コーチング、とくにセルフコーチングにおける自分への問いかけ。
- 何かに挑戦していますか
- 何かにワクワクしていますか
- 何かにハマっていますか
これらは、
30代までに、自分に問いかけたい問い。
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40代以降は、
何かと戦っていますか
を問いかけたい。
40年間、真摯に、自分を磨いて、刀を磨いてきたならば、世間の不条理の、何かと闘うことができるはずだ。
闘う対象が見つかるはずだ。
私の場合は、40代になったことから、
- つまらないコンプライアンス
- 同調圧力
を闘う対象と定めた。
そのために白スーツと派手シャツを身につけることにした。
戦闘服として。
女性が白なら男性も白でいいじゃん。
ダークスーツとネクタイを着て世界を変えられるか?
まずは自分がリスク取らないと説得力ない
そう思って。
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半年前に、執行草舟さんの一連の著作を読んで、
体当たり
を学んだ。
愚鈍に、後先考えず、ドン・キホーテのように、信念を貫く。
小利口にならない。小賢しくならない。理屈で考えない。
だから今は
体当りしてますか
を自らに問いたい。
先日、また「体当たり」を始めた。
依頼されたある案件を二つ返事で引き受けちゃって、その後になって、「あ、これ、体当たりだな」と思った。
※ 体当たりは英語でthrow myself intoみたい。
飛び込む。投げ込む。体ごと投げ込む。
逐語的な confront head-on よりも、throw into の方がニュアンスが近い。
挑戦するってのは、要するに体当りするってことなんでしょうね。
「体当りしていますか」と問われて、常に「YES」と答えられる自分でありたい。
【執筆原稿から抜粋】
不易流行
「不易流行」と言われます。「不易」は「易(か)わらず」と読み、古今東西変わらぬ真理のことです。普遍的な価値です。カントやプラトンに由来する真・善・美です。
一方、 「流行」は、時代の流れに応じて柔軟に変わる価値観です。インターネットの時代、SNSの時代、VUCAの時代、生き残るためには変わることが必要です。最も強い人は最も変化に適応できる人です。
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古典を学ぶことは、「不易」を学ぶことです。それにより、不易と流行のバランスを取ることです。
特に、戦後にアメリカ的価値観が入り、グローバル化が進む現代において、東洋的な古典から「不易」を学ぶ姿勢は廃れています。代表的な東洋の古典である『論語』を読んだことがある日本人は100人に1人もいません。
皆さんにとって「不易」とは何でしょうか。私にとっては陽明学です。西洋の古典でも宗教でもいいですが、胸を張って「不易」と言えるものを持つと、自信になります。
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祖先を顧みない者は、子孫を思うこともない
と保守の総帥エドマンド・バークは言います。
時代を超えた長い時間軸で考えるからこそ、自己中心的で刹那的にならず、世のため人のために利他的になることができます。
1本の木を切る際も「7世代先のことを考える」アメリカのインディアンがいました。今流行りのサステイナブルも7世代先のことを考えるということです。それが不易です。
時代の篩にかけられて来た古典を自家薬籠中のものとする。これは古今の先賢が行ってきたことです。まずは好きな名句を暗誦するのがいいでしょう。
何度も書いていますが、改めて、3月25日の、家庭連合解散命令の、東京地裁のロジックが甘い。
特に、地裁判決の94頁が、大甘。
要するに、
家庭連合の問題が:
- 相当に根深い から
- 根本的な対策 を取らないとダメなのに取っていないので
- 残存 しており、しかも
- 看過できない程度 に残存している
というロジックです。
~~~以下引用~~~
(以上によれば)
コンプライアンス宣言以前において利害関係参加人の信者による献金勧誘等行為について全国的に多くみられていた本件問題状況は、相当に根深いものであるところ、同宣言後は緩和傾向がみられ、同宣言以前との比較において相当程度緩和しているものとうかがわれるが、根本的な対策が講じられたとはいえないことからすると、同宣言後においても直ちに大きく改善されることはなく残存しており、その後も途切れず残存していく状態にあったといえ、現在においても、なお看過できない程度に残存していると解するのが相当である。
~~~引用終わり~~~
最後の4の、「看過できない程度」に残存の、「看過できない程度」ってどんな程度なんですか?
鈴木謙也裁判長にはぜひお尋ねしたい。
家庭連合解散命令。地裁は、最後の要件の、「やむを得ない」のところで、信者の人権に、少し触れた。
私はそう解釈している。以下の部分から。
~~~以下引用~~~
宗教法人の解散命令制度は、飽くまで、法律によって与えられた地位である宗教法人としての法人格につき、それを与えたままにしておくことが不適切となった場合にその法人格を失わせるとの法的効果を有するものにとどまり、
当該法人格の喪失により事実上生ずる影響は、当該法人格を有していたことに伴う反射的利益に対するものであることからすれば、利害関係参加人に解散を命ずることは、やむを得ない法的措置であるということができる。
~~~引用終わり~~~
でも、昨日、主要紙記者と話した際に、ある記者が「ここは信者の人権に触れたと言えないのでは」という見解をいただいた。
そのご趣旨はよくわかりませんでしたが、まあ、そうお読みいただくのは自由。
実際に、「信者」とも「人権」とも書いていないし。
でも、もし、上記部分が、「信者の人権に触れたのではない」のだとすれば、今回の地裁の鈴木謙也裁判長は、解散が「やむを得ない」という、いっちばん大事な理由で、一言も、信者の人権に触れていないってことになる。
それは、「人権の砦」としての裁判所の姿勢として、さらにマズい。
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いずれにせよ、憲法上の基本的人権のうちの、最も重要な信教の自由を制限する効果がある(←このような効果自体は今回の地裁も、オウム真理教最高裁も認めている)解散命令において、解散が「やむを得ない」という、一番枢要な、大事な、決定的な理由付け部分において、鈴木謙也裁判長は言葉を尽くしていない。
いろんな解釈ができる余地を残している。
私はこれは不誠実だと思う。
一般国民にも、少なくとも10万人単位の信者に、しっかり分かる言葉で書いてほしかった。
「反射的利益」という、わかったようなわかんないような、言葉で逃げるのではなく。
官僚的な答弁で終わらせるのではなく。
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高裁の判断に期待します。
3月35日の、家庭連合解散命令地裁決定。
鈴木謙也裁判長は、2009年以後のコンプライアンス宣言後の家庭連合の改善を認めつつも、「看過できない程度」に問題が残存しているから、解散とした。
その理由は、「潜在的な被害のおそれが想定される」という、なんとも心もとない「推測」、、、、
しかし。
宗教法人を解散させるのに、「看過できない程度」という、主観的な、ボヤッとした基準を用いることは、許されまい。
基準とすべきは、「解散がやむを得ないといえる程度」にすべきでした。
※2 私が裁判所に提出した陳述書でも「やむを得ない」に触れています
解散が「やむを得ない」といえる程度に問題が残存しているか。
それを、高裁は、きっちり、(推測や想定からではなく)証拠と事実から、判断していただきたいものである。
チャーチルが、部下に何かを指示するときに、いつも書き添えていた
KBO
「何があっても、とにかくやり続けろ」
「くじけず、あきらめず、前に進め」
ってのが意味。ChatGPT。
会社は口ぐせで変わる。
人生は口ぐせで変わる。
そう思って、いろんないい「口ぐせ」を集める中で、思い出した。
KBO.
私の人生もKBOでありたい。
東京地裁で解散を命じられた家庭連合の実態を、数字で表しました。
1 最近9年、民事裁判ゼロ

2 2017年の裁判例
2017年2月6日、東京地裁は「解散命令請求の必要なし」とした。それからコンプラ宣言でだいぶ向上したが、、

3 32年前
解散の根拠とされる民事裁判32件の、事案(勧誘+献金開始)は平均して32年前

4 1件のみ
その民事裁判32件中、コンプラ宣言後の事案は1つのみ。被害額476万500円

5 最後の不法行為は11年前
6 最後の違法献金は12年前
7 60年、刑事犯罪ゼロ
8 60年、詐欺・強迫取消(民法96条)ゼロ
9 「信仰やめた金返せ」請求⁉️
←解散の根拠とされる32の民事裁判の、入信(勧誘)から提訴まで、平均30.25年
10 22年も前
文科省が新たに作成した陳述書70通は、平均して22年前の勧誘について書かれた
11 6%のみ
民事裁判32件のうち、家庭連合自体の責任は6%(2件)のみ

12 2/24 日弁連に対する教団意見
a 安倍暗殺事件前は、相談の3万分の1
b 集団交渉53億円のうち献金を確認できたのは15%の8億円のみ
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いかがでしょうか。
これでも東京地裁は「看過できない程度の問題が残存」としましたが、、、
本当に「看過できない」から解散に値するのでしょうか。
世界のインテグリティ/コンプライアンスの趨勢。
1990年から、アメリカでコンプライアンスが流行りだした。
1991年連邦量刑ガイドラインで、コンプライアンスプログラムを導入したら役員(取締役)が責任を負わなくなったから。株主代表訴訟から身を守る。
つまりは、訴訟社会アメリカにおける役員の「保身」としてコンプライアンスは始まりました。
でも、コンプラ、コンプラ言っても、新しい事案には対処できないし、かえって明文無いルールは守らなくなるし、、、、
って感じで、世界で、コンプライアンスの限界が感じられている。
世界では、コンプライアンスとインテグリティを、「車の両輪」のように考えています。
昨年1月刊行の、佐藤優さんの、『宗教と不条理』で、佐藤さんが、
1 反家庭連合は、啓蒙主義から、宗教が不条理だ、そんな不条理を信じるのはマインド・コントロールだ、と言っている
2 でも、キリスト教は、イエスが3日後に復活したって信じているから、これも言うなればマインド・コントロールだろう
3 家庭連合に対する攻撃がおかしいと発言し続けることに使命感を感じている
的におっしゃっていました。
さすが佐藤さん。
本当に宗教的信念がある人には勇気がある。