自在コラム

⇒ 日常での観察や大学キャンパスでの見聞、環境や時事問題、メディアとネットの考察などを紹介する宇野文夫のコラム

★続・追想クライストチャーチ

2011年02月24日 | ⇒トピック往来
 ニュージーランド南島の中心都市クライストチャーチ付近で22日に発生した大地震。救出された富山外国語専門学校の男子学生(19)の被災体験が朝日新聞の24日付紙面で掲載されていた。学生はビルの4階にいた。昼食をとっていて、大きな揺れを感じた。いきなり、足元の床ごと、体が落ちた。周りの学生も「痛い」などと言いながら、一緒に落下していった。気づいたら、周囲は暗闇だった。右足が動かない。何かに、挟まれていた。奈落の底に落ちるような恐怖だったに違いない。学生は右足を切断し、救助された。

 2006年8月、家族旅行で訪れたクライストチャーチの街は、ビジネス街もあるものの、歴史が止まっているかのように感じられた。その理由は、若者の姿が少なからだった。同じ年の1月に訪れたイタリアのミラノは古い街並みを若者がかっ歩するという歴史の連続性を感じた。が、クライストチャーチには人々のみずみずしさが感じられなかった。

 若者の姿が見えない理由の一つが、学生がいないことだった。ニュージーランドに7つある大学の一つ、学生数1万3千人のカンタベリー大学がクライストチャーチの中心街から郊外に移転した。金沢の街の事情と少々似たところがある。もう一つの理由が、若者が仕事を求めてオークランドに流れていた。オ-クランドは北島にある人口110万人を数えるニュージランド最大の経済都市である。いうならば一極集中の構造になっているこの国では、2番目の都市規模を誇る35万人のクライストチャーチであっても「ストロー現象」で若者が吸い上げられていたのだ。

 そこにきて今回の震災である。この街のシンボルであり、観光名所でもある大聖堂も崩れた。そして、「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでに美しい街であったクライストチャーチは一瞬にしてがれきの街と化した。あの美しい、古都のような街が早く復興していほしいと願う。ただ、この街の復興は前途多難であろうことは、想像に難くない。

 写真は、街路でチェスを楽しむ市民たち(上)、イングリッシュガーデンが見事なクライストチャーチの住宅のたたずまい(下)。2006年8月15日撮影。

⇒24日(木)朝・金沢の天気  はれ


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☆追想クライストチャーチ

2011年02月23日 | ⇒トピック往来

 ニュージーランド南部のクライストチャーチ付近で発生したマグニチュード6.3の地震。23日現在の死者は75人、行方不明者は約300人。うち、不明とされる日本人は27人となっている。現地で語学研修中だった金沢市の男性(39)や富山外国語専門学校の学生らの安否が気遣われる。新聞報道では、余震が続き、建物がさらに倒壊する危険性がある。被災地での救出活動も難航している。国家非常事態宣言が出され、クライストチャーチは夜間外出禁止となった。

 クライストチャーチは思い出深い街だ。夏休みを利用して家族でニュージーランドを旅行したのは2006年8月15日のこと。当時のメモを見ながら、被災した街を追想してみる。関空からのフライトで、10時間半でニュージーランド南島のクライストチャーチ国際空港に着いた。現地の時間は午後0時30分、到着を告げるアナウンスでは日中気温は7度。金沢だと2月下旬ぐらいの気温だった。

 クライストチャーチ、語感に古きイギリスのにおいがした。1850年、イギリスから4隻の船で800人が移民したのが始まり。それが現在では35万人の南島最大の都市へと成長した。すさまじい人口増の背景には歴史があった。ニュージーランドへの移民が始まって間もなく、サザン・アルプスの各地で金鉱脈が発見され、1860年代からゴールドラッシュが沸き起こる。これで、ヨーロッパやアジアからもどっと人が押し寄せた。さらに、1870年代からはヨーロッパでウール(羊毛)の人気が高まり、ニュージーランドはその原料の主力供給基地へと実力をつけていった。

 こうしたサクセスストーリーを背景に、街は活気にあふれた。1864年から40年もかけて、街の中心部にイギリスのゴシック様式による大聖堂が建設された。奥行き60㍍、1000人は収容できる。そして大聖堂の名前がそのまま街の名前になった。母国イギリスへの望郷の思いから、オックスフォード通り、ケンブリッジ通りなど大聖堂の周辺には地名もつけられた。人々は「イギリス以外で最もイギリスらしい町」と呼ばれるほどに本国のイミテーション都市をつくり上げた。

 その真骨頂は気品のある住宅街である。エイボン川沿いの瀟洒な住宅群、あるいは前庭は草花、後庭は芝生のイングリッシュガーデンの住宅が建ち並ぶ。クライストチャーチは「ガーデンシティ(庭園の街)」と称されるまでに美しい街となった。そして、クライストチャーチは豊かだ。サザン・アルプスを背景にカンタベリー平野に展開する牧羊などの酪農、そしてカイコウラ漁港を中心とした水産業も盛んだ。そこに住む人々の表情は穏やで、路上でチェスを楽しむ姿があちこちに見受けられた。

 しかし、今回の地震でシンボル的存在の大聖堂の塔は崩れ落ちた。

⇒23日(水)夜・金沢の天気  はれ


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★懐かしい未来

2011年02月14日 | ⇒トピック往来
 先月1月27日、東京・経団連ホールで三井物産環境基金特別シンポジウム「~がんばれNPO!熱血地球人~」に参加した。その基調講演で、日本野鳥の会会長の柳生博氏が「森で暮らす 森に学ぶ」をテーマに話した。独特のテンポの語りが人をひきつけた。

  柳生氏が35年前に八ヶ岳に移り住んで森林再生を始めたきっかけや、いまの環境問題に関する人々の意識の高まりについて、生活者目線で語った。印象に残ったのが「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」という言葉だった。人が生き物として正常な環境は「懐かしい風景」だ。田んぼの上を風が吹き抜けていく様子を見た時、あるいは雑木林を歩いた時、そんな時は懐かしい気持ちになる。超高層ビルが立ち並び、電子的な情報が行き交う都会の風景を懐かしい風景とは言わない。「懐かしい風景」こそ、我われの「確かな未来」と見据えて、自然環境を守っていこうという柳生氏のメッセージなのだ。

 つい先日2月12日、金沢で開催された自動車リサイクル企業「会宝産業」の講演会に誘いを受けて出席した。東北大学大学院環境科学研究科の石田秀輝教授が「遊べや遊べ、もっと遊べ!~あたらしいものつくりと暮らし方のかたち~」をテーマに話した。我慢する環境の取り組みではなく、心豊かに暮らしながら環境負荷をどう低減させるものづくりを進めたらよいかというのが話の趣旨。そのためには、大量生産、大量消費の「イギリス産業革命」的な発想と決別して、自然観を持った、ある意味で日本的な産業革命が必要だ、と。その中で、石田氏は「懐かしい未来」とたとえて、こんな話をした。ご近所の熊さんと八っつあん。熊さんが旅に出るので、「うちのソーラー発電の電気、どうぞ自由に使ってくださいな。その代わり、留守中は頼むよ」といった昔懐かしい日本的なセリフが、テクノロジーを伴って言えるような未来の姿をイメージさせる。

 我われが地球から受けた恩恵を次世代にどうやって引き継ぐのか、手渡すのか、その岐路に立っている。柳生氏の「確かな未来は、懐かしい風景の中にある」と、石田氏の「懐かしい未来」の表現は多少違うものの、我われが共有する自然観や人間観をベースにした「未来への遺産」こそ確かなのであると強調している。今の我われが想像もできなような未来観というのは、映画『バイオハザード』のようでなんだか危なかしい。良き光景は懐かしい。それは未来も変わってはならない。そんなメッセージを二人から頂いた。

⇒14日(月)朝・金沢の天気  くもり

 
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☆地デジ、東京の陣・下

2011年02月13日 | ⇒メディア時評
  東京スカイツリーが完成すれば634㍍となり、自立式電波塔として世界一の高さを誇ることになる。この高さ634を「むさし」と呼ばせて、「武蔵」の漢字を当てる。武蔵は今の東京、埼玉、神奈川の一部を含む武蔵の国のこと。歴史的な味わいのロマンを演出している。知恵者がいるのだろう。

            「武蔵の国」では地デジは2度切り替わる

  すでに観光名所になっているスカイツリー本来の役割はテレビ塔としての機能である。問題は、「本家テレビ塔」の東京タワーとの電波の切り替えだ。ことし2011年7月24日正午にアナログが停波された後は、東京タワーから地デジの電波が発射されるが、来年2012年春にスカイツリーがオ-プンすれば、試験放送期間を経て、地デジの電波は東京タワーからスカイツリーにスイッチされる。つまり、武蔵の国では地デジは2度切り替わる。

  スカイツリーのもともとの建設目的は、都心部に建てられる超高層ビルが増え、東京タワーからの送信が電波障害を生じるようになったからで、地デジのために建設計画が持ち上がったわけではない。というもの、関東地区で地デジをスタ-トさせた2003年12月にNHKと在京民放キー局5社が600㍍級の新電波塔を求めて、「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足したのがきっかけだった。2006年3月に建設地が決まった。当初は2011年7月に間に合わせようとしたがスケジュールがずれた。

 ここで懸念される問題がある。東京タワーにアンテナを向けて地デジを視聴している世帯が、来春の東京スカイツリー切り替え時に、アンテナの向きを調整しなくていいのかという問題だ。総務省は情報通信審議会情報通信政策部会の「地上デジタル放送推進に関する検討委員会」(第42回・2009年1月16日)で、関東広域圏の地デジの発射局(親局)が東京タワーから東京スカイツリーに移行することが視聴者にほとんど影響を与えないという見解を示している。また、 情報通信審議会の第6次中間答申(2009年5月25日)でも、 東京スカイツリーへの親局移転にかかわる影響について、「移転による受信設備への影響はほとんどなく、デジタル対応した設備がそのまま使えること」「影響が発生した場合には、放送事業者による対策等がなされること」が記載された。

  本当に影響はないのだろうか。確かに、地デジはビル陰であっても、近隣のビルで反射された波(反射波)を受信できてしまうので、電波の比較的強い地域の場合では、アンテナの向きが違っていても反射波を拾って地デジが映ることもある。 ただ、常識的に考えて、現在の東京タワーに向けている家庭用のUHFアンテナを来春にはスカイツリーに向けてアンテナを調整をした方がより良い画質が得られるのはは当然だろう。とくに東京タワーとスカイツリーを直線でつないだ中間の地域の場合は逆向きになる。地デジが2度切り替わることの影響については、来春のスカイツリーのオ-プン後、試験電波を発射し、測定車で受信する検証作業が行われるので、それまでは憶測でしかない。

 もし、それで影響が出てテレビ視聴に混乱が生じた際は、「放送事業者による対策等がなされること」(前出の第6次中間答申)になっている。今さら蒸す返すのも大人げないが、スカイツリーの開業と、アナログ停波の順番が逆になっていることがそもそもの原因だ。

 そして、このことは関東エリアの多くの視聴者の関心事なのだが、NHKと在京民放キー局5社のホームページを閲覧しても、東京タワーとスカイツリーで地デジが2度切り替わることの視聴者への影響についてはよく説明やPRがされていない(見落としかもしれないが)。おそらく、キー局側とすれば、まず東京タワーでの完全地デジ化(7月24日)を乗り切って、その次にスカイツリー対策に重点を置くという戦略なのだろう。確かに視聴者は2重の混乱に陥るものの、それだったら、そのように順序だてて説明をすればよいのではないだろうか。

⇒13日(日)朝・金沢の天気   ゆき
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