自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★MRJが能登空港に

2016年10月16日 | ⇒ニュース走査
   先日(14日)、能登空港ターミナルビル(輪島市)に会議で出向くと、ビルの3階の展望台が人だかりになっていた。野次馬根性でその人の群れに分け入ると、見えたのが、あの「MRJ」だった=写真=。前日(13日)に予定外で能登空港に急きょ着陸したと空港のスタッフが話していた。スリムでシャープな姿立ちの機体だ。まるで、鳥のハヤブサのような安定感がある機体だと感じた。

   MRJと言えば、半世紀ぶりの国産旅客機として三菱航空機が開発を進めている。これまで5機の試作機が製造されている。能登空港に着陸したのは2号機で、国内での飛行試験を行うため、13日に愛知県の県営名古屋空港を離陸し、日本海上空を経て、同日名古屋空港に戻ることになっていた。では、なぜ能登空港に。

   以下、地元石川のメディアが能登空港管理事務所の説明として着陸の経緯を伝えている。13日午後4時前、三菱航空機から「MRJ2号機に不具合があるため着陸し点検したい」と連絡がった。その15分後の着陸、つまり「緊急着陸」だった。その後、空港では点検作業が行われていて、離陸の予定はまだ立っていないという。着陸の理由について三菱航空機側は「確認したいことがあったため着陸した。飛行試験中なので、トラブルの1つ1つについてコメントはしない」「機体は開発中のため確認すべき事項が多い。今回の着陸は開発計画にも影響しない」と話している、とか。

   確かに、事故による緊急な着陸でもなく、またそれによって定期便の発着が遅れたわけでもないので、いちいち着陸の理由をコメントする必要はないのかもしれない。ただ、MRJはこの8月、1号機がアメリカでの本格的な飛行試験を実施するために出発しようとしたが、機体の不具合で何度か延期されたことは記憶に新しい。素人の想像だが、事故が起きることを極端に恐れているのだろう。航空機メーカーとして、慎重に慎重を重ねている姿勢がそこに見える。
 
  間近に機体を眺めていて、素朴な発露だが、今後MRJが試験飛行を無事に終え、国産ジェットとして世界の空を飛んでほしい、今度は定期便として能登空港に来てほしいと思った。

⇒16日(日)朝・金沢の天気    くもり  

   
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☆クマモトを訪ねる-下

2016年10月09日 | ⇒トピック往来

   熊本を訪れた8日、現地では大変なことが起きていた。午前1時46分ごろ、阿蘇山の中岳で大噴火があった。このことを知ったのはJR「サンダーバード」車内の電光ニュース速報だった。阿蘇山では36年ぶりの「爆発的噴火」だという。噴煙は高さ1万1千㍍まで上がり、広範囲に噴石が飛び散っているという。熊本市内でも灰は降っているのだろうか、そんなことを思いながら熊本に向かった。

   熊本に着いて、熊本城の被災状況を見た後、チャーターしたタクシー運転手に「阿蘇山まで行って」と頼んだ。すると運転手は「ここから50㌔ほどですが、おそらく行っても、帰る時間は保障できない」と言う。聞けば、熊本市内と阿蘇を結ぶ国道57号が4月の地震で寸断されていて、迂回路(片側1車線、13㌔)は慢性的な交通渋滞になっている。さらに、今回の噴火で渋滞に拍車がかかっている、という。プロの運転手にそこまで言われると、無理強いもできない。「それでは益城(ましき)町へ行ってほしい」と方針を変えたのだった。

   ともとも益城町へ行く予定だった。4月14日の前震、16日の本震で2度も震度7の揺れに見舞われた。今はほとんど報道されなくなったが、現状を見て愕然とした。新興住宅が建ち並ぶ中心部と、昔ながらの集落からなる農村部があり、3万3千人の町全体で5千棟の建物が全半壊した。実際に行ってみると街のあちこちにブルーシートで覆われた家屋や、傾いたままの家屋、解体中の建物があちこちにあった。印象として復旧半ばなのだ。

   とくに被害が大きかった県道沿いの木山地区では、道路添いにも倒壊家屋があちこちにあり、痛々しい街の様子が。タクシー運転手は「先日の新聞でも、公費による損壊家屋の解体はまだ2割程度しか進んでいないようですよ」と。そして農村部では倒壊した家の横にプレハブ小屋を建てて「仮設住宅」で暮らしている農家もある。益城ではスイカ、トマトなどが名産で、被災農家は簡単に自宅を離れられないという事情も想像がつく。

   またまた8日付の地元紙、熊本日日新聞を購入して広げると、「益城町の復興計画骨子案」が一面で掲載されていた。市街地の北側に新たに「住宅エリア」を、熊本空港南側には新たな「産業集積拠点」などを設けるとしている。骨子案は12月に取りまとめ、県や国にも説明してその後3月議会で採択、それから土地の買収交渉などの長い道のりが想定される。

噴火と震災のクマモト。言葉で「復興」「復旧」「再生」は簡単だが、それを実施する行政的な手続き、復興政策の策定には時間がかかる。時間と戦いながら丁寧な行政手続きを進める、日本型の復興モデルになってほしいと心から願った。

⇒9日(日)午後・熊本の天気   はれ
   

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★クマモトを訪ねる-上

2016年10月08日 | ⇒トピック往来

    ことし4月16日の本震で震度7の揺れに2度も見舞われた熊本。その後も震度4以上の余震が115回も起きている。震災から6ヵ月後となるきょう8日、熊本市、そして隣接する益城町の被災現場を訪ねた。

    金沢から熊本へは、JRの「サンダーバード」で新大阪へ。新大阪から山陽新幹線で博多へ。さらに博多から九州新幹線に乗り継ぎ、熊本に到着した。朝8時すぎに金沢駅を出発したので、かかった時間は6時間ほどだ。被災地を訪ねるの目的の旅だが、熊本駅に到着すると出迎えてくれるのが、あの「超」有名な「ゆるキャラ」の「くまモン」だった。くもモン駅長室などこれでもかとあのゆるキャラが存在感を見せつけている。ここまでくると、おかしくて滑稽な感じがして、心が緩む。2011年3月の九州新幹線全線開業をきっかけに誕生して、5年間、知名度で言えば、ジャーニーズ事務所のタレントを凌ぐかもしれない。駅近くのホテルにチェックインしたが、部屋に入ってびっくり、大小のくまモンの縫いぐるみがベッドの上やソファに10個もある。これには、「参った」。

    大粒の雨が降って来たので、タクシーをチャーターして熊本城に向かった。雨にもかかわらず「熊本城坪井川園遊会 秋の宴」というイベントの真っ最中で大勢の人が集まっていた。女の子たちが扮する花魁(おいらん)道中やフラダンスのイベントもあり、華やかな雰囲気だ。そんな中、ちょっと気が引けたが、ボランティアの女性に「被災した熊本城でかろうじて残った縦一列の石垣で支えらた城はどこから見えますか」と尋ねた。すると、「湧々座(わくわくざ)の2階からだったら見えますよ」と丁寧にも施設に案内までしてくれた。石垣が崩れるなど恐れからいまも城の大部分は立ち入り禁止区域になっている。

    2度の震度7の揺れで石垣が崩れるなどの大きな被害を受けた熊本城。かろうじて「一本足の石垣」で支えられた城跡は「飯田丸五階櫓(やぐら)」と呼ばれている名所。応急工事が施されていた。ボランティアの女性の説明によると、高さ10㍍の「コ」の字形の鉄骨の架台で櫓を支え、一本足の石垣の倒壊を防いでいるのだという。熊本城の周囲をぐるりと一周したが、飯田丸五階櫓だけでなく、あちこちの石垣が崩れ、櫓がいまにも崩れそうになっている。

    ふと思った。これが金沢城だったらどうか。おそらく、「金沢城が復旧するまで」と一切のイベントなどは実施されないかもしれない、と。でも、熊本の人々の心根は強い。「あたがたどこさ 肥後さ 肥後どこさ 熊本さ 熊本どこさ・・・」、「おてもやぁ~ん あんたこの頃 嫁入りしたではないかいな~」。復興途中でありながらも逆境にめげず、踊り歌う地域性がむしろ感動を呼び起こす。くまモン、そして駅前にある「おてもやん」の少女像。クマモトらしいと感じた。

⇒8日(土)夜・熊本市の天気   あめ

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☆いざ、鎌倉-下

2016年10月03日 | ⇒トピック往来
  3日目に拝観に訪れたのは、鎌倉の大仏さん。小学校の教科書の写真などで幼少よりなじみのあるポーズだが、こうして実際に観るのは初めて。青い空、周囲の樹木と映え、ここに座して760年余り、古都鎌倉のシンボル的な仏教美術、国宝でもある。パンフなどによると、完成当時は全身に金箔が施され、大仏殿に安置されていた。ところが、大仏殿は2度の台風で損壊し、露座の大仏になったとされる。地域の災害の歴史を刻んだ歴史があり、含蓄のあるお姿と察した。

  大仏の裏側にまわると、「胎内拝観」という文字が目に入ってきた。鎌倉の大仏は中に入れるようになっている。拝観料はわずか20円。内部を見ると、鋳造の木枠の跡が見えるが、よく解らない。首の部分を見ると強化プラスチックのようなものが重ね貼りされていて、頭を支える部分が補強されていることがうかがえた。歴史ある鎌倉の大仏となれば、なおさら補強が必要なのだろう。かつては金色に輝いていたであろう大仏は青銅製、現在は酸性雨などの影響で変色しつつあり、メンテナンスが大変であることは想像に難くない。

  鎌倉文学館を訪れた。夏目漱石や川端康成など鎌倉にゆかりのある文豪や文学者に関する原稿など資料を収集・展示している。万葉集や平家物語などの当地にまつわる古典作品も紹介している。

  本館は、旧前田侯爵家の鎌倉別邸(本邸は東京・駒場)だった。加賀・前田家15代、16代の2代にわたる当主が建てた、と説明書きにある。完成したのは昭和11年、レトロな格調をそのままに残した洋館。国の登録有形文化財にも指定されている。内部は、アールデコ様式が随所に見られ、大理石の玄関や暖炉、飾り窓の装飾とステンドグラスが建物の重厚さを伝えている。真ちゅうの緻密な細工を施した照明器具が妙に部屋とマッチしている。文学資料よりも洋館の造りに見とれてしまった。

  本館を出て歩くと、芭蕉の句碑が目に止まった。「鎌倉は生きて出にけん初松魚」。初松魚は「はつがつお(初鰹)」のこと。江戸時代、鎌倉はカツオの産地として知られ、鎌倉でとれたカツオは早船で江戸に送られたという。魚河岸の初ガツオ、鎌倉ではピチピチしていたんだろうな、と。芭蕉は案外食通だったに違いない。

⇒3日(月)朝・金沢の天気  くもり
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★いざ、鎌倉‐中

2016年10月02日 | ⇒トピック往来
  鎌倉市の中心と言えば、鶴岡八幡宮あたりか。駅前から参道がまっすぐ伸びる。その長さは500㍍。1180年、鎌倉入りを果たした源頼朝は、先祖が創建した由比若宮を遷座して、鶴岡八幡宮を中心とした街づくりを始めたと言われる。参道を歩く。左右に老舗の商店や銀行などが並び、頼朝がプランニングした通りに、街の中心と実感できる。

  鶴岡八幡宮の入り口の旗上弁財天社前で観光ガイド氏が面白いことを説明してくれた。「鶴岡八幡宮の境内には白ハトがいます。白ハトは樹木の上にとまり、黒いドバトは地べたにいるのです」と。観察すると樹木に白ハトが数羽とまっていた。さらにガイド氏は「八幡宮の額の八の字は、神聖な神の使いとされる二羽の白ハトをかたどっています」と。確かに、本宮手前の楼門の額の「八幡宮」の八の字はハトをシンボリックに描いたものだった。参道沿いに鳩サブレーで有名な豊島屋の本社がある。そうか、鳩サブレーの原点は鶴岡八幡宮だったのかと合点がいった。

  鶴岡八幡宮で有名な樹木と言えば大銀杏(おおいちょう)だろう。1219年、鎌倉幕府三代将軍の実朝が僧侶に暗殺された際、僧侶が潜んでいた場所が大銀杏の木陰で、後に「隠れ銀杏」と呼ばれた。そのくらいの知識はどこかで得ていた。ところが実際に訪れて驚いた。その大銀杏は2010年の強風で倒れ、現在は根元を残して切られていた。かつて根回り6.8㍍、高さ30㍍、樹齢千年と言われた八幡宮のシンボルだった。倒れた大銀杏の根元は傍に移され、銀杏の若木が元の地で植栽されていた。銀杏版の式年遷宮と考えればその意義は大きい。この若木が鶴岡八幡宮のさらなる何百年の未来と共にするのだ。

  鶴岡八幡宮から歩いて15分ほど。参道から本堂前までシロバナハギが咲く宝戒寺に赴いた。「萩の寺」として知られている。赤い彼岸花も咲いている。周囲を街を見渡すと、黄色いキンモクセイもいたるところに咲いている。鎌倉は花のにおう街なのだと感じ入った。

  鎌倉で一番の古刹、杉本寺を訪ねた。鎌倉幕府が開かれる500年近くも前の平安初期の734年に創建された。仁王門を抜けるとコケむした石階があった。すり減った石段は長い年月をかけて多くの参拝者が訪れたことを物語っているかのようだ。本堂の屋根は茅葺(かやぶき)で風情がある。訪れたとき、毎月1日の護摩供(ごまく)が営まれていた。

  土曜日ということもあり、参拝者が多く訪れていた。見渡すと、若い女性が目立つ。護摩供が終わり、女性たちは御朱印帳を購入している。「御朱印ガール」たちだ。 御朱印は、寺や神社に 参拝したあかしとしてもらう押印のこと。「鎌倉三十三観音巡り」の一番札所が杉本寺なのだ。

⇒2日(日)朝・鎌倉の天気   はれ
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☆いざ、鎌倉-上

2016年10月01日 | ⇒トピック往来
    一度ゆっくり散策したみたいと思っていた場が鎌倉だった。その思いが叶った。9月30日正午すぎにJR横須賀線鎌倉駅東口に降り立った。駅前には有名なハンバーグ店などありにぎわっているが、これがあの「古都・鎌倉」かと少々拍子抜けした。ただ、後ろを振り返ると、駅舎が屋敷風の形状でその存在感を強調しているようにも思えた。

    駅前の広場を抜け大通りに出ると、鶴岡八幡宮の裏参道がまっすぐ伸びていた。鶴岡八幡宮は後で行くことにして、タクシーで報国寺に向かった。禅宗のこの寺は1334年にこの地で開山された。境内の本堂裏には「竹の庭」があり「竹の寺」とも称される。竹はモウソウ竹で上にまっすぐ伸びている。あいにくの曇り空だったが、これが青空だったら日が差し込む光景は格別かもしれない。逆にしっとり雨が降っても場は和むかもしれないと思ったりもした。

    この竹林を眺めながら、茶席「休耕庵(きゅうこうあん)」で抹茶(薄茶)をいただいた。「いざ鎌倉」という言葉がある。功名手柄をたてたいと、どれほどの武士(もののふ)たちがこの鎌倉の地に馳せ参じたことだろうか。新田義貞による鎌倉攻め(1333年)、多くの武士たちが「いざ鎌倉」と戦い散っていった。その翌年に開山された報国寺の境内にも当時の供養塔が多くあった。耳を澄ますと、竹林を通り抜ける風の音がサラサラと。その切ない音に、武運なく散っていった武士たちの魂の行き交いを感じたのは私だけだろうか。

    それにしても、境内には苔(こけ)が清く整えられ、気持ちが良い。報国寺は観光地の格付けを行うミシュランで三ツ星を獲得している。インバウンド(海外観光客)が境内に目立った。

   次に「鎌倉市雪ノ下」という地名に、鎌倉投信株式会社を訪ねた。昨年5月にNHK番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」にファンドマネージャーとした出演した新井和宏氏(同社資産運用部長)に会うためだ。実は昨年8月に金沢大学で講演会があり、その折、あいさつをさせていただいた。今回は2度目となる。金融というと、経済状況がよいときは盛んに投資を勧め、悪くなるとさっと逃げてしまうという印象がある。講演で初めて新井氏の話に耳を傾けて、「この人は逃げない」と思った。その人のオフィスをぜひ訪ねてみたかった。

   新井氏はツムラやカゴメ、ヤマトといった大手企業から、赤字や非上場の中小零細まで、新井氏が「いい会社」を発掘して長期で投資している。ある1社の株が暴落しても、ダメージを受けないようにする、リスクヘッジでもある。どのような方法で「いい会社」を探すのか。先の講演会の休憩の合間に、名刺交換をさせていただいたが、その名刺にヒントがあった。点字付きなのだ。新井氏は、著書「投資は『きれいごと』で成功する」(ダイヤモンド社)にこう述べている。「本当に彼ら(障がい者)を活かせる会社は、『時間がかかる』を『粘り強い』と読みかえ、能力が最大化される場を見つけて配置します。そして自分の場所を見つけたら、人はキラキラと目を輝かせて働きます」。ファンド・マネージャーが点字付きの名刺を持っていることの意味も改めて聴いてみることにした。

   証券取引の後場が終わった午後3時すぎに会社を訪問した。築90年余りの古民家だが、造りがしっかりしている。トレードルームからは和風の庭が見える。一帯の山林も含め敷地は750坪もある。仕事が終わった若手社員が山の斜面で花壇づくりに励んでいた。いにしえの文人でも出てきそうな古風な玄関、そして座敷に案内された。床はフローリングにして、応接室に仕立ててあった。ここで新井氏の近況を聴いていると、一つ感じたことがあった。昨年の講演の趣旨とまったくぶれてはいない、とういことだ。丁寧に会社を訪問して話を聞く。投資先の企業価値を社会性や現場力といった基準で自ら選ぶ。格付け会社の評価など最初からあてにしない。そして、新井氏の言葉からは、投資先の企業と「苦楽とともにする」心構えを感じた。

   鎌倉でこのような魅力的な人物と再会できたことに心が引き締まった。鎌倉という場は、今も昔も人を引き寄せる、流行りの言葉で言えば、パワースポットなのかもしれない

⇒1日(土)朝・鎌倉の天気    くもり
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