城郭 長谷川博美 基本記録

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戦国の嘘実 戦国の真宗

2020-03-11 10:46:27 | 戦国武将
戦国の嘘実 戦国の真宗

◆戦国の嘘実
元亀3年近江浅井氏は織田信長に包囲され
小谷城籠城に必死であった様子が記録され
いる。

元亀3年文献『信長公記』には
「七月廿七日より、虎後前山御取出の御要
害仰せつけらる。然れば、浅井方より越前
の朝倉かたへ注進の申し様、尾州、河内長島よ
り、一揆蜂起侯て、尾・濃の通賂をとめ、既に
難儀に及ばせ侯間、此の節、朝倉馬を出だされ
侯へば、尾・濃の人数悉く討ち果たすの由、
偽り申し遣はし侯。
注進、実に心得、朝倉左京大夫
義景、人数壱万五千計にて、
七月廿九日、浅井居城大谷へ参着侯。然りと雖も、
此表の為体見及び、抱へがたく存知、高山大づく
へ取り上り、居陣なり。」とある。

元亀3年文献『信長公記』にある如く
「浅井方より越前の朝倉かたへ注進の申し様、
尾州、河内長島より、一揆蜂起侯て、尾・濃
の通賂をとめ、既に難儀に及ばせ侯間、此の節、
朝倉馬を出だされ侯へば、尾・濃の人数悉く討ち
果たすの由、偽り申し遣はし侯。」とある浅井方
は小谷籠城に悪戦苦闘しており落城の危険性ある
と危機感を感じて、とりあえず越前朝倉にウソを
ついて、尾張、美濃、方面て真宗一派が蜂起して
織田が苦戦している。越前の朝倉殿はこの機会を
逃さず出陣して欲しいと言う、ウソを交えた嘆願
である事が解る。この記録は当時越前朝倉が浅井
のウソを充分に確認せずに北近江に出陣した事を
端的に示していると言える。ここで私は、文字や
ウワサが人間の心理を支配する、歴史現象として
この記録を取り上げたい。朝倉は織田打倒の機会
とばかりに小谷城に救援軍を率いて到着したのだ
が現実には虎御前山築城など織田方の圧倒的軍勢
を見て朝倉義景は浅井の出陣要請がウソを交えた
ものであった事に気付いて小谷城の大嶽城に入城
している。
◆浅井の朝倉出陣要請の裏にある信長の戦略
しかしこのデマに似た朝倉氏を越前からおびき
出す戦略は織田信長が事前に画策した可能性が
あるのではないだろうか?信長はこの時期には
多数の褒賞を越前勢に用意して朝倉氏切り崩し
を画策している事同年の『信長公記』から解る
「八月八日、越前の前波九郎兵衛父子三人、
此の御陣へ参ぜられ候。信長公の御
祝着斜ならず。則ち、御帷・御小袖・
御馬・皆具ともに拝領申され候。翌日又、
富田弥六・戸田与次・毛屋猪介、参られ候。
是れ又、色々下され、忝き次第、大
方ならず。虎後前山御取出御普請程なく
出来訖んぬ。」
と次々に越前朝倉氏重臣が虎御前山の威容
に驚き。信長が事前に用意した投降褒賞金
つまり越前株式会社『朝倉』から東海『織田』
株式会社に再就職する為の祝金まで準備して
いる様子が手に取る様に解るのである。会社
が傾いて新しい別の会社が再就職祝い金まで
用意していたら人間心理とは確実に自らの
安定を確保する職業安定所へと走る事は
今も昔も同じ人間心理であろう。

一番最初に朝倉を見捨てて織田方に投降した
前波九郎兵衛は吉継と言い。信長から越前の
守護代に任命され、名前も信長から一字「長」
を貰い受けて桂田長俊と改めているのである。

戦国とは何と名前が軽く変わるのであろうか?
朝倉の家臣の前波九郎兵衛
桂田長俊ってか?信じられん変わり身である。

それでは豊臣秀吉や惟任日向守は一体誰なん
だ。どこの何兵が突然名前を変えるなどとは
戦国時代には日常茶飯事だったのである。


コメント (2)
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元亀2年近江犬上郡高宮氏 無念の生涯 真宗への信仰

2020-03-11 10:03:15 | 戦国武将
元亀2年近江犬上郡高宮氏 無念の生涯
文献『信長公記』元亀2年の記述には
「九月廿一日、河尻与兵衛・丹羽五郎左衛門、
両人に仰せ付けられ、高宮右京亮、一類歴々、
佐和山へ召し寄せ、生害なり。切つて出で、
相働き侯へども、別条なく成敗なり。子細は、
先年、野田・福鳥御陣の時、大坂へ心を合せ、
一揆蜂起の調略を致し、御陣半に、御取出天満
が森河口足かがりより、大坂へ走り入り侯なり。」
とある

これは元亀2年の9月21日近江国犬上郡の高宮右京亮
一族が元亀元年に織田信長方に一応従い、大坂本願寺
攻めの為に従軍したのだが、大坂本願寺への信仰心か
ら石山本願寺城に従軍途中に本願寺へと突然逃げ去り
加勢する態度を見せた事を織田信長が記憶しており、
信長家臣の川尻、丹羽に命じて犬上郡の佐和山城まで
高宮左京亮一類を誘いだして、問答無用の成敗つまり
一族誘殺殺害を織田信長が命じた事件が記されている。
高宮一族も当時、城に招かれたら誘殺や毒殺されると
言う常識的警戒を全く、しなかったのであろうか?
しかし高宮一族、織田方に囲まれ殺害されようとし
ても自ら切って出る武人の覚悟や最期の意地を見せて
佐和山城で無念の最期を遂げた事であろう。石山本願
への信仰から一時的に石山本願寺に入城した高宮一門
を信長は記憶していた事になる。また信長は前年の戦
いで大腿部に負傷もしており、信長は野田福島の陣で
一度浅井朝倉の志賀郡進駐で窮地に陥っている事もあ
り、もともとは江北浅井に協力的であった高宮一門を
佐和山で惨殺したと言う事になろうか?真宗本願寺に
帰依する門徒が当時は多かった事が推察できる記録で
ある。また天正三年に米原番場の樋口夫婦が越前の陣
ら突然逐電して秀吉に殺害される記録もあるがこれも
真宗への信仰が原因とされている。
コメント (1)
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