馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

2011年3月11日 当日 お袋のこと。

2016-03-13 17:44:30 | 日記

3月11日(金)

午後3時 テーブルでスワロスキー桜のボールペン製作する

  

デザイナー女性が泣いている。

 

テレビを見ながらの作業。

5年前 同日同時間 東日本大震災発生

その後、津波にのまれる人と家屋の動画に

耐えられず涙。

 

私もテレビ画面から目を背けた。

語るべき言葉もない。

戦争、原発は人間の叡智で止めることは

出来ても地球の鼓動を制御するのは不可能。

 

午後4時 浅草橋駅から総武線に乗り

代々木で山手線に乗り換え

4時40分 渋谷駅に下りた、

 

渋谷スクランブル交差点は、

5年前に列島を震撼させたことなど

感じることもなく、行き交う人々が

何処ともなく通り過ぎる。

センター街を抜け、薄墨に染まる

松涛の邸宅街を通り介護病院に入った。

3階の病室に、車椅子に座り

お袋は計算ドリルをしている。

 

集中しているので私の気配に気付かない。

私は静かに背後に回りじっとしていた。

 

2011年3月11日 大地震

直ぐに浮かんだのは、お袋のことだった。

弟夫婦と暮らすお袋だが、昼間は一人きり

酸素吸入器を付け、杖を使えば室内だけは歩ける。

直ぐに 横浜の実家に電話するが応答はない。

弟の携帯も繋がらない。

 

地震直後、妻は実母の介護から帰宅したところで確認できた。

 

結婚したばかりの息子は焦っていた。

嫁さんが徒歩で葛西から柳橋まで来ると電話が入る。

しかし、その後携帯電話は繋がらない。

 

娘のことは心配していない。

 

午後8時 息子の嫁さんはゴム草履で3時間歩いて柳橋事務所に着いた。

依然 お袋の安否確認が出来なかった。

横浜内陸部、海抜57m

立て直して10年なので、崩壊の心配はないが

連絡がつかない。

焦燥感が募る。

午後9時 やっと弟にお連絡がついた。

会社がある杉並から車で5時間かけて横浜実家に着いた。

お袋は道路真向かいの奥さんが連れ出し、自分の家に保護していた。

安堵した。

 

弟の嫁さんは、千葉佐倉にある大学付属看護学校卒業式に列席

帰宅できず。

 

その後 息子夫婦は友人の車に乗り、4時間かけて自宅へ

夫婦は翌日 友人の結婚披露宴にでなければならない。

 

娘から午後9時過ぎ電話があり

「お父さん 大丈夫か」

娘は帰宅しないで、首相官邸に待機して

情報収集の手伝いなった。

 

お袋が懸命にドリル計算をしている後ろ姿を見ながら

あの日のことを思い浮かべていた。

看護婦さんが入ってきた。

「お母さんは、本当に凄いですよ」

「遺漏で食べる、飲むこと、歩くことも出来ないのに

頭だけはシャープなんです」

 

お袋は私に気付き「ありがとう」

19時 弟が入ってきた。

お袋の目が輝いた。

 

21時 娘からメール

「まもなく着く」

珍しく早い帰宅。

 

船橋駅下りて居酒屋に入った。

 

心が落ち着かず、いつもの居酒屋ではなく

大震災を知らず逝った同期の納骨式で

集まった居酒屋のカウンターに座った。

 

燗酒 3徳利 酔いが早い。

午後10時 店を出た。

 

漁港から吹き寄せる今宵の風はことのほか冷たい。