「では、明日は出掛けますので」
澄まし顔でリリアが言う。
「そう。色々と気を付けて」
バシューが静かに返す。
「無論です」
僅かに苛立ちを滲ませて、リリアは席を立った。
こんな形で夕食が終わることに、給仕係はもう慣れてしまった。
いつもと少し違うのは、バシューが上の空だということだ。
式典の日に鳥肌が立った感覚が、バシューを波のように、襲い続けていたのだ。
艶やかな髪、輝く肌、しなやかさを纏った強い四肢。
くっきりとしたエキゾチックな顔立ちに、浮かべられた凄絶なほど妖艶な笑み。
その笑みに、バシューは囚われてしまったのだ。
文字通り、寝ても覚めても頭から離れない。
十年前、兄の実の父が直系王族とされ、父親違いのバシューは傍系となってしまった。
その時からバシューは、一人の妻しか娶れない。
その上、恋い焦がれる相手は人妻だ。
その相手、サキシアが以前王宮で働いていたと聞き、バシューは臍を噛んだ。
その時ならまだ、間に合った筈なのに、その存在にさえ気付いていなかったからだ。
即座に言い訳も頭に浮かぶ。
愛人を持つ王族ならば、過去に何人もいたからだ。
それならば一番の問題は、サキシアの夫のように思えた。
愛嬌と優しさだけが取り柄の男。
二言三言言葉を交わしても、一月後には誰もが、顔も覚えていなだろう男。
サキシアには不釣り合いな、凡庸な男。
バシューにはギャンが、そういう男に見えていた。
サキシアに自分という愛人がいても、当然のような気もする。
リリアも愛人がいるのだし、自分達夫婦はお互い様だと強く思う。
普段は心の奧に仕舞ってある、不満も顔を出してくる。
何を比べても、自分が兄に敵わないのは分かっている。
けれども兄が不義の子であるならば、前王の真の第一王子、自分が王位を継ぐべきではないか。
それを兄の真の父親、前王の異母兄の王位継承権を復権させてまで、兄に王位を継がせるなんて。
お陰で自分は傍系王族となって、王宮を追い出され、リリアを筆頭に周囲の見る目も変わった。
同時に第三婦人迄認められるという、特権も失った。
せめて、その前に・・・。
幾度となく繰り返された、思考のループが又、始まる。
バシューは目を閉じ、思考を止めた。
首を振って酒をあおり、長く息を吐く。
そして三月、待つことにした。
一時の気の迷いなら、それまでには覚める、そう考えたのだ。
もしもまだ覚めていなければ、
自分を赦す、と決めた。
メイはその客の姿を、上から下まで二往復見た。
後ろには、きっちりと巻かれた美しい布が、織り方別、色順に、規則正しく並べられている。
その横には『サキシアの恵み』と『白いサキシア』、しっかりと編まれた様々な籠が置かれていた。
直売所の店頭だ。
店員としてはあるまじき行為だが、それも致し方ない状況だった。
高貴な身成をした男が一人でドアを開け、王弟のバシューと名乗ったのだ。
「先日の表彰式で見た衣が気に入った。王宮の昔話でもしながら布を選びたい。サキシア殿はどちらに」
その装飾品の家紋と、堂々とした様子から、メイは男がバシューに間違いないと確信した。
失礼があってはいけないと、さっと緊張する。
「森に行っております。急いで呼んで参りますので、暫くお待ちいただけますでしょうか」
「森?何をしに?」
「小道に入って間もなく、小さな野原がございます。そちらで子供達を遊ばせております」
「右手にあった細い道だな。では、私が行く。そなたは店番があろう。馬はこちらに繋いでいくから宜しく頼む」
言い終わるなり踵を返し、バシューは森へと急いだ。
サキシアを訪ねると決めた時から、気が急いていたのだ。
一刻も早く会いたい一心で馬を飛ばしたが、その間ももどかしく感じていた。
森の中へと入っても、両脇の木々さえ目に入らない。
ひたすら道の先へと目を凝らし、早足で進む。
暫く歩くと、先が明るくなった。
象牙色と深い青が見え隠れし、子供の声が響いて来る。
突然、バシューの動きが止まった。
ふいに耳鳴りが始まり、掌に汗が滲む。
自分が何をしようとしているのか、分からなくなった。
何度も深く呼吸をし、今度は静かに歩き始める。
五、六歩先に進んだ所で、左側の木の陰に、男の姿を認めた。
肩には鳥が乗っている。
男はじっと、サキシア達を覗いているようだ。
バシューの血が熱くなる。
「何をしているっ!!」
叫ぶなり剣を抜いて走った。
振り返った男は、バシューを見て大きく口を開け、身体を戻す。
鳥達が高く舞い上がった。
「逃がすかっっ!!」
勢いのままに、バシューが剣を振り下ろす。
「逃げろおっ!!」
男の声がバシューの耳に届いた時には、男は地に伏していた。
「キャーッッ!!」
子供の悲鳴。
「ギャンッ!?」
サキシアが叫びながら駆け寄る。
「医者と担架っ!今すぐっ!」
追って来たメイが、連れの男に叫ぶ。
その男が来た道を駆け戻る。
ミルドレッドとロイはその場で座り込んだ。
サキシアは脱いだ上着で、ギャンが背中に負った傷を押さえる。
「ギャン!ギャン!しっかりして!ギャン!」
ギャンは首を回し、バシューが血の付いた剣を下げたまま、立ち尽くしているのを見た。
ほっとして、覗き込むサキシアと目を合わせる。
「無事でよかった。愛してるよ、サキシア」
「分かってる!分かってるから!しっかりして?ギャン!」
サキシアは頭の中が真っ白だ。
―愛してるよサキシア!愛してるよサキシア!―
鳥達が繰り返しながら飛び回る。
サキシアの全身に、その言葉だけが雪崩れ込み、他の全てを押し流して、鳴り響いた。