その日、門を入るなり、フィリアは我が家の異変を感じた。
空気が妙にそわそわとしている
のだ。そして微妙な緊張を孕んでいる。
正直なところ、止めて欲しかった。面倒なことは、お断りだ。
特に今は。
今日は珍しくミスをしてしまった。公爵夫人の髪飾りを、床に落としてしまったのだ。
ー全てあの男が悪いのだー
フィリアは思った。
木の上で目があった、あの男。
噛みつくような、絞め殺すような、恐ろしい目をして、私を見ていた。
脳裡に焼き付き、時折膨れ上がっては、私を惑わせる。
昨晩も、首筋に噛みつかれる夢を見て飛び起きた。
苛々している上、寝不足なのだ。
案の定、執事が直ぐに呼びに来て、フィリアは嫌な予感に包まれながら、居間に向かった。
部屋には男爵夫妻が、緊張した面持ちで、ソファに掛けている。
夫人に
促され、対面にフィリアが座ると、男爵が渋い顔で話し始めた。
「今日、宮殿から使いが来た。ダリアを王太子夫人に、お望みだそうだ」
フィリアは驚いた。
夫人には、申し分ない家柄の、淑やかな姫君がなるものだからだ。
けれど直ぐに、王太子が子を欲していたことに、思い至った。
フィリアの様子を見て、男爵が続ける。
「ダリアがお前の様に、色々と弁えているのなら良いんだが、とても嫁がせられるものではない。長女のお前を家から出し、婿を取ろうとしていた程だ。なのに王太子夫人になど」
男爵が言葉を切ると、夫人がフィリアの手を取った。
「お願い、フィリア。付いていって頂戴!」
「えっ?」
再び男爵が口を開く。
「一年でいい。嫁ぐのを延ばして、お目付け役として付いていってくれ。お前ならしっかりしているし、公爵家で行儀見習いもしている。せめてダリアが王室に馴れるまで、申し訳ないが、助けて欲しい」
ーまただ。いつもいつも、ダリア中心。全て勝手に決められてー
フィリアは目の前が暗くなった。
けれど、逆らうだけ無駄だ。
「一年ですね。ぴったり、一年きりですね?」
夫妻が目に見えて安堵する。
フィリアは婚約者との結婚生活に思いを馳せた。
彼が叔父様から譲り受けた、郊外の広い牧場で伸び伸びと暮らすのだ。
その時一瞬、樹上で見た男の顔が頭を過った。
フィリアは心の中で、首を振る。
そして右手の指輪を探った。婚約者が好きな石を嵌め込んだ指輪だ。
ーこれで最後だ。あと一年で、この両親から、妹から、解放されるー
フィリアは自分に言い聞かせた。
「えっ!私が?何で!?」
ダリアは文字通り、ソファから飛び上がった。
「お前の頑健そうなところが、お気に召したのだろう」
男爵も、まさか木登り姿を見られたとは言えなかった。
「頑健?そっか。お世継ぎが欲しくて夫人探しに血眼って、話だものね。私なら産めそうってことよね」
男爵は深い溜め息を吐いた。
「これだから心配なのだ。お前は全く分別がない。口にして良いことかどうかも、分からんのかね」
「どっちにしろ同じじゃない。やだわ、あんな窮屈そうな所」
「私達だって嫁がせたくない。けれど、この国の決まりは知っていたるだろう。使者が来てから爵位を返上しても、遅いのだ」
暫くの沈黙。
「お前だけでは不安だろう。だからフィリアにも付いていってもらうことにした。一年だけだが、そのうちに慣れてくれ」
「フィリアが?私より先にこのことを知ってるの?私のことなのに!」
「お前を少しでも安心させるためだ」
「何言ってるのよ。いつもそう。何でもかんでも私だけ仲間外れの子供扱い!」
「実際子供でしょう。動揺するのは分かるわ。でも、フィリアのことで怒るなんて。フィリアだったら心配ないのに」
夫人はハンカチで顔を覆った。
「いいわ。分かったわよ。確かに当面フィリアがいた方が安心だしね。そして一番に子供を産んで、王太后になってやるわ」
顔を赤くして宣言するダリアに、男爵夫妻は頭を抱えた。
祖霊を祀る部屋は、十数歩で横切れる程の広さだった。
白い三方の石壁には、レリーフが施され、正面に高い祭壇がある。
その右に祭司長が立ち、左に王、
続いてデュエールを始めとする王族達だ。
ダコタは中央に立って、胸を高鳴らせていた。
扉が開き、ヴェールを被ったダリアが入ってきた。
白地の金の地模様が入ったドレスを纏って、巫女に手を取られて堂々と進む。
ダコタの前で歩を止めて、跪くと、目を閉じた。
ダコタは真言を唱え、ダリアの顔を覆うヴェールを上げる。
違和感があった。
この娘だったであろうか。
祭司長に促され、薬指の先に聖灰を取って、ダリアの眉間に着ける。
ダリアが目を開けた。
ーやはり、違うー
デザントの背筋がすうっと冷えた。
よく似てはいるが、この娘ではない。
ダリアは立ち上がり、再び巫女に手を取られて、部屋を出て行く。
もう、儀式は終わったのだ。
デザントは二人の後ろ姿を、呆然と見送った。