自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★「Iターンの島」~5

2012年06月20日 | ⇒トピック往来

 島根県海士町は隠岐諸島で水が豊富に湧き出ることで知られる。日本の名水百選にも選ばれた「天川の水」は鉱物臭さを感じさせない口当たりのよい水だった。また、湧水を利用した田んぼがところどころに広がる=写真・上=。ここで獲れた米は隠岐の他の島に「輸出」をしている。

           歴史は長く、懐深い島

 今回この町を訪れてみようと思い立った理由の一つは、かつて新聞記者時代に取材した「輪島市海士町」との歴史的な関連性についての興味だった。輪島の海士町のルーツは360年余り前にさかのぼる。北九州の筑前鐘ヶ崎(玄海町)の海女漁の一族は日本海の磯にアワビ漁に出かけていた。そのうちの一門が加賀藩に土地の拝領を願い出て輪島に定住したのは慶安2年(1649)だった。輪島の海士町の人々が言葉は九州っぽい感じがする。では、隠岐の海士町はどうかと考え、山内道雄町長にちょっとしたインタビューを試みた。

 戦後、金沢大学の言語学者が玄海町鐘ヶ崎と輪島市海士町の言葉を聞き取り、共通するものをピックアップしている。代表的なものは、「ネズム(つねる)」「クルブク(うつむく)、「フトイ(大きい)」「ヨタキ(夜の漁)」「ワドモ(あなたたち)」「エゲ(魚の小骨)」などだ。この7つの単語を筆者が発音して、74歳の山内町長に聴いてもらった。反応したのはフトイとヨタキの2つだけだった。また、町長や視察に応対してくれた町職員、民宿のおばさんたちの言葉を聞いた限りでは、イントネーションなど輪島市海士町に比べ随分と表現が柔らかく類似性は感じられなかった。また、漁労の歴史の中で女性が潜る海女漁も「大昔はあったかもしれないが、親たちからも聞いたことはない」という。

 海士町のホームページによると、隠岐諸島は「隠岐国海部(あま)郡三郷」と呼ばれ、平城京跡から「干しアワビ」等が献上されていたことを示す木簡が発掘されるなど、古くから海産物の宝庫として「御食(みけ)つ國」として知られていた。1221年には承久の乱を起こし幕府に完敗した後鳥羽上皇は隠岐・海部郡に流刑となり、亡くなるまで17年間暮らした。江戸時代は松江藩の支配下となり、海士村、豊田村、崎村、宇津賀村、知々井村、福井村、太井村に分かれていたが、1904年に合併して海士郡海士村となった。こうして見ると、「海士」の地名はもともと「海部」から起きていて、歴史性がある。輪島の海士町は江戸時代の漁労集団がそのまま地名になった感がある。歴史の尺度に違いがあり、ルーツを云々するということには無理があると気がついた。

 山内町長の講演の後、午後からは同町産業創出課の大江和彦課長のガイドで島めぐりをした。印象的だったのはカズラ島=写真・下=。同町の大部分を占める中ノ島の200㍍沖にある無人島(10㌃)だが、「散骨の島」として知られる。10年ほど前、東京の葬祭会社の社員旅行がきっかけで、話が進んだ。隠岐諸島にある180の無人島のうち、所有権がはっきりしていて、地主と連絡が取れる島は少ない。カズラ島は所有者がいて、葬儀会社は島を購入できた。風評被害を恐れる町議会などに対して事前説明を行うなどして散骨事業を始めた。散骨を行うのは、一年のうち5月と9月の2回。それ以外は上陸せず、弔いに訪れた遺族は中ノ島の慰霊所から、島を眺めて合掌するのだという。葬送のスタイルは変化している。当時反対論もあったが、山内町長は「これも島に来てくれた人との親戚づきあい」と町議会を説得した(大江課長)。Iターン者も亡き人も弔い人も受け入れる島、それが海士町なのだ。

⇒20日(水)夜・金沢の天気    はれ

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☆「Iターンの島」~4

2012年06月14日 | ⇒トピック往来

(「Iターンの島」~3からの続き、山内道雄・海士町長の講演から) ブランド化はユーザーや消費者の評価を通しての言葉だ。日本で一番きびしい評価を通りくぐらなければブランドにならない。それは東京の市場だ。隠岐牛を平成18年3月に初めて3頭を出荷した。このとき全て高品位のA5に格付けされ、肉質は松阪牛並の評価を受けた。ことし3月までに742頭を東京に出荷したが、A5の格付率は52%だ。リーマン・ショック(2008年9月)以降は、高級牛の価格は下がったが、それでもこれまで枝肉最高値1㌔当たり4205円、これは店頭値で3万円もする。枝肉の平均価格でも2169円。これを一頭当りで換算すると91万円となる。

       「ないものはない」、時代のトップランナー

 隠岐牛は、隠岐固有の黒毛和種で古くから島中で放牧されている。傾斜のきつい崖地を移動しながら育つので足腰が強く骨格と胃袋が丈夫。また、海からの潮風が年中吹くため、放牧地の牧草にはミネラル分が多く含まれ、美味しい肉質に仕上がる。ところが、隠岐ではこれまで子牛のみが生産され、すべて本土の肥育業者が購入し、神戸牛や松阪牛となって市場に出ていた。そこで、島の建設業らが一念発起してこの素質の良い隠岐牛を繁殖から肥育まで一貫して生産販売することで、ブランド力を高め、雇用の場を創出しようと新規参入した。こうした地域の取り組みに共感して、隠岐牛の担い手になりたいと都会からIターンの3家族(20~40代)が移住している。

 また、岩ガキ養殖を始めたいと都会からIターン者が7人が移住してきた。岩ガキはこれまで、離島であるがゆえに輸送時間による鮮度落ちが理由で価格は低く、島の自家消費でしかなかった。そこで、あるIターン者が取引単価の高い築地市場への岩ガキを出荷を試み、完壁なトレーサピリティを売りに信用を得た。さらに、直販も手がけ、オイスターバーへの売り込みや消費者への直接販売を積極的に行っている。直接販売ができるようになったのは、CAS(キャス)と呼ぶ特殊冷凍システムを導入したことがきっかけだった。細胞を壊さずに凍結できるため、解凍後に獲れたての鮮度と美味さが失われない。CASとはCells Alive System、細胞が生きているという意味だ。これを5億円かけ施設をつくった。CAS導入の意義は、離島の流通ハンディキャップを克服すること、島から高付加価値商品を生み出し、第1次産業の復活と後継者育成につなげるためだ。全国自治体の中で、いち早く導入したと自負している。これで岩ガキの出荷をこれまでの25万個から50万個に、また岩ガキだけでなく、旬感凍結「活いか」といった加工商品など続々と誕生している。

 移住者が生み出した商品で面白いのは「さざえカレー」だろう。海士町では商品開発研修生を平成10年度より募集している。「よそ者」の発想と視点で、特産品開発やコミュニティづくりにいたるまで、島にある全ての宝の山(地域資源)にスポットをあて、商品化に挑戦する「島の助っ人」的な存在でもある。これまで18人が参加し、7人が島に定住した。そのうちの一人が考案したヒット商品が「さざえカレー」だ。島では普通に肉の替わりにサザエを入れてカレーにして食べていた。商品価値があることすら気づかなかったものが、外の目から見れば驚きとともに新鮮な魅力として映る、そして商品化するよい見本となった。

 教育そのものをブランド化したいと取り組んでいる。海士町にある島根県立隠岐島前高校は、島前3町村で唯一の高校。少子化の影響を受け、約10年間で入学者数が77人(平成9年)から28人(平成20年)に激減した。全学年1クラスになり、統廃合の危機が迫っていた。高校がなくなると、島の子どもは15歳で島外に出ざる得なくなる。その仕送りの金銭的負担は子ども1人につき3年間で450万円程度となる。しかも、それで卒業後に流出すれば、人口は増々減少する。高校の存続はイコール、島の存続に直結する。そこで、「ピンチを変革と飛躍へのチャンス」ととらえ、平成20年から全国からも生徒が集まる魅力的な高校づくりを目指した。

 この高校には町の職員4人を派遣している。実践的なまちづくりや商品開発などを通して地域づくりを担うリーダー育成を目指す「地域創造コース」と、少人数指導で難関大学にも進学できる「特別進学コース」がある。生徒が企画した地域活性に向けた観光プラン「ヒトツナキ」が観光甲子園でグランブリを受賞した。学校連携型の公営塾「隠岐国学習センター」を平成22年に創設し、従来の塾の枠を超えた高校との連携により、学習意欲を高め、学力に加え社会人基礎力も鍛える独自のプログラムも展開している。特徴的なのは、全国から意欲ある生徒の募集に向け、寮費食費の補助などの「島留学」制度を平成22年から新設し、意欲ある高校生が集まることで、小規模校の課題である固定化された人間関係と価値観の同質化を打破したい、これによって刺激と切嵯琢磨を生み出すことを目指した。この財源には、町職員の給与カット(縮減)分を充てている。この取り組みで平成20年度27人だった入学者は、関東や関西などから応募者があり、今年度は59人となった。

 四次海士町総合振興計画「島の幸福論」が2010年度グッドデザイン賞を受賞した。その基本は、人(健康)、自然(環境)、生活(文化)に配慮した持続可能な社会づくり。ひとことで言えば、この島に生まれてよかったと死に際にふと想うことの幸せを実現することである。そのために、自治体は何をしなけらばならないのか。小規模町村こそ自治の担い手であり、それは地方分権でなく「地方が主役」である。地方の元気が国の元気にと考えている。「民から官へ」の意気込みが必要で、経済規模の小さな地域では民の仕事を官がやるぐらいの意気込みが大切だ。

 超少子高齢化が著しく、財政危機など海士町には、いま地方が抱える問題が凝縮されている。しかし、それは近い将来、島国日本が直面する問題を海士町が先取りしているということであり、日本の新しい道を最先端で切り拓いているトップランナーの姿なのです。このように見て感じてもらえば分かりやすい。最後に、島のキャッチフレーズは「ないものはない」としている。2つの意味がある。「ない」から創造する、仕事がないなら創る。もう一つは、「ないものはない」、つまりすべてあるという意味だ。人に本来必要な資源である自然と環境、生活と文化の要件はすべてある。だから、離島で人々はたくましく悠久の歴史を育んでこられたのだ。

⇒14日(木)夜・金沢の天気  はれ

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★「Iターンの島」~3

2012年06月10日 | ⇒トピック往来
 日本海の島根半島沖合約60kmに浮かぶ隠岐諸島の四つの有人島の一つ、中ノ島を「海士町」といい1島1町の小さな島(面積33k㎡、周囲89km)である。本土からの交通は、高速船かフェリーで2~3時間かかり、冬場は季節風が強く吹き荒れ、欠航して孤島化することも珍しくなく、離島のハンデキャップは大きい。戦後間もなくの昭和25年(1950)ごろの統計では約7000人近くいた人口も平成22年10月の国勢調査では2374人に減少し、世帯数は1052となった。65歳以上の高齢化率38%となっている。さらに、国の離島振興法などの政策によって公共事業が行われ、道路や漁港などの社会資本は整備されたものの、その体力以上に地方債が膨らみ、ピーク時の平成13年(2001)度には101億円に上った。そのような過疎に島に転機が訪れたのは平成14年5月の町長選挙だった。

         過疎の島の「選択」と町長の「決断」

 それまでの「地縁血縁の選挙」だった島の町長選挙に、町議2期をつとめた山内道雄氏が大胆な行政改革を訴えて当選した。山内氏は元NTT社員。電電公社からNTTに変革したときの経験を活かし、「役場は住民のためのサービス総合株式社である」と町職員の意識改革を迫った。意識を変えるために年功序列を廃止して適材適所、組織を現場主義へと再編していく。その延長線上に「Iターンの島」がある。視察3日目(6月10日)、その山内町長が「離島発!地域再生への挑戦~最後尾から最先端へ~」と題して講演した。74歳、話す言葉が理詰めで聞きやすい。以下、講演を要約する。

                  ◇

 平成の「大合併の嵐」が吹く中で、隠岐の島々の合併話が持ち上がったが、そのメリットが活かされないと判断し、単独町制を決断した。「自分たちの島は自ら守り、島の未来は自ら築く」という住民や職員の地域への気概と誇りが、自立への道だと思ったからだ。それは自治の原点でもある。、その直後に小泉内閣の「三位一体の改革」があり、地方交付税の大幅な削減は、島の存続さえも危うくした。当時のシュミレーションでは平成20年に「財政再建団体」への転落が予想された。そこで住民代表と議会、行政が町の生き残りをかけて平成16年3月に「海士町自立促進プラン」を策定した。そのとき、自ら身を削らないと改革は支持されないと思い、自ら給与50%のカットを申し出た。すると、助役、教育長、議会、管理職に始まり、職員組合からも給与の自主減額を申し出て、私は町長室で男泣きした。カット分の一部は具体的に見える施策に活かそうと「すこやか子育て支援条例」をつくり、第3子50万円、4子以上100万円の祝い金やIターン者が出産のため里帰りする旅費など充てている。

 93人(平成10年度)いた町職員を68人(同19年度)に、、時間外手当の縮減、組織のスリム化とフラット化(連携の強化)で現場主義、課長・係長の推薦制と年功序列の廃止、収入役ポストの廃止、町長公用車の廃車、経営会議の設置と定例化(毎週木曜17時15分から)と打てる手は打った。すると、住民の目も変わった。老人クラブからバス料金の値上げや補助金の返上や、ちょっとした清掃や施設の修繕などは住民が「役場も頑張っているから」と自分たちでするケースが増えてきた。町民と危機感の共有化できるようなった。こうした積み重ねで、101億円あった地方債は現在70億円近くまで減り、財政事情は確実に改善に向かっている。

 身を削りながらも、「攻め」の戦略に打って出た。攻めとは地域資源を活かし、島に産業を創り、雇用の場を増やし、外貨を獲得して、島を活性化することである。成長戦略を島の外に求めることにした。そのため、部局の職員を減らし、その分を産業振興と定住対策のセクションに重点シフトすることにし、攻めの実行部隊となる産業3課を設置した。観光と定住対策を担う「交流促進課」、第1次産業の振興を図る「地産地商課」、新たな産業の創出を考える「産業創出課」である。「ヒントは常に現場にある、現場でしか知れないことを見落とすな」と職員に言っているがそれを実行した。この3課を町の玄関口である菱浦港のターミナル「キンニャモニャセンター」に置いた。港は情報発信基地でもあり、アンテナショップだ。

 その産業振興のキーワードを「海」「潮風」「塩」の三本柱にして、地域資源を有効活用しする。平成16年の再生計画で「海士デパートメントストア・プラン」をつくり、島全体をデパートに見立て、島の味覚や魅力を発信する島のブランド化を全面に打ち出した。そのメーンターゲットはハードルが高く厳しい評価が下される東京で認められなければブランドにならないという考えから、最初から東京に置いた。東京で認められなけらばブランドではない、ブランドとしての発信力もないと考えたからだ。(次回に続く)

⇒10日(日)夜・隠岐海士町の天気  はれ
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☆「Iターンの島」~2

2012年06月09日 | ⇒トピック往来

 9日朝、ときおり小雨が降る梅雨空。七類(しちるい)港を午前9時30分発のフェリー「くにが」(2375㌧)に乗り込んだ。フェリー乗り場は釣り客などでにぎわっていた。壁には「『竹島』かえれ島と海」と書かれた看板が掲げられていた。「竹島の領土権の確立と漁業の安全操業の確保を」と記された島根県の看板だ。

 竹島は隠岐諸島から北西157㌔の島。1905年(明治38年)1月、竹島は行政区画では「島根県隠岐郡隠岐の島町竹島官有無番地」として正式に日本の領土となった。戦後、韓国は日本が放棄する地域に竹島を入れるようにと連合国に要求したが拒否された。が、日本領として残されることを決定したサンフランシスコ講和条約発効直前の1952年(昭和27年)1月、韓国の李承晩は「李承晩ライン」を一方的に設定して竹島を占領した。1965年(昭和40年)の日韓基本条約締結まで、韓国はこのラインを越えたことを理由に日本漁船328隻が拿捕、日本人44人が殺傷したとされる。また、海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび16隻が攻撃された。2011年現在韓国が武力によって占有しているため、日本との間で領土問題が起きている。なんとも理不尽な話だ。

         よそ者、ばか者、若者が島を変える

 午後0時40分ごろ、フェリーは海士町の菱浦港に着いた。後ろから降りてきた中年女性が「エーゲ海の島みたいね」とつぶやいたのが聞こえた。自分自身は旅行パンフレットでしか見たことがないのだが、確かにエーゲ海のように入り組んだ島々が点在するイメージだ。ギリシャのイオニア諸島に生まれ、1890年代、島根県の松江師範学校に英語教師として赴任した、後の紀行文作家、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)もこの菱浦を訪れ8日間滞在した。生まれた育ったエーゲ海の島々の思い出を重ねたのか、「ここに家を建てたい」と言っていたようだ(「小泉八雲隠岐来島120周年記念企画展」パンフ)。菱浦の道路沿いにある八雲とその日本人妻・セツの座像が海を眺めている。

 視察の目的の本論に入る。なぜ海士町が注目されているのか。2300人の小さな島にこの7年間で310人も移住者(Iターン)が来ているのだ。この島は水が湧き、米が採れ、魚介類も豊富で暮らしやすい。でも、そのような地域は日本でほかにもある。なぜ海士町なのか、それを考えるワークショップが午後2時から海士町中央公民館で開かれた。参加者は今回の視察ツアーを企画した島根大学名誉教授の保母武彦氏、一橋大学教授の寺西俊一氏、国連大学高等研究所、静岡大学、大阪大学、自治体など40人余り。町側は山内道雄町長ほか若き移住者ら5人が集った。事例報告したのはその移住者の一人で、ソニーで人材育成事業に携わった経験がある岩本悠氏。「学校魅力化による地域魅力化への挑戦」と題して、少子化の影響を受け、統廃合の危機が迫る地域の県立島前(どうぜん)高校をテコに、「子育ての島・人づくりの島」へと教育ブランドへと盛り上げてきたプロセスを詳細に語った。「ピンチは変革と飛躍のチャンス」ととらえ、県立高校に町がかかわり、ときに対立しながらも一体となって高校改革を進めていく。そのコンセプトを地域創造に。生徒たちは、地域を元気にする観光プランを競う「観光甲子園」にエントリーしてグランプリを獲得した。この島では、農水産物だけでなく教育まで魅力あるもに発信する。そして全国から高校生が集まり、島の生徒と合わせ60人、2クラスになった。その「島前高校魅力化プロデューサー」が岩本氏だ。

 そのほかにも、元新聞記者で島で広報を担当する岡本真里栄氏、「発地型」の観光を推進する青山敦士氏、乾燥なまこを中国に売り込む宮崎雅也氏、地域塾を主宰する豊田庄吾氏がパネル討論を展開した。この話を聴くと、いかに島に新たなアイデアと若いエネルギーが吹き込まれているか実感できた。その中で、「よそ者、ばか者、若者がこの島を変える」とのたとえが出た。つまり、よそ者=客観性、ばか者=専門性、若者=エネルギーが島を変えるのだ。では、彼らを移住へと導いたのはだれか。町役場の担当職員や、ダメ押しで山内町長らが懸命に口説いて、彼らをケアしてきた裏舞台も見えてきた。Iターン者270人それぞれに移住のドラマがある。「海士町では昼は魚を釣り、夜は人を釣る」。岡本氏がそう述べて参加者の笑いを誘った。また、移住者がその土地で成功する秘訣について、豊田氏は「一つには自分自身を主張し過ぎないこと、地域の文化をリスペクト(尊敬)すること」と。地に足のついた言葉だった。

9日(土)夜・隠岐海士町の天気 はれ

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★「Iターンの島」~1

2012年06月08日 | ⇒トピック往来

 島根県松江市に来ている。初めて山陰地方に足を運んだ。一度訪ねたいと思っていた地域だった。8日夜は、金沢から京都駅、新幹線で岡山駅と乗り継いで、松江駅に到着したのは夜11時ごろだった。きょうから梅雨入りで、どんよりと曇っている。なぜ、北陸から山陰にやってきたのか。視察である。「場の学び」にやってきたのは松江ではない。松江は通過地点で、さらにこれから船で隠岐島・海士町(あまちょう)=写真・上=を目指す。

        いざ、隠岐の海士町へ    

 金沢大学と石川県立大学、金沢星稜大学、石川県、能登の2市2町(輪島市、珠洲市、穴水町、能登町)で構成してる「能登キャンパス構想推進協議会」の事業の一環として、共同調査事業を行っている。大学と地域が知恵を出し合って、どのように地域づくりや活性化を目指せばよいのか、そんなテーマで自治体とともに調査研究を行っているのだ。今回は、島根県隠岐郡の町、海士町(あまちょう)を目指してやってきた。隠岐諸島の島前三島のひとつ・中ノ島に位置する。面積33.5平方キロ、世帯数1100、人口2300人ほどの町だ。人口は1950年代に7000人ほどだったが、今ではその3分の1ほどまで減少した典型的な過疎地域だ。この島の小さな町が全国から地域おこしの町として注目されているのだ。

  「海士ブランド」と呼ばれる、地域でつくった品々である=写真・下=。「さざえカレー」、「隠岐牛」、CAS凍結商品「島風便」、「海士乃塩」、「ふくぎ茶」など島づくりで全国に売り出す。これまでの農産物や海産物を本土に送るだけでなく、加工して流通ルートに乗せる、そんな「6次化」産品に乗り出し、成功を収めている町なのだ。そして、都会からの若者たち移住者(Iターン)も増えている。

 個人的な興味もある。もう25年前にもなるが、新聞記者時代に能登半島の輪島市の海士町(あままち)を2年間かけて取材した。連載した記事は後に『能登 舳倉の海びと』(北國新聞社編集局編)のタイトルで一冊の本にまとめられた(執筆分担)。その経験から、「海士町」という文字には反応する。今回の調査ための視察は即決だった。

 輪島の海士町のルーツは360年余り前にさかのぼる。北九州の筑前鐘ヶ崎(玄海町)の海女漁の一族は日本海の磯にアワビ漁に出かけていた。そのうちの一門が加賀藩に土地の拝領を願い出て輪島に定住したのは慶安2年(1649)だった。確かに、海士町の人々が言葉は九州っぽい感じがする。では、隠岐の海士町との関連性はと考えると興味深いのだ。

 今回は11日までの3泊4日の学びの旅。題して、「Iターンの島」と題してルポする。

⇒8日(金)夜・松江市の天気   あめ


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