幸喜幸齢 生きがい 日記!       

八十路の青春賦 人生の黄金期を自分らしく あるがままに生きる幸喜幸齢者 感謝と幸せの生きがい日記 頑爺/肇&K

東海道歩き旅(26)府中宿から江尻宿、興津宿へ

2020年03月08日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

3月8日(日)9/14℃ 

東海道歩き旅(26)

府中宿から江尻宿、興津宿へ

 朝4時に起床し、8時半には静岡に着き、先週最後に終えた府中宿を出発する。  今日は江尻宿から東海道53次17番宿場の興津宿を目指す。 静岡は雨、しかも終日本降りの雨だ。 時折り横殴りの冷たい雨風が吹き付け折りたたみの傘などは役に立たない。

雨の静岡駅前の徳川家康公之像前にて

  清水港を訪れたいものの先ず旧東海道から江尻宿、興津宿を目指すことにする。 手と顔が雨と風の冷たさで感覚が鈍りガチガチとなり自販機の缶コーヒーで温める。 江戸時代の人々はこんな雨の寒い日はどうして体を温めたのかと思う  人もまばらな東海道を進む

 

旧東海道記念碑の前に立つが、迷いに迷っての到着だった

草薙の一里塚にて  横の狸八相縁起が面白い

江尻宿の江尻とは川の尻、つまり下流と言うこと  江尻宿は巴川が造る砂州上にできた宿場である  宿場の中心は今の清水商店街だが昔の面影はない  しかし駿河国内では一番大きな宿場として栄えたようだ

1695年創業の追分羊羮の店を訪ねるも日曜日は休業で残念!

 清水商店街の昔、この辺は旅籠屋が軒を連ねていたようだ

 稚児橋から江尻城跡へ  今はもう面影もないが、江尻城は1569年、武田信玄の命により作られた城で武田信光、山懸晶景、穴山梅雪などが城主となったとか、しかし関ヶ原戦いの後は廃城となった

巴川に架かる稚児橋は江戸時代に建設された折のエピソードによる河童の童子像が乗る

江尻宿を後にし、興津宿(おきつしゅく)を目指す  雨は益々強くなり靴の中は雨水、服もずぶ濡れ状態だった

 

興津宿に入る

東海道・興津宿の碑の前にて

興津駅の近くの線路沿いには「撮り鉄」の若者で一杯! 何かラストランがあるかららしいが!?  傘もささずひたすらカメラを構える姿は外から見れば異様だが、自分も人のことは言えないがいろんな趣味があるものだ

雨の日は前回スマホカメラの操作を間違えて当日撮った数百枚の貴重な写真を回復不能としてしまいショックだったが、何かついてないので注意せねばと思っていたのに、今日は宿につき何キロ歩いたかな? と楽しみに見たApple watchが電源0で、連動するスマホも記録ゼロ・・ そんな〜 と天を仰ぐ!  

 しかし、今までの時間記録は平均3.5〜4.0km/時なので、今日は8時間歩いたが時間3kmとして24.0kmと記録した。 あまり寄り道もせずによく歩いたが冷たい雨と寒さに閉口した。 宿で熱いお風呂に入り、ワインとコンビニ弁当を食べたらもうバタンキューだった。

明日は興津宿から由比宿、そして旧東海道15番宿の蒲原宿へ向かう予定だが、お天気が良ければいいのだが・・

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東海道歩き旅(25)岡部宿から丸子宿、府中宿へ

2020年02月28日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月28日(金)2/12℃ 

東海道歩き旅(25)

岡部宿から丸子宿、府中宿へ

 昨日夕暮れとなった宇津ノ谷からスタートし丸子宿へ向かう  丸子は昔 鞠子とも言ったが、安倍川と赤目谷の間にできた宿場で、東海道では小さいほうだが、その歴史は古く、安倍川の対岸の手越には鎌倉時代の宿場も置かれた伝えられる  この丸子宿は東海道膝栗毛や松尾芭蕉の句でとろろ汁が有名になり今も店がある 

 昨日の岡部宿から宇津ノ谷を峠を超えた所から今日はスタートする 

百姓をしたい人はいないかい?

日本の紅茶発祥の地とか

国道沿いの桜は満開だ

国道から江戸東海道へ入る

丸子宿(鞠子宿)に着く

有名なとろろ汁の店「丁子屋」は11時開店でまだ一時間もあり諦めたが、広重の画そのままの風情を残す  創業はなんと1596年だとか  十辺舎一九の弥次喜多「東海道中膝栗毛」の碑や、芭蕉の「梅わかな丸子の宿のとろろ汁」の句碑もある

ここより安倍川堤防を歩き静岡浅間神社へ向かうが、予想外に遠く時間がかかった  でも早春を味わい気持ちのいい散策だった

土手に座り一休み  まだ風は冷たいが気持ちいい~

浅間神社に到着するも予定時間を過ぎ早々に次の予定地に向かう

府中宿へ入る  駿河国の国府が置かれていたので府中と呼ぶが、1582年に徳川家康が駿府城を築き、東海道一の城下町として発展した  府中は「不忠」に通ずるとして今の「静岡」に改名されたとの事

浅間神社の参道 周りは商店街だ

駿府城東御門が復元されている  府中は徳川家康が少年期と晩年を過ごした

家康公の散歩道があるとは面白い

静岡名物のワサビがそのまま石像になりこれも面白い

待ってました!  ここはあの京都三条大橋を出発するときに出会った弥次・喜多さんを生んだ「東海道中膝栗毛」の著者、十辺舎一九の生誕地でもあり、東海道とは縁の深い土地だ

静岡市街地に入り、上伝馬本陣、脇本陣跡をみる

(今日はapplewatch計によると 24・5km、33675歩 だった)

 今回は旧東海道53次の40番宿場の愛知・鳴海宿から歩き、19番宿場の静岡・府中宿までとし、10日間の歩き旅を一旦終えて帰路につく。 applewatchとスマホの歩数計から・・

* 10日間の歩き旅は 計 265・4km(一日平均26・5km) 359516歩(一日平均3.5万歩)だった。

(* ちなみに大阪・箕面から高麗橋・大阪城を起点にした京街道と、京都・三条大橋からの旧東海道57次のここまで歩いた距離は・・) 

* 23日間の歩き旅は 計 579.4km(1日平均25.19km) 790365歩(1日平均3.4万歩)となる。

 来週は所属する自然学校や自然保護団体、その他のイベントや行事に参加予定で久しぶりに絵の教室にもでかけたい、それに今年から初めて自分でやる確定申告や、それに健診、検査で病院など野暮用もあり、それらを一気に済ませて再びこの地からまた東海道歩き旅を再開するつもりだ。  

 新幹線で静岡から新大阪迄約2時間半、あっという間に到着しこの10日間を振り返る間もなく帰宅  しかし今の時代、この超アナログな歩き旅は究極の贅沢な旅だと実感し、健康で歩けることに感謝し、この幸せな老後の時間をしみじみと味わい涙に溢れた  ありがたいこと・・ 感謝でいっぱい)

(冷たい小雨振る東海道・袋井宿からしばし開花した桜に見とれた)

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東海道歩き旅(24)島田宿から藤枝宿、岡部宿へ

2020年02月27日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月27日(木)5/13℃ 

東海道歩き旅(24)

島田宿から藤枝宿、岡部宿へ

 島田宿を後にし、藤枝宿へ向かう  藤枝宿は宿場であると同時に歴代城主が江戸幕府がの要職を務めた田中城の城下町として栄えた  徳川家康はこの田中城で鯛の天婦羅を食べそれが原因で死んだと伝えられている  また塩街道としても栄えたという

島田宿から藤枝宿へ向かう

大井川の氾濫でこの辺迄水害が及んでいたので、少しでも高い場所を通るように、古東海道は山の尾根伝いに歩いたという  

東海道・22番宿場の藤枝宿に入る

瀬戸川の勝草橋を渡る  当時は徒歩渡しが行われていて川会所まったという  今は水は流れず一面砂利ばかりだ  広重の行書版では旅人を背負い徒歩渡しをしている絵があるが・・ 

岡部宿への道を歩く

岡部宿へ入る  岡部宿は難所の一つ「宇津ノ谷峠」の西側に位置する宿場で昔、藤原南家為憲の子孫・清綱が駿河権守となり土着し岡部を名乗ってのが岡部宿の始まりたという

大旅籠屋柏屋など古い旅籠建物が残る  現存の建物は天保5年の大火のあと、天保7年に建てられたものとか  160余年を経ても東海道筋の貴重な建物として国の登録有形文化財に指定されている

旧東海道を上る

明治のトンネルを通る

宇津ノ谷を上る

山の中は3・4時ともなると足元が暗くなるので早めに引き返す

今日は気持ちのいい歩き旅だった  東海道の宇津ノ谷で夕暮れとなり足元が危なくなったので途中で山の麓に下った

今日も歩く人とは誰一人として会わず、音楽と鼻歌で一日を楽しく過ごした

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東海道歩き旅(23)掛川宿から日坂宿、金谷宿、島田宿へ

2020年02月26日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月26日(水)9/12℃ 

東海道歩き旅(23)

掛川宿から日坂宿、金谷宿、島田宿へ

 昨日の掛川城を再びと思ったが朝から雨なので次の日坂宿へ向かう。 日坂宿は掛川宿と金谷宿という大きな宿場に挟まれて宿場としては坂下宿、由比宿に次いで三番目に小さな宿場であったとか  鉄道もなくしずかな街並みだ

日坂宿へむかう

事任(ことのまま)八幡宮へ  巨木が茂り鬱蒼としている  「枕の草子」にも名前が見られるとのこと  1062年に源頼義が石清水八幡宮を勧請し以来八幡宮を併称するとのこと

宿場の木戸は大規模な宿場では観音開きの大きな門だったが、小規模の日坂宿では木戸の代わりに川がその役割を果たしていたと

満屋は江戸時代末期の旅籠で1882年の日坂宿大火で焼失し、その後まもなく再建されて庶民の旅籠として栄えたとか

秋葉常夜灯は1856年の建立だが朽ちたので今のものに再建された

お茶所らしい茶畑が広がる

山に霧が出てきた  小雨が降り続く・・

こんな山中に高速道路の橋脚工事が行われていた

ここから菊川坂で石畳の玉石だ  雨で何度も滑った  正直危ない!

東海道金谷坂も石畳だ  霧がでてきた  人影は全くない

この地蔵尊はちょっと怪しいぞ!?  滑らない!?  とんでもない!  どれだけ滑って転んだか分からないよ

しかし下ってみるとこの絵馬が・・ なんとも??  すると初めての人と出会った・・ したから傘を差したセーラー服の高校生が一人登ってくる  恥ずかしそうに会釈をしたかと思ったら滑った・・ 受験生かな?  大丈夫かな?

 

金谷宿へ下る  ここは東に大井川、西に金谷坂と小夜の中山峠を控えたしゅくばであり、島田宿と同じ川留めになると大いに潤った宿場である

大井川にでる  でかい!!  「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と馬子うたにも歌われた大井川は東海道最大の難所であった  幕府は防衛上の理由から橋を架けるのを許さなかった  その為に増水するとすぐに川留めになり、島田宿や対岸の金谷宿、岡部宿まで宿泊客で潤ったとか

大井川は川幅は1km以上あるが、人一人出会わなかった

東海道・島田宿へ入る

今日は終日雨模様で大変だったが、面白いコースで興味津々で楽しかった  例によって一日の疲れで今日もバタンキューだ

 

 

 

 

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東海道歩き旅(22)袋井宿から掛川宿

2020年02月25日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月25日(火)6/15℃ 

東海道歩き旅(22)

袋井宿から掛川宿へ

袋井宿の制定は東海道の宿場より遅く1616年で、掛川宿と見付宿が4里と広くその間を埋める為に袋井宿が追加されたとの事  東海道53次の27番宿なので東海道ど真ん中を売りにしているのが面白い  

原野谷川を渡り東海道27番宿場・袋井宿へ

東海道・松並木道を歩く  当時の旅人もこんな松の木陰で一休みしたことだろう

東海道53次ど真ん中東小学校とは面白い

東海道久津部一里塚跡にて

早咲きの桜がきれいに咲いた

再び原野谷川を渡り掛川へ向かう

東海道の松並木でまた一休みだ

善光寺にて

いかにも古い建物が続く・・

掛川の城下町へ入る

掛川城に入る  掛川桜が開花したところだ

雨が降ってきた・・ 今日は体調もありここまでとする  自分との対峙は決して無理をしないことで、あるがままに順応して気楽が一番!

 

 

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東海道歩き旅(21)浜松宿から見付宿、袋井宿へ

2020年02月24日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月24日(月)5/14℃ 

東海道歩き旅(21)

浜松宿から見附宿、袋井宿へ

 今朝は気持ちのいい快晴だ 浜松宿は徳川家康が浜松城の城下町であり、東海道最大規模の宿場として栄えた  歴史は古く昔は「引馬宿」ともいい1280年の十六夜日記にもあるとか  浜松城は出世城ともいわれ家康以後も多くの出世者をだした  

浜松宿から東海道28番宿の見付宿へ向かう 

天竜川に出る  ここは江戸時代は流れも急で水深もあり、大井川のように人夫による川越が出来なかったので渡舟に依った  川岸には木橋舟橋跡がある

一言坂の戦跡をみる

見付宿へ入る

旧見付小学校をみる  ここは明治8年に開校した日本最古の現存木造の洋風校舎だ  いまは市立郷土館となっている

行人坂を下り旧東海道を歩く  古道があちこちに見られる

廃屋となった光景はもの悲しい

旧東海道の松並木は今は少ししか見られない

木原に着く  この地は木原畷(なわて)の古戦場でもあり、武田軍と久野氏と一戦を交え、徳川家康が敗北した三方ヶ原の戦いの前哨戦であった。 家康が腰掛けたという腰かけ石があり、座ってみたが尻が痛かった

袋井宿へ入る

袋井宿は東海道のど真ん中でそれを標語にしているところが面白い

袋井宿の名前はすでに1278年に書かれた「遺塵和歌集」の長歌にあり古い  ここは家康が東海道の宿場制度を初めて15年後の1616年に開設され、江戸日本橋からも、京都三条大橋からも各々27番目の宿場で丁度ど真ん中の宿場だ

夕暮れとなり宿を探す  今日もよく歩いた  いつものバタンキューだ

 

 

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東海道歩き旅(20)新居宿から舞阪宿、浜松宿へ

2020年02月23日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月23日(日)6/12℃ 

東海道歩き旅(20)

新居宿から舞阪宿、浜松宿へ

 台風一過・・ のような快晴のお天気だ  昨日、土砂降りの雨の中、最後に着き、写真を撮ったりしたものの一日全ての写真が消えてガックリしたが、気を取り直して今朝からまたスタートだ。

東海道31番宿場の新居宿へ入る   古くは「荒江」「荒井」とも表記されたようだ。 当時は舞阪宿から船で渡り、新居宿の関所に着岸せねばならなかった  地震や津波の被害により、関所も宿場も何度か移転し、現在地に落ち着いたのは1707年と言われる

浜名湖から舞阪宿へ向かう  今は橋もあり陸路だが江戸時代は船で渡った

ここは日本の丁度真ん中とのこと

舞阪宿へ入る  当時はここで東海道の陸路は一度切れて、新居宿まで海上一里半を船で渡った  1498年の大地震で浜名湖と遠州灘が繋がったので、その後はこの舞阪から船で渡ったとか  当時の交通政策上は重要な宿場であったようだ

脇本陣「茗荷屋」 1838年建築の旧茗荷屋にあった書院棟を復元したもので、旧東海道では唯一の脇本陣の遺構だ  多くの靴が玄関にあり入るのをためらった

この見張り台の上から大名行列の際、人馬の通行を見張ったとか

舞阪宿の今の街並み

東海道を歩く旅人の日よけも兼ねて植えられたという松並木は各所に残る

舞阪には面白い伝説が多くありこれもその一つ・・

舞阪の松並木は約700mに340本ほどがまだ残っているという

街道沿いにはいろんな遺構が残り伝えてる

街道沿いの植木屋さんでお洒落な鉢をみる

今朝は昨日の後遺症が残ったままだったが、一転青空と早春の浜風に気分一掃で気持ちのいい歩き旅を満喫  でも足腰肩や体は夕暮れともなると悲鳴を上げる  宿でいっぱいのビールが心身を癒してくれる・・ がすぐにまたバタンキュー!

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東海道歩き旅(19)吉田宿から二川宿、元白須賀宿、新居宿へ

2020年02月22日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月22日(土)7/15℃ 

東海道歩き旅(19)
吉田宿から二川宿、元白須賀宿、新居宿へ
 
 吉田宿は明治になって豊橋と改名され、吉田の名前は使われなくなった。 吉田藩の城下町でここは江戸・東海道が設定された当初より重要な宿場であった。 戦時中の空襲などで当時の面影はないものの街道筋を辿ることは出来る。 
 
 電車の走る札木町にはいまも「問屋場跡」碑が残る。 吉田宿の本陣跡碑もある その向かいには本陣跡碑も立つ  更にその向かいに脇本陣跡碑もありこの地は江戸宿場の重要施設が集まっていたようだ
 
 今の札木通りは広いが、当時の吉田宿の道は狭く、でも賑わっていたようで当時は旅籠屋が多く立ち並び、客引きの飯盛り女の声が飛び交っていたようだ 
 
 二川宿へ向かう  二川宿の成立は慶長6年だが、1644年に二川村と大岩村と合わせて宿となり発展した。 東海道線の二川駅と二川宿が離れていたことから宿はそのまま残り、今も旧道の両側には古い家並みが残る
 
 白須賀宿へ向かう  ここは遠江の国の西の宿場で海岸近くにあったが、1707年の大地震と津波の為大きな被害を受けたため、その後潮見坂の上の高台の現地に移された  白菅とも書き、須賀とは眞砂の集まるという意味。 ひっそりとした家並みを残す
 
 町中はひっそりとしていて人影もない  やがて突然の大雨・・ しかも土砂降りとなり、浜風が暴風雨となり一気に服はずぶ濡れとなった  雨宿りする所もなく為すが儘といった感じで大慌て!  慌てて取り出した折りたたみ傘は5分も持たず骨が折れズタズタで使えなくなった  
(*後で雨の中であれこれ弄ってスマホの操作を誤り、それまで取った今日の数百枚の写真が再生不能で消えてしまった)
 
 雨の中、元白須賀宿から山を下るとき突然視界が開け太平洋の荒波が見えた  荒れた海もきれいだ!  沢山写真を撮ったのに後で見たらみんな消えてしまっていた  残念! 途中の旧坂道を下っている時、下から自転車を押しながら登ってくるセーラー服の高校生がいた  目が合った瞬間零れるような笑顔で元気に挨拶してくれた  この上の集落の子供だろうが雨に濡れながら心も笑顔になった
 
 新居宿へ向かう  突然の暴風雨は少し収まったものの雨風は相変わらず叩きつけるが兎に角歩くしか方法がないのだ  人も車も通らない  
新居宿は東海道・江戸の日本橋から数えて31番宿だ  当時は度重なる地震や津波で被害を受け、関所も宿場も落ち着いたのは1707年との事 
 
 何とか自分の宿に滑り込んだものの体はびしょ濡れで冷たく、熱い風呂にじっくりと入り、服はコインランドリーの世話になった
幸い風邪を引かなくてよかったが、何とも貴重な写真がみんな消えてしまい残念至極! 眠れなかった。
 
スマホとアップルウオッチの今日の万歩計データは、31.2km 43339歩を記録していた。
 
(*翌日の新居宿は見事な快晴! 昨日の暴風雨と写真喪失が悔やまれる)
 
  
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東海道歩き旅(18)藤川宿から赤坂宿、御油宿、吉田宿へ

2020年02月21日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月21日(金) 3/14℃ 

東海道歩き旅(18)
藤川宿から赤坂宿、御油宿、吉田宿へ
 
藤川宿から赤坂宿へ向かう  赤坂宿と次の御油宿とは16町しか離れておらず、宿の朱印状には「赤坂・五位」と併記され、当初は赤坂・御油宿として一宿で扱われていた。 赤坂宿は御油宿と同様に飯盛女が多くいて、遊行の宿として賑わったとか。 明治以降は鉄道が通らなかったこともあり衰退していった。
 
藤川宿から赤坂宿の間にある「間の宿」の本宿を経る 
 
 
 
 
 
旧東海道を歩く
 
 
 
 
長沢城跡へ  御殿橋の跡
 
 
塀も波打って倒れそうだが・・
 
 
 
 
 
東海道・赤坂宿へ着く
 
 
 
 
 
 
 
 
 
御油宿へ向かう
 
 
 
珍しい野鳥観察だとか・・
 
 
 
 
 
東海道・35番宿の御油宿へ入る
 
 
 
 
 
 
 
 
珍しい太鼓の専門店
 
 
 
東海道34番宿の吉田宿へ向かう  豊橋市街に入る
 
 
 
 
 
豊川を渡る
 
吉田宿に入る
 
豊橋の街に入ると今は種類の違う珍しい路面電車が走る
 
豊橋公園の吉田城跡へ
 
今日もよく歩いた  あちこち歩いたので30kmを超えたが、自分のキャパを超えたようでいつになくバタンキューだった
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東海道歩き旅(17)知立宿から岡崎宿、藤川宿へ

2020年02月20日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月20日(木)0/13℃ 

東海道歩き旅(17)

知立宿から岡崎宿、藤川宿へ

 朝は0℃でさすが寒かったが徐々に暖かくなってきた  知立宿を立ち国道沿いの東海道を一路岡崎へと急ぐ・・  

やがて矢作川の矢作橋に着く  江戸時代には東海道で最長の木橋だったとか  橋の西岸には秀吉の幼名、日吉丸と盗賊・蜂須加小六の出会いにちなんだ「出合之像」がある

昔の八丁村に着く  ここは岡崎城から八丁(約870m)離れているからこの地名となった  八丁味噌の老舗がありしばしここで休憩した

岡崎城下町につき、早速 徳川家康が浜松城に移るまで本拠にした岡崎城を訪ねその公園を散策する

東海道・岡崎宿を歩きながら、次の藤川宿へと向かう

あの忠臣蔵で有名な「吉良上野介」の領地だった「吉良の道票」 江戸時代はこの道を通り大名行列や、茶壺道中、海産物塩などが運ばれた重要な街道だったとか

東海道・藤川宿に入る

 

 

藤川宿を後にして次の東海道36番宿の赤坂宿へ向かうが、夕暮れとなり宿へ入る

足腰肩も徐々に歩き旅に慣れてきたようだが、さすがに疲れた  熱い風呂でゆっくりと体を癒し、ついでに? 旨い酒で心も癒しつつすぐにバタンキューで眠りに入る

 

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東海道歩き旅(16)鳴海宿から知立宿(池鯉鮒宿)へ

2020年02月19日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

2月19日 1/11℃ 

東海道歩き旅(16

鳴海宿から知立宿(池鯉鮒宿)へ

 朝の始発で家を出て三河の鳴海宿に9時半に着き、次の知立宿へ向かうべきすぐに出発する。 一定の期間を休むとやはり体が慣れるまで半日はかかるようで両足、膝、それに10数キロのリュックで肩が痛い。 でも始まったばかりだと気合を入れて歩くも、そこは若い頃と違い時間がかかるようだ

山に雪はかかるものの、いつになく暖かい2月だ 

 知立(ちりゅう)は現在の地名だが、江戸時代は池鯉鮒宿の方が多く使われ、昔から馬市や木綿市が開かれた地だ。 中世は鎌倉街道の要所として栄え、江戸時代には39番宿場として賑わった  近くに鯉や鮒が多く住む池があったのでその名がついたと言われるが、ここは大火で何度も焼けていて昔の宿場の雰囲気は少ない

江戸時代 三河国と尾張国が争い境川の真ん中で橋が違った境橋、変な橋だ

有松の一里塚で一休み

長坂道から東海道を歩く

有松絞で有名な街並みを歩く 今も昔ながらの商家が並ぶ

織田信長が今川義元を破った桶狭間の古戦場跡で歴史を学ぶ

東海道・逢妻橋を渡る

総持寺に立ち寄る ここは徳川家康の側室 お万の方の誕生の地で、徳川秀康の生母誕生の地だ

この標語が好きだ

町は落ち着いた静かないい所だ 楼上が鐘楼になった門の了運寺がある

知立神社に着く 神仏混合時代の苦労が偲ばれる

毎年5月にあるという知立まつりは今年はどうなるのかな?

知立古城跡を見る

知立宿(池鯉鮒宿)跡へ着く 周りにはその痕跡は何もないが・・

東海道には面白い店がある

突然場違いな 外国へ来たのか? と思わせるような風景が・・?? ラヴホテルかなと思ったら立派なキリスト教教会だった 失礼しました!

旧東海道の松並木道 当時界隈では馬市が盛んだったようでその跡が残る

日暮れ前にやっと宿に着く 今日は25km歩いた  宿で暑い風呂に入り足腰肩体を癒し、ビールで旅に乾杯したとたんバタンキューで眠ってしまった

 < 歩き始めて2時間ほどし、少し休もうと思ったとたんに縁石に足を引っかけ顔から地面にダイビング・・ あっという間の出来事に何が起こったのか暫く混乱?? 顔から血がでてる・・ 痛い! アップルウオッチの緊急警報が鳴り響く・・ しばしうずくまってしまった。  しかし大したことはないようなので止血し、擦りむいた手や顔にバンドエイドを張る。 足がもつれたり、上がらなくて転ぶことが多くなったので気をつけねば・・ まだ初日の2時間で引き返すわけにはいかず、気合をいれてまた急に重くなったリュックを担いで出発する。 初日からとんだアクシデントだ!>

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東海道歩き旅(15)宮宿から鳴海宿へ

2020年01月31日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

1月31日(金)6/15℃ 

東海道歩き旅(15)

宮宿から鳴海宿へ

 昨夜はよく歩き久しぶりに美味い酒にほろ酔い、至福のひと時を過ごしていたらいつしかベットに入りバタンキューだった。 しかしお蔭で元気に起床する。

 今日は宮宿から鳴海宿を目指す。 鎌倉時代には鎌倉街道が通り、戦国時代は織田・今川両勢力の接触地点で鳴海城が築かれた。 江戸時代から始まった木綿の鳴海絞は東海道の名産品として鳴海宿は人気だったとか。

宮宿をスタート

笠覆寺門前町に入る

街道筋の建物が似通ってる 見猿、聞猿、言猿の置物が・・

東海道笠寺の一里塚をみる

遺跡も各所に見られる

丹下町の常夜灯

東海道鳴海宿のコースを歩く

鳴海宿本陣跡へ 何もない所だが、近くに当時の高札場が復元されていた

鳴海城跡へ

特に史跡は見当たらないが、信長攻略の碑があった

穏やかな初春の陽気に花も満開だ

今日はここまでとし午前中で歩き旅を終え、明日の予定の為に一旦帰阪する。

今日は 18726歩 13・8km だった。 この5日間の歩きは 150367歩 110・5km だった。 

箕面・大坂城からの東海道57次歩き旅の累計は 430849歩 314km となった。 あちこちの寄り道しながらのドン亀歩きなので、江戸城に着くまでには予定の100万歩、600kmを遥かに越しそうだ。

しばし予定があり次の再スタートは2週間後になるかも? 鳴海宿からのスタートだ。

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東海道歩き旅(14)桑名宿から宮宿へ

2020年01月30日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

1月30日(木)5/15℃ 

東海道歩き旅(14)

桑名宿から宮宿へ

 今日もいいお天気に心も弾む。 今日は大小18以上の川を渡り、東海道41番宿の宮宿を目指す。 宮宿には昨日の桑名宿の「七里の渡し」跡から旅人が船出し対岸を目指した。 宮宿にも「七里の渡し」跡があり昔の海路はなく陸路を歩く。

歩きだして最初の川は揖斐・長良川だ

長い伊勢大橋を渡り切りホッとし一休みだ  しかしここは海抜0mとの表示が!  もし今ウワサのあの大地震があったら津波で逃げられないかも!? と休むことなく早足になった

また木曽川の長い尾張大橋を渡る

次々と大橋を渡りきると「酒」の文字が・・その昔なら必ず立ち寄ったであろう跡が残る

この前で一休みしていたら一人の爺さんから声を掛けられた どこから~ 何してる~ どこまで~ 次々と質問に応えていたら大きな口を開けて呆れ顔だったが、聞けば私より8歳も若い老人だったが・・

ようこそ名古屋へと・・ ロケットか? でも遠くまで歩いてきたものだと両足と体に感謝する

宮宿に着いたようだ

宮宿の宮は熱田神宮を省略した呼称とか。 ここは熱田神宮の門前町として脇街道の佐屋街道、美濃路など船で桑名宿へ渡る重要な港として発展したようだ。 宿場町としては東海道最大であったとか。

ここが昨日みた桑名宿の「七里の渡し跡」との対岸の渡し舟着場跡なのだ

芭蕉の句碑などもある

東海道歩き旅の感謝を込めて夕暮れの熱田神宮に参拝する

今日はよく歩いた  熱い風呂でよくケアし両足に感謝  併せて心身に美味い酒で感謝!  達成感と共に人生に感謝しながら至福のひと時を過ごす。

 

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東海道歩き旅(13)四日市宿から桑名宿へ

2020年01月29日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

1月29日(水)5/14℃ 

東海道歩き旅(13)

四日市宿から桑名宿へ

 今日は江戸当時対岸にある宮宿まで船で渡るための「七里の渡し跡」のある東海道42番宿の桑名宿を目指す

雨上がりの四日市宿前からスタート

 歩きだして気になったのは工業都市化した四日市の煙突と煙  昔の公害訴訟などを思い出すが、無害化されたというもののやはりマスクをして歩く 

堤防沿いの桜の木にホッとする

富田一本松から三つ谷の一里塚へ

旧東海道を桑名宿へ歩く

桑名城跡の公園に着く ここはよく整備されていて憩いの場のようだ

桑名宿の「七里の渡し跡」に着く ここは当時の伊勢湾台風により大きな被害を受け、七里の航路も埋め立てられ大きな堤防が作られ今その面影はほとんどない

ここから対岸の宮宿まで七里(約27km)を当時の小さな船で旅人は渡った

今日は 33042歩 23・6km の歩きだった。

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東海道歩き旅(12-1)AM・庄野宿から石薬師宿へ

2020年01月28日 | 江戸・東海道57次歩き旅(大坂城から江戸城へ)

1月28日(火)4/10℃ 

東海道歩き旅(12-1

AM・庄野宿から石薬師宿へ

 今朝の鈴鹿は朝から大雨だ。 再び鈴鹿川を渡り庄野宿から石薬師宿へ向かうが、冷たい風雨に前を遮られ思うように歩けない。 しかし徐々に雨風も上がりほっとする。 休み休み一歩一歩と前に進む。

朝、雨のHONDA鈴鹿工場前から鈴鹿川へ向かう

庄野宿を経て次の東海道44番宿の石薬師宿へ向かう

沿道にあったが機関車か!?

石薬師宿へ入る ここは石薬師寺の門前町として発展し、1616年正式に宿場に指定された  佐々木綱吉の歌碑が宿内に多く見られた

佐々木信綱ロードを歩き本陣跡へ向かう

小澤本陣跡 と 史跡をみる

石薬師宿を経て次の四日市宿へ向かうが、国道1号線と平行に歩く為多くの車の排気ガスで喉を傷める  遠方に四日市の市街地を見るが煙突の林立に唸る

やっと小雨になり落ち着いて次の東海道43番宿の四日市宿へ向かう

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