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徳川別家(徳川慶喜家)の家じまい・・文春オンライン

2023-05-21 01:00:10 | 雑感
5月19日、文春オンラインに興味深い記事が掲載された。
徳川慶喜家が家じまいを決めたという。

徳川慶喜の玄孫が「家系の断絶」を決意した理由とは…120年以上続く名家の「家じまい」事情
2023年05月19日 12時00分文春オンライン

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徳川慶喜家第五代当主代山岸美喜さんは徳川慶喜の玄孫。 

徳川慶喜の男系子孫は第四代慶朝さんで断絶。山岸美喜さんは叔父の慶朝さんから指名を受けて第五代当主になったが、家じまいは慶朝さんの意向だったという。


記事中「管理が大変だった」とある徳川慶喜の墓。たしかに、荒れている感があります。
慶喜の墓の後ろに見えているのが慶久の生母側室新村信の墓。となりに側室中根幸の墓があるが見えない。


正面。慶喜の隣は御簾中美賀子の墓。
元将軍と正室、側室二人、、庶民にはうかがい知れない関係性ではありますが、死しても傍に寄り添う側室と敬して遠ざけられた正室の関係そのままのような墓所となっています。女性としては切ないような気もするが、当時としては家内おさまり円満の姿なのか。


山岸 徳川家と親藩松平家の一族の交流会である「葵交会(きこうかい)」や、旧幕臣のご子孫による「柳営会」という集まりがあり、他の徳川家の方々は現在も交流を続けていらっしゃいますが、慶朝叔父はそういうお付き合いを煩わしく感じていたため、ご縁が遠くなってしまっていました。自分の代で慶喜家を閉じる事も考えていたので、皆さまとは疎遠になっており、それが、私のやっていることの難しさに影響しているところはあるかも知れません。

😐 大政奉還後天璋院篤姫は田安家達を徳川宗家当主にすべく力を尽くし、家達は5歳で1868年新政府から徳川宗家相続を許可されている。もともと家達を第15代将軍にするのが島津の意向だったからね。
「慶喜が破壊した徳川家を再興する。」と言った家達を当主とする徳川宗家側に別家慶喜家の者達は表面は従いながら複雑な思いを抱いていたと想像できる。
慶朝が葵交会や柳営会から距離を置いたのも、他の徳川関係者から何んとなしに下に見られていたからではないか。美喜さんは下に見られたのは「慶朝氏の性格による」と言っているが、それだけとするにはあまりに複雑なものが背後にありそうだ。美喜さんもすべてを語る気がしないのではないか。


😊 2020年、婦人公論jp 井出純さんと山岸美喜さんの対談。
語り口は三笠宮百合子さまと彬子さまに似ている。
楽しく華やかなことだけ語り残して置きましょう。という姿勢は『枕草子』の清少納言と同じかも?


婦人公論jpの記事には貴重で興味深い写真が添えられている。


😇 高輪皇族邸、、上皇ご夫妻が玉突き引っ越しされて「狭い」とご不満だったお屋敷ですね。
前に立つぽっこりお腹の若い女性と隣の少年は三笠宮容子さんと高円宮殿下のようだが?
高松宮妃喜久子さまがお美しい。



😇 常陸宮殿下が中心とは珍しい。上皇が目をそらしているのは、そのせいでしょうか?

秩父宮妃勢津子さまは松平容保の孫、高松宮妃喜久子さまは徳川慶喜の孫、幕末期松平容保、徳川慶喜と近しく複雑な動きをした久邇宮朝融王の孫が香淳皇后である。
朝廷に対立した立場であった家から三人の妃を迎えたのは慰撫の意味もあったのでしょう。同じような立場である香淳皇后と勢津子さま、喜久子さまは本当に仲がおよろしかったようです。紀子さまの母方は会津藩士でした。逆賊として塗炭の苦しみを味わうことになった藩士とその子孫に対して、容保の孫である勢津子さまに深い思いがおありになったとしても不思議はない。


喜久子さまが風邪を召された折、久美子さんが代筆した短冊。
有栖川流の見事な手跡。



久美子さんは92歳で『徳川おてんば姫』を上梓されました。

徳川慶喜の生母吉子は有栖川宮熾仁親王の王女である。明治維新で別家となったといえ、皇室とも関係が深い名家中の名家が家じまいすると聞くと感慨深いものがある。

徳川宗家はじめ他の徳川の家々には子孫が続いている家もある。養子という手段もあったでしょうが敢えて断絶を選んだところが井出純さんと山岸美喜さんのプライドなのかな?
「大正天皇直系」であることにプライドを持っていらっしゃるらしい彬子さま瑤子さまは山岸美喜さんと似たような思いでいらっしゃるのかな?
そんなことをふと、考えた。