め、廊下の窓から能登の里山が広がる絶好のローケションが里山里海自然学校に相応しいというのがこの場所の選定理由だった。ここに常駐研究員1人を配して、奥能登における生物多様性調査をオープンリサーチ形式で行なう。山や溜め池、田んぼといったところで生物調査を行なう。この中から、絶滅危惧種であるホクリクサンショウウオの北限を塗り替える発見もあった。このほかに、沿岸集落の里海づくり、食文化調査、マツタケ山の保全活動、ビオトープづくりなどを地域の人たちの協力を得て行なっている。学校のある小泊地区の人たちは「一度明かりが消えた学校に再び明かりがともってうれしい」と言い、里山里海自然学校とは協力関係が築かれている。しかし、社会貢献、地域づくりといいながら、角間の里山自然学校や里山里海自然学校の取り組みだけでは奥能登への貢献は力不足である。大学にできること、それは人材養成ではないのかと自問自答したプランが「能登里山マイスター」養成プログラムだった。プログラムの申請段階から関わった市の泉谷満寿裕市長は「能登には高等教育機関がないので、若い人材が都会に流失していく。この人材養成プログラムがUターン希望者らの呼び水の一つになってほしい」と何度も強調した。七尾市和倉温泉の「加賀屋」、小田禎彦会長は「能登に人づくりの拠点ができることを待ち望んでいた」と話し、若手社員を受講生としてプログラムに送り込んでくれた。地域の期待は予想以上に大きかった。

  このプログラムを国に申請書を作成する段階で念頭に置いた、お手本のような地域の事例がある。能登半島の付け根にある石川県羽咋(はくい)市神子(みこ)原(はら)地区という過疎と高齢が進む集落(170世帯500人)がある。山のため池を共有し、人々は律儀に手をかけて稲を育てている。その米が「神子原米」としてブランド化され、高級旅館の朝ごはんに、あるいはその米で造られた純米酒はファーストクラスの機内食として供されるなど高い付加価値をつけることに成功した。生産量は多くないので、決して豊かな村ではない。しかし、目立っていた空き家に、神子原で米づくりをしてみたいと志す都会の4家族13人が入居し、地域は活気づいている。能登はその地形から大規模な河川がなく、平野も少ないことから、生産量を競う米づくりには不向きで、集落が共同でため池をつくり、その水を分け合って水田を耕してきた。個人ベースでは小規模農業であるものの、「ため池共同体」であることを生かし、集落がまとまってブランド米づくりに乗り出すことが可能である。いわば、米づくりが個人ではなく、地域ぐるみのコミュニティ・ビジネスとして成立する素地が能登にあり、神子原地区はその成功例と言える。

  追い風もある。食の安全と安心を求める消費者の声が高まり、平成19年度から政府は新農業政策「農地・水・環境保全向上対策」を掲げ、環境保全型の農業へと大きく舵(かじ)を切っている。生産量を誇るのではなく、環境に過度の負荷をかけない、品質の確かな農業への転換である。新しい農業の時代を担う人材を能登の地で育むことができないだろうか。風光明媚な観光資源や魚介類の水産資源にも恵まれている。これらの資源を生かし、農家レストランや体験農業、あるいは食品産業との連携による新事業の展開など、「農」をキーコンセプトとする新しいアグリビジネスを創造する人材が定着すれば、能登再生の展望はほのかに見えてくる。

  「能登里山マイスター」養成プログラムが具体化されるまでのいきさつや、どのような人材を能登で養成しようとしているのかについて、これまで述べてきた。ここでお分かりのように、主眼は「農業名人」を育成することではなく、環境配慮をテーマとしたスモールビジネスを行なう若手人材の養成なのである。しかし、里山マイスターを60人育てれば能登を再生できるのか、それは容易ではない。次なる能登のビジョン、あるいは仕掛けが必要なのである。これからがわれわれが目指す里山活動の本題でもある。

  環境配慮型の農業を行なうことで、副次的に水田にはドジョウやタニシといった生物が豊富になる。ある意味で単純なことが実は重要なことであるのに気づくのに半世紀を要している。急減したトキが国の特別天然記念物に指定された1950年代、日本は戦後の食糧増産に励んでいた。農業と環境の問題にいち早く警鐘を鳴らしたレチェル・カーソンは1960年代に記した名著「サイレント・スプリング」に、「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」と記した。農業は豊かになったけれども春が静かになった。1970年、日本で本州最後の1羽のトキが能登半島の穴水町で捕獲された。愛称は「能里(ノリ)」、オスだった。繁殖のため佐渡のトキ保護センターで送られたが、翌71年に死亡した。解剖された能里の肝臓や筋肉からはDDTなどの有機塩素系農薬や水銀が高濃度で検出された。そして2003年、佐渡の「キン」が死亡し、日本のトキは沈黙したまま絶滅した。

  その後、同じ遺伝子を持つ中国産のトキが佐渡で人工繁殖し、107羽(2007年7月現在)に増殖している。環境省では、鳥インフルエンザへの感染が懸念されることから場所を限定しての本州での分散飼育を検討し、08年にも分散場所の選定がなされる見込み。石川県能美市にある県営の「いしかわ動物園」は分散飼育の受け入れに名乗りを上げ、近縁種のシロトキとクロトキの人工繁殖と自然繁殖に成功し、分散飼育の最有力候補とされている。分散飼育の後、人工増殖したトキを最終的に野生化させるのが国家プロジェクトの目標である。

  能登の「能里」が本州最後の1羽のトキだったことは前に触れた。途絶えたとはいえ、能登に最後の1羽まで生息したのにはそれなりの理由がある。先に紹介した「能登半島 里山里海自然学校」で行なっている奥能登での生物多様性調査は、珠洲市と輪島市など奥能登の何ヵ所かを重点調査地区に設定し、詳細なデータの蓄積を進めている。調査は途中であるものの、トキの生息環境の可能性を能登に見出すことができる。能登には大小1000以上ともいわれる水稲栽培用のため池が村落の共同体、あるいは個別農家により維持されている。ため池は中山間地にあり、上流に汚染源がないため水質が保たれている。サンショウウオ、カエル、ゲンゴロウやサワガニ、ドジョウなどの水生生物が量、種類とも豊富である。ため池にプールされている多様な水生生物は用水路を伝って水田へと分配されている。

  また、能登にはトキが営巣するのに必要とされるアカマツ林が豊富である。昭和の中ごろまで揚げ浜式塩田や、瓦製造が盛んであったため、高熱を発するアカマツは燃料にされ、伐採と植林が行なわれた。さらに、能登はリアス式海岸で知られるように、平地より谷が多い。警戒心が強いとされるトキは谷間の棚田で左右を警戒しながらサンショウウオやカエル、ゲンゴロウなどの採餌行動をとる。豊富な食糧を担保するため池と水田、営巣に必要なアカマツ林、そしてコロニーを形成する谷という条件が能登にある。ここに環境配慮型の農業を点ではなく面で進めたら、トキやコウノトリが舞い生息する里山の環境が再生されるのではないだろうか。

  もちろん、机上の話だけでは現実は進まない。かつて奥能登でトキはドゥと呼ばれ、水田の稲を踏み荒らす害鳥だった。ドゥとは「追っ払う」という意味である。トキを野生復帰させるための生態環境的なアプローチに加え、生産者と地域住民との合意形成が必要である。トキと共存することによる経済効果、たとえば農産物に対する付加価値やグリーンツーリズムなどへの広がりなど経済的な評価を行ない、生産者や住民にメリットを提示しながら、トキの生息候補地を増やしていく合意形成が不可欠である。その上で、金沢大学が能登半島で地域住民と協働して実施している生物多様性調査に都市の消費者も加わってもらい、長期モニタンリングにより農環境の「安全証明」を担保していく仕組みづくりができれば、環境と農業、地域と都市の生活者が連携する自然と共生した能登型の環境再生モデルが実現するのではないか。

  次世代を担うであろう里山マイスターにぜひ、トキが舞う能登の農村の環境再生の夢を託したい。能登の里山ルネサンス(再興)といってもよい。ここに能登再生の可能性がある。このブログでもすでに紹介したトキの写真がある。昭和32年(1957年)、輪島市三井町洲衛で撮影されたトキの子育て、巣立ち、大空への舞いの当時珍しいカラー写真である。地元の小学校の校長していた岩田秀男氏(故人)がドイツ製の中古カメラを買って撮影した。トキをモノクロの写真で撮影しても意味がないと、カラー写真の撮影に執念を燃やした。岩田氏は最後の1羽を捕獲し佐渡に送ることに反対したそうだ。「最後の1羽は能登で安らかに死なせてやりたいと願っていた」(遺族の話)。わたしはトキが能登に復活することを願っている。本州最後の1羽が能登なら、本州で野生復帰する最初の1羽を能登で実現させたいと。

 ⇒29日(土)午前・金沢の天気  くもり

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☆メモる2007年‐9‐

2007年12月24日 | ⇒トピック往来

 かつて、大晦日といえば岩城宏之、岩城宏之といえば大晦日だった。その岩城さんがこの年末に突如現れた。今月21日に発表された2007年文化庁芸術祭賞のテレビ部門優秀賞に、北陸朝日放送が制作した番組「指揮者 岩城宏之 最後のタクト」(55分番組)が選ばれた。去年(06年6月)、岩城さんが逝去してから1年6カ月、その存在感をいまも漂わせている。

    マエストロ岩城を撮り続けたドキュメンタリスト            

  2年前の05年12月31日、私は当時、経済産業省「コンテンツ配信の実証事業」のコーディネータ-として、東京芸術劇場大ホールで岩城さんがベートーベンのシンフォニー1番から9番を指揮するのを見守っていた。演奏を放送と同時にインターネットで配信する事業に携わっていた。休憩をはさんで560分にも及ぶクラシックのライブ演奏である。番組では指揮者用のカメラがセットしてあって、岩城さんの鬼気迫る顔を映し出していた。ディレクターは朝日放送の菊池正和氏。その菊地氏の手による、1番から9番のカメラ割り(カット)数は2000にも及んだ。3番では、ホルンの指の動きからデゾルブして、指揮者・岩城さんの顔へとシフトしていくカットなどは感動的だった。

  ライブ演奏と別に、岩城さんの表情を控え室までカメラを入れて撮影するドキュメンタリー番組のクルーがいた。北陸朝日放送の北村真美ディレクターだった。この時点で足掛け10年ほど「岩城番」をしていた。岩城さんのベートーベン連続演奏は04年の大晦日に次いで2度目だったが、この2回とも収録している。前人未到の快挙と評されたベートベーンの連続演奏にカメラを回し続けた。彼女ほど岩城さんに密着して取材したディレクターはいないはずである。その北村さんが今回、文化庁芸術祭賞の優秀賞を受賞した。

  受賞番組となった「指揮者 岩城宏之 最後のタクト」は追悼番組である。10数年余りに及ぶ映像を岩城さんの生き様にかぶせてふんだんに盛り込んだ。胃がんや肺がんと闘いながら、最後までタクトを振り続けた姿を収めた。追悼演奏が終わって、会場のステージから大型の遺影がゆっくりと降ろされるシーンは、かつて指揮台にいた生前の姿を彷彿させて胸を打つ。追悼演奏といえども、遺影の最後の仕舞いまで見届けたいという、番組にかけるディレクター、カメラマンの執着心だろう。

  ドキュメンタリストというのは決して映像をあせらない。チャンスを待つ。そうした目線の確かさというのは番組づくりにも表れるものだ。指揮者・岩城宏之をその死まで追って、人生と芸術を描いた。芸術祭賞にふさわしい番組ではなかったか。

  最後に番組の中から印象に残った岩城さんの言葉。「ベートーベンの1番から9番は個別ではそれぞれ完結しているんだけれど、連続して指揮してみると巨大な1曲なんだ」。ベートーベンへの長い道のりを歩いた指揮者からこぼれた、なんと澄み切った、奥深い言葉だろうか。

※【写真】2004年5月、オーケストラ・アンサンブル金沢のベルリン公演

 ⇒24日(月)夜・金沢の天気   はれ 

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★メモる2007年‐8‐

2007年12月23日 | ⇒トピック往来

 ことし1年、随分と能登に通った。金沢大学から能登半島の先端の珠洲市まで距離にしてざっと150㌔である。乗用車で片道2時間余り。能登通いは昨年から始まり、ことしは急増した。その理由は過日のブログを参考にしてほしい。能登で得た知識、研がれた感性、人とのコミュニケーションなどプラスの面が多々あった。その一端をブログでは「デープな能登」のシリーズで書かせてもらった。今回はその総集編を。

    期待したい「持続可能な心意気」

  何を隠そう私も能登の出身なので、どちらかとうと能登について語る際は概して辛口である。何しろ能登の人は勘違いをしている。民宿、居酒屋、寿司屋などどこで食べても量が多すぎる。たとえば、ブリの刺身はぶ厚い。これが5枚、6枚と皿に盛ってあるので食べきれない。もう少し薄く、量を減らしたらと主人や女将に進言すると、決まって「量が少ないと言われるほうが辛いのです」という。

  今月1日から、奥能登の飲食店がオリジナルのどんぶりをメニューに出す、「能登丼(のとどん)」というキャンペーンを始めた。さっそく初日に訪れた店でブリの照り焼き丼を食した。ご覧の写真のように、ブリの照り焼きがどんぶり茶碗からはみ出ている。ブリの照り焼きを2切れ食べただけでお腹がいっぱいになった。残すのはもったいないと思い懸命に食べたが、少々苦痛に感じ、せっかくのブリの照り焼きの価値が半減した。能登の料理人は「食い倒れ」という発想を転換すべきである。いくら地産地消といっても程がある…。

  肉にしてもそうだ。能登和牛がいくら良質だからといって、草鞋(わらじ)のようなステーキを出すべきではない。似たような辛い経験をしたことがある。アメリカのラスベガスのホテルで食したステーキがサンダルのような大きさ。それに付いたポテトチップスがボールに入って出てきたのには辟易した。支配人に聞くと、これがベガス流なのだとか。

  実は民宿や居酒屋、寿司屋だけはない。普通の民家でもそうなのだ。年に一度、収穫祭りが夏から秋にかけてある。ヨバレといって、親戚や知人を自宅に招待してごちそうでもてなすのだが、一人前のご膳の料理の品数、量が途方もなく多い。ご膳についた周囲の客を見渡すと、箸をそこそこにしかつけていない人が多い。残しているのである。結果、祭りの翌日は大量の残飯が各家庭から排出されることになる。

  能登人の心意気は有り余るサービス精神と表現することができるかもしれない。しかし、これでは営業上でもコスト的に辛く、家計で言えば、交際費支出が多すぎて無理している。この時代、「そこそこ」のサービス精神に切り替えるほうよいのではないか。無理せず、持続可能な心意気の方がこちらも楽なのである。

 ⇒23日(日)午前・金沢の天気   くもり

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☆メモる2007年‐7‐

2007年12月22日 | ⇒トピック往来

 放送法改正案がきのう21日の参議院本会議で可決・成立した。08年春にも施行される見通し。放送メディアをめぐっては今年ほどニュースの多い年はなかったのではないか。何しろ私の放送メディアに関する新聞切り抜きのスラップ帳の枚数は例年の2.5倍、900枚余りにもなった。おかげで、大学の授業では講義のネタに事欠かかなかった。

     「あるある」問題は一端にすぎない

  新聞とハサミの格闘が始まったのは、何といっても、新年早々の「発掘!あるある大事典」(07年1月7日放送)の捏造問題だった。番組制作側の関西テレビに対する週刊朝日の「納豆ダイエット」についての質問から端を発した事件だった。関テレ側は社長出席の記者会見で、「制作上のミスであり、お詫びします」と陳謝して逃げ切ろうと思ったのだろう。しかし、新聞記者の追及は甘くなかった。結果的に、納豆ダイエットの番組の中だけで、日本語のボイスオーバー(吹き替え)による捏造4件、データ改ざん4件、そのほか実験方法が不適切であったり、研究者の確認を取ってないものが8件もあった。このほかにも「足裏刺激でヤセる」(06年10月8日放送)などで捏造が次々と明るみとなり、スポンサーの花王が降りて番組は打ち切りとなった。

  その後、外部委員が作成した調査報告書には関テレの責任についてこう記述された。番組を捏造した責任は再委託(孫請け)先の制作会社(「アジト」など)にあるものの、委託した日本テレワークとのその制作担当者、さらにその管理・監督する立場にある関テレのプロデューサーら番組制作担当者はその不正をチェックし、防止することができなった。また、これまで健康情報を扱った番組の不祥事が相次いだが、放送責任を負う関テレの経営幹部には危機意識が薄く、再発防止のための内部統制の仕組みを構築するなどしてこなかった。これは「(関テレの)構造的な要因」とし、「関テレの取締役と番組の制作担当者らの社会的責任は極めて大きい」と指摘した。

  注目すべき点は、これら一連の不正が放送法3条の2第1項3号にある「報道は事実をまげないですること」に抵触しているかどうかの解釈についてだ。調査報告書はこの点について、「『発掘!あるある大事典』は報道そのものには当たらない」とし、さらに関テレ側は捏造を見過ごし、結果として事実に反する内容を放送したものの、「この規定に違反したとまではいえないと考える」としている。つまり、関テレが意図的に事実を曲げたわけではない、との解釈である。しかし、この番組はバラエティー番組ではなく教養番組と銘打っていた。会社も制作現場も教養番組を「バラエティーと報道の中間ぐらいのステータス」という程度に考えていたに違いない。この甘さが結果的に墓穴を掘ったのでないか。

  この「捏造」や「やらせ」は繰り返されてきた。テレビ業界で「やらせ」の代名詞ともなっているのが、1992年9月30日と10月1日の2夜で放送されたNHK番組「禁断の王国・ムスタン」である。流砂現象を人為的につくったなど問題が指摘された。そこで、性懲りもなく繰り返されるテレビ業界のこの体質を改善するべく、与党は先の国会(会期末6月23日)で番組捏造などが発覚した場合に再発防止計画の提出を義務化する改正案を放送法に盛り込んだ。が、年金記録問題などで国会日程が窮屈になり継続審議となっていた。

  そして、7月29日投票の参院選挙では与野党の勢力が逆転。今国会では番組等の不祥事については、あくまでも世論の批判とテレビ業界の自浄努力に委ねるべきであって、国家権力が安易に介入すべきではないとする野党の主張を与党がくみ入れ、この「再発防止計画の提出義務化」の改正案は削除された。テレビ業界は胸をなで下ろしたことだろう。これもNHKと民放が先手を打ったからだ。両者が共同でつくる「放送倫理・番組向上機構」(略称=BPO、放送倫理機構)に放送倫理検証委員会を設け、やらせや捏造が発覚した番組を外部委員にチェックしてもらい、問題があった局に再発防止策を提出させるという自主的な解決システムをつくった。これが奏功したといえる。

  確かに、「発掘!あるある大事典」が端緒となった、政府とテレビ業界の法改正をめぐる攻防はこれで決着した。しかし、やらせや捏造を繰り返す背景とされる、番組外注とチェック体制の問題、放送局と制作会社の関係、下請けの制作プロダクション間の格差・上下関係の問題など、テレビ業界のしがらみや泥沼のような構造的な問題はそのまま残った。そして視聴者が怒っているのは、やらせや捏造だけでない。その取材手法、番組の質、さまざまな問題点がさらに噴き出そうとしている。それはBPOホームページの「寄せられた意見」のページを読めば一目瞭然だ。11月だけで1111件、ことしの累計1万2千件余り(11月まで)、すさまじい苦情の嵐である。

  セクハラまがい、子供たちに見せたくない低俗な番組、霊界や占いを誇張する番組、集団取材による過熱報道…、テレビを見る世間の目は厳しさを増す。これらテレビに対する視聴者の声を一読すれば、今年揺れ動いた「発掘!あるある大事典」問題はテレビ業界が抱える問題の一端にすぎない。と同時に、テレビを身の回りの環境問題ととらえる見方が早晩出てくるのではないかと思っている。

⇒22日(土)夜・金沢の天気  くもり

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★メモる2007年-6-

2007年12月21日 | ⇒トピック往来

 年末にビッグニュースである。「メモる2007年‐3‐」でも紹介したトキが石川県にやってきそうだ。21日付の北陸中日新聞によると、20日、環境省を訪れた石川県の谷本正憲知事が田村義雄事務次官に対し、トキの分散飼育に「いしかわ動物園」(石川県能美市)もその候補に含めてほしいと陳情したところ、田村氏は「トキを育てている佐渡島の皆さんは、本州最後のトキがいた能登地区にいい思いを抱いている」と告げたという。この記事のポイントは①知事が事務次官に陳情した②上記の言質を得た、というたった2点なのだが、「トキ分散飼育、石川は有力」と5段抜きの見出しが躍った。

   トキの羽音が聞こえるか

 では、「佐渡島の皆さんは、本州最後のトキがいた能登地区にいい思いを抱いている」ということがどうして「石川は有力」となるのか。ちょっと解説が要る。

 2003年10月、佐渡で捕獲されたキンが死亡し、日本産トキは絶滅した。その後、同じ遺伝子を持つ中国産のトキの人工増殖がトキ保護センターで進み、ことし7月現在で107羽に増えた。環境省では、鳥インフルエンザへの感染が懸念されることから本州での分散飼育を検討し、第一陣として多摩動物公園(東京都)に4羽を移送した。さらに来春、第二陣の分散飼育を計画している。で、なぜ「佐渡島の皆さんは、本州最後のトキがいた能登地区にいい思いを抱いている」が「有力」となるのか。

 環境省は飼育分散の場所の選定にあたって、佐渡の人たちの地域感情に配慮しているといわれる。分散飼育の候補地に名乗りを上げているのは、石川県のほかに新潟県長岡市、島根県出雲市など。かつて国の特別天然記念物であり、現在も国際保護鳥であるトキはある意味で大きな資源である。飼育の次に増殖し、さらに野生化へのプロセスがあり、野生化した場合は観光資源ともなるからだ。しかし、これまで環境省に数十年にわたって協力してきた佐渡自体が来年ようやく野生化プロセスの段階である。だから環境省としては分散飼育に当たって、地元の感情を配慮せざるをえないのだ。

 そして、「能登地区にいい思いを抱いている」というのは、1970年1月、本州最後の1羽のトキが石川県能登半島の穴水町で捕獲された。トキは渡り鳥ではなく、地の鳥である。捕獲されたトキはオスで、「能里」(のり)という愛称で呼ばれていた。能里の佐渡行きについては当時、地元能登でも論争があり、「繁殖力には疑問。最後の1羽はせめてこの地で…」と人々の思いは揺れ動いた。結局、佐渡のトキ保護センターに送られたが、翌1971年に死亡する。当時、佐渡の人たちは日本産トキのサンクチュアリ化に大きな期待を寄せていたはずである。地元で論争がありながらも最後の1羽を送り出してくれた能登の人たちへの思いはまだ記憶されているのだろう。この故事来歴が、20日の環境省次官の言葉では「佐渡島の皆さんは、本州最後のトキがいた能登地区にいい思いを抱いている」となる。つまり、石川県を分散飼育の候補地とすることに地元佐渡に反対論はなく、第二陣でトキを送り出しますよとの解釈につながる。

 「いしかわ動物園」ではすでに近縁種のシロトキとクロトキの人工繁殖と自然繁殖に成功し、トキの人工繁殖のシュミレーションを終えている。受け入れ準備は整っている。

 話はここから少々飛躍する。分散飼育、人工繁殖、そして野生化が石川の地でスムーズに進んだとしてもさまざまな問題が生じる。それは、トキが絶滅した理由ともかかわる。トキの絶滅は農薬だけの問題ではない。能登半島でトキはドゥと呼ばれ、10数センチほどの短い脚で水田の稲を踏み荒らす「害鳥」だった。ドゥとは「追っ払う」という意味である。かつて、トキと水田の耕作者の関係は良好ではなかった。かつて、日本を含む東アジアに数多く生息したトキだが、食糧の増産で追っ払われ、食べられ、そして農薬によってエサ場を失い、絶滅の危機に瀕したのである。

  トキと共生する環境を再生させようと一部有志が声を上げても、その主なフィールドである水田の耕作者の理解を得なければかつての悲劇を再現することになる。トキと共存することによる経済効果、たとえば農産物に対する付加価値やグリーンツーリズムなどへの広がりや、踏み荒らされた補償の基金づくりといった仕組みを提示しなければ、トキを受け入れる地域全体の合意形成は得られない。トキを呼び戻すということは、自然生態の問題であり、社会システムの問題でもあり、ハードルは高い。ただ、トキが戻ってくれば、里山の風景と価値は一変する。

※写真は石川県輪島市三井町の空を飛ぶトキ(昭和32年・岩田秀男氏撮影)

     2008年1月26日に「トキ」シンポジウムを開催

 ⇒21日(金)夜・金沢の天気   くもり

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☆メモる2007年-5-

2007年12月20日 | ⇒トピック往来

 おそらく新聞も書けないし、テレビ局も報じることはことはできない「もう一つの2011年問題」がある。話が余りにもややこしく、業界の話なので理解を超える面がある。しかし、確実に今見ているテレビが視聴できなくなる人たちが続出することになる。ワーキング・プアではない、チャンネル・プアになる話だ。それは今、ケーブルテレビで見ている隣県の民放テレビ局が視聴できなくなるかもしれないという「区域外再送信問題」のことである。

      チャンネル・プアになる日

  大学の講義でメディア論を担当している。その中で、著作権と放送法の概論は必須なのだが、著作権より放送法の説明が難しく、とくに「県域主義」や「県域免許」などを学生に理解してもらうのにひと苦労する。「県域主義」や「県域免許」とは放送免許は基本的に県単位で与えられており、隣県にはなるべく電波が飛ばないようしてある。しかし、学生はこういうふうに解釈する。「地域のニュースや番組を充実させるためというのは理解できるが、なぜそれが県単位でなければならないのか、電波そのものをブロックできないのに」と。そこでふと考えた。今回の区域外再送信の問題がこじれて、民放局がケーブルテレビ局に「同意せず」を連発すると、テレビ業界の閉鎖性がむしろ世論で問題視され、マイナスイメージが先行するのではないか、と。

  CATVの区域外再送信にはそれぞれ地域事情や故事来歴があり、デジタル化を機に「同意しない」とすんなり縁切りができるものかどうか、そう簡単ではない。私は1990年代の後半、北陸朝日放送(本社・石川県金沢市)の業務部にいて、隣県(富山、福井)のCATVの区域外再送信を担当した一人だった。北陸3県おける唯一のテレビ朝日系のフルネット局が北陸朝日放送である。チャンネル格差に不満の声を上げたのは東京や大阪から富山、福井にきた転勤族だった。「北陸にきたら『ニュースステーション』を見ることができない。疎外感を感じる」。このような投書が地元新聞社に掲載された。そうした声は両県の県議会でも取り上げられた。この世論がバックにあって、CATV局が地元民放局の確認が得て、石川が発局の区域外再送信がまとまった。

 その後、両県で次々とCATV局が立ち上がり、「ニュースステーション」を“売り”に加入契約者を急速に増やした。当時、富山と福井の地元新聞社に北陸朝日放送のテレビ欄をフルサイズで掲載できないか働きかけるのが私の仕事だった。

  では、地デジの区域外再送信は可能だろうか。すでに北陸朝日放送の番組がキラーコンテンツとしてCATVに組み込まれ、新聞社のテレビ欄も地元局と同じサイズになっている。富山では実質4局目、そして福井では3局目(あるいは4局目)と地元局では受け止めているだろう。事実、CATVを含む「その他視聴率」が富山ではゴールデンタイムで10%を超える日があるという。これが地元局のGRPの低下をもたらし、セールス枠に支障をきたしているとなれば、地元3局は「(区域外再送信を)確認しない」のは十分理解できる。また、民放連の方針に従えば、北陸朝日放送はCATV側が地元局の確認を取らない限り、発局として同意はできない。

  ところが、放送法に基づく県域免許制度で貫かれた民放のスタンスであったとしても、冒頭の学生たち、一般視聴者あるいはCATV契約者たちには「テレビ局の論理で振舞っている」としか映らないかもしれない。これまで北陸における区域外再送信の問題を取り上げたが、これからは一般論として述べる。

  事態が行き詰っても、テレビ局側もCATV側もお互い一番選択してほしくない、したくない手段が「大臣裁定」だろう。確実に同じ地域でしこりを残すことになるからだ。そこで両者が話し合うための条件について、いくつか提案したい。それは第一に、CATV側はアナログの区域外再送信を既得権のように主張しないことだ。たとえば、「視聴習慣がついた市民・県民ら視聴者にサービスができなくなる」などという論調だ。ケーブルテレビの加入契約者は、民放局がいう視聴者とは概念が異なる。加入契約者はあくまでも任意のペイヤー(支払い者)であり、民放局が「あまねく」放送するところの地域住民の全体ではない。それをCATV側が「視聴者のために」とひと括りにして表現することに、民放局側は強い違和感を持つことになる。視聴者が何を望んでいて、視聴者の支持を得るためにどのような番組を作ればよいのかと腐心しているからだ。両者のこの行き違いがある限り、論議のスタート台には立てない。

  民放側とケーブルテレビ側の個別協議では限界がある。そこで、大臣裁定に極力持ち込まない一つの方策として、地元で第3者による裁定機関をつくってはどうかと考える。県や自治体の行政は入れず、経済界と一般市民で構成された機関である。民放局側とCATV側が経済界に事務局の設立を含めてお任せするのである。民放局側はここで地域のテレビ局の存続が危うくなることを訴え、CATV側はチャンネル格差の解消を地域課題として問えばよい。地元民放局もCATVも潰したくない、そして多くのチャンネルを視聴したいと思う気持ちは皆同じである。経済界にも共通認識を持ってもらえば知恵や提案も出てくる。区域外再送信の問題は政治決着ではなく、地域の課題として解決する「地域力」に期待したい。

 ⇒20日(木)朝・金沢の天気   くもり

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★メモる2007年-4-

2007年12月19日 | ⇒トピック往来

 赤い腹巻のお猿さんはスターだった。どこへ行っても「カワイーッ」と子供たちから歓迎された。手を合わせて拝むお年寄りもいた。4月21日、能登半島地震(3月25日)の被害がもっとも大きかった石川県輪島市門前町の避難所で「猿回し」の慰問ボランティアを行った。私が所属する金沢大学社会貢献室の主催だった。

       お猿さんはスターだった

  金沢大学では震災後、医療のほか復興のためのボランティア活動を学生や職員に呼びかけた。避難所生活が長期化し、落ち着かない日々を過ごす人たちを元気づけようと、社会貢献室ではかねてから交流のあった山口県岩国市の「猿舞座」座長の村崎修二さんと連携して開いた。体長1.2㍍のサル「安登夢(あとむ)」が跳び上がって輪をくぐる「ウグイスの谷渡り」などの芸を披露すると、会場は歓声と拍手に包まれた。

  客席では、大学の市民ボランティア「里山メイト」の女性たちがお茶と草もちのサービスをし、「がんばってくださいね」と声をかけた。

  この慰問ボランンティアにはちょっとした仕掛けがあった。被災者へのアンケート調査も同時に実施したいという「魂胆」があった。というのも、4月下旬、被災者が寝泊りする避難所ではメディアの取材も学術調査も立ち入りが断られていた。避難所は生活の場でもあり、また当時、家屋リフォームや古物の買い入れと称したいかがわしいセールスなどが問題となっており、避難所の運営担当者らは警戒していた。でも、外に出てきた被災者にアンケートをするのは構わないと聞いていたので、それだったら猿回しを見に避難所前の広場に集まってきた被災者にアンケートをしようというわけ。お猿さんの人気にあやかって、避難所の外では110人もの被災者アンケートを得ることができた。そのアンケートが「メモる2007年-2-」で紹介した震災とメディアに関する調査だった。

  実はその後、「猿舞座」の一座の主役ともいえる安登夢は高齢のため引退することになる。代わって、若手の「夏水(なつみ)」が一座とともに全国を回っている。安登夢にとって能登の慰問ボランティア公演は、拍手を浴びながらダイナミックな芸を演じた晴れの大舞台でもあった。彼はいま岩国で静かに余生を送っている。

 ⇒19日(水)朝・金沢の天気  くもり  

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☆メモる2007年-3-

2007年12月18日 | ⇒トピック往来

  ことし8月、石川県輪島市三井町の小学校の校長だった岩田秀男氏(故人)の遺族宅を訪ねた。岩田氏は昭和30年代から、能登で生息してた本州最後のトキを熱心に撮影して歩いた人だった。遺族から能登のトキを写真を見せられた時、胸が熱くなった。写真のトキが「ワタシは能登に帰りたい」と叫んでいるような、そんな衝撃を受けた。岩田氏のクレジットを必ず入れることを条件に写真の使用許可をいただいた。

  トキが再び能登の空に舞う日

 トキが急激に減少したとされる1900年代、日本は食糧増産に励んでいた。レチェル・カーソンが1960年代に記した名著「サイレント・スプリング」で、「春になっても鳥は鳴かず、生きものが静かにいなくなってしまった」と記した。農業は豊かになったけれども春が静かになった。1970年1月、日本で本州最後の1羽のトキが石川県能登半島で捕獲された。オスの「能里(ノリ)」だった。繁殖のため佐渡のトキ保護センターに送られたが、翌1971年に死亡した。解剖された能里の肝臓や筋肉からはDDTなどの有機塩素系農薬や水銀が高濃度で検出された。2003年10月、佐渡で捕獲されたキンが死亡し、日本産トキは沈黙したまま絶滅した。

  その後、同じ遺伝子の中国産のトキがトキ保護センターで人工繁殖し、2007年7月現在で107羽に増殖している。環境省では、鳥インフルエンザへの感染が懸念されることから場所を限定しての本州での分散飼育を検討し、08年にも分散場所の選定がなされる見込み。石川県能美市にある県営「いしかわ動物園」は分散飼育の受け入れに名乗りを上げ、近縁種のシロトキとクロトキの人工繁殖と自然繁殖に成功し、分散飼育の最有力候補とされている。分散飼育の後、人工増殖したトキを最終的に野生化させるのが国家の目標である。

  金沢大学「里山プロジェクト」では、平成18年度三井物産環境基金の支援を得て、「能登半島 里山里海自然学校」(石川県珠洲市)を設立した。その活動の一つであるポテンシャルマップ作成は、奥能登における生物多様性の調査である。珠洲市や輪島市の4ケ所の重点調査地区を設定し詳細なデータの蓄積を進めている。この生物多様性調査から、トキが再生する可能性を能登に見出している。奥能登には大小1000以上ともいわれる水稲栽培用の溜め池が村落の共同体により維持されている。溜め池は中山間地にあり、上流に汚染源がないため水質が保たれている。ゲンゴロウやサンショウウオ、ドジョウなどの水生生物が量、種類とも豊富である。溜め池にプ-ルされている多様な水生生物は疏水を伝って水田へと分配されている。

  また、能登はトキが営巣するのに必要なアカマツ林が豊富である。かつて、昭和の中ごろまで揚げ浜式塩田や、瓦製造が盛んであったため、高熱を発するアカマツは燃料にされ、伐採と植林が行なわれた。さらに、能登はリアス式海岸で知られるように、平地より谷が多い。警戒心が強いとされるトキは谷間の棚田で左右を警戒しながらドジョウやタニシなどの採餌行動をとる。豊富な食糧を担保する溜め池と水田、営巣に必要なアカマツ林、そしてコロニーを形成する谷という条件が能登にある。

  来年度から、金沢大学の生態学と環境経済の研究者を中心にトキならびにコウノトリが生息できるための学際研究を行なう。ポイントは2点。①トキが能登に再生するための具体的な適地のモデル選定とステークホルダー(自治体、地域住民、地権者、生産者)との合意形成、②水田の減農薬化と生態環境のための基礎調査を実施する。トキはコウノトリ目の鳥であり、コウノトリとは絶滅の経緯などで類似点が多い。そのコウノトリが兵庫県豊岡市で野生復帰し、43年ぶりに自然繁殖した。豊岡市での取り組みなどをお手本に、本州最後の1羽のトキがいた能登半島で、野生化する最初の1羽のトキを再生させたい。そのためのロードマップを描き、ステークホルダー(自治体や地域住民、地権者、生産者)との合意形成ならびに協働するプログラムを作成する。その上で、トキの生息地として適しているとされる谷間の棚田フィールドの確保(20haほどを想定)、生産者による減農薬での水田栽培を一斉に実施し、GIS(地理情報システム)などの技術を用いて数年かけ生態環境の基礎調査を実施する。

  生態ピラミッドの頂点に立つトキを野生復帰させるためには生態系自体の修復(再生)が必要であるのは言うまでもない。しかし、昔に戻って過去の環境を復元するのは無理としても、同じものをつくり出せる要点を明らかにして、部分的にでも徐々に創出していくというアプローチが必要である。そのためには科学的な手法を取り入れる。うまくいかなければ何が問題なのかを、考えられる順応的な研究を行う。

  こうした研究の成果は2010年に予定される生物多様性締約国会議(「COP10」、名古屋市)のエクスカショーン等で発表することを目指している。金沢大学が独自に研究調査をする意味合いは、ともすれば政治案件化するトキの野生化の候補地選定を客観的なデータと研究調査で担保したいと思うからである。 ※写真は石川県輪島市三井町で営巣していたトキの親子(昭和32年・岩田秀男氏撮影)

     2008年1月26日に「トキ」シンポジウムを開催

⇒18日(水)朝・金沢の天気   くもり

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★メモる2007年-2-

2007年12月17日 | ⇒トピック往来

 能登半島地震(今年3月25日発生)では死者1人、300人以上の重軽傷者を出した。この震災で一番被害を受けたのは、メディアとの接触機会が少なく「情報弱者」とされる高齢者が多い過疎地域だった。被災者はどのようにして情報を入手し、その情報は的確に伝わったのだろうか。そんな思いから金沢大学震災学術調査班に加わり、「震災とメディア」をテーマに被災者アンケートやメディアへのヒアリング調査などを実施した。

           震災では誰もが「情報弱者」に

  アンケートの調査は、震度6強に見舞われ、住民のうち65歳以上が47%を占める石川県輪島市門前町で行った。当初は地震発生の翌日に被災地に入り、地域連携コーディネーターとして、学生のボランティア支援をどのようなかたちで進めたらよいか調査するのが当初の目的で被災地に入った。そこで見た光景が「震災とメディア」の調査研究をしてみようと思い立った動機となる。震災当日からテレビ系列が大挙して同町に陣取っていた。現場中継のため、倒壊家屋に横付けされた民放テレビ局のSNG(Satellite News Gathering)車をいぶかしげに見ている被災者たちの姿があった。この惨事は全国中継されるが、地域の人たちは視聴できないのではないか。また、半壊の家屋の前で茫然(ぼうぜん)と立ちつくすお年寄り、そしてその半壊の家屋が壊れるシーンを撮影しようと、ひたすら余震を待って身構えるカメラマンのグループがそこにあった。こうしたメディアの行動は、果たして被災者に理解されているのだろうか。それより何より、メディアはこの震災で何か役立っているのだろうか、という素朴な疑問だった。

  被災者へのアンケート内容は、①地震発生時の状況や初期行動、②最も欲しいと思った情報や情報の入手手段、③発生1ヵ月後よく利用する情報源や求める情報内容などで、学生に手伝ってもらい聞き取り調査を行った。

  震災は日曜日の午前9時42分に起きた。能登地方は曇り空だった。震災発生時の居場所は、居間など自宅にいたのは60人で、うち24人がテレビを見ていた。回答者110人の自宅は「全壊」18人、「半壊」19人、「一部損壊」60人で、「被害なし」は10人にすぎなかった。地震直後の初期行動として、屋内にいた36人が「屋外へ避難」した。「テレビをつけた」は4人、「ラジオをつけた」は6人である。つまり、震度6強の激しい揺れの直後、真っ先にメディアに接触を試みた人は1割に満たなかったわけである。

  事実、震災の翌日26日に被災地入りし、何軒かの家の中を見せてもらったところ、一見被害がないように見える家屋でも、中では仏壇やテレビが吹っ飛んでいた。震災直後、さらに続いた余震(26日正午までに190回)の恐怖、そして一瞬の破壊で茫然自失としていた被災者が最初に接した情報源は何だったのか。ヒアリングでも多くの人が指摘したのは「有線放送」だった。同町にケーブルテレビ(CATV)網はなく(注=2006年度整備予定)、同町で有線放送と言えば、スピーカーが内蔵された有線放送電話(地域内の固定電話兼放送設備)のこと。この有線放送電話にはおよそ2900世帯、町の8割の世帯が加入する。利用料は月額1000円の定額で任意加入だ。普段は朝、昼、晩の定時に1日3回、町の広報やイベントの案内が流れる。防災無線と連動していて、緊急時には消防署が火災の発生などを生放送する。この日も、地震の7分後となる午前9時49分に「ただいま津波注意報が発表されています。海岸沿いの人は高台に避難してください」と放送している。街路では防災無線が、家の中では有線放送電話から津波情報が同時に流れた。ここで茫然自失としていた住民が我に返り、近所誘い合って高台の避難場所へと駆け出したのだ。この有線放送電話では、避難所の案内や巡回診療のお知らせなど被災者に必要なお知らせを26日に7回、27日には21回放送している。昭和47年(1972)に敷設が始まった「ローテク」とも言える有線放送電話が今回の震災ではしっかりと「放送インフラ」として役立ったのである。

  震度6強の揺れにもかかわらず、道路が陥没して孤立した一部地区を除き、ほとんどの電話回線は生きていた。なぜか。北陸総合通信局情報通信部の山口浩部長(当時)によると、「本来あのくらいの規模の地震だと火災が発生しても不思議ではない。今回、時間的に朝食がほぼ終わっていたということで火災が発生しなかったために電話線が切れなかった。不幸中の幸いだった」と分析している。この有線放送電話には、一般加入電話や携帯電話のような震災発生時の受発信の規制はなく、安否情報の交換などにフルに利用された。  その後、同町では家屋の損壊あるいは余震から1500人が避難所生活を余儀なくされ、多くの住民は避難所で新聞やテレビやラジオに接触することになる。ここで、注目すべきメディアの活動をいくつか紹介しておきたい。震災の翌日から避難所の入り口には新聞各紙がドッサリと積んであった。新聞社の厚意で届けられたものだが、私が訪れた避難所(公民館)では、避難住民が肩を寄せ合うような状態であり、新聞をゆっくり広げるスペースがあるようには見受けられなかった。そんな中で、聞き取り調査をした住民から「かわら版が役に立った」との声を多く聞いた。  そのかわら版とは、朝日新聞社が避難住民向けに発行した「能登半島地震救援号外」だった。タブロイド判の裏表1枚紙で、文字が大きく行間がゆったりしている。住民が「役に立った」というのは、災害が最も大きかった被災地・輪島のライフライン情報に特化した「ミニコミ紙」だったからだ。

  救援号外の編集長だった同社金沢総局次長の大脇和男記者から発行にいたったいきさつなどについて聞いた。救援号外は、2004年10月の新潟県中越地震で初めて発行したが、当時は文字ばかりの紙面で「無機質で読み難い」との意見もあり、今回はカラー写真を入れた。だが、1号(3月26日付)で掲載された、給水車から水を運ぶおばあさんの顔が下向きで暗かった。「これでは被災者のモチベーションが下がると思い、2号からは笑顔にこだわり、『毎号1笑顔』を編集方針に掲げた」という。さらに、長引く避難所生活では、血行不良で血が固まり、肺の血管に詰まるエコノミークラス症候群に罹りやすいので「生活不活発病」の特集を5号(3月30日付)で組んだ。義援金の芳名などは掲載せず、被災地の現場感覚でつくる新聞を心がけ、ごみ処理や入浴、医療診断の案内など生活情報を掲載した。念のため、「本紙県版の焼き直しを掲載しただけではなかったのか」と質問をしたところ、「その日発表された情報の中から号外編集班(専従2人)が生活情報を集めて、その日の夕方に配った。本紙県版の生活情報は号外の返しだった」という。

  カラーコピー機を搭載した車両を輪島市内に置き、「現地印刷」をした。ピーク時には2000部を発行し、7人から8人の印刷・配達スタッフが手分けして避難所に配った。夕方の作業だった。地震直後、同市内では5500戸で断水した。救援号外は震災翌日の3月26日から毎日夕方に避難所に届けられ、給水のライフラインが回復した4月7日をもって終わる。13号まで続いた「避難所新聞」だった。

  高齢者だけでなく、誰しもが一瞬にして「情報弱者」になるのが震災である。問題はそうした被災者にどう情報をフィードバックしていく仕組みをつくるか、だ。聞き取り調査の中で、同町在住の災害ボランティアコーディネーター、岡本紀雄さん(52)の提案は具体的だった。「テレビメディアは被災地から情報を吸い上げて全国に向けて発信しているが、被災地に向けたフィードバックが少ない。せめて地元の民放などが協力して被災者向けの臨時のFM局ぐらい立ち上げたらどうだろう」「新聞社は協力して避難住民向けのタブロイド判をつくったらどうだろう。決して広くない避難所でタブロイド判は理にかなっている」と。岡本さんは、新潟県中越地震でのボランティア経験が買われ、今回の震災では避難所の「広報担当」としてメディアとかかわってきた一人である。メディア同士はよきライバルであるべきだと思うが、被災地ではよき協力者として共同作業があってもよいと思うが、どうだろう。

  もちろん、報道の使命は被災者への情報のフィードバックだけではないことは承知しているし、災害状況を全国の視聴者に向けて放送することで国や行政を動かし、復興を後押しする意味があることも否定しない。  今回のアンケート調査で最後に「メディアに対する問題点や要望」を聞いているが、いくつかの声を紹介しておきたい。「朝から夕方までヘリコプターが飛び、地震の音と重なり、屋根に上っていて恐怖感を感じた」(54歳・男性)、「震災報道をドラマチックに演出するようなことはやめてほしい」(30歳・男性)、「特にひどい被災状況ばかりを報道し、かえってまわりを心配させている」(32歳・女性)。

  こうした被災者の声は誇張ではなく、感じたままを吐露したものだ。そして、阪神淡路大震災や新潟県中越地震など震災のたびに繰り返されてきた被災者の意見だろうと想像する。最後に、「被災地に取材に入ったら、帰り際の一日ぐらい休暇を取って、救援ボランティアとして被災者と同じ目線で現場で汗を流したらいい」と若い記者やカメラマンのみなさんに勧めたい。被災者の目線はこれまで見えなかった報道の視点として生かされるはずである。

 ⇒17日(月)夜・金沢の天気  あめ

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☆メモる2007年-1-

2007年12月11日 | ⇒トピック往来

 2007年も余すところ20日となった。振り返れば、さまざまな出来事に遭遇した。その折、自分なりに取材し、調査をしてきたことを記す。題して「メモる2007」。

      「FMピッカラ」のメディア魂

  ことし3月25日の能登半島地震で「震災とメディア」の調査をした。その中で、「誰しもが一瞬にして情報弱者になるのが震災であり、電波メディアは被災者に向けてメッセージを送ったのだろうか」「被災地から情報を吸い上げて全国へ発信しているが、被災地に向けたフィードバックがない」と問題提起をした。その後、7月16日に新潟県中越沖地震が起きた。そこには、「情報こそライフライン」と被災者向け情報に徹底し、24時間の生放送を41日間続けた放送メディアがあった。

  中越沖地震でもっとも被害が大きかった新潟県柏崎市を取材に訪れたのは震災から3ヵ月余りたった10月下旬だった。住宅街には倒壊したままの家屋が散見され、駅前の商店街の歩道はあちこちでひずみが残っていて歩きにくい。復旧半ばという印象だった。コミュニティー放送「FMピッカラ」はそうした商店街の一角にある。祝日の午前の静けさを破る震度6強の揺れがあったのは午前10時13分ごろ。その1分45秒後には、「お聞きの放送は76.3メガヘルツ。ただいま大きな揺れを感じましたが、皆さんは大丈夫ですか」と緊急編成に入った。午前11時から始まるレギュラーの生番組の準備していたタイミングだったので立ち上がりは速かった。

  通常のピッカラの生放送は平日およそ9時間だが、緊急編成は24時間の生放送。柏崎市では75ヵ所、およそ6000人が避難所生活を余儀なくされた。このため、市の災害対策本部にスタッフを常駐させ、被災者が当面最も必要とする避難所や炊き出し、仮設の風呂の場所などライフライン情報を中心に4人のパーソナリティーが交代で流し続けた。  コミュニティー局であるがゆえに「被災者のための情報」に徹することができたといえるかもしれない。パーソナリティーで放送部長の船崎幸子さんは「放送は双方向でより深まった」と話す。ピッカラは一方的に行政からの情報を流すのではなく、市民からの声を吸い上げることでより被災者にとって価値のある内容として伝えた。たとえば、水道やガスの復旧が遅れ、夏場だけに洗髪に不自由さを感じた人も多かった。「水を使わないシャンプーはどこに行けばありますか」という被災者からの質問を放送で紹介。すると、リスナーから「○○のお店に行けばあります」などの情報が寄せられた。行政から得られない細やかな情報である。

 また、知人の消息を知りたいと「尋ね人」の電話やメールも寄せられた。放送を通して安否情報や生活情報をリスナー同士がキャッチボールした。市民からの問い合わせや情報はNHKや民放では内容の信憑性などの点から扱いにくいものだ。しかし、船崎さんは「地震発生直後の電話やメールに関しては情報を探す人の切実な気持ちが伝わってきた。それを切り捨てるわけにはいかない」と話す。

  7月24日にはカバーエリアを広げるために臨時災害放送局を申請したため、緊急編成をさらに1ヵ月間延長し8月25日午後6時までとした。応援スタッフのオファーも他のFM局からあったが、4人のパーソナリティーは交代しなかった。「聞き慣れた声が被災者に安心感を与える」(船崎さん)という理由だった。このため、リスナーから「疲れはないの、大丈夫ですか」と気遣うメールが届いたほどだ。

  ピッカラの放送は情報を送るだけに止まらなかった。夜になると、「元気が出る曲」をテーマにリクエストを募集した。その中でリクエストが多かったのが、女性シンガー・ソングライターのKOKIAの「私にできること」だった。実は、東京在住のKOKIAが柏崎在住の女性ファンから届いたメールに応え、震災を乗り越えてほしいとのメッセージを込めて作った曲だった。KOKIAからのメールで音声ファイルを受け取った女性はそれをFMピッカラに持ち込んだ。「つらい時こそ誰かと支えあって…」とやさしく励ますKOKIAの歌は、不安で眠れぬ夜を過ごす多くの被災者を和ませた。そして、ピッカラが放送を通じて呼びかけた、KOKIAによる復興記念コンサート(8月6日)には3千人もの市民が集まった。人々の連携が放送局を介して被災地を勇気づけたのだった。

  ピッカラの災害放送対応を他のコミュニティー放送が真似ようとしても、その時、その場所、その状況が違えば難しい。災害放送はケースバイケースである。ただ、「情報こそライフライン」に徹して、コミュニティー放送の役割を見事に果たした事例としてピッカラは評価されるのである。

 ⇒11日(火)午後・金沢の天気   くもり

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