熱烈に愛している、という訳でもなかった。
親に決められ、二度会っただけの相手なのだ。
けれど、それなりに大切には思っていた。
だから婚約を破棄された時には、流石に傷付いた。
フィリアは自分を頼ってくれなかった。
つまり自分は捨てられたのだ、と。
そして二年近くが過ぎ、フィリアとその子供が追われていることを、父親から内密に知らされた。
ロイは今度こそ、助けてあげられると思った。
もしも二人が捕まったなら、自分が子供の父だと主張して、王から守ることが出来ると。
けれど今度もロイは頼られることなく、二人は追われることがなくなった。
やはり自分は役立たずだったのだ。フィリアに見限られた通り。
ロイは気分を変えに、旅でもしようかと思いついた。
その矢先、食堂で声を掛けられた。
ハッサと名乗るその男は、フィリアはジャナの港で『アミ』と呼ばれていたと教えてくれた。
居酒屋で働く『サミ』という女と、仲が良かった、とも。
ならばそこに行こう、と、ロイは思った。
『サミ』からフィリアの話を聞いて、そこから旅を始めよう、と。
ロイは港に着いてすぐ、目についた居酒屋に入った。
奥の椅子に座るとすぐに、髪を高く結い上げた女が、注文を取りに来た。
右手の小指に光る石は、女の瞳と同じ金茶色をしていた。
「君は『サミ』さん?」
ロイの問いに、サミは斜めに顎を引いた。
「そうだけど。何か用?」
「初めまして。僕はロイといいます。『アミ』と呼ばれていた女性のことを聞きたくて」
サミは僅かに唇を尖らせた。
「どんな関係だったんですか?アミは故郷から逃げたんだから、それも聞かずに教えるわけにはいかないよ」
「もっともです。その前に教えて欲しいんだけど『アミ』は過去のことを話していた?」
「ううん。昔の事は、ほとんど」
サミの返事に、ロイは眉尻を下げた。
「じゃあ話せない。残念だけど。『アミ』の過去にかかわることだから、勝手には教えられない」
「うーん。そっちももっともだね」
サミは腕を組み、斜め上を見た。
「じゃあ取り敢えず、あたしのお客様ってことで。お酒を奢るよ」
まだ疎らな客達の好奇の視線の中、サミはすぐに四角い盆を運んで来た。
乗せられていたのは、大きな鉢だった。
なみなみと注がれていたのは、透明に近い蒸留酒だ。
「この辺じゃ『三度の酒』っていうんだけど。受け入れる側が注いだ酒を、お客が一口、次に注いだ人が一口飲んで、残りは客が飲み干すんだよ。さあどうぞ」
サミはにこやかに、両手で鉢を押しやった。
ロイは大鉢とサミを見比べ、にっこりと笑った。
「有難う。頂きます」
一口飲んで、サミに返す。
「ご馳走さまでした」
「どういたしまして」
サミも飲んで、ロイに返す。
「じゃあ、一息に」
「では、頂きます」
ロイは勢いよく、鉢をあおった。
そして記憶を失った。
目覚めたら質素な寝台の上だった。
塩辛そうなスープの匂いに、目が覚めたのだ。
頭の芯が、鈍く痛んだ。
ロイは記憶を辿りながら、体を起こした。
僅かに吐き気がする。
寝台から降り、木の扉を開けると、サミが振り向いた。
手には薄金色に光るおたまだ。
「あ、おはよう。何か飲めそう?」
「うん、なんとか。ここは君の家?」
「そうだよ。借家だけど。ほら、そこに座って」
丸い椅子に座りながら、ロイが訊いた。
「僕は、倒れたんですか?」
「倒れたっていうより、爆睡かな。はい。熱いから気をつけて」
ロイの目の前に、大きな鉢がどん、と置かれた。
中身は美味しそうな、魚介と野菜のスープだ。
「運んで泊めてくれたんだね。有難う。でも君は、どこで寝たの?」
「そこのテーブルの上。宿酔いには、このスープが一番なんだ」
「頂きます。女性の部屋に運ばれて、寝台まで奪うなんて。本当に申し訳ない」
サミは腰に手を当て、片眉をあげた。
「あたしはそんな可愛い女じゃないから。いいからそれを飲んで、少し寝ててよ。少しはマシになって、浜辺の散歩でもしたくなるから」
そして、その通りになった。
あ行で笑いながら海に突進するロイに、目を丸くしながら、サミは後を追っていた。
「どうしたの?」
やっと追い付き、質問する。
「海って、本当に海だったから」
息を切らしながら、ロイが答えた。
目の前には海が、どこまでも広がっている。
空より重い、冬に向かう色だ。
「海は初めて?」
「うん」
潮風にロイは目を細めている。
「都から出たことがなかったの?あんた貴族でしょ。大分庶民的だけどやっぱり違うよ」
「僕は九歳迄、母と牧場で暮らしてたんだ。あと、果樹園もあったよ。君はここで生まれたの?」
「ううん。ここよりずっと西。港もあるけど、漁師町だよ」
「じゃあ、ご両親は漁をしてたの?」
「父はね。母は私を生んで死んだって。でも意外と不自由はしなかった。子寄り小屋もあったし」
「子寄り小屋って?」
「漁師の家は忙しいから、昼間子供は集まって過ごすんだよ。簡単な読み書きや計算も、大きな子や面倒を見に来る大人達から、教えてもらえるんだ」
「それは、良い仕組みだね」
「うん。家族はもう居ないけど、友達は半分、家族みたいなもんなんだ」
微笑んだサミの顎で、黄色いリボンがなびいている。
鍔の広い帽子を、顎で結んで留めているのだ。
「昼間はいつも、被っているの?」
サミが笑顔を引っ込めた。
「あたしみたいな女が、日焼けを気にしちゃ可笑しい?」
「ううん。全然。母もよく、そんな帽子を被っていたから、なんか、懐かしくて」
「へえ、これが」
サミはリボンをほどいて、帽子を手に持った。
緩く束ねた金茶色の髪が、ふわりと持ち上がる。
その時、強い風が吹いた。
サミの帽子を巻き上げて、波の上に運んで行く。
「ああっ!」
駆け出そうとするサミを押し留め、ロイが海に入っていった。
帽子は左右に、徐々に沖の方へと逃げる。
ロイがやっと掴んだ時に大きな波が来て、頭まで飲み込み、足を掬った。
ロイは直ぐに立ち上がり、慌てて浜へと上がって来ると、青ざめたサミに帽子を渡した。
「はい。びしょ濡れになっちゃったけど」
サミはにこりともしなかった。
「まさか、泳げないの?」
「うん。こんなに取れないとは思わなかった」
「『うん』じゃない。危ないでしょ。カナヅチのくせに何でこんなことしたの!」
「君が行こうとしたから」
「あたしはいいんだよ。そこの島にだって泳いでいけるんだから」
「よくないよ。服が濡れたら透けるでしょう?」
「そんなの、あたしはいいんだってば」
今度はロイが怒りだした。
「『あたしはそんな』とか『あたしみたいな』とか『あたしはいい』とか、君は自分の扱いが雑すぎる」
言い返そうとした口を一度閉じ、サミはするりと話題を変えた。
「急いで戻って着替えよう。次に銭湯でよーく温まって」
「うん。それから宿をとって暖かくして寝るよ。君はお店へ?」
「大体そう。帽子有難う」
「どういたしまして。明日もこの時間は空けられる?」
「ううん。医者の手伝い」
「へえ。それは凄いね。いつもなの?」
「時々ね。凄くはないけど」
「じゃあ明後日は?」
「空いてる」
「じゃあ、町を案内してくれない?」
「いいよ」
「有難う。明後日が楽しみだ」
けれど二人は、次の日に会うことになった。
宿屋の遣いが医者を呼びに来たのだ。
『客が風邪をひいてしまった』と。