自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★能登の栗物語

2012年09月25日 | ⇒トピック往来

 俳句の同好会に参加していることは以前述べた。俳句は「5・7・5」という字数の決まりごとがあり、季語を入れる。心象風景などを表現するが、面白のは同じものを見ても、見る人によってその心象が違うことだ。自我流の俳句だが、いくつか紹介する。今回は能登に関するものがテーマだ。

⇒ 華やかな マロングラッセや 能登の栗(2012年9月句会)
 金沢市内のデパートの食品売り場や高級洋菓子店で最近、「能登産栗」のマロングラッセが並んでいるのを見かける。能登の山の中で栽培された栗が大きく実り、都会に出てマロングラッセとして洋菓子になり、金紙や銀紙に包まれ華やかに店頭を飾る。まるでシンデレラの物語のようではないか。栽培現場を見ているので私自身もうれしい。ましてや、生産者はわが子のことのように誇らしく思っているに違いない。

⇒ 栗食ひをる 放牧の豚 丸々と(同上)
 能登半島の穴水町で養豚業を営む道坂一美さんは「のと猪部里児(いべりこ)」の商標登録を最近得た。エコフィード(食品残さ飼料化)による養豚を目指し、エサには多種類の野菜やワイン製造過程で出るブドウの搾りかすを使う。秋のこの時季になると放牧場と隣接する森に豚を放ち、落ちているドングリや栗を食べさせる。山のタンニンなどの栄養で肉質がしまる。「里山で生まれた高級食材として付加価値をつけて売り込んでいきたい」と道坂さんは話している。

⇒ カキ殻播く 畑の葡萄 赤々と(同上)
 同じ穴水町では「能登ワイン」のワイナリーやブドウ畑が見学できる。穴水湾で生産されるカキの殻を1年間天日干しにして砕きブドウ畑に入れる。すると能登特有の赤土の土壌が中和され、またミネラルが補強されて、ヤマソービニオンなど品質のよい醸造用ワインのブドウができる。最近、国産ワインのコンテストで銀賞を獲得するなど注目されている。そのブドウの搾りかすを道下一美さんたちが回収して豚に食べさせ大きく育てている。この循環が物語になり、ワインを飲んでも、豚を食べてもおいしく感じる。この話に感動した金沢のワインのソムリエ辻健一さんは、道下さんが生産した豚肉のバーベキューと能登のワインを楽しむ「マリアージュ・ツアー」(2012年11月11日)を企画している。念のため、マリアージュ(mariage)は、男女のお見合いではなく、ワインと食べ合わせのよい料理という意味で使っている。

⇒25日(火)朝・金沢の天気  はれ

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☆戦後賠償と国民感情

2012年09月23日 | ⇒メディア時評

 アサヒ・コムなど新聞系のウエッブページはきょうの夕方、中日友好協会が27日に中国・人民大会堂で予定していた国交正常化40周年記念レセプションを中止することを決めた、と報じている。確か、今月19日には、中国側は「予定通り行う」と日本側に伝えたと報じられていたので、相当の混乱が先方にあるのだろう。「開催日を再調整する」と中国側は伝えているようだが、それにしても異例だ。

 日本と中国は明治以降、日清戦争、日中戦争と戦火を交えた。戦後、中国共産党が政権を奪取して、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言した。しかし、日本はアメリカとともに、共産党との内戦で台湾に渡った中華民国の蒋介石政権を中国の代表とした。当時の国際情勢は、アメリカなど欧米や日本などの資本主義陣営と、ソ連や東欧、中国などの共産主義陣営に分かれて対立していた。しかし1960年代に入ると、同じ共産主義陣営のソ連と中国の対立が鮮明になり、中国の方がソ連に対抗するために、アメリカや日本との関係改善を望んでいた。米ソ対立を有利に進めたいアメリカは1971年7月、ニクソン大統領が中国訪問を「電撃発表」し、翌1972年2月にニクソン大統領の訪中が実現した。この間、71年10月に中華人民共和国が国際連合に加盟し、台湾から代表権が移った。

 日本もこの潮目に乗じた。ニクソン訪中の7ヵ月後、1972年9月29日、田中角栄首相と周恩来首相が日中共同声明に調印した。内容は、日本が国交のあった台湾と断交し、中国は戦争で受けた損害の賠償請求を放棄することで合意した。この「賠償請求の放棄」が問題含みではなかったか。諸説ある。中国はサンフランシスコ平和条約の締約国ではないが、同条約第21条の規定により、日本政府と日本国民が中国(東部内モンゴルおよび満州含む)に有していた財産、鉱業権、鉄道権益などを放棄し、中国は相当の日本資産を得たとされる。とくに、南満州鉄道を始めとした重工業施設、公共施設、軍事施設など。その上で、中国側とすれば賠償請求より「恩を売る」というカタチがよいとの判断だったとされる。その後、1978年には日中平和友好条約が結ばれ、日本は中国への円借款を始め、2007年度の終了までに3兆円を投じ中国の産業発展に貢献した。

 以下想像を膨らませる。どのような理由があれ、戦勝国の国民は「賠償請求の放棄」を許さないものだ。こんな事例が日本にある。1905年9月5日の「日比谷焼打ち事件」だ。日露戦争でかろうじて勝った日本側が最終的に「金が欲しくて戦争した訳ではない」と賠償金を放棄してポーツマス講和条約を結んだことで、当時の日本国民の多くは、どうして賠償金を放棄しなければならないのかと憤り、東京の日比谷公園で全権大使の小村寿太郎を弾劾する国民大会が開かれた。これを解散させようとする警官隊と群衆が衝突し、さらに数万が首相官邸などに押しかけて、政府高官の邸宅など襲撃、交番や電車を焼き打ちするなどの暴動が発生した。「主張する正当性は我にあり」式の弾劾である。この時、ニコライ堂も標的になったが近衛兵の護衛で難を免れたが、講和を斡旋したアメリカにも怒りは向けられ、東京のアメリカ公使館やアメリカ人牧師がいるキリスト教会までも襲撃の対象となったとされる。東京は無政府状態となり、戒厳令が敷かれた。神戸、横浜でも暴動が起きた。こうした世論を煽ったのは新聞だった。

 さらに日本の群衆の怒りがアメリカにも向けられたことで、アメリカ国内では、アジア人への差別感を表現する「黄禍論」の世論が沸騰した。また、対日感情が悪化してアメリカ国内で日本人排斥運動が起こる一因となったとされる。このように国民感情は「悪のスパイラル」へと連鎖していった。 

 話を戻す。中国国民はいまだに「賠償請求の放棄」を許していないのではないか。「愛国無罪」というスローガンを根っこのところで考えると「賠償請求の放棄」の拒否にまで行き着くのではないかと想像する。中国では国を責めると反乱罪になるので、あえて日本と日系企業にその思いをぶつけ暴れる、そのような根深い国民感情があるのではないか。40年たった今でも、その思いは煮えたぎっているのではないか。

⇒23日(日)夜・金沢の天気   あめ

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★今そこにある歴史

2012年09月18日 | ⇒メディア時評

 すさまじい歴史の造られ方である。これが50年後、100年後にどのように評価されるのか。

 「日本製品ボイコット」を叫びながら日系スーパーをことごとく襲い商品を略奪する。「反日無罪」を叫びながら日本の自動車メーカーの車を焼き、日系ディーラーの建物を破壊する。日本料理店を襲う。テレビで見る中国の反日デモは単なる暴徒にしか見えない。おそらく常識ある中国の人々は恥じているに違いない。

 政教分離は日本では当然のごとく受け入れられている。しかし、分離していないのが世界の常識だ。「イスラム教の預言者を冒涜(ぼうとく)した」とされるアメリカ映画をきっかけに、反米デモが止まらない。リビアでは、駐アメリカ大使が殺害され、中東全域のほか南アジアまでイスラム圏の11の国と地域に一気に加速した。クリントン国務長官が「アメリカ政府は、この映画とは全く関係ない」といくら説明していても、アラブ人たちが振り上げた拳は「反米」の表現を取らざるを得ない。宗教対立と化している。アメリカとしては表現や言論の自由を制限することはできない、ましてイスラム圏に武力攻撃を仕掛けることもできない、事態の沈静化を待つしかない。

 テレビや新聞などのメディアで連日取りあげられていること、それは「今そこにある歴史」だ。きょうも中国の浙江省と福建省から多数の漁船が東シナ海に向け出航し、漁船団は尖閣諸島周辺海域に展開する見通しだという。中国の新聞は「1000隻の漁船が釣魚島(尖閣諸島)に向かう」と「予言」している。この1000隻もの漁船は魚を取らずに尖閣諸島に上陸して気勢を上げるのだろうか。

 この大量の漁船に動員をかけ、メディアで煽り、そして国際世論をつくる。「中国人はこんなに、日本政府による釣魚島の国有化を怒っている」と。この演出力や、ボルテージの上げ方は日本人には到底、真似できないだろう。こうした混沌とした中で歴史は日々造られる。中国では「(国有化による)日本政府の挑発に対し、党も国民も一致して毅然と反撃に出た」という表現で語られているのであろうか。日本人は違和感を覚えるが、激しい嫌悪感を感じる人も少なくないだろう。あるいは面白くなってきたと思う人もいるだろう。この騒乱状態がいつま続くのか、どこまで広がるのか、想像がつかない。

 ただ、歴史の目撃者である我々には、「主張の真実」はどこにあるのか、それが見えない。日本政府が尖閣諸島の領有をめぐり中国政府を論破したという話は聞いたことがないからだ。互いが言い合っているから、すっきりとせず近未来の解決策が見えにくい。論争でカタをつけろ、と言いた。

⇒18日(火)夜・金沢の天気  あめ

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☆「こう見る」2冊~下~

2012年09月12日 | ⇒ランダム書評

 『「誤解」の日本史』(井沢元彦著、PHP文庫)は歴史の通説に一石を投じている。「織田信長は宗教弾圧者」とか「田沼意次は汚職政治」とは高校の教科書などでそう習った覚えがあり、また、時代劇の映画やテレビのドラマではそう表現されてきた。ところが、見方によっては全く異なる人物像が浮かび上がる。

          信長の日本人への贈り物、宗教勢力の武装解除

 元亀2年(1571)、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちし、僧侶などを皆殺しにしたといわれている。後世の人々は、丸腰の坊さんや罪のなき人たちを皆殺しにしたことから織田信長は残酷残忍で、宗教弾圧を行った人と脳裏に焼き付けている。では、当時、坊さんたちは丸腰だったのか。比叡山延暦寺は「天文法華の乱」という、京都の法華寺院を焼き討ちし大量虐殺を行っている。広辞苑ではこう記されている。「天文五年(1536)、比叡山延暦寺の僧徒ら18万人が京都の法華宗徒を襲撃した事件。日蓮宗21寺が焼き払われ、洛中ほとんど焦土と化した。天文法難。」と。平安時代中ごろから「強訴(ごうそ)」と呼ばれた威圧的なデモンストレーション(僧兵が神輿を担いで都に押し掛ける)を通じて朝廷に圧力をあけるいったこともやっていた。その延長線上に天文法華の乱がある。

 信長は、武装勢力であり利権を持つ宗教団体の比叡山延暦寺を攻撃したのであり、宗教である天台宗を弾圧したのではない、と筆者は語る。比叡山延暦寺に次いで、その5年後に石山本願寺攻めを行う。加賀の国の一向一揆(浄土真宗のことを一向宗とも)などは武家勢力を追い出して浄土真宗を拠り所とした「百姓の持ちたる国」をつくる。石山本願寺はこうした北陸の一向宗門徒の勢いにバックに信長勢との対立を深めていく。天正8年(1580)の顕如が本願寺を退去し、本願寺は戦闘行為を休止する。これは信長の宗教勢力の武装解除だった。

 本書ではこんなことも述べられている。「ローマの歴史に詳しい塩野七生さんの言葉を借りれば、これは、信長の日本人に対する巨大な贈り物なのです。つまり政教分離というのは今のヨーロッパでも実現できていないようなところがいっぱいあるし、ましてやイスラム教国ではいまだに政教一致のところすらあります」。信長、秀吉、家康の3代で宗教勢力は完全に非武装化した。坊さんが丸腰になったのはそのような歴史的な経緯からだった。

 きょう12日も、リビアでイスラム教の預言者ムハンマドを冒涜(ぼうとく)する映像作品がアメリカで製作されたとして抗議するデモ隊がアメリカ領事館を襲撃し、大使と領事館員ら4人が死亡したと発表された。イスラム過激派「アルカイダ」しかり、宗教の武装攻撃は容赦ない。殺伐としている。政治と宗教を切り離すこと、すなわち宗教が政治に口だしすることを排除した信長の「日本人に対する巨大な贈り物」にはうなづける。なるほどこうした歴史の見方があったのか。

※武装した僧兵でおなじみの弁慶。千本の太刀を求めて武者と決闘して999本まで集め、千本目で義経と出会う物語は有名=JR紀伊田辺駅前

⇒12日(水)夜・金沢の天気   はれ

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★「こう見る」2冊~上~

2012年09月11日 | ⇒ランダム書評

 8月28日から9月2日の中国・浙江省行きで、機内で読もうと2冊の本を関西国際空港で買った。『「誤解」の日本史』(井沢元彦著・PHP文庫)と『中国人エリートは日本人をこう見る』(中島恵・日経プレミアシリーズ)だ。その中から、面白いと思ったことを何点か。

          「自然災害を受けても自然を恨むことがない日本人」         

 『中国人エリートは日本人をこう見る』で紹介されている中国人エリートは中国共産党や政府の将来を嘱望された若手といった現役ではなく、日本の大学で学ぶ留学生や日本の企業で職を得て働く若者ら、いわば「未来のエリート」たちである。筆者は、彼らに粘り強くインタビューして、日本に対する本音を引き出している。

  北京でミュージシャン、作家として活動の場を広げる女性(25歳)の言葉が印象的だ。「日本はアジアの中で最も東方文化の伝統が残っている国」。その理由として、高い木の上で枝降ろしの作業をする職人「空師」が作業を始める前に塩とお神酒を木の幹にまくという儀式や、女の子が浴衣で花火大会や夏祭りの出かけるよう様子など、文化大革命(1966年から10年間)でいったん否定された中国の伝統文化の在り様と比較すると、日本では伝統文化が残っているというのだ。

 広い中国の一点だけを見て考察するのは危険だが、今回の中国旅行で上記のことと逆に、中国における伝統の在り様を考えた。訪ねた浙江省の村々では、新しい3階建ての建物が林立している。中国人のガイドに聞くと、「3階建ては見栄ですね。2、3階は使っていない家が多い」と。伝統的な家屋は残ってはいるが、どれも老朽化している。伝統と近代をミックスした家屋や、伝統建築をリフォームしたような新しい家屋を探したがなかなか見つからなかった。伝統家屋は「過去の遺物」と化しているのかもしれない。

 震災と日本人をみつめる中国人の若者の証言は新鮮だった。滞日10年の男性会社員。「日本人は自然災害を受けても自然を恨むことなく、大自然とともに生きていく覚悟がある。自然災害は『天命』と受け入れて、どんな災害が待ち受けていようとも『故郷』にこだわり、リスクがあるのに『故郷』で生きていく道を選択する。これは合理的に考える外国人にはわかりにくい感情です。でも、日本人にとって故郷とはそれだけ特別な存在なのでしょうね」

 偶然だったが、今回の中国のワークショップでも、日本側の発表で一つのキーワードとなったのが、「レジリエンス(resilience)」だった。レジリエンスは、環境の変動に対して、一時的に機能を失うものの、柔軟に回復できる能力を指す言葉。生物の生態学でよく使われる。持続可能な社会を創り上げるためには大切な概念だ。2011年3月11日の東日本大震災を機に見直されるようになった。「壊れないシステム」を創り上げることは大切なのだが、「想定外」のインパクトによって「壊れたときにどう回復させるか」、これが大切なのだ。日本は古来より災害列島である。この列島からは逃げられない。ならばでどう回復させるか、復興させるか、レジリエンスな日本人。中国人はよく日本人のことを見ている。

⇒11日(火)夜・金沢の天気  雨

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☆世界農業遺産の潮流=7=

2012年09月09日 | ⇒トピック往来

  中国・浙江省紹興市で開催された「世界農業遺産の保全と管理に関する国際ワークショップ」(主催:中国政府農業部、国連食糧農業機関、中国科学院)で意外だったのは、中国側からの「中国にあるGIAHSに対する誤った認識」(通訳)という言葉だった。中国では政府主導(中央政府、省政府など)でGIAHSを進めており、「誤った認識」など中国にはないという印象があった。  これについて触れたのは、閔慶文・中国科学院地理科学資源研究所研究員だった。

          GIAHSをめぐる課題の共有について

  閔研究員は、中国のGIAHSの特徴について、1)小規模の自家庭経済型、2)特殊な遺伝子保護型、3)多様性生物共生型、4)優れた景観生態型、5)持続的な水・土地資源利用型、と5つのタイプがあると説明し、中国ではGIAHS地域を奨励し保護するために、1)多主体参画の仕組み、2)動的保全の仕組み、3)生態や文化報償制度、4)有機農業、5)グリーンツーリズムやエコツーリズムなど観光産業を進めていると述べた。その上で、「中国の重要農業文化遺産(GIAHS)の保護に関する誤った認識もある」と述べた。その「誤った認識」とは「現代農業開発との対立」、「農家生活レベル改善との対立」、「農業文化遺産地の開発との対立」との3点だ、と。

  「現代農業開発との対立」とは、農業の生産性を高めるには大規模化や機械化など進める必要があるのにどうして伝統農業や生産性が低い農業を守らなくてはならないのか、という相対する意見。「農家生活レベル改善との対立」は、GIAHSで地域の伝統農業に誇りが持てたとしても当の農作物がブランド化して、農民たちの収入が増え、生活が良くなるのか、若者たちが魅力を感じてその伝統農法を継承してくれるのかという意見。そして、「農業文化遺産地の開発との対立」は、認定区域では伝統的な景観などにこだわり、新たな土地開発ができないのではないかという意見である。閔研究員は、「対話を重ね成果を上げればこうした対立した認識も薄まると思う」と述べた。

  中国側のこうした懸念は実はそのまま日本にも当てはまる。日本では「対立認識」というわけではないが、ある意味、冷ややかな反応がある。「GIAHSは、昔の農業に戻れということか」、「GIAHS栄えて、農業滅ぶ」などは農業関係者からも聞く話である。化学肥料や農薬、除草剤を使わない農業を進めて、生産性が落ちて、それで生物多様性が高まったとして、それは誰のための農業ですか、その農業に未来はあるのですか、と。

  確かに、日本の食料自給率が40%に落ちている。日本の農業を再生させるのが優先なのに、「昔ながら里山の農業」を唱えてみても、どれほどの効果があるのか、「農業ミュージアム」なら理解できる。そもそも農業の大規模化など国際的な取り組みを奨励してきたのは国連の食糧農業機関(FAO)ではないか、と。

  話は変わる。2010年10月、生物多様性条約第10回締約国会議(CBD/COP10)が名古屋市で開催された。そのいくつかのセッションの中で、(財)妻籠を愛する会の理事長、小林俊彦氏の講演の言葉が印象に残っている。「生物多様性条約というのは国際版生類憐みの令だね」。「生類憐みの令」は五代将軍・綱吉が動物愛護を主旨とする60以上の諸政策、法令のこと。綱吉が「犬公方(いぬくぼう)」と陰口されたように専制的な悪法として定着しているが、その保護対象は「猿」「鳥類」「亀」「蛇」「きりぎりす」「松虫から」「いもり」にまで及んでいたとされる。また、捨て子禁止や行き倒れ人保護といった弱者対策が含まれていたという。日本を統一するための戦(いくさ)はとっくに終わっていたものの、あぶれた武士たちによる辻斬りや剣を互いにかざす殺伐とした世相を戒める法で、当時とすれば画期的だったと見直されてる。

  ことし7月、佐渡市で開催された「第2回生物の多様性を育む農業国際会議」(佐渡市など主催)の立食パーティーで地元の農業者の方と話す機会があった。農薬を減らし生き物を増やす田んぼづくりを率先している。「数年前までは反収(1反=約10㌃当たりの米の収穫高)を上げることばかり考えて農業をやっていた。今は生き物を増やす工夫をしながら、おいしいコメをつくることに専念している。トキがうちの田んぼにエサを突きにくることを楽しみにしている。本当の美田というのは生き物がいる、にぎやかな田んぼのことだと気がついた」

 GIAHSが単なる「農業ミュージアム」でないことは生物多様性をその評価の柱に据えていることからも分かる。田んぼを生産現場ととらえるのか、自然の恵みの場ととらえるのかによっても農業への視点は異なる。GIAHSの先にあるのは持続可能な農業、あと100年、500年の農業を展望をどう切り拓くのかである。今回のワークショップで日中で共通する課題の共有ができた気がする。

※写真の上、下とも中国・浙江省青田県で

⇒9日(日)朝・金沢の天気   くもり

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★世界農業遺産の潮流=6=

2012年09月07日 | ⇒トピック往来

 今回の中国・浙江省行きではいろいろと見聞きした。そのメモ書きからいくつかを紹介する。

 中国の3高 中国のマンションの建設ラッシュはピークを越えたと言われているが、地方ではその勢いは止まっていないと思った。中国・浙江省青田県方山郷竜現村の水田養魚を見学した(8月31日)。その山あいの村でも、マンション建設が進んでいた。さらに新築マンションの看板がやたらと目についた=写真=。中国人の女性ガイドがバスの中でこんなことを披露してくれた。「日本でも結婚の3高があるように、中国でも女性の結婚条件があります」と。それによると、1つにマンション、2つに乗用車、そして3つ目が礼金、だとか。マンションは1平方㍍当たり1万元が相場という。1元は現在12円なので円換算で12万円となる。1戸88平方㍍のマンションが人気というから1056万円だ。それに乗用車、そして礼金。礼金もランクがあって、基本的にめでたい「8」の数字。つまり、8万元、18万元、88万元となる。この3つの「高」をそろえるとなると大変だ。

 「ろ&B」わさび 紹興市でも青田県のホテルはバイキング形式で刺し身のコーナーがあり、マグロは人気だった。醤油は少々甘口だったが、問題は「チューブ入りわさび」だった。これが、むせ返るほど辛い。半端ではない辛さだ。チューブには「S&B」とのマークが入っていたので、日本でおなじみにエスビー食品だと思っていたら、これが辛すぎする。何か変だと思いながら、涙目でよくロゴを見ると「ろ&B」=写真=とも読め、明らかに「S&B」とは異なる。辛味成分(アリル芥子油-アリルイソチオシアネート)の調合が明らかにおかしいと思いつつも、ただこの刺激が慣れてくるとなんと脳天に心地よい。周囲も「これ以上食べると脳の血管がおかしくなるかもしれないと」と言いながら食べていた。

 「国連」幼稚園 水田養魚の竜現村は、100年以上も前からヨーロッパや中南米に出稼ぎに出掛ける人多い。村は山や石も多いため、耕作を広げには限界があり、若者たちの多くはスペインやブラジル、イタリアなどの国に行き、中華料理レストランを開いたり、石彫りなどの商売をしているという。彼らの子どもは故郷の竜現村に戻り、祖父母が育てている。この村の幼稚園児は10ヵ国余りから来ており、そのため「国連」幼稚園と呼ばれているそうだ。

 榧子(ひし)の実 帰りの土産を買おうと、杭州空港で免税店に入った。視察に訪れた紹興市の会稽山(かいけいざん)の「古香榧林公園」でも食べたカヤの実が袋入りで売っていた。これが500㌘入り398元もする=写真=。日本円でざっと4800円だ。アーモンドチョコレートなどより格段に高い。確かに現地では、カヤの実を炒って粉末にしたものは寄生虫の虫下しや小児の夜尿症によいとされていると聞いたが、高額だと思った。榧の寿命は1000年に及ぶ。スギやヒノキと比べて成長が遅く、30cm伸びるのに3、4年かかり、直径1㍍ほどの成木になるまでには300年とも。「不老長寿」の木なのだ。そんな木から実ったものならばこそ当地では重宝されるのだろう。

⇒7日(金)夜・金沢の天気  くもり

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☆世界農業遺産の潮流=5=

2012年09月02日 | ⇒トピック往来

 水田で養殖をしている魚が稲を突くと、稲についた害虫が田んぼの水面に落ち、それを魚がエサとして食べる。まさに稲と魚の共生、そんな光景を見学しようと「世界農業遺産の保全と管理に関する国際ワークショップ」3日目(8月81日)と4日目の現地視察は、浙江省麗水市青田県を訪れた。紹興市からバスで4時間余り、直線距離にして230㌔ほど南に位置する。

           GIAHS認定第1号「青田県の水田養魚」の取り組み

 青田県の水田養魚は2005年5月、国連食糧農業機関(FAO)から初めてGIAHS認定を受けたグループの一つ。視察は3日目が青田県方山郷竜現村で、4日目は小舟山郷の2ヵ所で行われた。双方とも海抜300㍍から900㍍の山間。青田県の水田養魚は600年以上の歴史があるといわれる。水田に入り込んだ川魚が成長することはよくあるが、青田県の人々は600年にわたって。田んぼでの養魚に知恵と工夫を重ねてきた。

 水田の水温が10度以上になるころに、生石灰をまいて軽く消毒し、薄い塩水で洗った稚魚を放流する。魚に寄生虫が繁殖しないよう、山からクスノキや松の枝を拾ってきて水田に浸す。魚はエサを探すとき、水面を波立てて、泥を掘り返す=写真・上=。これよって養分や生長空間を稲から奪うコナギやタイワンヤマイやコナギなどの水田雑草を魚が食べる。また、このときに稲も揺らすので、葉についた害虫が落ちる。これも食べる。魚のふんは天然の肥料なる。病虫害駆除、水田の除草と代替肥料に役立ち、稲作のじゃまにもならず、一枚の水田からコメと水産品の両方を生産することができる。これまでの実践経験から、養殖が稲作の収穫量を、稲作が漁獲量を押し上げるという相乗効果も工夫している。こうしてGIAHSが認定する「稲と魚との共生システム」をつくり上げてきた。

 方山郷の水田の稲穂を手に取って見ると、コシヒカリのようなジャポニカ米より少々長粒で大きい。10㌃当たり730㌔の収穫と説明があった。すると佐渡市からの参加者からは「うちは570㌔だ。これはすごい」と驚きの声が。水田で養殖する魚は「田魚」と呼ばれるコイの一変種で、色は黒、赤、黄、白の4種類。ウロコが軟らかい。活き魚で1㌔100元(現在1元=12円)、また「田魚干」として人気があるワラとヌカで燻し、さらに炭火で乾燥させたものは1㌔300から400元と贈答用としても人気がある、という。この村では田魚を嫁入り道具にする習わしがある。また、田魚の踊りもある。

 では、GIAHS認定で地域がどうかわったのか。小舟山郷=写真・下=の水田養魚組合の組合長から話が聞けた。郷では1980年代には4000ムー(畝=6.67㌃)もあった養魚の田んぼは2006年には2400ムーに激減した。そのころの養魚(生)の価格は1㌔20元だった。仲卸の業者が個別に買い付けにきていた。GIAHS認定を境に徐々に値上がりし今年2012年には1㌔100元となった。2006年に水田養魚組合を組織し、組合による農家からの買い入れや共同出荷、干乾しの加工も手掛けている。魚も住める安心安全な米として、米は1㌔6元(市場価格)で中国では高値だ。最近では菓子メーカーと契約話が進んでいる。養魚水田の面積を増やす方向だ。

⇒2日(日)夜・関西空港の天気    くもり  

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★世界農業遺産の潮流=4=

2012年09月01日 | ⇒トピック往来

 「世界農業遺産の保全と管理に関する国際ワークショップ」の2日目(8月30日)と3日目は現地視察が行われた。最初に訪れたのが、紹興市が次のGIAHS認定に向け動いている会稽山(かいけいざん)の「古香榧林公園」。当地では、秦の始皇帝も登った山として知られる。ここでは昔から榧(カヤ)の木が植栽されている。ざっと4万本、中には樹齢千年以上のものある。カヤ(学名:Torreya nucifera)は、イチイ科の常緑針葉樹。材質は弾力性があり加工しやすい、樹脂が多く風合いが出る。碁盤や高級家具、木彫の材として用いられてきた。

        カヤの木、千年の知恵と活用

 また、種子は食用となる。当地では、そのままではアクが強いので数日間、灰汁につけてアク抜きしたのちに煎る。実際食べてみると、歯触り味ともにアーモンドのようなだった。果実から取られる油は高級な天ぷら油の食用として、虫下しの漢方にも用いられるという。間伐材や枝は燻して蚊を追い払うためにいまでも使われている。

 世界農業遺産(GIAHS)に申請する上での売りは、成長は遅いが寿命が長い、このカヤの木を接ぎ木などの方法で植栽する技術や、暮らしと密着した2次加工の知恵など「木と人の総合的なかかわり」である。FAOによるGIAHSの認定基準は農業生産、生物多様性、伝統的知識、技術の継承、文化、景観が対象となる。その評価基準からすれば、伝統的知識、技術の継承、文化などの評価点は高いのかもしれない。それにしても驚くのは、認定前からGIAHSを意識した公園整備やDVD、解説書の作成にかける周到な準備である。

 ここまで中国がGIAHSにかける意味合いは何だろう。中国には1958年から実施されている戸籍制度がある。すべての国民は「農業戸籍」(農村戸籍)と「非農業戸籍」(都市戸籍)に分けられており、社会保障や教育、医療などは、どこに戸籍があるかで変わってくる。行政サービスは戸籍地でなけらば受けられない。ところが、都市に産業立地が集中し、都市と農村の格差が広がっている。それでも人々の農村から都市への流失が起きている。これは日本でも同じだ。中国政府とすると、農村の生産基盤に付加価値をもたらすことで農村の生活基盤を安定させたい。おそらくそのような思いがGIAHSに傾注する一つの要因になっているのもしれない。

 この後、王羲之が書いた「蘭亭序」にちなんだ公園「蘭亭」(紹興市)に赴いた。353年、王羲之と当時の名士たち41人がこの地で集まり、曲水(曲がりくねった小川)の両側に座り、清流に流された酒盃が自分の前で止まったら即興で歌を詠むという宴会を楽しんだとされる。その様子が再現されて、人気スポットになっていた。竹林は京都のお寺のような雰囲気だった。

⇒1日(土)夜・浙江省青田県の天気 くもり

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