おばさんがこの病気になったのは、10年以上前の事です。
初めは手のひらがカッカと熱くなり、ガラス瓶を握って冷やした覚えがあります。
その頃の記憶は曖昧ですが、その後手のひらにポツンと水泡が出来ました。
その頃は主人のお付き合いの雑務が増えて、お爺ちゃんの介護が始まりました。
周りに振り回されるイライラを解消すべく、合間を縫ってゴルフのクラブを振り回していました。
気が付くと両手のひらが皮がむけてガサガサになっていました。
ガ-ゼを当てテ―プで止めて保護していましたが、次第に剥けてくる来る皮が固く厚くなっていきました。
皮膚科で診てもらいましたが、塗り薬(ステロイド)を処方されるだけで、病名も判りませんでした。
その内、両足のかかと(蹠)も同じ様になっていきました。まるで、あかぎれや水虫の様でした。
不思議に手の甲や足の指は何事も無く、手のひらと(掌)、かかと(蹠)だけに症状が出るのです。
手はただの水でも沁みる様になり、かかとは歩くたびにひび割れが深くなっていきました。
丁度その頃、眼腱痙攣が始まりました。
外出の時はかかとのひび割れが痛いので、ガムテ―プでぐるぐる巻きにして靴下をはき、
手には白い綿手袋、手が痛いので、化粧も出来ない”むさ苦しい顔”なのでサングラスを掛け、
人や電柱にぶつかりながら歩きました。(眼腱痙攣の為)
これは、とってもあやしい
?!姿だったと思います。
手袋の上にビ二-ル袋をかぶせ、しっかり輪ゴムをきつくして両手をガ-ドし、頭をシャンプ-しますが、
どうしても水は沁み込んで、皮の剥けた手が痛みました。
綿とゴムの二重手袋の炊事は滑って、何度も野菜や皿を落としました。
ス-パ-では、床に落とした小銭がいつまでも拾えず、情けない思いをしました。
数件の皮膚科を回りましたが、治療は同じでした。
ある日市立病院の医師から、聞き覚えのない病名を告げられて、メモを渡されました。
「掌蹠膿胞症」と書いてありましたが、この病気は治らないと言われました。
”こんなに痛いのに治らない・・”途方に暮れたおばさんは、人生の相方に報告をしました。
病名は先生がメモをくれたけど読めません。これが病名だそうです。・・とメモを写メで送りました。
会社にいた相方は、職場の人に声をかけ、ネットで検索をしてもらいました。
そして、幸運にも「
アキタコマチ」というホ-ムぺ-ジにたどり着きました。
相方はそれを全部コピ-して、持ち帰ってくれました。
そこにはおばさんと同じ病状の人達の体験が沢山書き込んでありました。
そしてホ-ムぺ-ジは自らこの病気で苦しみ、完治した 最上谷 智和子 ( もがみや ちわこ )さんが
一からパソコンを習得して立ち上げて下さったものだと知り、感激しました。
コピ-を読み終えたおばさんは、即秋田の病院へ行って直してもらおうと、病院に電話を掛けました。
新幹線秋田へ向かう「こまち」に乗り、未知の場所に向かいました。当時は予約なしで診察して頂けました。
「免疫内科」の前橋 賢先生は以後テレビ出演もされましたが患者に丁寧に接してくれる厳しい先生です。
皮がむけてガサガサのばっちいおばさんの足をポンと膝の上に載せて診察し、「治りますよ。」と言ってくれました。
当時前橋先生就きの婦長をされていた看護士さんは、どこの皮膚科でも教えてもらった事の無い、
塗り方を教えて下さりながら、丁寧に薬を塗って下さいました。この病気を知って研究してくれた先生がいた。
おばさんは、ほっとして腰砕けの様になりました。嬉しくて涙が滲んできました。
診察後の病気説明は病気の性質やどの様に治癒に向けて生活するかを納得できる内容で教えてくださいました。
おばさんは、病気に立ち向かう勇気が湧いてきました。そして、きっと治ると確信しました。
病院での検査結果は、後日封筒が郵送され、そこには前橋先生の手書きの結果表が書かれてありました。
そして末尾に、薬の性質と完治まで時間がかかる為、中断しない旨と「ご快癒を祈念しております」との
添え書きがありました。
約2年半、傷んだ皮膚を癒しながら、病院で処方された薬を飲み、完治する事が出来ました。